9話「来訪者からの手紙」
――2日前
2010年8月17日
黄金の鳥 1
どこかで低い、獣の唸り声に似た音が聞こえてくる。自室にいた天枷紅一郎は携帯電話を耳に当てたまま、音のした方向を一瞥した。眉間に皺を寄せ、それからベッドに腰を下ろす。レンズに色の入った眼鏡を指で押し上げた。
「……いや、なんでもない。ただうるさい蝿が飛んでいただけだ。それで、なんだっけ?」
首もとのネクタイを緩めながら、彼は電話の向こうにいる相手との会話を続ける。職場から帰宅したばかりの彼は、背広こそ脱いでいたものの、まだワイシャツにスラックスという格好だった。
「あぁ、真嶋のことか。そういえば最近顔を見ないな。ま、奴がいてもいなくても大差はなかろう。それより天村、お前が帰ってくるのはいつだっけ?」
うん、うん、と相槌を打ちながらも、天枷の視線は先ほど音のした方を鋭く射抜いている。明かりが点けられておらず、窓にレースカーテンの敷かれた室内は仄かな薄暗さを孕んでいた。その空間の一点に、まるで皺の寄ったシーツのような歪が出現している。そこから再び、獣の唸りが聞こえてくる。天枷は電話の相手に伝わないよう配慮しながら、送話口から口を遠ざけ、そっと舌打ちをした。
「そうか、明後日の深夜……ということは19日か。奥さんも一緒に。なるほど、それはいい。たまには家族水入らず、ゆっくりするといい」
天枷はそれからいくつか言葉を交わし、電話を切った。ため息を零し、腰を上げる。定年退職を間近に控えたその頭髪は雪のように白く染まりきっていたが、その眼光は鋭く、まるで老いを感じさせない。体つきもがっしりとしていて、スポーツ選手のようであり、襟もとから覗く鎖骨には色気さえ漂っていた。
天枷は先ほどから絶えず音のしている、空間が歪んだ部分に足を向けた。立ち止まった先から、バスケットボールサイズの球体が、まるで空間を捲れあげるようにして出現する。皺も傷もない、のっぺりとした質感をもったそれには、人間の目のような模様が1つ描かれていた。球体はその不気味な目で天枷の姿を捉えると、肉食獣が歯ぎしりをする時のような声をあげた。
「なんだ騒々しい。電話中は静かにしろと、昔から何度も教えてきたはずだ」
苛立ちを顕わにする天枷の前で、球体はゆっくりと横に回転を始め、目のある方を正面とするならば、彼に背中を向けた。その表面にはいつの間にか、小さなテレビのモニターのようなものが出現している。モニターはしばらくの間、砂嵐を映していたが、そのうちパッと白い光が瞬き、やがてそこには紫色の体を持った怪物が姿を現した。
全体的なシルエットとしては人間に近い、しかし、その外見は明らかに人から外れている、モニターに映し出されたのはそんな怪物だった。その顔はまるで不気味な仮面を付けているようであり、右目にあたる部分だけが血のように赤く染まっている。
「お久しぶりだよ、お父様。お母様は元気?」
その怪物は少女のような声を発した。その悪魔じみた外見から出たとはにわかに信じがたいほどに、それは柔らかく、人なつっこい、軽妙な響きを孕んだ口調だった。怪物からの質問に、天枷は細い眉を上げた。
「変わりはない。今は買い物に出ているがね。それで、何の用だ。世間話なら後にしてもらいたいがね」
「あら、随分と冷たいんだよ。まぁ、私も長々とお父様と会話をするつもりはないんだけどね。ただ、私のペットたちは元気かなと思っただけだよ」
鳥を模したお面を被り、喉元に人間の眼球のタトゥーを彫った、あの人間たちのことを脳裏に浮かべ、天枷は顔を歪めた。彼らのことを考えるだけで、胸に暗澹としたものが渦巻くようだ。
「あの薄気味悪い連中のことか。俺の娘ながら、趣味が悪いぞ
「心外だね。自分の娘を化け物に改造した人が、言えるセリフじゃないんだよ」
怪物の反論に、天枷は決まり悪そうな顔を作った。咳払いをひとつ、モニターに目を戻す。
「あいつらに特に問題はない。“鏡”にも異常はないようだ。お前が心配することは何もないぞ」
「なるほど、さすがお父様。立派だね」
怪物の賞賛を耳にしながら、天枷は振り返り、壁一面に貼られた巨大な旗を見上げた。その旗の中央には、大きく翼を広げた鳥の絵が描かれている。鳥は眩いまでの黄金色で塗られており、布地の色が茶ということも相まって、実に重厚な、貫禄のあるデザインだった。
「全ては黄金の鳥のためだ。あの方の復活のためなら、私は命を捧げる覚悟もある。奴らにもそれを強いるのは、至極当然のことだろう」
この旗を前にしていると、胸の高鳴りを抑えきれなくなる。涙が溢れ、頭を垂らさずにはいられなくなる。中央に描かれた、そのあまりに神々しい姿を仰いでいると、自分の生に誇りが持てるようだった。この世に生まれたことに感謝し、生まれてきて良かったと心から思えるようになる。暗闇に満ちたこの世界に唯一光を注いでくれる、いわば奇跡を体現した存在――彼にとっての黄金の鳥とは、そういうものだった。
だから今一度この鳥の姿を拝みたいと願い、その復活を望むことは、天枷にとって自分の人生を捧げることに足ることであった。この鳥にはそうするだけの価値がある。この鳥はいずれ、全ての人間を幸福にする。人を魅了し、その心を掴んでは離さない由来はそこにあるのだと、天枷はかねてより確信していた。
「感動しているところ悪いんだけど。実はね、どうやらペットたちのうち、何人かから連絡が取れないんだよ」
旗を前にすっかり心を奪われていた天枷の耳に、少女の声が飛び込んできた。その意味を遅れて察し、彼は表情を曇らせた。
「なんだと。それはどういうことだ」
「しろうまを見張っている連中だよ。多分、殺されちゃったかもしれない。私のペットである以上、逃げ出すことはあり得ないからね」
怪物はいつの間にか、どこから取り出したのかスプーンを取り出し、それで自分の頬を掻いていた。天枷は胸に不穏なものが過ぎるのを感じた。
「マスカレイダーズに見つかったということか。それとも……」
「とりあえず、詳しいことはこれから調べてもらうつもりだよ。今日、お父様のところに寄越すって言っておいた奴らに、たったいま、命令を出したところ。だから多分、そっちにいくのは今夜か明日の朝になるかもしれないんだよ」
「そういうことなら、私も動いてみることにしよう。何人か暇を出していたところだ。何かあれば、引き続き報告を頼む」
「了解だよー」
状況は話を聞くに深刻であるはずなのだが、怪物がまるで緊張感のない返事をしてくるので、天枷は困惑する。だが少し思うことがあり、浅く息を吐き出したあとで、実の娘であるその怪物に尋ねた。
「そういえば、巫女の傷は癒えたのか? そちらの状況はどうなっている」
天枷の問いに、怪物の様子は目に見えて変化した。息を呑み、それから一瞬、狼狽するような挙動さえみせる。
天枷は眼鏡を押し上げ、無言で返答を待った。するとやがて怪物は周囲を探るような動作をみせたあとで、何かを確認するように頷き、真っ直ぐ天枷を見つめ返してきた。
「心配しないで欲しいんだよ。あきらちゃんは、いまね、すっごく頑張っているところなんだよ」
怪物の発する声は温かく、親身なものがこもっていて、その口ぶりはまるで子の無事を請い、願う母親のようだった。そっと目を細める天枷に見つめられながら、怪物は祈るように胸の前で両手の指を絡ませた。
「だから見守っていて欲しいの。黄金の鳥を信じて」
黄金の鳥を信じなさい。それは黄金の鳥を崇拝するものが発する常套句だ。そのセリフを投げかけられては、天枷としては黙り込む他ない。頷き、それからまた旗の方を振り返る。カーテンの隙間から射す一筋の薄日に彩られた鳥の姿は、今にも布地から身を起こし、生きて動き出すかのようだった。
タンポポの塔 2
8月にも関わらず、その寂れた塔の内部は薄着では肌寒いくらいだった。
石畳みの床はところどころが砕け、欠け、また植物の蔦に浸食されているため、非常に足場が悪かった。天井からは絶えず埃や砂が降り、いつ倒壊してもおかしくない。それはこの塔に秘められた危険性を道行く者に知らせているかのようだ。
奇妙な模様や図形がびっしりと彫り込まれた壁の前を、華永あきらが通り過ぎる。
彼女は袖口や襟口、裾などに金のラインを彫り込んだ、絢爛な白装束に身を包んでいた。顔は深く被ったフードによって隠されていたが、彼女が足を動かす度にその縁が翻り、内側に隠された青色の髪が見え隠れする。
