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言語オタク、バベルの迷宮で神話を書き換える

掲載日:2026/04/14

 石板が、呼吸していた。


 この認識が来たとき、アリア・コーデンは三階の資料室の床にひざをついたまま、もう十九分は動けずにいた。フォルツ書記師が後ろをどかどかと通り過ぎた。「コーデン、邪魔だ、そこ通るぞ」。返事をしなかった。


 文字が、動く。


 ぐっ、と目を絞る。鍵形の曲線が三つ並んでいた場所に、今は水の流れに似た縦線がある。楔形でも象形でも草書体でもない。なのに——体が知っている。十四年間、文字を読み続けた体が、この文字に対してだけ、ぴたりと反応を止めた。


 「——ア」


 声が出た。意図していなかった。


 石板の表面が、びりっ、と震えた。金属でも石でもない、別の物質が鳴る音。アリアは手を引っ込めて、自分の口を押さえた。


 棚の奥で埃をかぶっていた写本帳が一冊、ゆっくりと床に落ちた。


 誰も気づかなかった。アリアだけが見ていた。


 「アリア、写し終わったか」


 タナ・ルーセルが覗き込んできた。栗色の巻き毛、人差し指の第二関節に今日もインクの染み。アリアの同期、三倍速で仕事を終わらせる人間だ。


 「終わらない」


 「また? ギルマスに怒られるよ」


 「見るたびに変わるから写せないんだ」


 タナがぐっ、と首を伸ばした。少しの間、石板を眺める。「……なんか黄色い。温かい感じの」


 「今、何色に見える」


 「さっきより少し薄くなった気がする」


 アリアにはどこにも黄色く見えない。でも——重要だった。写本帳を開いて書き込む。見る者の感情状態によって文字の色が変化する。タナは今、穏やか。暖色系に変換される可能性。


 「ちょっと待って、なんでいきなり色を聞いたの。普通そういうこと聞かないよ」


 「この文字、視覚で読むものじゃないかもしれなくて」


 「どういうこと——」


 扉がどん、と開いた。


 ガレス・ドン、Aクラスパーティ「鉄爪」のリーダー。三十四歳、大柄な体に不釣り合いなほど柔らかい眉。その眉が今は困ったように寄っていた。真っ直ぐアリアに向かって歩いてきた。


 「コーデン。エフォール・ダークが来た。学術院の古代遺物担当だ」


 「石板の件ですか」


 「三日の期限で我々が成果を示せなければ、移送に同意しろ、と。ダリウスも同席している。今夜決める必要がある」


 「……やります」


 ガレスが出ていく。タナがそっと部屋を出ていく。


 残ったのはアリアと石板だけだった。


 窓の外で雨がぽつぽつと降り始めた。石畳を叩く音が遠い。


 文字がまた変わっていた。細い縦線が複数、ぴん、と立ち並んでいる。音符に似ていた。


 「急かしてるな、君は」


 返事はなかった。当然だ。でも——その沈黙が何かを確認させた。


 ガレスの扉が閉まって数分後、廊下の床板がきし、と鳴った。エフォール・ダークが一人で立っていた。


 「コーデン書記」と彼は言った。「昨日、あなたが石板を写そうとした部屋で——写本帳が落ちましたね」


 「棚から一冊」


 「内側から棚が動いたように」


 アリアは答えなかった。


 「三日の期限とは別に、一点だけ聞かせてください」エフォールが声を落とした。「声を出した時に、周囲がわずかに変化したことがあれば——今すぐでなくていい。三日以内に、教えていただけますか」


 廊下の奥でセラ・ミンが書類を抱えて走り過ぎた。ギルドの受付、いつも駆け足だ。エフォールはその背中が消えてから続けた。


 「あなた自身のためにも」


 それだけ言って、静かに歩き去った。


 アリアは資料室に戻った。石板を見た。


 「何があったんだ、君は」


 文字が揺れた。好奇心に反応するように、ほんの少し明るくなった。


-----


 夜から、資料室に泊まった。


 油ランプ一個。机に道具を並べる。写本帳、羽根ペン、透写用の薄紙、インク三色。私物——十二種類の文法書、南大陸碑文の摹本集、父がくれた古い手記。消えかかった墨の匂いがした。


