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その夜、家政婦は爺さんの家で死んだように眠った。
翌日の昼頃、彼女は懐かしい匂いと音で目を覚ました。たっぷりの油で卵とベーコンを炒めながらパンを焼く。それだけで心が弾むから不思議だ。
家政婦はあたりを見回す。普段は使われていない爺さんの家のもう一つの寝室。ややかび臭い布団に包まれる外出着姿の自分。それで彼女は昨夜あったことを思い出したが、鮮明な印象はなく、彼氏の顔さえ浮かんでこない。あの同居生活を自分事として捉えられない。
彼女はサイズが合わないスリッパを履いてリビングに進む。キッチンには爺さんの後ろ姿がある。炒めたものをテキパキと皿に移し、テーブルに置く。ちょうどテーブルのトースターがチンと鳴り、香ばしく焼けた食パンが飛び出す。
「起きたか」
彼女はしばし立ち尽くし、「私って家政婦だったはずだよね」とつぶやく。
「そうだが」
「これじゃあどっちが家政婦だか分からないわね」
「いかにも」
少しだけこらえ、二人同時に笑い出す。
「いま介抱が必要なのはわしではなくお前さんじゃ。落ち着くまでゆっくり休むといい」
爺さんは食器を洗い終えるとバスルームの掃除を始めた。棚の奥にしまっておいた古い洗剤とスポンジを取り出しバスタブを磨く。いつもはシャワーだけで済ませるからバスタブはカビだらけだ。腰を痛める重労働だが、爺さんにそれを厭う素振りはない。やっとのことで掃除を終えた彼は、寝室で休憩中の家政婦に声を掛ける。
「買い出しに行くが、ほしいものはあるか? パジャマとか歯ブラシとか」
「ちょっと待って。五時になったら帰るから必要ないわ」
「それで仕事をしているつもりだったのか。相変わらず図々しいな」
「彼氏が待っている。私がいないと何もできない人なの」
「男はな、女から離れないと自分で生きる術を身に着けられないんだ」
爺さんは家政婦を説得し、外に出た。今は一人でゆっくり振り返る時間が肝要と思いつつ。
まず薬局へ。消毒液とガーゼを補給しなければ。
普通に生きていればそんな物を買うことはめったにないので、買いたい商品はやはりなかなか見つからず、カウンターの店員に聞いた。ところが女の店員は爺さんを無視し、奥から出てきた男の薬剤師にきつく当たる。
「クリスマスにデートできないですって!?」
「う、うん、さすがに家族サービスをしないと」
「私を一人ぼっちにさせてもいいんですか」
「ごめん、本当にごめん」
「あのぉ」
「言葉だけじゃ足りないわ。謝るなら誠意を示してくれないと」
「誠意ってどんな?」
「自分で考えてください」
「欲しい商品が見つからないんじゃが」
「欲しい商品? そうか、プレゼントのことか。と、ところで何が欲しいんです?」
「ダイヤのネックレス」
「ガーゼと消毒液」
「そんなもので良ければどうぞこちらへ」
「ちょっと逃げないでくださいよ!」
爺さんは紙袋を抱えスーパーの前に立ち、周囲に目を向ける。数分待つと娘がやってきた。
「休日なのにすまんな」
「いいのいいの。ちょうど話したいことがあったし」
娘はスーパーで女に必要な物一式を買い揃える。その間、爺さんは近所なのにほとんど来たことがない店の中を歩き回る。広く、客も多く、方向感覚を失いやすい。彼は結局何も買わずに外に出た。
爺さんと娘の親子はクリスマスらしい雰囲気が一切ない団地の西エリアを歩きつつ、昔のことを思い出す。
「お父さん、サンタクロースをやってくれたことがあるわね」
「そうだったな」
「お母さんが亡くなったその年だけ」
「お前たちが寂しかろうと思って」
「どうして次の年からやらなくなったの」
「生きるのに必死で、余裕がなかったんじゃな」
「お父さんが苦労したこと、今なら分かるわ。ねぇ、子供ってやっぱりいいものなの?」
