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 家政婦は一人で市中央病院に行き、妊娠を確認した。彼女はその帰り道、物心がついてから一度も入ったことのない書店に寄り、本を探した。大人向けの中学数学、社会人の教養・国語教室、一気に学び直し歴史編などなど、高卒認定試験用の参考書に進む前に義務教育の知識を復習しようとした。すべての教科を一通り買い揃えるとけっこうな量になり、ビニール袋が手に食い込むほどの重さになった。その重みは船の錨のように、漂いそうになる彼女の心を地に着けた。

 家に帰り、洗濯物を取り込むと、彼女はリビングのテーブルを使い勉強を始めた。彼女は中学に上がると急に勉強が分からなくなり、そのまま三年間を終えてしまったが、最初から真剣に学び直すとそう難しくもないことに気づいた。

「勉強か。熱心だな」

 爺さんはコーヒーを淹れてくれただけでなく、今日は代わりに夕飯を作ってやると言い、出ていった。

 家政婦は切りのいいところで勉強を終え、冷めたコーヒーを飲みながら、車庫の鍵はどこにあるだろうかと思案する。リビング、キッチン、爺さんの寝室はもう探したのだから、他の場所だろう。

 爺さんが帰ってくると、家政婦はこう聞いた。

「この家って合鍵ある?」

「あるが、どうした」

「ないと不便でしょう」

「うっかりしておったな。渡しておくか」

 爺さんは玄関の下駄箱を開き、クッキーでも入っていたような小箱を奥から取り出し、合鍵を家政婦に渡した。

「遅かったが、これでお前さんも正式にここの一員だな」

 爺さんが再び一人で外に出るまで家政婦は数日待たされた。その日の午後、彼の姿が団地から消えると、家政婦は例の箱に入っている鍵を調べた。シールに番号が書いてある鍵が車庫のものだろう。

 思った通り、それは同じ番号の車庫の鍵穴にすんなり入った。家政婦は重いシャッターを上げた。奥の小さな窓から外の光が漏れ、古いほこりが舞い上がり、思わずくしゃみが出る。古い車と工具からは油の匂いがする。壁にはライフル銃まで。若かりし頃の爺さんの力が感じられる。

 銃の下には引き出し付きの作業台がある。台の上には爺さんの妻がまだ生きていた頃の家族写真が飾られている。公園で誰かに撮ってもらったのだろうか、妻は大きな木の前で白い歯が見えるほど大きく笑い、おめかしした兄妹は作り物のわざとらしい笑みを浮かべている。一番背が高い爺さんは仏頂面だが、どこか得意そうで、満ち足りた様子だ。

「うっそ、爺さんこんなにイケメンだったんだ」

 引き出しには期待していたものが入っていた。爺さんは出征前、あの恋人、今の名女優と写真館で記念写真を撮影していた。白黒写真の爺さんはもっと若く、体にあまり合っていない軍服を着ており、その目の色はあどけなさと盛んな血気を感じさせる。学生服姿の女優は「可憐な花」という古風な表現が最もふさわしい佇まいで、白い肌と黒く大きな目が美しさを引き立て合う。物悲しそうだが、それを必死に隠そうと口元がきゅっと引き締まり、清楚な外見とは裏腹の意志の強さがにじみ出ている。当時ならば、いや、今でもすれ違う人の誰もが振り返り、お似合いのカップルで羨ましいとため息をつくだろう。

「女優は面影があるけど、爺さんはすっかり変わっちゃって」

 家政婦はその写真を作業台に置き、スマホで撮影した。薄暗い車庫、ほこりが漂う空気が、古い写真の味わいを増した。

 爺さんが戻る前に家に帰ると、家政婦は早速その写真をSNSに投稿した。

「どうした、わしの顔をそんなジロジロ見て」と、爺さんは夕食中に聞いた。

「べ、べつに」

 爺さんは最近の生活に張り合いを感じていた。自分でもまだ若い人から頼られ、その人の立ち直りや出産の手助けをできるとは。爺さんは家政婦を迎え急に若返った。彼女の勉強や体を気遣い、代わりに家事をしてやることを大切な仕事、最後の社会貢献と思えた。