 実験を始めた。


 怒りを想起すると——文字がかちり、と角ばった。密集する。悲しみでは細く伸びてにじむ。驚きでは点がばらばらに散った。


 好奇心のとき——文字が一番鮮明になった。


 ぱっ、と明るくなる感覚。


 「見られたいんだな、君は」


 声に出して、気づいた。


 これは視覚で読む文字じゃない。音の気配だ。感情の状態を音に変換して伝えようとしている——文字はその影に過ぎない。写そうとするから写せない。音を探さなければならない。


 立つ。石板の前に立つ。好奇心を絞り出す。もっと強く。


 最初の音節が浮かんだ。


 「エ・ア・ル」


 石板の表面がびりびりと揺れた。引力に似たものが指先を通って内側へ届く。


 「ネフ」


 ぼん、と低い振動が床から来た。ランプの炎がぐらっと消えかけ、代わりに石板が淡い金の光を放ち始めた。温かくない光。冷たい。三千年の時間の重さのような冷たさ。


 「——声が、届いた」


 空気そのものから声が来た。


 「わたしの名はネフェル。この石板に宿る、最後の語り部」


 女の声。低くて若い。三千年という時間の重さが、どこにもない。まるで昨日まで生きていたような。


 「ネフェル、と呼べばいいですか」


 「そう呼んでくれ。あなたは言語を読む者か」


 「書記見習いです。六種の古代語系言語と四つの話し言葉が読めます」


 間があった。


 「六種。……わたしたちの時代に、六種の言語体系を扱えた者は三人しかいなかった。エン・アとカン、それとわたし自身だ」


 「あなたたちの時代のものが読めているかは、まだ分かりません。一音節しか試していないので」


 石板の光がわずかに揺れた。笑っているかのように見えた。


 「人間の前に出るのは久しぶりだったから、少し嬉しかった」


 「三千年ぶりですよね」


 「そう」


 「——それは、嬉しいですよね」


 ランプの炎が揺れた。


 ネフェルの話は長かった。アリアは写本帳に書き続けた。右手が痛くなっても止めなかった。


 「語ることが現実を作る」という原理が核心にあった。ソル(建設語り部)が確信を込めて話しかければ石が動いた。ネイ(水語り部)が悲しみをのせれば川の流れが変わった。バラス(農業語り部)が喜びを声にすれば土が応えた。これらは神話ではなく、記録だと言った。


 「でも崩れた」


 「語り手が強くなりすぎた。一人が怒りを込めれば街区が揺れた。嘆けば雨が数週間止まらなかった。社会が語り手を恐れるようになった」


 「隔離した」


 「言葉を封じた。でも言語文明は言葉で動いている。語り手がいなければ農業が止まる。建物が朽ちる。百年かけて自滅した。誰も悪くなかったのに」


 その言葉が胸に刺さった。ずっと抜けない何かのように。


 「記憶庫があります」とネフェルが続けた。「三十二層の奥。三つの断章がある。最後だけが書かれていない」


 「なぜ書かれていないんですか」


 長い沈黙。


 「ふたつの道があった。消滅——すべての記録と力を世界から消す。変容——力を解放して、すべての人間に小さく分散させる。語り手たちは選べなかった。わたしが最後の語り部になったのは、誰かに選んでほしかったからだ」


 「三千年前から」


 「そう」


 「ひとりで、ここで」


 「そう」


 アリアは写本帳を閉じた。それ以上は書けなかった。しばらく間があった。


 「……正直に話す」とネフェルが言った。声が初めて揺らいだ。「わたしはあなたを選んだ。この石板がガレス・ドンのパーティに発見されたのは偶然ではない。三十二層の通路を少しだけ、わたしが変えた」


 「……記憶庫は、そういうことができるんですか」


 「語り部の最後の仕事として。三千年かけて学んだ。あなたがこのギルドに来た日から、ずっと待っていた」


 「なぜ、わたしを」


 「あなたは三歳の時、初めて字を読んだ。その日、あなたの家の窓枠の木材が一センチ伸びた」


 アリアは止まった。


 「知らなかった」


 「あなたの父親は知っていた。だから手記を渡す時に『一人でいなさい』と言った。わたしはその記録を、石板の記憶の中に持っている」


 父がくれた手記。消えかかった墨の匂い。「一人でいなさい」という言葉をずっと口癖だと思っていた。


 違った。


 「——もうひとつ、正直に話す」とネフェルが続けた。「変容を選んだ場合——散った先で、強い語り手が再び生まれる可能性がある。わたしたちの時代と、同じことが繰り返されるかもしれない」