「辛かった、苦しかったこともあるが、後に残るのはいい思い出ばかりだ。作ったことによる悔いはないが、作らなかったらどうだったろうな」
「私たちやっぱり作らないことにしたの」
「自分で決めたなら、後は悔いなく生きていけばいいさ」
二人は長い階段を上り帰宅した。家政婦は涙で目を腫らしてしたが、爺さんの娘を見ると破顔一笑し、彼女を抱きしめた。
「ほらほら、いいものを買ってきたから、見ながら話を聞きましょう」
時計の針が五時を回っても二人の女は寝室から出てこなかった。爺さんはこの分なら大丈夫だろうと安心し、一人で晩酌を始めた。その匂いが強烈だったのか、女たちがついにリビングに姿を現した。
「ちょっと飲むの早すぎない? これからはお父さんが飲み過ぎないよう注意してあげてね」と、娘が家政婦に言った。
「わしよりこの子のほうが心配じゃ。酒乱だからな」
「私、お酒はもうやめるわ」
「それがいい。酒など時間とカネの無駄遣いだ」
娘も家政婦も椅子に座った。娘は「急なんだけど……」と話を切り出した。
「年明けに婚姻届を出して披露宴を開くから、二人にぜひ来てほしいの」
「本当に急だな。わしらのほかには?」
「パートナーは親戚を誰も呼ばないって。私との関係を理解してくれる人がいないから」
「倅夫婦は呼ばん……よな」
「もちろんよ」
「私たちは必ず行きます、ねっ」と、家政婦が爺さんに言った。
爺さんと家政婦の新しい生活が始まった。
家政婦にとって、軽い家事をするだけのスローな暮らしは丁度いいリハビリになった。彼女は中学卒業と同時に家を出た後の出来事を振り返った。一時的に必要とされ、また捨てられるを繰り返し、あてもなくこの町をさまよう日々。荒れて、両親のように酒に溺れ、男に弄ばれ、嬲られ。思い出す価値もない出来事ばかりで、彼女はそれらをまとめて記憶のゴミ箱に捨てた。ゴミ箱の中身が消えるまで時間はかかるだろうが、少なくとも臭いものに蓋をすることができた。
気持ちの整理がつき、心の余裕が生まれると、家政婦は自分と爺さんの健康のために毎晩料理をすることにした。スマホでレシピを調べ、書いてある材料を買い揃え、そのとおりに調理する。それなのに美味しくできるとは限らない。
「……まずっ」
文句を言いながら、爺さんは毎回アドバイスをした。家政婦は最初、味や食感に関する指摘が腑に落ちなかったが、言われてみれば確かに言う通りであり、感覚が狂っているのが自分の方だと気づいた。
それに爺さんは毎晩、話をしてくれた。武勇伝ではなく失敗談ばかりだった。若いうちは誰もがしくじるものであり、人間性が問われるのは転んでからどうするかだという。
「お前さんはもう一番下まで転がり落ちたから、これからは向上の余地しか残されていない。生き直すにはいい時期だと思うがな」
家政婦は爺さんの言葉を咀嚼しながら床についた。自分の中の何かに火がつきそうな、むずむずとした感覚があった。
ある平日の夕方。珍しく家のインターホンが鳴った。爺さんは壁掛け時計を見てから、自分でドアを開いた。
「父さん」
「そろそろ来るころだと思った」
爺さんの倅は仕事帰りの様子で、高そうなコートとスーツを着こなし、革靴の小気味いい音を響かせる。明らかにこの家には場違いな人間だが、場違いなのはお前だと言わんばかりに、リビングの椅子に座ってくつろぐ家政婦に目を向ける。
「父さんが家政婦と同居しているって噂を聞いて、まさかと思って来てみたけど、本当だったんだな」
「お邪魔してまーす」
「同居とはまた穏やかじゃないな。まったく近所の連中ときたら」
「若い女を家に招き毎日一緒に寝泊まりしてれば悪い噂が立つのは当然さ。どういうつもりなんだ?」
「あの、私すぐに帰るから……」
「ところで昼飯はまだかのう」
「さっき食べたでしょ」
「そうか。じゃあ晩酌を始めるか」