 彼は前より頻繁に外に出るようになった。買い物だけでなく、最後の住処を探す必要があったからだ。

 彼は結局、立ち退いて引っ越すことを決めた。自分からそうするのだと思えば嫌な気持ちはしなかった。彼は一人でバスを乗り継ぎ、郊外の不動産屋に入った。

「郊外はファミリー向けの住宅ばかりで、一人用のマンションなんてありませんよ」

「わし一人でそんな広い家に住んでどうする」

「必ずしも自分で住む必要はありません。誰かに貸してもいいですし、投資をしてもいいです。どのみちこのエリアの物件の価格はこれから上がる一方ですから、早めに購入すべきですよ」

 それは業者の大げさな売り文句ではなく、この町全体の機能再構築に伴う必然的な流れだった。

「分かった。資料を持ち帰って、前向きに検討するよ」

 爺さんは複数の不動産屋を訪ね、足で情報収集した。いくつかめぼしい物件を選び、業者の案内で見学し、候補を絞り込んだ。駐車場があり、学校に徒歩で通え、駅からも遠くない。

 長い距離を歩き、バスでやっと近所に戻ってくると、爺さんは急に疲れを覚えた。食材は昨日スーパーで十分に買ったので、ちょっとした買い物は雑貨屋で済ませることにした。

 重いドアを肩で押し開くと、カランコロンとベルが鳴る。この店に来るのも久しぶりだ。しばらく顔を出していなかったからか、店主が驚き、カウンターの向こうから爺さんに駆け寄った。

「なんだ大げさに。わしは生きとるぞ」

 店主は爺さんの際どいギャグを無視し、「これってまさかお客さんのことでは」と言い、スマホの画面を見せる。それは家政婦が内緒で作ったSNSのアカウントによる写真付きの投稿で、物凄い勢いで転載されている。

「このおじいちゃん、本当にあの女優の知り合いかも」

「数十年ぶりの運命の再会が実現するといいな」

「老いらくの恋か。羨ましいねぇ」と、店主が言った。

「勝手なことを言うな。なんだこれは!?」

 店主は情報弱者の爺さんにも分かるよう説明し、おそらくあの家政婦の仕業だろうと言った。

 彼は買い物も忘れて家に帰った。家政婦はリビングで、ニヤニヤしながらスマホを使っているところだった。

「わしに無断であの人との写真をインターネットで公開したらしいな。どういうつもりだ」

「それより爺さん大変よ。もう女優さんからダイレクトメッセージが来たの」

「な、なにぃ?」


 メッセージをくれたのは、女優の公式アカウントの管理人だった。家政婦は管理人を通して女優側とやり取りした。爺さんと女優が互いに本人であることを確認し、通話しやすいよう電話番号を交換した。

 翌日の午後、家政婦のスマホにその番号から電話がかかってきた。上品な大人の女性の声だった。家政婦は変に上ずった声で、「はい、はい、そうです」と相手の質問に返事するばかりで、自分からは何も言わなかった。

「それでは電話を代わっていただけますでしょうか」

「はい、少々お待ちください」

 リビングに立ち聞き耳を立てていた爺さんは必死に頭を振る。家政婦は「いいから」と言い、スマホをその手に押し付ける。爺さんは恐る恐るそれを耳に当て、息を吸う。

「……あなたなのね」

「本当にきみなのか」

 ためらいは瞬時にして溶けた。数十年の隔たりと溝が一気に埋まり、二人は青葉薫る風に包まれ青春時代に舞い戻った。彼らの声はあの頃のように若々しかった。家政婦はしたり顔で外に出た。

 彼女は時間を潰そうとカフェに入り、パサパサのケーキを注文した。婆さん店員も地獄耳で、爺さんと女優の関係をすでに知っていた。

「私も若い頃は美人だったのにねぇ。あの爺さんともっと早く知り合っとけばよかったわ」

 彼女はタバコをぷかぷか吹かしながら家政婦を相手に往時をしのぶ。あの頃は良かったと言うばかりでより良い明日への期待がない年老いた店員。それでも人生で一度でも輝いたことがあるのは尊いことだ。若い家政婦は、あの頃は良かったと振り返ることのできる経験が欲しいし、これからはもっと良くなるという希望も抱きたかった。