 「知っていて、わたしに選ばせようとしているんですか」


 「知っていて、あなたを信じることにした。ただし——どうしても話さなければならないことが、もうひとつある」


 静寂。ランプの炎が大きく揺れた。


 「わたしは、語り手を隔離する文書を書いた者だ」


 アリアは動けなかった。


 「言語文明が崩れていく中で、わたしは語り手の側に立ちながら、制度側に隔離の文書を提出した。両側にいた。文明を守ろうとして——両方を裏切った。結果的に、誰も守れなかった」


 「……それが、三千年待った理由ですか」


 「そうだ。懺悔だ。あなたに全部話してから、あなたに選んでほしかった。わたしが隠したまま委ねることは——また同じことをすることになるから」


 アリアはしばらく何も言わなかった。


 「分かりました」


 「怒らないのか」


 「怒ってます」とアリアは言った。「でも——怒ることと、話を聞くことは、別のことだと思っているので」


 石板の光が、ほんの少しだけ揺れた。


-----


 翌朝、一階の食堂に外来客が四人いた。


 上品な外套、院の紋章。エフォール・ダーク。その横に若い男——ヴァルデン・ライ(通称ヴァル)。三年目の調査員だという。そして——背の高い女が二人。ひとりはアリアが知らない顔だった。


 「ヴィラ・ルーク」とエフォールが紹介した。「同じく調査官です。制度文化遺物の管理を専門にしています。もう一人は補佐のベルク・アイン」


 ヴィラが立ち上がった。三十前後、薄い唇、金属的な声。


 「コーデン書記、単刀直入に聞かせてください。石板は今どのような状態ですか」


 「音に反応します。感情に連動して文字が変化します」


 「接触は取れましたか」


 「昨夜、取れました」


 「何と話しましたか」


 「記憶庫の場所と、ふたつの選択肢について」


 ヴィラが眉を動かした。ほんの少しだけ。


 「ふたつの選択肢を——一書記見習いに委ねた、ということですか」


 「そうなります」


 「では、その決定権を学術院に移管することを提案します。これは感情的な問題ではなく、制度的な問題です。古代文明の遺産の”結末”を一個人が決定することは——」


 「却下します」


 ヴィラが止まった。


 「コーデン書記、あなたの立場では——」


 「ネフェルがわたしを選んだのは立場のためではありません。誰が決定するかより、誰が決定すべきかを考えて委ねた。その委託を機関に横流しすることは、委ねた人間への裏切りになる」


 「感情論です」


 「感情でもあり、契約でもあります。わたしはネフェルと対話をした。その対話の中で責任を引き受けることになった。引き受けた責任を機関に渡すことは、わたしにはできません」


 ヴィラの視線がエフォールへ動いた。エフォールは何も言わなかった。


 「……三日の期限は有効です」とヴィラが言った。「確認しておきます」


 食堂を出ると、ダリウスが廊下で待っていた。


 「聞いてた」とギルドマスターが言った。


 「はい」


 「ヴィラ・ルークはエフォールとは違う。別ルートで三十二層に入ろうとするかもしれない」


 「学術院に古い測量図が」


 「ある。十八年前のものだ。旧道に崩落区域が出来てから使われていない。でも——無理に通ることはできる」


 「急いだ方がいい、ということですね」


 「急ぐかどうかはお前が決めろ。俺は状況を言っただけだ」


-----


 「三十二層に行く」


 ガレスに告げると、「分かった」が来た。


 「待て」


 後ろからレントの声。薄い唇、細い目。


 「エフォールと、あの女と、何を話したか、全部言え」


 アリアは話した。全部。ネフェルの告白も含めて。


 レントは動かなかった。顔も変えなかった。


 「……ひとつ聞く」とレントが言った。「変容で語り手が再び生まれる可能性について、お前はどう思った」


 「怖いと思いました」


 「それでも変容を選ぶつもりか」


 「まだ選んでいません」


 「なら聞くだけにする」短い間。「条件がある。三十二層で何があってもお前の決断に従う。ただしお前はわたしたちに全部話す。考えていること、迷っていること、全部。それだけだ」