その目は前方をひたすらに見据え、今にも泣き出しそうにも見えるほどに真剣な表情を浮かべていた。その目の、本来白の部分はわずかに青みを帯び始めている。さらに頬や手の甲などを見れば、まるで血を這う蛇のように血管が浮き出していた。時々痙攣を起こすようにその指先はびくりびくりと跳ねている。
その足取りは全身を引きずるかのようで、その様子から、ただならぬ疲労を抱えていることは明白だった。目の下にはくまが浮き、その口からは絶えず濁りきった呼吸音が漏れている。その両手は、まるでその部分を守ろうとするかのように、腹部を深く抱いていた。
やがて、彼女は不意にその足を止めた。前方には壁にはめこまれた鉄製の扉が待ち構えている。あきらは目を細め、何かを考えるような顔で扉を見つめた。
「巫女。こんなところで一体、何をされているのか」
声をかけられあきらが振り返ると、そこにはスーツ姿の男の姿があった。紺の背広の上に、あきらの着ている白装束と同じ色柄のケープを羽織っている。櫛を通すことを知らなそうなぼさぼさの髪に無精ひげ、さらに人の悪意を体現したかのような目つきの悪さが相まって、とてもではないが男は品の良い外見とは呼べない。
男の背後には黒のドレスに身を包んだ女性たちが数人並んでいる。皆一様に、鳥を模した面で顔を覆い、その全ての視線はあきらに向けられていた。
あきらは男たちのほうに完全に体を向けると、呼吸を整え、何でもないような顔で口元に笑みを宿した。
「飯沼さん……魔鏡の修理の方はいかがですか?」
反問され、飯沼と呼ばれた男は何かを思慮するかのように目を細めた。その物腰は柔らかだが、不意に覗かせるその目の輝きには野犬のような獰猛さが窺い知れる。
「これはさすが巫女様。勘が鋭い。ちょうど、つい先ほど調整が終了したところですよ。だが、あれほどの遺物。一度使えば再び塵と化すことは間違いないでしょうね」
「結構です。一回でも使えれば十分ですから。ありがとうございます――本当にお疲れさまでした」
深く頭を下げ、あきらは彼を労った。飯沼は厭らしい笑みを浮かべ、顔の前で手を振る。
「いえいえ、黄金の鳥のためと思えば当然のこと。それよりも最近、あなたは光来の間によく出入りしていると聞く。それに今はこんな場所にいらっしゃる。一体、何をしようとしているのです? 良ければ、私にも教えてくださりませんか?」
慇懃な態度にも強気な語調が滲む。だが、あきらはまったく動じる素振りさえみせず、飯沼の問いを毅然と受け止めると、鉄扉の方を一瞥した。
「この先にあるものといえば、一つしかないでしょう。私はあの人に用があるんです」
「それはそれは。しかし危険を承知で? あの男はきっとあなたのことを恨んでいる。憎んでいるといってもいい。力が弱まっているとはいえ、奴が獰猛な獣であることに変わりはないのですよ? 腹を空かせたライオンの檻に自ら入るようなものだ。少々無謀すぎるのでは?」
「それでも、行かなきゃいけないんです。あの人を、白石さんを取り戻すためには、もうこれしか方法がないから」
あきらの発した声は凛とした響きを伴って、塔内部の空気を揺らした。飯沼は何かを推し量るようにじっと、あきらの殊勝な表情を見つめていたが、やがて唇に笑みを滲ませた
「なるほど、光来の間に出入りしているというのも、やはりそれが目的か。……分かりました。そういうことなら俺はここで見送るとしよう。ただし気をつけて。奴は9年もの間、我々の目から逃げ続けていた男です。どうにも油断ならない」
「気をつけますよ。お気持ち、感謝します」
あきらは礼もおざなりに、さっさと踵を返すと、鉄扉を前にした。その体を再び、飯沼の声が止める。それはけして強い口調ではなく、囁くようであったが、地の底から這いずり出る気配のような、不気味な感触を孕んでいた。
「あなたはここ最近、白石仁とかいう男を再生させることに、随分と躍起になっておられるようだ。焦っていると言い換えてもいい。推測するにその理由はただ1つ。あなたもまた、戦いの匂いを嗅ぎ取っているのだろう」
あきらはびくりと体を震わせた。肩越しに飯沼を振り返る。あきらを見つめる彼の目は獲物を前にした肉食獣のようにぎらついていた。
「あなたがこの場所に帰ってきてからすでに1週間。そろそろ奴らも動きをみせるときだ。マスカレイダーズのリーダーがあなたの予想通り佐伯稔充であるのならば、この場所も知られているはず。いつ攻め込むか、おそらく今は機会を窺っているところなのでしょう」
あきらは視線だけを背後に向けたまま、無言で飯沼の言葉に耳を傾ける。飯沼の表情には愉悦の表情がまざまざと浮かんでいた。
「随分と楽しそうですね」
「まあ。こう言っては語弊があるかもしれませんがね。俺は楽しみでしかたがないんですよ。ようやく戦いの機会が巡ってくるということがね」
拳を固く握り、飯沼は口の片端だけをにやりと歪めた。
「東京でのマスカレイダーズとの攻防。怪人との戦い。そして1週間前の戦争。そのどれもが全て、話を聞くだけでも胸が踊る。まるで拷問でしたよ。そんな話を耳にするだけで、留守番をしていろというのは」
「この塔は、ボクたちにとっては神聖な、黄金の鳥の住みかとも呼ぶべき大切な場所です。そこを守れるのは飯沼さんしかいないとボクは確信しました。でも、そのせいで窮屈な思いをさせてしまったことは謝らなきゃいけませんね」
「まぁ、俺とて鳥に心を奪われた身。愛する黄金の鳥の故郷を守る、あまりに重大な役目を与えてくれたことには、感謝していますがね。ただ戦いの機会を一度も与えてくれなかったことに、怒りを全く覚えなかったというわけではない」
「……あなたの言う通り、戦いの時はおそらく近いと思います。その時には、存分にその燻った力を発揮してもらうことになるでしょう。活躍を期待しますよ」
「その期待にはきっと答えることになるでしょうね。この力を無駄にするつもりはない」
不遜に言い放つ飯沼の言葉を、あきらは終わりまで聞かぬうちから、足を踏み出している。ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。彼の猛る視線は、痛いほどに感じる。明らかに不調なあきらに、彼らは最後までかける言葉を持たぬようだった。あきらはその気配から逃れるように歩を速めると、鉄扉に手を掛けた。
体内に埋め込まれた石板の力を解放し、少しだけ粒子を身に纏っただけで、その扉は実に滞りなく横にスライドした。この塔の中には侵入者を防ぐための仕掛けがいくつも施されている。この扉もそのひとつだった。黄金の鳥に忠誠を誓った証たる石板を、その体に埋め込んだ者しか、その先に進むことは許されない。
扉を潜り抜けると、目の前に薄暗く、細い一本道が現れた。照明器具のない地下室であるはずなのに、その場所に真の闇が訪れていないのは、壁自体が仄かに発光しているためだった。物々しい音をたてて、背後で鉄扉が閉まる。だがあきらは物怖じすることも、振り返ることすらせず、決意を表情に滲ませると、足をさらに進めた。
手で壁をなぞるようにしてしばらく歩を進めていると、不意に開けた空間に行き着いた。
そこは牢獄だった。左右にそれぞれ3つ、正面に1つ小部屋が備えられ、そのいずれにも鉄格子がはめられている。見方を変えれば、まるで動物園の一画のようだった。壁の光度が弱いのか、周囲と比べても明らかにその場所は暗く、鈍く銀に光る鉄格子がぼんやりと宙に浮いているかのように見える。
あきらは手探りで柱や壁を見つけると、それを伝って歩いた。目を細くし、周囲を凝視しようとする彼女の足取りは不確かで危うい。そうしながらもある程度の時間をかけて、正面の小部屋に近づいていく。
鉄格子によって阻まれたその小部屋の中には、壁にもたれるようにしてうずくまる人影があった。あきらの存在に気付いたのか、人影はゆらりと顔をあげた。疲労しきった動きではあったが、あきらを見据えるその視線は鋭く、険呑なものが漂っている。
あきらは僅かに顔を歪めながら、鉄格子の前で屈みこんだ。臆することなく、人影が発する殺気を受け止める。頭からフードを取り去り、やつれた素顔を彼の前に晒した。
「元気そうですね、河人さん」