 カフェで三十分ほど粘ってから帰宅した。爺さんはちょうど長電話を終えたばかりで、まだスマホを手に持っていた。

「どうやって切るんだこれ」

「で、どうだった?」

 爺さんは年甲斐もなく顔を赤らめ、もじもじしている。

「トイレ行きたかったら早めにね」

 なんと爺さんは大人しく従い、バスルームに入る。チョロチョロと断続的に音が聞こえる。少量の水分を大量の水で流し、爺さんが出てきた。

「来週、首都に行くことになった」

「はぁ?」

「あの人と再会する約束をした」

「やったじゃん!」

「それで、お前さんに手伝ってほしいことがある」

 家政婦はすぐにスマホを使い、その日に宿泊するホテルと、首都に向かう列車の予約を入れた。ついてきてほしいということなので二人分を。

「それから、この格好ではさすがにまずいかのう」

「まずいに決まってるじゃん」

「あの人を幻滅させないようオシャレをしたいんだが」

「任せてちょうだい」

 二日後。二人は市中心部にある、メンズウィッグを取り扱う美容院を訪れた。即納セミオーダーというサービスを予約していたので、美容師による説明とセッティングを経て、当日中に購入することができた。年相応に白髪を程よく混ぜたかつらを付けただけでぐんと若返った。

「こうなると服装もビシッと決めたいわね」

 彼らはその足でデパートに入り、紳士服のフロアでシニア向けの正装を買い揃えた。スーツには加齢により崩れたスタイルを整える効果があった。底が厚い革靴の効果もあり、爺さんの足はすらっと長く見える。

「映画俳優みたいね」

「お世辞はやめてくれ」

 と言いながらも、爺さんはまんざらでもない様子で、少年のように照れ笑いをした。明日はより良く、と家政婦は念じた。

 約束の日。彼らは朝早くマンションから出発した。

 爺さんが遠出するのは久しぶりだった。彼らは駅で高速列車に乗り、町を出た。平日の車内はガラガラで、窓際の席から窓外の風景を眺めることができた。空は冬としては珍しくすっきり晴れ、銀色の連山が神々しく輝き、乗客の目を細める。列車がトンネルに入ると、真っ黒な車窓が乗客の顔を映した。ヒゲを剃り眉を整えた爺さんは、歳の近い女性からは魅力的に見えるのだろう。家政婦にもそう思えた。

 列車に二時間ほど揺られて、彼らは首都に到着した。何も用事がないので、電車を乗り継ぎ真っ直ぐ滞在先に向かった。彼らは女優の所属事務所に近い五つ星ホテルでチェックインを済ませた。爺さんはスイートルーム、家政婦はスタンダード。

 家政婦は自分の部屋に荷物を置き、爺さんの部屋のインターホンを鳴らした。

「す、すごい部屋ね」

「ちょっとやり過ぎたかのう」

 贅沢をしたことのない爺さんと貧しい家政婦は、広々とした部屋の中央に立ち尽くし、呆然とした。

 大きな窓の外に広がる高層ビル群。ちり一つ落ちていない、鏡のように磨かれた木の床。使い切れないほど多くのソファー、テーブル、椅子。極めつけは天蓋付きの巨大なベッド。枕元には二つのクッションがちょこんと並ぶ。