 「分かりました」


 「もうひとつ」声がわずかに低くなった。「お前が読んで死にそうになったら、石板は置いていく。お前の命が先だ」


 「分かりました」


 「言質とったからな」


-----


 一行は十一人になった。


 ガレスのパーティ「鉄爪」が五人——ガレス・ドン、レント・カーロ、シヴィア・ベル、ミロ・ハン、ヴァイン・サージ。それにアリア、ベテラン冒険者のカイン・ロッジ(誰も呼んでいないのに来た)、ヴァル(エフォールに「彼を」と送り込まれた)、南大陸出身の治癒師カリルダ・オーン、ギルドの補助担当トリン・ベル(シヴィアの遠縁、この遠征が初陣)。


 「十一人は多い」ガレスが言った。


 「安全策だ」カインが言った。「学術院の別チームが動いているなら、先に入った方がいい」


 「ヴィラさんが別ルートを使うとは限りません」ヴァルが言った。


 「使う。あの人は止まれない人だ」カインが短く言い切った。


 「どうして分かるんですか」


 「目つきが俺に似てる」


 誰も反論しなかった。


 迷宮の入り口を潜った。外の秋雨の冷たさとは違う、地底の冷たさ。こつこつと足音が石に響いて、すぐ消える。


-----


 「コーデン、聞いていいか」


 十四層を抜けたあたりで、カリルダが横に来た。南大陸訛り、語尾がやわらかい。


 「どうぞ」


 「南大陸に感情共鳴呪文という術系がある。発音より感情が先に物理へ干渉する。わたしの師匠のナモ・サークは言っていた——感情が先にある者は、言葉を選ばなくても干渉できる、と。ただしそれは、制御が難しいということでもある」


 「……ということは、わたしが今まで音読するたびに何かが起きていたとしたら、感情が先に干渉していた可能性がある」


 「ありえる」とカリルダがうなずいた。


 「エフォールさんが言ったことが、分かってきました」


 「エフォールさんは——意地悪ではない、と思う。南大陸でも三百年前に同じことがあった。感情共鳴を扱う者が制度に追われた歴史。今は共存できている。時間がかかっただけで」


 「三百年」


 「長い」


 前を行くレントが、何も言わずに歩みを続けた。でも、耳が傾いた。アリアはそれを見ていた。


-----


 十八層の中継小屋で、サジが麦と豆の煮込みを作っていた。ごうごうと薪が燃える。


 食事の途中で、トリンが走ってきた。


 「伝令です。バベリアからの急報」


 ガレスが受け取った。少し読んで、アリアに渡した。


 四行の文字。


 「……バベリア市内で石板が搬入されてから五日間で、三名が古代語と思われる音節を夢の中で口にしたと届け出た。子供が一人含まれる。学術院の計測班——班長はハン・ル——がギルド周辺の測定を開始した」


 「エフォールさんが動いた」ヴァルが小さく言った。


 「当然だ」とカインが言った。「待っているだけじゃない人間だからな」


 「ハン・ルが来たなら本格的な調査になる」ヴァルが続けた。「院長のヴォルデンも今後動く可能性がある。副院長のセイラ・ニンは以前から語り手の研究を許可しない立場で——」


 「ヴァル、後で話す」とアリアが言った。「今は先に進む」


 全員が立ち上がった。


-----


 二十六層の廊下で、一本道が左右に分かれていた。


 「左が本街道。右が旧道だ」カインが地図を広げながら言った。「ヴィラが使うとしたら右だ」


 「三十二層の手前か、三十二層の中か——どこで会うか分からない」


 しばらく全員が黙った。


 「コーデン」


 レントが廊下の角に来た。


 「少し話せるか。二人で」


 全員がわずかに後ろに退いた。


 「妹の話をする」


 アリアは止まった。


 「妹さんが」


 「声を持っていた。語り手、というやつだ。十三歳の頃から、感情が強くなると周囲の物が動いた。怒ると机が割れた。泣くと雨が降った。本人は嫌だった。誰かを傷つけたくなかったから、一切声を出さなくなった」


 「……今は」


 「今も話さない。十五年。もう一度声を出したら、また何かが壊れると思っているから」


 「レントさん……」


 「俺が消滅を選ぶのは、妹のいる今だけの話じゃない」とレントが続けた。「力が散った先で、制御できない人間が必ず出る。制御できない自分を恐れながら生きることになる人間が、また生まれる。それが——変容の代価だ」