河人真――埃塗れのロングコートを纏ったその男は、あきらの言葉にも、ぴくりとも表情を変えることはなかった。前髪が長く、片目が隠れているせいで余計に表情の変化がわかりにくい。だがその目は暗く濁り、彼女を一心に睨んでいた。
彼の両手は後ろで組まれ、手錠をかけられている。首には赤い輪っかが嵌められ、そこから伸びた鎖が、独房内の天井に繋がれていた。彼の周囲には折れ曲がったスプーンや汚れた皿が散乱している。微かにカレーの匂いが独房には漂っていた。
「そう睨まないでください。今日はあなたに、尋ねたいことがあって来たんです」
そう言って、あきらは艶っぽく笑みを零した。ローブの内側に手を突きいれ、中から一冊のノートを取り出す。それは破れ、汚れ、傷ついた、随分と古いもののように見えた。
「これに見覚え、ありますよね。あるはずです。これは10年前、あなたが倒れていた場所で見つかったものなんですから」
河人は何も答えない。ただ沈黙を守り続けている。あきらはノートを捲り、あるページで手を止めると、その紙面を広げて鉄格子に突きつけた。
「教えてください。黄金の鳥のこと、あなた自身のこと、そして……あなたのいた世界のことを」
河人はわずかに眉をあげた。あきらの広げたページには、無数の文字が記されていた。ほとんどは見知らぬ言語で書かれているため読むことは叶わないが、ただひとつだけ、中央に日本語で書かれた単語があった。
“戦いの地”――そこには、薄い文字でそう記されていた。
死人の話 1
可愛い女の子がいるな、と真嶋は思わず生唾を飲み込んだ。
夕暮れの風が吹き抜ける林道を、前から親子連れが歩いてくる。母親のほうはゆったりとしたワンピースに身を包み、娘のほうはアニメのキャラクターが描かれたTシャツにホットパンツという格好だ。頭には麦わら帽子を被っている。年は3歳かそこらだろうか。母親と手を繋ぎながら調子の外れた歌を歌い、それを聞く母親は幸せそうな微笑みを浮かべている。
真嶋は足を止めてその親子、特に小さな女の子の方をじっと見つめた。2人が自分の横を通り過ぎ、後方へ去っていってからも振り返って、彼女のことを視線に留め続ける。
可愛らしく、帽子からちょこんと飛び出した2本のお下げ。触ればそれだけで溶けてなくなるだろう、柔らかそうな耳たぶ。マシュマロよりも弾力に富み、絹よりもはるかに滑らかに指の腹を通り抜けていくであろう、その染み1つのない日焼けした二の腕。首元には水着の後なのか白くくっきりとした線がついていて、焼けた肌とのコントラストが美しい。
「……ちっ」
気付けば幼女のもとに向かいつつあった足を、すんでのところでこの場に留める。彼女を自分のものにしたい。そのたおやかな体を石に変え、部屋に飾って観賞したい。そんな情欲が、まるで竜巻のように沸き起こるが、その想いをすんでのところで胸の奥に封じる。
面倒事を起こすなよ、という男の言葉と、重症を負ってベッドに横たわる父親の姿が同時に浮かんだ。大きく深呼吸をし、思いを振り切るように、前に向き直る。
「あれこそまさに、地上に舞い降りたエンジェルだ」
肩を落とし、それから空を仰いで、誰にともなく呟く。見上げた大木の枝の上には、名前の知らない小鳥が止まっていた。
「この晴天だ。あんなちっちゃな子とお散歩できたら、最高の日だったのにな」
真嶋は大きなため息を零し、それから前方にあったものを今更ながらに認めて、現実に返った。目の先には足を止め、真嶋を見つめる無表情な顔があった。背中まで伸ばした黒髪と、日本人形じみた顔つき。セーラー服を纏ったその少女は、真嶋が睨んでも、眉をぴくりとも動かさなかった。その能面のように動かない表情が、真嶋の心をいらつかせる。衝動を無理に心の奥底へ押し込んだ直後だっただけに、怒りの頂点にはすぐに達した。
「おい! なぜこんないい日に、貴様みたいな奴と、わけのわからない用事をこなさなくてはならないのだ!」
この世のすべてを見透かしているとでも言いたそうな、冷淡な眼差し。すらりとした長身。胸元の豊かな膨らみ。そして影を帯びた暗い表情。そんな少女の全てが、真嶋には気に入らなかった。彼女を見ているだけで、胸がいがいがとしてくる。こちらの態度に何らかのリアクションでも取ってくれれば少しは留飲が下がるのだろうが、何を言おうが何の反応も見せないのだから、始末が悪い。
真嶋はその沈黙を刻み続ける少女の青白い顔に、指先を突きつけた。
「くっそ、その素知らぬ表情! この僕を馬鹿にしているのか! あの可愛い幼女を1パーセントでも見習え! せめて小さくなれ! このでっかい奴め!」
さんざん喚き散らし、その後で少女にもはっきりと聞こえるように舌打ちをすると、真嶋は早足で歩きだした。少女はその後ろを無言のまま付いてくる。足音に乱れはない。
ひょっとしたらこいつは、精密機械かなんかじゃないのか。怪人とは嘘で、実はロボットなのではないのか。先ほどから等間隔を置いて聞こえてくる地面を踏みしめる音を耳にしながら、真嶋はそんなことを不意に思う。だが自分のそんな馬鹿馬鹿しい妄想をすぐに思考から追い出し、ため息を吐いてから周囲の自然に目を向けた。
林の中を切り開き、長い道を1本中央に置いた。そんなイメージの沸く林道だ。重なり合う木々のおかげで太陽が遮られ、街よりもはるかに過ごしやすい環境となっている。通行人はそこそこで、先ほどから自転車に追い抜かれたり、ジョギングをする人々が横を通り過ぎたりする。この場所はこのあたりに住む人々にとって、憩いの場として活用されているらしかった。
真嶋と少女がこんな場所に訪れたことには、理由がある。昨晩、岩手から新幹線を使って東京駅にたどり着いた2人は、用意されていたビジネスホテルで一夜を過ごした。そして今日は適当に街をぶらついたり、情報収集をしたりして過ごしていたわけだが、1時間程前、組織からある命令が下された。
――喫茶店『しろうま』に配備していた仲間から連絡が取れない。マスカレイダーズに襲われた可能性が高い。早急に状況を確認して欲しい。
紫色のゴムボールじみた形状の生物『ヤドカリ』に備わった液晶モニターの内側で、金髪の男は真嶋にそう任務を命じた。
正直、真嶋は乗り気ではなかったが、父親を救ってくれるという契約を組織と交わしている以上、無下に断るわけにはいかなかった。それに『ヤドカリ』に見張られているとなっては、あまり無闇な行動もとれない。仕方がなくその指示に了承し、『しろうま』に足を向けている最中というわけだった。
互いに何も話さぬまま、歩を刻み続け、5分もしないうちに林の中に建てられた喫茶店が見えてきた。店の周囲だけぽっかりと開けた空間が生じている。そこには美しく緑に映える天然の芝生が広がっていた。
しかし、真嶋の意識は、店ではなく別のほうを向いていた。その視線は、道を挟んで店と向かい合っている場所に注がれている。
そこには惨憺たる景色が待ち受けていた。
これまで通ってきた道の両側には整然と木々が並んでいた。それなのに、ここにはそれがなかった。何十本も植えられていたであろう木々は根こそぎ折られ、砕かれ、その場所は、まるで台風の過ぎ去ったあとのような有様となっていた。
明らかに戦いの跡だろう、と真嶋はすぐに気付き、そして自分が感傷を覚え、その光景に見入っていることに驚いた。
傷跡を見ても平然としていられるのに。日常を見てもその横を通り過ぎていくだけなのに。それらがこうして、その差異を見せ付けるように共存しているのを目にしてしまうと、なぜだか胸にぽっかりと穴が空いたようになる。
真嶋はしばらく立ち尽くし、その地面に彫りこまれたあまりに深い傷跡を見つめたあとで、店に足を向けた。感傷に浸るために、こんなところにきたわけではないのだ、と目的を思い出す。胸を掻くこの気持ちの正体に少しばかり困惑しつつ、店の前に立つ。扉に掛けられた『CLOSED』の看板を手に取り、顔を歪めた。
「この僕が来てやったというのに休みとは、なんと許しがたい店だ」
看板から手を離す。ドアとぶつかって、木製のそれはからん、からんと音を立てて揺れた。真嶋は着ているパーカーのポケットから1枚の写真を取り出すと、それを手元で見つめた。制服姿の華永あきらと、楓葉花がこの店の前で並んで映っているものだった。背が小さく、幼さの残る葉花の丸い顔を指でなぞるようにすると、真嶋はにやりと笑みを浮かべた。