 二人は窓辺のソファーに座り、大都会の夜景を眺めながら、ルームサービスの飲み物で喉を潤した。

「あと一時間か」

「なんだかじれったいわね」

 中途半端な時間は得てして、後に振り返ると印象的な時間になるものだ。爺さんは改まって家政婦にこう言った。

「ここまで来れたのはお前さんのおかげだ。ありがとう」

「礼を言うのは早すぎじゃない?」

「いいや。行動できたなら、たとえ結果がついてこなくてもいい」

「それって爺さんの人生哲学でしょ」

「そうだ」

「そのくせ昔のカノジョと再会するとなるとためらっちゃって。かわいいとこあるじゃない」

「お前さんが背中を押してくれたことには本当に感謝する」

 からかっても爺さんが取り合わないので、家政婦も真面目になる。

「爺さんだって私なんかを受け入れ、助け、私の決断を支えてくれた。いくら感謝してもし足りないわ」

 二人が出会ってから今までのことをしんみりと振り返ると、時計の針はいつの間にか七時前を指していた。

「じゃあ行ってくる」

「頑張って」

 家政婦は自分の部屋に戻った。椅子やソファーに座ってもすぐ立ち上がり、ひどくそわそわする。彼女は窓辺に立ち、この都会の喧騒の何処かで二人の古い恋人が時を超え再会し、胸をときめかせているのだろうと想像すると、長く生きるのも悪くないと思えた。

 爺さんはいつ戻ってくるのだろう。待っていても仕方ない、今夜はもう自分に用事はないかもしれない。そう考えると家政婦はやっと椅子に腰を落ち着け、バッグから中学数学のドリルとペン、それからスマホを取り出した。彼女は爺さん用のアカウントを使い、SNSで「今夜ついに再会できました。皆さんのあたたかい声援とご協力に感謝いたします」と投稿した。数分待ち、十分に転載されたことを確認すると、彼女はアカウントを削除した。


 それから時が流れ、春になった。

 雪は日陰も含めすっかり溶けた。そよ風は湿った若葉の匂いを運び、団地内の隅々へと行き渡り、人々の心を潤した。

 住民は毎日、爺さんと家政婦が仲良く外出するのを目にした。二人は午後の決まった時間にアパートを出て、団地の外にある公園を歩き、ベンチに座った。爺さんは時おり家政婦のお腹をさすり、耳を当てた。後をつけてきたある女性は心配そうに様子を伺った。

「男の子と女の子、どっちがいい?」

「どっちでもいいわ」

 団地の住民の一部は突飛な憶測をした。しかし多くは爺さんと有名女優の関係を知っていたので、好意的に捉えようとした。

「あの家政婦の子が二人の仲立ちをしたそうよ」

「家政婦が爺さんをじゃなく、逆に面倒を見てやってるんだって」

「ボケてるなんて言ったのは誰かしら」

「息子さんが管理人にそう伝えたらしい」

「あんなにやさしい人なのに」

 爺さんは一人で外出することも多かった。スーパーには買い物があったし、薬局にはスーパーに置いてないものがあった。

 彼は薬局でサプリメントのコーナーに寄った。後輩が自宅の階段で転び足の骨を折ってしまったと聞き、自分のためにカルシウムの錠剤を購入しようとした。階段の上り下りも頻繁なので膝に効くサプリも。彼にはもう少しだけ健康で長生きする理由があった。

 店員が全員出払っているのか、薬剤師の男がレジを打った。元気がなく無愛想だった。

「さては女に振られたな」と、爺さんは思わず口にした。

「大騒ぎになって妻にも不倫がバレてしまって。示談金やら慰謝料やら、人生お先真っ暗ですよ」

「それでも先があるだけマシだ。せいぜい頑張るんだな」

 家政婦のつわりは酷かった。爺さんが家で料理をすると匂いで吐くほどに。仕方なく爺さんは外食し、家政婦が食べたがるものを買って帰った。

「あのカフェのCランチをテイクアウトして」

 少し前まではほとんど毎日入り浸っていたカフェ。壊れかけの椅子、ぼろぼろのソファー、今にも外れそうなシーリングファンがそのまま残っているのが奇跡的だ。爺さんは婆さん店員のタバコのせいで黄ばんだ壁を見ながら、「AランチとCランチ。Cは持ち帰りで」と言った。

「Aランチ? どういう風の吹き回しだい」

「食べたことがないのを試してもいいだろう」

 Aランチはサラダと魚とパスタだった。野菜はドレッシングでギトギト、魚のムニエルは水っぽくてベチャベチャ、パスタは芯が残り過ぎ粉っぽい。Cランチよりさらにひどい出来だ。