 「……分かりました」とアリアは言った。「でも——変容を選んだとしても、声を持つことを恐れながら生きることを選んだレントさんの妹さんが正しかったと、わたしは思う。声を出さないことも、恐れながら続けることも——両方、生きることだから」


 レントは長い間黙っていた。


 「……お前が諦めない限り、俺もここにいる」


 それだけ言って、前に戻っていった。


-----


 三十二層は、音がなかった。


 ほんとうに、ない。


 こつこつと十一人の足音だけが石に響いて、すぐ消える。ガレスがランタンをじぃん、と高く掲げた。光の届く範囲に何もない。ただ廊下が続く。


 「静かすぎる」カリルダが小声で言った。


 「眠りの層です」アリアが答えた。「語られていない場所には生命が宿らない——言語文明の原理では、そうなるそうです」


 「語られることで存在が生まれるのか」ヴァルがメモ帳を開きながら言った。


 「おそらく。語り手が失われれば、世界も失われていく」


 前方から足音が来た。複数の人間の、とんとんと軽い足音。


 ガレスが手を上げた。全員が止まる。


 廊下の向こうから、ランタンの光が三つ見えた。


 「鉄爪のガレス・ドン」と向こうから声がした。ヴィラ・ルークだった。「遅かったわね。わたしたちは昨夜出発した」


 「どういう経路で」ガレスが低く言った。


 「旧道。崩落区域は——ベルクが通るのに少し時間がかかったけれど」


 ヴィラの後ろの男——ベルク・アインが立っていた。杖をついていた。


 「共同調査を提案します」ヴィラが続けた。


 「それはできません」とアリアが言った。「ネフェルへの約束があります。記憶庫は、わたしが声で開ける。それ以外の方法では開かない」


 「確認されましたか、その約束を」


 「昨夜。対話の中で」


 ヴィラが少し黙った。「……では——共同観察という形で。干渉はしない。約束します」


 ガレスがアリアを見た。


 「分かりました」とアリアは言った。「ただし——記憶庫の中での判断は、わたしが行います。それに反する行動があった場合、退出を求めます」


 「了承します」とヴィラが言った。声は平静だった。でも——何かを隠していた。何かが。


-----


 十六人が石板の凹みの前に立った。


 アリアは膝をついて石板を置いた。ぴたり、と合わさった。最初からそこのためにあったように。


 「読みます」


 「危険の見込みは」カインが言った。


 「不明です」


 「不明で読むのか」


 「はい」


 全員を見た。ガレスが頷く。レントが目を逸らす。シヴィアが結界の構えに入る。ミロが小さく「頑張れ」と言う。ヴァインが無言で腕を組む。カリルダが両手をきっ、と組む。ヴァルがメモ帳を開く。トリンが息をのんでいる。カインが剣をすっ、と持ち替える。


 ヴィラは何もしなかった。ただ、見ていた。ベルクは杖を持ったまま立っていた。学術院の三人目の調査員ソリン・バルがメモを準備した。


 全員が、いる。


 アリアは石板に触れ、声を出した。


 「エ・ア・ル・ネフ。ナバル・キセ・ラ・エン」


 石板が金の光をぱっ、と放った。


 「ア・ナ・エル——」


 ぼん、と鈍い振動。床がざわっ、と揺れた。壁にひびが走り——ひびが光に変わった。石がひとつずつ外れ始め、内側から青白い光があふれてくる。


 読み続けた。声が震えていた。でも音節は正確に。感情を乗せて。好奇心を。敬意を。三千年を待った者への、真剣な関心を。


 壁が消えた。


 向こうに——空間が現れた。


 天井が見えないほど高く、四方の壁が全面棚になっていて、石板が無数に並んでいる。何百、何千。空気は乾いていて清潔で、かすかに何かの香りがした。草とも花とも違う。でも懐かしい。