「まぁ、この子に免じて、許してやってもいいかな」
しばらく写真を凝視したあとで、それをポケットにしまい直す。さてこれからどう動くべきかと思案しながら振り返り、そしてすぐに眉を顰めた。
誰かに見られているような気がする。しかし素早く視線を周囲に巡らすが、視界の限りではあの少女以外に人影を認めることはできなかった。
だが、この気配が単なる勘違いだとは真嶋にはどうしても思えない。それは物陰から執拗な監視を受けているかのような、陰湿な視線だった。
身を固まらせたまま道の端に立つ少女の方を見やると、彼女の表情にもまた警戒の色が滲んでいた。これまで一切変化することのなかった少女の顔に、初めて現れた変化だった。真嶋はこの感覚が単なる気のせいでないことを確信する。
隠れているのが、組織の仲間とやらを殺した犯人なのか。それともまた別の存在なのか。一体何の目的で自分たちを狙うのか。様々な憶測が脳裏を飛び交い、その度に、緊張は胸の内で膨張していく。
黒目だけを動かし、周囲の様子を窺う。手の中が汗で滑る。心音が自然と高まる。真嶋は小さく舌打ちをし、それから一歩前に足を踏み出すと、監視者に向けて声を張り上げた。
「おい! 誰かいることは分かっているんだ! この僕には筒抜けだぞ! 分かったらさっさと姿を現せ!」
真嶋の発した大声に、道行く自転車に乗った老人が一瞬、動きを止めた。それ以外に目の前の景色は何の変化も起こさなかった。
息を軽く吸い込むと、真嶋は再びあたりを見回した。少女もまたきょろきょろと周囲に視線を巡らせているようだ。しかしやはり不審な人影は現れない。どこから見られているかも判然としない、粘つくような視線だけが肌をちくちくと突く。
どうにも埒の明かない状況に真嶋の苛立ちは募っていく。つま先で芝生を蹴り、ここに来てから何度目になるだろう舌打ちをしてから、『しろうま』を見上げた。
降り注ぐ陽光のまばゆさに、真嶋は目を細める。
次の瞬間、展開は何の前触れなく動き出した。
空気がどよめきを帯び、真嶋は間近に強烈な存在感を嗅ぎ取った。ハッとなって振り返ったのと同時に、店の横にある茂みの中から、何かが真嶋目がけて飛び出してきた。
鉄色をしたそれは、全身を装甲服で固めた人間だった。自分に殴りかかってくるその姿を認めながらも、真嶋の視線は素早く装甲服の腹部に向かっている。その腹部に据えられた長方形の鉄板には、『1』という数字が描かれていた。
タンポポの塔 3
牢獄の中に激しい咳の音が反響する。うずくまっていたあきらは顔をあげ、自分の掌を見つめた。その指先から真っ赤な鮮血が滴り落ちる。ぜえぜえと濁りのある呼気を吐き出し、そのあとでまた彼女は激しく咳き込む。今度は手で受けきれず、その灰色の床に血が飛び散った。
「……ずいぶん、辛そうだな」
あきらがこの場に訪れてから数十分。海底に沈んだ石の如く沈黙に徹し続けていた河人が、ようやく口を開いた。その声はささやくようで覇気に乏しいものではあったが、それでいて明瞭な形を伴ってもいた。
あきらは暗い眼差しで、河人を見た。手の甲で、口の周りに付着した血液を拭う。手にしていたノートはそっと床に伏せた。
「これは」
言いかけて、苦痛に声を失う。喉のあたりを抑え、歯を食いしばる。だがやがて痛みは去り、肩を震わせ、がっくりとうなだれると、それから顔をあげて河人を見た。その口元には弱々しい笑みが貼りついていた。辛そうに肩で息をし、額に脂汗を浮かせながら、彼女は途切れ途切れに声を発する。
「これは、黄金の鳥からの、贈り物ですよ、河人さん」
「それは、俺の体にも埋め込んだ、あの石版のことか」
ふん、と河人は鼻を鳴らした。口だけは流暢に言葉を紡ぐが、彼の体は壁に深くもたれかかった姿勢のまま、少しも動くことはなかった。全身に纏う黒いコートが闇に紛れていることも相まって、まるで宙に浮かんだ生首が喋っているようにも見える。
「……あれは、生物に新たな命を与える能力がある。衰弱した者に与えれば活気が戻り、老いた者に与えれば若さを取り戻す。だが、そのリスクも、高い。人間如きが無限の命を所有しようなど、おこがましいにも程があるからな」
「よくご存知ですね」
視界がぼやけているのか、それとも視線の焦点が合わないのか、あきらは何度も瞬きをする。目をごしごしと擦り、それから手近にある柱に手を掛けた。
「……確かにあの石版には、そういう力があります。だからあれは、何の間違いも、誇張もなく、黄金の鳥からの贈り物なんです。ただ、人間はあの方の期待に耐えられるだけの肉体も精神も持たない。だから次第に崩壊していってしまう。ちょうど、養分を与えすぎて枯れる植物みたいに。人は所詮、人以上のものにはなれないってことですよ。ボクにもあの方の力を受け入れるだけのその器がなかったっていうのは、すごく残念ですけど」
だから驕りということには同意します、とあきらは表情に陰りを落とす。光の加減のせいか、その顔は目の落ち窪んだミイラのように一瞬見えた。
あきらは青白い自分の前髪を掴み、指の間を滑らせた。
「ボクは、ずっと前から知ってました……自分がそんなに長く生きられないってこと。この髪が、ある日突然青く染まり始めた頃から。こんなに急激に身体が辛くなったのは、あの戦いのあとくらいからですけど」
あきらはまた咳き込む。吐血こそしなかったが、骨を軋ませ、内臓を吐き出すかのような激しい咳だった。ひゅうひゅうと、まるで強風が吹きすさぶような音が彼女の喉から漏れる。その後で、彼女は口を手で押さえたまま、小さく震えだした。そのうちに今度はひどくえずきだす。口元から掌を外した拍子に、茶褐色の液体が床に雫となって落ちた。
たまらずうずくまったあきらは、吐き気が落ち着いてからゆっくりと顔を上げた。その顔色は疲労のために土気色をしていたが、目はまるで違う生き物のようにひどくぎらついていた。その口元には、不穏な笑みが浮かんでいる。
「でも、ボクは嬉しいんです。だって黄金の鳥に、この身体も精神も、ボクの全てを捧げることができるんですから。巫女としての本望ですよ」
「……その末に命が尽きたとしてもか」
河人が囁くように言う。あきらは柱に捕まって立ち上がると、目を輝かせた。
「この世ではどれだけ願おうとも、絶対に交わることの許されなかった黄金の鳥と、ボクは真の意味で一つになれるんです。それってとっても、素敵なことだと思いませんか? そこにボクにとっての最高の幸せが待っているんです。生きるとか死ぬとか、そういうレベルの話じゃないんですよ、河人さん」
その声音は荒い息遣いを含んではいたものの、はっきりとした喜色を帯びていた。その表情を構成しているのは満面の笑みで、彼女の言葉に嘘や強がりがないことは明白だった。
それから再び沈黙が2人の間に横たわった。時折、あきらが咳き込み、喘ぐような呼吸を漏らす以外は、何の音もこの空間に響くことはなかった。まるでこの牢獄自体が外の世界と完全に切り離されてしまったかのようだった。
「……俺のいた場所では、奴には西洋の神の名が付けられていた」
そんな最中、突然、河人が口を開いた。あきらは顔をあげる。相変わらず彼は口以外の部分をぴくりとも動かさなかった。
「奴は、争いの権化だった。憎悪の、化身だった。奴によって、俺のいた世界は火の海に包まれ、戦いの渦に巻き込まれた。俺は……世界の破滅を経験した」
「……やっぱりあなたは別の世界の、こことは別の場所から来た人だったんですね」
あきらの感心した風な言葉に河人は答えなかった。その口はただ滔々と言葉を紡いでいく。まるでそういう役目を与えられた機械のように。
「奴が直接手を下したことはほとんどなかった。奴のしたことといえば……人間の欲望を刺激し、そこに眠る闘争心を喚起させたことだけだった」
「欲望……」
「奴によって踊らされた人間は、己の欲望を満たすため、他者に敵意を、あるいは殺意を剥き出しにして襲い掛かった。……俺もその一人だ。そしてあまりにも多くの命が散った」
あきらは真剣な表情で河人の話に聞き入っている。先ほどまでの笑みが消えてしまうと、その目の下に帯びた青黒いくまが、やけに目立って見えた。