「しばらく来ないうちに腕が落ちたな」

「いつも通りよ。変わったのは爺さんのほうでしょ」

 曇ったガラスを挟み対面の雑貨屋を見る。扉は閉ざされ、四角い紙が貼ってある。

「マンションの取り壊しで古い住民がいなくなるから閉店だって。このカフェもいつまで持つか分かんないけどね」

 Cランチはなぜか妊娠中の家政婦の口に合い、ぺろりと平らげた。爺さんはそれを見届けると、帰ってきたばかりなのにまた外出しようとした。

「どこ行くの?」

「ちょっとな」

 爺さんはバスで郊外に移動し、建設中のマンションのモデルルームに足を運んだ。彼はすでにその物件を購入することをほぼ決めていた。駅チカで立地が良く、敷地内には駐車場、緑地、ゴミ捨て場などが整備され、子育て世帯には住みよい住環境だ。

「お子さんたちと同居するんですか?」と、愛想の良い職員が聞いた。

「まぁそんなところだ」

 彼は契約書にサインし、一定の手付金を支払った。年内に入居できるという。彼は大量の書類とパンフレットを持ち自宅に帰った。それを何気なくリビングのテーブルに置き、夕飯を作った。寝室から出てきた家政婦はそれに目を留め、椅子に座り、おしゃれな家具や花ばかりで生活感がない部屋の写真を眺めた。

「素敵なマンションね」と、彼女はキッチンで料理中の爺さんの背中に向かって言った。

「うむ。どう思う」

「どうって、爺さん買うつもり?」

「買うつもりだったが、もう買った」

「マジで!? こんな広い部屋だれと住むの?」

「さぁな、成り行き次第だ」

 爺さんは作ったものをテーブルに並べていった。家政婦は珍しく調子が良く、どの料理にも箸をつけることができた。

 彼女は真剣な顔になり、「そんなことまでしてもらって悪いよ」と言った。

「お前さんのためではない。残り少ない未来に、自分が死んだ後に希望を持ちたい。次の世代に何かを残したい。要するにわしの自己満足だ」

「爺さんに甘えっぱなしで独り立ちできなくなるかも」

「心配ない、わしが死んだら倅が相続するから。それまでの貴重な猶予の間に為すべきことを為すんだな」

 生まれようとする子。死にゆく者。家政婦は頑張ってもう一口食べる。爺さんのためにも、授かったチャンスを決して無駄にしてはならない。それを活かせるのは自分だけなのだから。

「男の子だったら爺さんから名前をもらってもいいかな」

「照れくさい、よしてくれ」


 秋。あなたは銀杏の木に囲まれた新しい病院に入り、大きなエレベーターで三階に上がる。一緒に降りた爺さんは一目散にある病室を目指す。爺さんの足取りは軽く、あなたは速歩きで後を追う。

 銀杏黄葉の木漏れ日がレースのカーテン越しに部屋に降り注ぐ。清潔な真っ白なベッドの上には化粧っ気のない家政婦が横たわる。彼女は爺さんが来ると、一仕事をやり終えた安堵の笑みを浮かべ、目で新生児用ベッドを指し示す。生まれたばかりの子は小さなモミジのような手足をばたつかせ、その小さな体のどこからと思えるほど大きな声で泣き始める。顔がみるみるうちに赤らみ、シワだらけになる。怒った時の爺さんの顔に似てなくもない。

 爺さんは「でかしたな」と言い、家政婦のか細い手を握る。彼女は力強く握り返し、「ここからだよ」と答える。

 カーテンが風に揺れる。白い室内の光と影もゆらぎ、家政婦、その子、爺さんの表情を豊かに浮かび上がらせる。ふと、あなたは家族の笑い声を聞く。それは遠くから伝わり、部屋の中で反響し、静かに消え入る。耳を澄ますとまた。空から降り注ぐ日差しのように、尽きることなく人の心と体を温めてくれる。

 あなたは病院の正面玄関から外に出る。三階の病室の開け放した窓からは、笑いと涙が入り混じった声が漏れ、渡り鳥が飛ぶ空に染み込んでいった。

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