 「——記憶庫です」ネフェルの声が来た。十六人全員に届く声で。


 カインが剣をしゃっ、と構えた。ヴィラの目が細くなった。


 「敵意はありません」アリアが言った。「この文明の最後の語り部です」


 「……あなたが声を届かせてくれた。感謝する、読み手よ。そして——今日は多くの人間がいるのだな」


 「すみません、事情があって」


 「いや——良かったかもしれない」


-----


 三つの断章を読むのに、半日かかった。


 最初の断章——文明の誕生。ソル、ネイ、バラス、ルー・エスの名前が繰り返し出てきた。それぞれが異なる感情の状態で異なる物理現象に作用した記録。


 「信念が物理定数を局所的に変えたということですか」とアリアが聞いた。


 「石に話しかけるのではない。建設者の確信を言葉として出力することで物理法則が補強された。今のあなたたちの言語でも起きている。強度が弱いから誰も気づかないだけだ」


 ヴィラがメモを取っていた。速い筆記。感情を見せない顔で。でも——手が止まることがあった。何かに反応して。


 中間の断章——衰退。語り部の力が増大し、制御不能になった過程。


 「残酷だな」ヴァインがぼそりと言った。全員がびくっとした。


 「残酷でした」とネフェルが答えた。「でも——わたしはその制度を作った側にもいた」


 ヴィラが顔を上げた。


 「どういうことですか」


 「わたしは語り手の隔離を制度化する文書を書いた。語り手の安全のためだと言って。でも本当は——制御できなくなることへの恐怖から。両側に立って、両方を裏切った」


 「……語り部が、自分たちを隔離する文書を書いたのですか」


 「そうだ。だから三千年、懺悔のために待った」


 ヴィラの手が、ぴたりと止まった。


 それ以上は書かなかった。


-----


 記憶庫の奥の広間で、全員が丸くなって床に座った。


 「変容がいいと思う」ガレスが言った。「直感だが」


 「消滅だ」レントが言った。


 「変容」シヴィアが言った。


 「どちらでもいい気がする」ミロが言った。「アリアが決めることだと思うので」


 「同じだ」ヴァインが短く言った。


 「変容を支持します」ヴァルが手を上げた。「この記録の消失は取り返せない損失です」


 「消滅を支持します」カインが言った。「力が散った先で集中させる者が出れば、三千年後に同じことになる。誰も責任を取れない」


 「変容です」カリルダが言った。「南大陸での三百年が、証明している。制御の問題は解決できる」


 「トリンは」とアリアが聞いた。


 「え、わたしですか」トリンが目を見開いた。「……どちらでもいいですが——でも。石板の文字が見るたびに変わって写せなかったってコーデンさんが言っていたじゃないですか。誰にも同じ形で見えないということですよね。それを消してしまうのは——もったいないと思います」


 ミロが「言うじゃん」とぼそっと言った。


 「学術院の三名は」とアリアがヴィラを見た。


 ヴィラはしばらく黙っていた。


 「……わたしは管理できないものは消えた方がいい、と今まで思ってきました。ですが」


 「ですが」


 「ネフェルが——隔離文書を書いた者だと聞いた。管理しようとした者が、管理することで文明を壊した。わたしが今ここでする判断が——同じことにならないとは言い切れない」


 「……」


 「棄権します」とヴィラが言った。「コーデン書記、あなたが決めてください」


 ベルクが何か言いかけた。ヴィラが手で制した。


 「多数決では決めたくないです」とアリアが言った。


 「なぜだ」レントが聞いた。


 「多数決にすると誰の責任にもならなくなる。これは誰かが責任を持って選ぶべき選択です」


 レントが何か言いかけて、止まった。


 「……じゃあ、お前が決める。理由込みで」


 「はい」


 アリアは棚を見た。石板の重さ。三千年の時間。ネフェルの告白——「両側に立って、両方を裏切った」。レントの妹の十五年の沈黙。トリンの「もったいない」。カリルダの「三百年かかっても」。


 「変容にします」


 「根拠は」


 「根拠ではなく——信念です。言葉は人間から奪えない。奪おうとすれば三千年前と同じことになる。力の問題は、どう使うかを学ぶことでしか解決しない。そして——」


 「そして」


 「レントさんの妹さんに、声を出してほしいとは言いません。でも——声を持って生まれた人間が、その声を恐れながら生きなければならない世界が続くことも、わたしは正しいと思えない」


 レントは何も言わなかった。長い沈黙。


 「甘い」カインが言った。


 「そうかもしれません。でも——わたしはそう信じます」


 カインは反論しなかった。


-----


 「決めました」


 ネフェルに告げると、「分かった」という声が来た。


 「では——最後の断章を語れ。書かれていないから、あなた自身が語り手になれ。古代語でなくていい。心にある言葉を声に出せ。言語精霊は感情の形を読む」


 アリアは石板の前に立った。


 何を語るべきか。


 頭に浮かぶのは——バベリアの石畳の、雨の音。ランプの橙色。父の手記の墨の匂い。タナの「なんか黄色い」という軽い言葉。ガレスの「分かった」という一言の重さ。レントの妹の十五年の沈黙。ネフェルが「両方を裏切った」と言った時の声の揺れ。ヴィラが棄権を選んだ理由。トリンの「もったいない」。カリルダの師ナモ・サークが言ったという「感情が先にある者は制御が難しい」という言葉。