「どこの誰が付けたのかは知らないが、“戦いの地”というのもそれが由来だ。肉親だろうが友だろうが、関係なかった。戦いに関わるものは次々と死んでいった。そしてこの世は混沌と化した。地獄と呼べるものがあるとすれば、俺の見たものはきっとそれだろう」
その光景を思い出すかのように河人は目を細め、遠くを見るようにした。その表情に初めて色が付加される。それは寂寥と虚無を少なからず孕んだものだった。あきらは自分の手元に落ちた、あの薄汚れたノートを見やった。
「あれは強大な悪意そのものだ。あんなチンケな鎖で、大人しくしているのが不思議に思えるほどのな。全ては奴に仕組まれていた。奴によって、何百という数の人間が死んだ。……それが俺の知っている、黄金の鳥という、存在だ」
河人は陰鬱なため息を吐いた。そしてゆっくりと目を閉じ、開けてから、次の言葉で締めくくった。
「奴が本当の力を取り戻せば、この世界もまた崩落に向かう。それは間違いないだろうな」
河人の顔の下にある空間が、衣擦れの音を立てながらずれていく。しかしそれはただ単に彼が姿勢を動かし、コートの被さった片膝を立てただけのことだった。革の生地とアスファルトの床とが擦れ合う音と、鎖がかちゃかちゃと壁にぶつかる音は、この場所ではやけに大きく響いた。
「……でも、ボクは、黄金の鳥を信じます」
あきらの口から吐き出されたその答えに、迷いはなかった。凛とした感触すら含んで、室内に沁みこんでいった。
「あの方がこの世の存在でないことは承知の上でした。あれほどの魅力と力を兼ねそろえた存在が、ボクたちと同一線上の位置に立っているとは、はなから考えていませんでしたから」
あきらは静かに言った。風もないのに、その頭に深く被さったフードの縁が細かに揺れた。河人は息を殺すようにして、無言のまま、じっと彼女を見つめていた。
「河人さんがいた世界を滅ぼしたというのも多分本当でしょう。あなたが嘘を言っているとは思えませんから。そういった側面もあると思います」
「でも」と彼女はそこで、息を吸い込んだ。まるで泳ぎの途中に水面から半分だけ顔を出して、息継ぎをするかのような呼吸だった。
「でも、黄金の鳥がボクに光を与え、救ってくれたこともまた事実なんです」
河人は再び沈黙を決め込んでいた。片方の膝を立てた姿勢のまま、彫刻のように動かない。ただその瞳の奥に湛えた薄く仄かな輝きだけが、あきらを鋭く射抜いていた。
「昔、ボクは死にかけたことがあります。すごく難しい病気に罹って、どの医者もさじを投げたそうです」
あきらは目を細め、その喉から油の切れた車輪のような息を吐き出す。その表情は遠い記憶を呼び覚まそうとしているようにも、体内に埋め込まれた石版の影響で弱まった視力を、少しでも取り戻そうとしているようにも見えた
「母親はボクが小さい頃に亡くなってますから、お父さんにとってボクは忘れ形見というか……多分、そんな子どもだったんでしょう。お父さんはあらゆる手段をとってその病気を治せる医者を呼び、医者が諦めたあとは全国を廻って、それはもうあらゆる神様に縋り、祈ったそうです。そんな時……お父さんはこの場所で黄金の鳥に出会ったんです」
あきらは自分の掌を見下ろした。その皮膚は皺を見ることが叶わないほどに、血液でひどく汚れていた。
「そしてボクはこの通り、まだこの世にいます。黄金の鳥に復活させてもらったからです。ボクだけじゃありません。多くの人が救われました。黄金の鳥は命の運び手なんですよ。幸せを皆に授けてくれる奇跡の具現なんです」
あきらの声音はただ柔らかく、そこには真実を訴えようとする切実さはなかった。まるで、寝付けぬ我が子に布団の中で絵本を読み聞かせる母親のような響きさえ、そこには含まれていた。
「これで分かったでしょう? ボクのこの身体は黄金の鳥によって縁取られ、この心は黄金の鳥によって彩られたものなんです。あの方はボクの命を取り戻してくれた。だから今度はボクが、あの方を蘇らせる番。そして、もっとたくさんの人を幸せにしていただくんです。黄金の鳥の復活は、お父さんの、そしてボクの、そして幸福になりたいと願う全ての人にとっての、最大の祈願なんですよ」
あきらは胃のあたりを抑え、語気を強める。その顔色には苦悶と喜悦とか確かに同席を果たしていた。
「黄金の鳥の復活には、どうしてもあの方の力を満たす器を持った、人間の力が必要なんです。ボクの知る限りでは、その器を持つ人間はたったの3人。……河人さん、あなたも含めてですけどね」
彼女の縋るような、または、羨むようなその視線を、河人は無表情で受け流す。あきらは片手で鉄格子を掴むと、独房の中の河人に、可能な限り顔を近づけた。その額が錆びた鉄格子に押しつけられる。
「……だからこそ、あなたに尋ねます。答えてください。器の復元には、一体、何が必要なんですか? どうすればその器を再び満たすことができるんですか? あなたなら分かりますよね? 黄金の鳥と共にこの世界に来訪した、あなたなら」
彼女の手の中で、鉄格子が軋んだ音をたてる。その細い指がいまにも折れそうなほどに歪んでいく。河人はしばらく、あきらの切迫した面持ちを眺めていた。だがやがて、小さなため息を零すと、その薄い唇を開いた。
「……確かに知っている」
その口から低い声が漏れる。さらに続けて彼は言った。
「だがそれはおそらく、お前もまた、すでに行き着いている答えだ」
独房の中に反響していた鉄格子の軋む音が、途端に消失した。あきらの手からも力が抜ける。瞠目したあきらの顔に向けて、河人は淡々と言葉を紡ぎ出す。
「俺は言った。奴は憎悪の化身だと。お前は言った。奴は命の運び手だと。……そこまで行き着けば、もう、答えは出ている」
河人は床を一瞥した。おそらく“戦いの地”と書かれていたあのノートに目をやったのだろう。それから彼はあきらに顔を戻し、それから深海のように暗いその瞳を細めた。
「……今のお前に必要なのは、知識ではない。理想を行動に移すための、覚悟だけだ」
あきらは口を結んだ。その頬を橙色に発光する壁が照らし、薄闇に浮き上がらせていた。
死人の話 2
それは犀の突進のような破壊力と、豹が狩りをするときのようなしなやかさを併せ持った一撃だった。
『1』の数字が振られたプレートを腹部に構えたその装甲服の戦士は、茂みから飛び出してくると同時に、真嶋に飛び掛ってきた。
真嶋はその右拳が自分の体を貫く寸前で、素早く後ろに飛び退いた。背後には植え込みがあり、その向こうには鬱蒼と木々が葉を重ね、存分に茂っていた。跳び上がった真嶋は植え込みを踏みつけると、その反動を利用してさらに後方に逃げ、木々の群れの中に両足で着地した。
足元の地面は下生えで覆われている。丈の長い草が、真嶋の足を絡めとる。枝々に止まっていた鳥たちは慌しい闖入者に驚き、一斉に翼をはためかせて空に飛び立っていった。
「いきなり殴りかかってくるとは……とんだ挨拶だな!」
苛立ちを顕にする真嶋の前に、ひときわ大きな木の幹の影から装甲服の戦士が姿を現す。そうやって相対したことで真嶋はようやく、その戦士の全体像を掴むことができた。
その戦士が纏う装甲服を一言で表現するならば、“歪”だった。
装甲の大部分は銀色か鉄色をしているのだが、その中でところどころ赤茶けた色を纏っている箇所がある。その色は錆ではなく銅に近い。装甲のあらゆる箇所が、その装甲に使われていたものとは別種の金属で補修されているのだった。
該当するのは両足、右腰、左肩、右の人差し指と親指、右胸、喉もと、頭頂部。赤を大地、銀を海と置き換えるならば、さながらそれは立体的な世界地図のようだった。その他にも厚い布で、破損が隠蔽されている箇所を見受けることができる。その頭部もまた左半分が布で覆われていた。残された右目が不気味に赤く輝いている。
さらに特筆すべきはその右腕だ。左の腕と比較して、それは明らかに太かった。その形状はまるでクレーン車のアームのようだ。5本の指の先には鋭い刃が伸びている。手の甲には長方形をした半透明の板が装着されていた。また胸に目を戻せば、その中心には、黒いい円盤型をしたものが貼りついていた。何らかの装置のようだが、外見からその目的を知ることは不可能だった。
まるで機械のゾンビだな――真嶋はあまりに不気味で、不恰好な輪郭を宿したその装甲服を前に、そんな感想を抱く。スクラップ場から這い出してきた、膨大な怨嗟を纏う悪霊のイメージが脳裏を過ぎる。その印象が冷めぬ間に、相手の腹部に掲げられた『1』の数字をもう1度注視した。