 そして——ネフェルが昨夜、最後に言ったことが来た。


 「怖いのと諦めるのは、別のことだと思っていたから」


 声が出た。震えていた。でも止まらなかった。


 「——わたしはアリア・コーデン。バベリアの書記見習い。十七歳です」


 石板が光をぱっ、と強めた。金から白へ。


 「古い言葉も、新しい言葉も——語ることを恐れた人たちがいたことを知っています。恐れた理由も分かります。言葉は怖い。傷つける。壊す。でも——言葉がなければ、誰かに伝えることもできない」


 足元からどん、と深い振動。


 「三千年前の人たちが選べなかった問いを、今夜ここで選びます。言葉の種を散らしてください。誰かを傷つけるためではなく、伝えるために。語りかけるために。記録するために」


 「——これから生まれる語り手たちへ」


 アリアはそこで止まった。一瞬。


 「怖くても、諦めないでください」


 棚の石板が、一枚ずつ光になった。


 「言葉の種を散らします。誰かが集めて使い方を誤るかもしれない。それでも」


 光が部屋を白く染めた。ぴん、と張った静寂。


 石板がさらさらと砂になった。次々と光の粒になり、天井へふわっ、と昇っていく。天井を貫いて、外へ——世界へ。


 「うわ」とミロ。


 「壁が——」シヴィアの声が揺れた。


 光の粒が四方へ散っていく。バベリアの方向へ。北の森へ。南の海の方角へ。東の山脈へ。


 「——ありがとう」


 ネフェルの声が、初めて泣いているように聞こえた。


 「三千年、待ってよかった。あなたが最後に言ったこと——語り手たちへの言葉——それを入れると思っていなかった」


 「……あなた自身に言い聞かせていたんだろう、最後の言葉を」


 アリアは何も言わなかった。


 最後の石板が光になる直前、アリアはそっと触れた。温かかった。さらさらと砂になる直前まで、じわっ、と温かかった。


 「さようなら、ネフェル」


 返事はなかった。でも——確かに温度が返ってきた気がした。手のひらの内側に。


-----


 光が消えた後、廊下は静かだった。


 十六人が石の床に立ったまま、誰も動かなかった。


 ヴィラが出口に向かって歩き始めた。ベルクが杖をついてついていく。ソリンが最後尾で。


 ヴィラが廊下の角を曲がりかけた。


 その時。


 「——エ・ア」


 聞こえた。


 振り返ると、ヴィラが立ち止まっていた。自分の口に手を当てて、目を見開いていた。


 「……今、何と」ヴァルが言った。


 ヴィラは答えなかった。でも——彼女の足元の石が、ほんの少しだけ、温かい色に光っていた。一秒。また消えた。


 「エ・アとはどういう意味だ」カインが聞いた。


 「古代語で——」アリアが答えた。「『ここに』」


 静寂。


 ヴィラは一度も振り返らなかった。歩き続けた。ベルクがその背中を追った。廊下の先に消えた。


 レントがアリアの横に来た。何も言わなかった。ただ、そこにいた。


-----


 地上に戻ったのは翌日の夕暮れだった。


 バベリアの街灯がぽっ、と灯る時刻。石畳が夕焼けに赤く染まっていた。


 ギルドに入るとセラが飛んできた。「戻った! 無事!?」


 「無事です」


 「ランガさんが心配してましたよ。古参のAクラスが三人、今日ずっとギルドにいました」


 廊下でランガ・トルがすれ違った。がちゃがちゃと鎧が鳴る。


 「よくやった」とそれだけ言って、通り過ぎた。


 エフォール・ダークは一階の応接室にいた。ヴィラはいなかった。


 「移送の申請は取り下げます」とエフォールが言った。ヴァルのメモ帳を読み終えた後。「この発見はバベリア冒険者ギルドの成果です」


 「ありがとうございます」


 「ただし」エフォールが顔を上げた。「コーデン書記、七百三十一番目のリストにあることは変わりません。研究への協力を継続的にお願いしたい。強制ではなく、対等な形で」


 「条件があります。管理ではなく記録として。力を制限するためではなく、理解するために」


 「了承します」とエフォールが言った。「——それが、わたしが本来やりたかったことでもあります」


 「ヴィラさんは」


 「……報告に戻りました。ただ」エフォールが少し間を置いた。「彼女から一点だけ聞きました。廊下で何か声が出た、と。自分の意志ではなかった、と」