真嶋はこの数字が振られた装甲服と、以前、戦ったことがある。1週間前のことだ。だが今、目の前に立つその姿と記憶のなかにある姿とでは、大幅に外見が変わっていた。
おそらく自分と戦った後、何者かによって装甲服を破壊されたのだろうと真嶋は予測した。そして1週間という急ごしらえで補修されたのだ。目の先に立つそれは、いわばつぎはぎの鎧に過ぎなかった。
真嶋が観察を終えると同時に、その歪な装甲服は有無もいわせず躍りかかってきた。あまりに太い右腕で木々を悉くなぎ倒し、足元の草を薙ぎ払いながら、地面を踏み砕いてくる。その赤茶色のふくらはぎが展開し、そこから灰色の蒸気が立ち昇り始める。
そして戦士は煙に巻かれながら、全くモーションをかけることなく、真嶋に突進をしかけてきた。
その一撃は視認することさえ許さない速度を伴っていた。真嶋は動くことができなかった。怪人の反射速度をもってしても、そのスピードを捉えることはできなかった。気付けばその重機のような右拳が、額を打ち抜こうと眼前まで迫っている。
だが次の瞬間――真嶋の体は横に突き飛ばされた。
装甲服の戦士の拳は宙を切り、空気が膨張し、破裂するような轟音が林に広がった。真嶋はすぐさま顔を上げる。たたらを踏む装甲服の戦士を視界に捉えると共に、その目は、戦士と向き合う怪人の姿を見つけた。
「お前……」
紫色の布を体の色々なところに巻いた怪人だ。腰には漆黒の拳銃をぶら下げている。改めて確認を取るまでもなく、声をかける必要もなく、真嶋はその怪人の正体が、ここまで連れたって歩いてきたあの少女であることを知る。確か、岩手にいたあの金髪の男は、少女のことをナインと呼んでいた。
そして真嶋は怪人の正体に行き着くと同時に、自分が彼女に助けられたという、あまりに屈辱的な事実にも到達する。
だが歯軋りをする間も地団太を踏む間もなく、真嶋の感情は置き去りをくらった。
装甲服の戦士がその右の掌を広げ、ナインに向けてかざしていた。その腕が白い光を帯びる。戦士を取り巻く空気が揺らいで見える。その腕が膨大な熱を発散している証拠だった。
ナインは、戦士がみせたそのあまりに不穏な挙動を前に、避けようとするかのような素振りをみせた。だが、先ほどの真嶋同様、それは到底叶わぬことだった。
あまりに暴力的な光の槍が反応さえ許さない速度で空を裂き、怪人の体を容赦なくかなぐり倒した。胸を穿ち、両の足を地面から剥ぎ取って、その全身を雑草の園に打ち据える。真嶋が瞬きを始め、終える間に全ては終結していた。
はるか後方で地面にうつ伏せとなり、ぴくりとも動かないナインと、元通り鉄色に戻った右腕を振り回し、空気を薙ぐ戦士とを交互に見たあとで、真嶋は舌打ちをした。
チノパンのポケットから、メイルプレートを取り出す。それは『4』の数字が振られた、父親の魂を色濃く受け継ぐ、その金属製の板だった。
真嶋がそのプレートを取り出したことで、装甲服の戦士は一瞬、動きを止めた。その隙を突き、真嶋はあらかじめポケットの中に偲ばせておいた、折りたたみ式の鏡を展開させる。
プレートの角で鏡面を小突くと、少しの間が空いて、鏡の内側から装甲の断片たちが飛び出してきた。素早く、その金属製の板を腹の前に置く。やがて無数のパーツたちは真嶋の体に纏わりついていき、彼の体を装甲服に包みこんだ。
そして真嶋は、腹部に『4』の数字を持つプレートを構えた、黄金の戦士――“ファルス”へと変身を遂げた。
それは以前のファルスに、蟹の要素を多分に加えた装甲服だった。鋏の形をした肩当てや、腹部から垂れ下がった蟹の足のような形をした飾りなどがその印象を高めている。左手首にもガントレットと一体化する形で、一対の鋏が備わっている。
そしてその全身は眩いほどの金一色で染められている。とはいっても以前のように、金色のペンキを塗りたくったわけではなく、タンポポの塔の内部で発見された特殊な金属を薄く伸ばして装甲の外側に接着したものだった。
両腰にはそれぞれ、赤と緑に着色された鞭が装着されている。真嶋は右腰にある赤い鞭を手に取ると、それで一度、地面を打ち鳴らした。
「その装甲服、確か、“ガンディ”とかいう名前だったな」
今は亡き弟、ケフェクスから教えてもらった情報を総動員させながら、真嶋は言葉を投げる。しかし『1』の数字を持つその歪んだ装甲服は、何の反応もみせなかった。
「そんなスクラップで、このハイパーファルスに勝てると思っているのか?」
挑発にも返答はない。真嶋はあの少女と向かい合っているかのような気分になった。胸がざわつき、頭に血が昇る。もう1度、今度は相手にも聞こえるように、あからさまな舌打ちをした。
「僕に対して、その素知らぬ態度……許しがたいぞ! 永遠の死に誘ってやる!」
昂ぶった心に誘われるがままに、ファルスは真紅の鞭を放った。
ファルスとガンディを隔てる距離は、10メートル程度ある。それに対して鞭の長さはせいぜい3メートルだ。通常ならばその場で振るったとしても、敵に届くはずはない。
だが、タンポポの塔で得た技術はその常識を容易く突き破った。先端に鋭い刃物を付けたその鞭は限界の距離まで達すると、さらにぐんと伸び上がった。
虚を突かれた様子のガンディに、その鞭の一撃が突き刺さる。背後によろめいたその装甲目掛けてさらに鞭を振るい、二度、三度と痛めつけていった。
「そうさ! この前だって、僕が負ける道理はどこにもなかったのさ! この僕が一番強いんだ。僕に勝てる奴なんて、この世にいない!」
火花をあげるガンディの装甲を前に、真嶋は鞭を振るいながら、高笑いをあげる。
だがその余裕が油断を招いた。ガンディはファルスの手が休まるその一瞬を狙うと、ふくらはぎの装甲を展開させ、砂埃を背後に掻き出しながら、スタートダッシュを切った。
ジェット噴射の力を借り、前方に高速で弾き出された装甲服は、さながら銃口から射出された弾丸のようだった。視覚するよりも意識するよりもはるかに速く、ファルスの体はガンディの突進によって荒々しく吹き飛ばされた。
飛ばされていく途中にあった木の幹を次々とへし折り、宙を葉の緑一色に染め上げた。地面を激しく転がり、特に幹の太い大木に背中をぶつけて、ようやくファルスは衝撃から解放された。
つま先を立て、ガンディは地面を無作法に抉り取りながら、ファルスの前で急停止した。そして止まっている時間さえ惜しむように、続けざまにその重機の一部のような右腕を振り下ろす。その挙動に躊躇いはまるでなかった。
「こんの、でくの坊が!」
真嶋は喚きながらも咄嗟に動くと、頭を低くしたまま、ガンディの胸に飛び込んだ。頭頂部を巨大な右腕が掠めていくのを感じながら、左腕を薙ぐ。形をそのままに、大きさだけをスケールアップさせたニッパーのような鋏で、ガンディの体を切りつけた。
ガンディはわずかに身を屈めると、よろめくようにして後ずさった。鋏を受けたその胸には大きな傷が走っている。その滑らかな断面からは、光の粒子のようなものが散っていた。
だが、ガンディを纏っている人間は、その程度の傷など傷の内にも入らないとも言いたげな仕草で、首を横に振ると、再び右腕を頭上に掲げた。
ファルスも身を起こしながら、素早く構えを取る。赤い鞭は体当たりを受けたときに落としてしまったようだ。胸が激しく痛む。見れば装甲には少しではあるが亀裂が走っていた。口の中は鉄の味で満ちている。奥歯を噛みしめて劣勢を悔いると、左腰の鞭の柄を掴んだ。ガンディの振り上げる、鉄の塊のようにも見えるその腕が、白い光を帯びる。
だが、ファルスが動き出そうとしたそのとき、突然生じた破裂音が耳朶を刺激した。不意を突かれ、手を止めた真嶋の目に、思いも寄らぬ光景が飛び込んでくる。
ファルスと対峙し、次の瞬間には雌雄を決する雰囲気さえあったガンディの装甲から、火花があがっていた。ファルスが鋏で切りつけた部分ではなく、背中や、腕や、足から火花が散り、その箇所を覆う装甲が次々と弾け飛んでいく。
ガンディを纏う人間の口から、微かな呻き声があがった。一体何が起きたのか理解が追いつかず、困惑して立ち尽くす真嶋の前で、その歪な装甲服の戦士は後退していく。その間も絶えず、破壊の連鎖がガンディの装甲を蹂躙していた。