 アリアは答えなかった。


 エフォールも、それ以上は聞かなかった。


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 その夜、中庭でパーティを開いた。


 ガレスが肉を手配し、シヴィアがぐつぐつと煮込んだ。ヴァインが黙って野菜をとんとんと切った。カリルダが南大陸風の香辛料を一つまみ入れた。ミロが「いい匂いだ」と言い、レントが「食べれば分かる」と短く言った。カインも輪に入った。ヴァルが「こういう夜が来るとは思っていなかった」とぽつりと言った。トリンが「出世払いで飲みます」と言った。


 「古代語で、美味しいは何て言うんだ」ガレスが唐突に聞いた。


 「アラ・ネ」アリアが答えた。「伝わる感触、という意味で」


 「アラ・ネ」ガレスがゆっくり繰り返した。


 「何が伝わるんだろうな」とミロ。


 「美味しいって気持ちが」とシヴィア。


 「三千年前の人間も同じ言葉を使ってたのか」


 「食べてたんだから、たぶん」


 誰かがくっと笑った。広がって、笑い声になった。


 アラ・ネ。伝わる感触。言葉は散った。世界のどこかで、今夜から——少しずつ、染み込んでいく。


 良いことが起きるかも知れない。悪いことが起きるかも知れない。


 それが変容、ということだ。


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 翌週、バベリアではいくつかのことが変わった。


 エフォール・ダークとアリア・コーデンの連名で「三十二層言語文明遺跡に関する最初の報告書」が提出された。ダリウスがアリアの給与を書記師正式水準に引き上げた。書記見習い終了の辞令が出た。


 エフォールから別途の報告が来た。学術院のリストに七百三十二番目のエラン・ソ、七百三十三番目のミア・バルトが同日に追加された。


 タナ・ルーセルが資料室に呼ばれた。


 「頼みがある」


 「何?」


 「これから三十二層の調査に何度も行く。その間、地図の写しを担当してもらえますか。わたしの分も含めて」


 タナは少し驚いた顔をした。それから「分かった」と言った。「でも——アリア。わたしも、何かを見つけたい」


 「見つかると思います。あなたが描き続けたら、きっと」


 出発の朝、レントが廊下で待っていた。


 「コーデン」


 「なんですか」


 「あの選択——変容——俺は今も正しいと思っていない」


 「分かっています」


 「でも。お前が最後に付け足した言葉——語り手たちへの言葉——あれは、お前自身に言い聞かせてた言葉だろ」


 「……かもしれません」


 「お前が諦めない限り、俺もここにいる。『だから言っただろ』と言う権利を確保するために」


 「使ってください」


 アリアが歩き始めると、レントが後を追ってきた。


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 南市場で、一人の子供が水を指差した。


 子供は七歳だった。言葉の意味を知らなかった。親から聞いた覚えもなかった。


 「——アラ・ネ」


 子供の指先から半径三センチだけ、水が静止した。一秒。また流れ出した。


 誰も気づかなかった。子供の父親——カドという御者——が振り返ったが、何が起きたか分からなかった。「カド、どした」と市場の肉屋ドグラが声をかけた。「なんでもない。子供が変なことを言っただけで」


 アリアだけが、少し離れた棚の陰から見ていた。


 見て、何も言わなかった。


 手のひらの内側に——昨夜から、かすかな文字が浮いている。ネフェルの最後の石板が砂になる直前に触れた手に。一文字だけ。まだ意味が分からない。


 いつか読める。


 そう思いながら、アリアは市場を歩いた。足音がこつこつと石畳に響いて、人の声に混じって消えていった。


 ヴィラ・ルークが今どこにいるかは、知らない。


 言葉の種は、散った。


 ゆっくりと、時間をかけて。誰かが気づかないまま、少しずつ——語りかけることを、覚えていく。


 怖くても。諦めなければ、いい。


 それだけだ、とアリアは思いながら、一歩歩き出した。

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