「……時間、切れか」
ガンディは低く太い男の声で呟くと、自身の右の掌を胸に押し当てた。その手が触れたのは、あの円盤状の装置がはめこまれていた部分だった。するとやがて、右腕だけに留まっていた白色の輝きが全身に移り、そのうち装甲全体が輝きを発し始めた。
直後、光が破裂し、真嶋の視界は白一色に霞んだ。
慌てて掌で目を擦り、視力を取り戻す。しかしようやくその目が物の輪郭や色を再認識し始めた時には、ガンディの姿は完全に消失していた。
「そうか、この僕に恐れをなして逃げたか。よく分かっているじゃないか」
真嶋はファルスを解除しながら、周囲を見渡し、煮えきれない思いを燻らせる。足元がふらつき、腹部を激しく圧迫されたためか呼吸がしづらい。だがそれも仕方ないだろうと、側に生えていた木に寄りかかりながら納得する。全力疾走するダンプカーに正面衝突されたかのような、あんな衝撃をまともに受けた割に負傷が少ないのは、組織によってファルスにコーティングされた特殊な金属のおかげだろう。
唇の端から垂れる血液を手で拭う。どうやら口の中を切ったらしい。真嶋は血の混じった唾を足下に吐き捨てた。
「……面白くない。今日は本当にくだらない日だ」
不満を呟くが、何とも胸にごわつくような不快感は少しも消えていかない。怒りのままに足元に横たわった木をつま先で蹴飛ばした。
細めた目の先に、いまだ数メートル先で、倒れたままぴくりとも動かないナインの黒い肢体がある。生きているのかさえも、この距離ではどうにも判然としない。真嶋は乾いたため息を吐き出した。
どうにも周囲が騒がしい。戦闘音を聞きつけた通行人が近づいているのかもしれない。見つかれば面倒なことになるのは目に見えていた。それに敵を見失ってしまった以上、ここにいつまでもいる必要もなかった。
真嶋は服についた埃を手で払い落とすと、暫し逡巡した後、ナインの方に足を向けた。ここで彼女を見捨てれば、組織から何を言われるのか分かったものではない。父親を救うその日までは、自らの欲望を押し殺し、彼らの命令に従い続ける必要があった。
タンポポの塔 4
「……分かりました」
あきらは鉄格子を掴んで立ち上がった。片手で頭にフードを被せ、独房の中の河人を見下ろす。
「情報の提供、感謝します。どうもありがとうございました」
一方的に言い放つと、踵を返し、よろめきながら歩き出す。途中で身を屈め、古びたノートを拾い上げた。立ち止まり、そのひどく汚れた表紙を眺める。そこにも何か記されてあったらしいが、インクで書かれた文字は擦れていた。黒、という漢字だけがかろうじて読み取れる。
「河人さん、最後にもう1つだけ、尋ねてもいいですか?」
あきらは振り返った。河人は無言のまま、じっと彼女を睨んでいた。
「あなたは……なぜ、この世界にやってきたんですか?」
河人はふん、と鼻を鳴らした。再び衣擦れの音をたてて、姿勢を変える。立てていた膝を前に伸ばし、元の体勢に戻った。しかしそれだけだった。あきらの問いには答えず、ただ真っ直ぐに彼女の顔を見据えていた。
「黄金の鳥を、倒すため? それとも別の、目的のため?」
あきらは質問を重ねる。河人は深い息を吐いた。黒に限りなく近い灰色が宙に浮かびそうなほど、それは重苦しく淀んだため息だった。
「……厚かましい小娘だ。こんなところに捕らえておいて、まだ情報を引き出そうとはな」
「まだ情報を引き出したいから、こんな場所に捕らえておいているんですよ、河人さん。牢の出口を開ければ、あなたはまたどこかへ逃げ出すでしょう? 言ったじゃないですか。ボクたちには、あなたという器が必要不可欠なんです」
口調こそ穏やかだが、その裏には冷ややかなものが含まれている。河人は口端をほんの少しだけ上げると、今度は先ほどと逆の膝を立てた。天井を暫し見上げ、記憶を呼び覚ますようにしてから、口を開く。
「……俺には、妻がいた。美しく、その性格は温かく、誰からも好かれるような女だった」
静かに語りだしたその声音には、穏やかさと猛々しさとが共存を果たしていた。あきらは完全に河人の方に体を向けると、黙って彼の話に耳を傾けた。
「……だが突然、ある男によって、妻は慰みものにされた。捕らえられて、監禁された。心も体も下種な男によって犯され、汚された妻は、癒えることのない大きな傷を負ってしまった……俺が最後に見たとき、あいつは廃人のようだった。俺と始めて出会ったときのような美しさは、どこにもなくなっていた」
河人の表情はそういう形として作られた人形のように、相変わらず眉一つ変わらなかった。だが、あきらは彼の顔色が苦痛に彩られるのを見たような気がした。どれだけ無表情で感情を封じようとも、その痛みまでは隠しきれないようだった。
「……その男は、奴の部下だった。奴によって、作られた、人造人間だ。それが俺の妻の体を蹂躙し、精神を嬲り、もう殺してくれと涙を流して請うほどの苦痛を、その心に深く、深く、刻み込んだのだ」
あきらは目を見開き、動揺を顕にした。河人の発した“奴”という言葉が示すものは、彼女が心から愛し、慕っているあの金色の神のことに違いなかった。
「そいつの名前は、シェアトといった。あの男を追い詰めた俺は、奴を八つ裂きにし、この世に存在するあらゆる苦しみと痛みを与えて、ボロ雑巾のように捨て、殺してやった。そのはずだった」
河人の目が虚空を貫く。それだけで人を殺せそうなほどの殺意と、怨嗟とを十分に溶かし込んだ、暗い眼差しだった。
「……だが、奴は、生きていた。そればかりか、この世界に逃れてきたのだ。だから俺も奴を追った……それが、10年前の話だ」
「10年前……」
それはあきらの父がこの塔で黄金の鳥を見つけたのと同じ時期だった。そこから今なお続く、黄金の鳥を巡る戦いは火蓋を切ったのだ。
「奴は黄金の鳥のことを崇拝していた……まるで、神であるかのように。お前を見ていると、あの男のことを思い出す。お前とあの男は、ほとんど同じだ。俺にとってはな」
河人は始めた時と同様に、重苦しいため息でその話を締めくくった。あきらはしばらく床をじっと見つめ、あまりに大きな痛みを背負ったその話を、時間を掛けて呑み込み、受け止めていた。しかしやがて顔をあげると、フードの縁を引き、表情を影の中に沈めた。
「その男は、まだこの世界に?」
あきらの声は乱れてはいなかった。その言葉は感情を明らかに抑えていて、表面上は冷静沈着そのものだった。河人はその隻眼で彼女の顔を食い入るように見つめたあとで、そっと顎を引いた。
「……いる。そして、お前も知っているはずだ」
あきらはフードの生み出した影の中で眉を顰める。河人は膝を伸ばし、足を真っ直ぐ前に投げ出すと、その反応は奇妙だとばかりに瞳を細めた。
「いや……知っていなくてはおかしい。お前も前に話していただろう。あの男のことを、この世界では“黒い鳥”と、そう呼ぶのだろう?」
入った時と全く変わらない方法で鉄の扉をくぐり、あきらは牢獄を脱した。暗がりから抜け出したあきらを迎えたのは、鳥のお面を被った女性たちを従える飯沼だった。
「ご無事なようで何より。あの獣に、噛みつかれはしませんでしたか?」
口元に笑みすら宿し、発せられた飯沼の言葉に、あきらは嫌味なものを感じた。だがその不快感を胸の奥に封じ、彼と正面から向き合う。飯沼は背広のポケットに手を入れ、わずかに眉を上げた。
「あの男は、生かしておくには少々危険すぎるのでは? すぐに殺してしまったほうが良い。何なら、今すぐにでも俺が奴の頭蓋を砕いてきてもいいが」
そう言って指の関節を鳴らし、飯沼は不適な笑みを零す。あきらはため息をつきたい衝動に駆られたが、何度か腹の底で溜めた。
「……河人さんはボクたちにとって、かけがえのない存在です。あの人の死は大きな損失になる。その判断は少々、早計が過ぎますよ、飯沼さん」
「あの男が? 俺には疫病神にしか思えないが。それよりも、黄金の鳥に遣え、あの方を愛する人間を重宝したほうが良いと俺は思いますがね。愛の足りぬ人間を大きく持ち上げた結果が現状であることを、巫女は認識しておられるのですか?」
飯沼の物言いには。あきらを軽んじるものが含まれている。あきらは彼を冷たく睨むと、吐き気に耐えながら、語調を少しだけ強めた。
「もちろん知ってます。だからこそ、この状況を早急に打破しなくちゃいけないんです。飯沼さん、魔鏡はいつでも使える状態になっていますよね?」
「先ほど報告した通りに。でも一体、何をおっぱじめるつもりなんです?」
飯沼の半笑いを、あきらは無表情で受けた。そしてローブの裾を翻すと歩き出し、彼の横を通り過ぎながら、明瞭な声音で告げた。
「鏡を使って、菜原さんの体から石版を摘出します。そしてそれを、白石さんの体に移し変えるんです」
飯沼が息を呑んだ。その気配をあきらは確かに背後に感じた。彼は振り返り、困惑した声で彼女に尋ねた。
「……そんなことをして、ただで済むと思っているのですか? 石版には大いなる栄光の反面、強大なる苦痛が伴うことをお忘れか?」
「それしか方法がないなら、恐れてはいられないでしょう。それは最後の希望です。ボクたちは、黄金の鳥から授かった光を守らなければならない。この命は黄金の鳥のために捧げてこそ輝くんですよ」
それだけを言い放ち、あきらは飯沼を置き去りにした。乾いた血の貼りついた掌を一瞥し、それから黒く濁った視界の果てに目を凝らす。その足取りに迷いはなかった。薄く発光する壁に照らされながら、塔の上階へと繋がる階段を目指す。彼女の両手は自分のへその上あたりを絶えず、柔らかな仕草で撫で回している。あきらは気持ちを落ち着かせるように深く息を吸い込むと、視界の奥にある石造りの階段を見つめ、目を細めた。
「白石さん、もう少し待っててください。ボクが今、必ずあなたを蘇らせてあげますからね」
決意を誓うその口端から一筋の血が流れ、服を汚した。彼女は口元を手の甲で拭う。抗いがたい強烈な苦痛が畳み掛け、眉間に深く皺を刻んだ。それでもあきらは少しも躊躇うことなどなく、大きな光の潜む場所へと確実に足音を寄せていった。
黄金の鳥 2
獣じみた唸り声をあげながら再びその球体が空間に出現したとき、天枷はリビングのソファーに腰掛けてテレビを眺め、退屈な時間を持て余していた。ワイングラスを傾け、このワインに合うつまみがキッチンにあったかなと考えていたところで、再び空間に歪みが生まれたというわけだ。
「あれ? まだ彼らは来ていないのかな?」
球体の表面を覆うモニターに映る、紫色の怪物が小首を可愛らしく傾げる。天枷はソファーから腰をあげることもせず、ワイングラスに残った赤い液体を一気に飲み干した。
「まだだな。影も形もない。随分と時間にルーズな客人らしい」
「でも、任務はちゃんと果たしてきたみたいだよ。やっぱりあそこにはマスカレイダーズが潜んでいたらしいよ。逃したらしいけどね」
娘の報告に天枷は片眉を上げた。予想通りの報告に、暗澹としたものを覚える。
「予想通りか。裁きを恐れぬ、愚かな奴らめ……」
口の中の唾と一緒に、悪罵を吐き捨てる。マスカレイダーズという言葉の響きだけで腸が煮え繰り返るようだった。黄金の鳥を否定し、挙句に悪魔などと吹聴する、あの組織の犯した罪は、到底この世だけでは購いきれないだろうと考えている。あの連中が10年という月日を経た現在も生き残っていることが天枷にとっては信じがたかった。
「そういえばお父様。私からも報告があるんだよ」
「なんだ」
怒りを胸の内に封じておくことができず、自然、語調は荒いものとなる。アルコールを取り込もうとグラスを取ろうとするが、つい先ほど全て飲んでしまったことに気付いた。そのことがさらに天枷の心をささくれ立たせる。
ボトルを手に取り、グラスに傾ける。心の乱れは手元にも伝わり、乱暴に飛び散ったワインが鮮血のように机上を汚した。
「聞いて驚くんだよ。ついに、私とあきらちゃんの愛の結晶がね、完成したんだよ」
怪物の喜悦を含んだ言葉に、天枷は思わず手にしたグラスを落としかけた。瞠目し、床から3メートル程の位置で浮かぶ、その紫色の球体を見上げる。
「おい、今、なんと言った?」
問いかける最中も、期待は胸中で膨張を始めている。声音は震え、呼吸が詰まった。
天枷は軽く息を吸い、唾を呑み、一旦心を平常に置いてから言葉を続けた。
「“ルクス”が完成したと、そう言ったのか」
しかしどれだけ冷静さを装うとも、その声は上擦ったものとなって吐き出された。怪物は天枷の動揺を楽しむように笑みを零し、それから深く頷いた。
「そう言ったんだよ、お父様。ついさっき、完成したの。ある隠し味を仕込んだらね、動き出したんだよ。やはり、私の予想は正しかったんだよ」
怪物の言葉はどこか誇らしげだ。だがそれを過信と呼ぶことは、天枷にはできなかった。遅れて事実が脳に浸透し始め、次の瞬間、天枷は自身でも制御できないままに相好を崩していた。
「そうか……そうか、ついに完成したのか。我々の所有する、最強の鎧が」
とめどもなく、胸の中に喜びがわき起こり、口から笑いが飛び出す。愉しくて、可笑しくて、たまらなかった。久々に幸福というものを味わった気分だった。天枷は新しい玩具を手に入れた子どものように大笑いをし、ソファーを立った。体が興奮していて、黙って座っていることなど、到底できそうもなかった。
「素晴らしい、素晴らしいぞ、紫苑。さすが私の娘だ! よくやった! いいぞいいぞ、来た来た。これから我らの時代がやってくるぞ!」
部屋中に敷き詰められた、高級な絨毯を歩き、広い窓の前に立つ。ブラインドを開けると、外を見下ろした。高級マンションの上階に位置するこの部屋からは、東京の町並みを一望することができる。夕暮れに染まり、影を帯び始めた景色を見つめながら、そのどこかに潜むマスカレイダーズのことを思い、また高笑いをあげた。小躍りをしたい気分にも駈られるが、娘が見ている手前、自重する。
「見てろよ、黄金の鳥を貶す阿呆共め。すぐに引導を渡してやる。貴様らの存在そのものを、この天枷紅一郎が否定してやろう。涙を流して許し請う準備でもしておくんだな」
グラスの中のワインを飲み干し、快楽に溺れる。先ほどまでの不快感など、すでにどこかへ消えていた。心臓は何か愉快な音楽のリズムをなぞるように跳ね、心には緩やかな螺旋が渦巻いている。
その時、部屋のドアがノックされた。続けて「あなた、お客様がいらっしゃいましたけど」と彼の妻の声が聞こえてきた。天枷はハッと我に変えると咳払いをし、「ああ。入ってもらえ」と落ち着き払った声で返答した。怪物がくすくすと笑う声を無視しながら、球体の前を横切り、先ほどのテーブルの上にグラスを置く。愉悦を体内に急場しのぎで押し込んだが、度を超えた高揚感に口がどうしてもにやけてしまう。
それでも口元を意識して結び、表情を殊勝なものに変えて、ドアの向こうにいる客人を待ち構える。やがてドアは滑らかに開かれ、黒いチュニックを纏った彼の妻がまず姿を現した。
「どうぞ」
素早く横に避け、軽く頭を下げる妻に促され、2つの人影が部屋の中に入ってくる。1人目はセーラー服を着た女子高生だった。長い黒髪と病人じみた青白い肌をもつ少女で、その鼻筋の通った顔立ちはあまりに整いすぎていて、精巧な人形のように見える。
2人目は男性だった。カラフルなポロシャツにチノパンと随分ラフな服装をしている。
天枷は息を呑んだ。
その目が男の顔に釘付けとなった。信じられない、という思いがまず沸き、なぜこんなところに、という疑問が後から頭の中を占めていった。先ほどまで胸ではち切れんばかりに膨らんでいた胸の高なりは、すでに静まりかえっていた。
そしてそれは相手も同様のようだった。天枷を前に立ち止まり、唖然とした顔をしている。暫くの間、2人は見つめ合った。とくに含みのある沈黙ではなく、ただ単に目の前の現実を到底受け止めきれず、ただ呆然と立ちつくしていた。
「お前は……真嶋」
「まさか、天枷……紅一郎か」
男がその名前を呼んだ瞬間、天枷の中で、他人のそら似という最後の可能性は完全に消え失せた。そして改めて息を呑む。
目の前には、ここ数日出社すらしていない部下の姿――別の部下と彼について話題にしたばかりだ――がある。その男が、黄金の鳥を崇める同胞と紹介されてこの部屋に立っている。そんなあまりに不可思議な、けしてあってはならない状況に、どんな言葉を継げばいいのか、全く頭の中に浮かばなかった。
互いの名を示し合った2人の間に、再び奇妙な沈黙が訪れる。天枷はこのあまりに意外な、そして衝撃的な出会いに、偶然以上のものを感じずにはいられなかった。