爺さんはそう言うと立ち上がり、キッチンで酒を探し始めた。
「おかしい、どこに置いたか」
家政婦は見るに見かねて、「ここにあるじゃない」と言い、冷凍庫からジンを取り出す。
「凍らせとったのか。まるで子供のいたずらじゃな」
爺さんはいつもと逆の手順でジンコークを作る。すなわち少量のコーラを大量のジンで割り、最後に氷を申し訳程度に一個だけ入れる。
「ちょっとそんなの飲んだら死んじゃうよ! 頭おかしいんじゃない?」
「そうなんじゃ。最近物忘れがひどくてな。だからお前さんに住み込みで働くよう頼んだのに、倅に連絡するのをすっかり忘れておったよ」
それで家政婦は爺さんの意図を知った。粋な計らいに胸がじんとした。
「あのさ、本当にやめてよ、信じらんない。これじゃあ私がバカみたいじゃん……」
一連のやり取りを見ていた倅は、ついに来るべき時が来たかと観念し、頭をフルスピードで回転させ、家政婦にこう言った。
「代わりの人を探すまで時間がかかるから、ひとまず今のまま父さんの面倒を見てくれるかな。団地の管理人には私から説明しておく」
「え、ええ。でも……」
倅は「もちろん給料は上げるよ」と言い、当面の生活費を家政婦に手渡した。
「いやじゃあいやじゃあ。わしはこの子が好きだ、代わりの人間などいらん!」
「分かった、分かったから」
倅はしがみつく爺さんを振り払うようにして家を出ていった。エレベーターの音が消えると、爺さんと家政婦は腹を抱えて笑った。
「迫真の演技だったな」
「爺さん本当にボケたかと心配しちゃった」
「給料まで上げるなんてどこまでお人好しなんじゃ」
「このお金を使ってクリスマスパーティーを開きましょう」
「お前さんどうして泣いておる」
「爺さんだって」
家政婦にクリスマスに関する幸せな思い出はない。どう過ごすべきかを知らない。でも誰よりも盛大に祝いたい。そう対抗心を燃やしたのは、爺さんと買い出しのためスーパーに向かう途中、老人ホームを目にした時のことだ。
外から雇ったのか職員が扮しているのか知らないが、大きな袋を担ぎ赤い服を着た白ひげの男がその明るい雰囲気の真新しい建物に入り、「メリークリスマス」と声を張り上げる。入居者たちが各々の部屋から出迎え、綺麗にラッピングされたプレゼントを受け取る。誰もが幸せそうな笑みを浮かべる。
二人はクリスマスの合唱を背中に浴びながら歩き続けた。
「爺さん負けてられないよ」
「もちろんだ」
二人はスーパーでケーキ、ローストターキー、ジュースなどを購入した。
爺さんは両手にビニール袋を持ち、家政婦はケーキの箱と七面鳥の容器を抱え、クリスマスの装飾が施された雪降る街を歩く。このちょっとした手間暇のおかげで、生誕祭を祝う街の風景に溶け込み、参加者としてその雰囲気に浸ることができる。
「七面鳥すごくいい匂い」
「そうじゃな」
団地の門の守衛は彼らが通り過ぎる時に、「素晴らしいご馳走だね」と声をかけた。歩道ですれ違う西エリアの住民の多くも、彼らのように出来合いのもので済ませるようで、シャンパンやワインを抱えるか、オードブルの容器のせいで破れそうになっている袋を手に提げている。彼らは爺さんや家政婦と目が合うと、気まずさをごまかすように笑い、「メリークリスマス」と唱える。二人も同じ言葉を返す。
みんな幸せであることに越したことはない。
早くも日が沈み、町の空に星々が浮かんだ。爺さんと家政婦はマンションの真っ暗な階段を上りつつ、踊り場から夜空を見上げる。遠い昔にもこうして大切な人と同じ空を眺めたことがあるかのよう。家政婦にもそんな気がするのだから不思議だ。
「前世は幸せな家庭で生まれ育ったのかもしれんな」
「かもね」
部屋に入ると、二人は手際よく夕飯の準備をする。買ったばかりでまだ温かい七面鳥やサラダ、それから爺さん用のワインと家政婦用のジュースがリビングのテーブルに並んだ。
「今日ぐらいは酒を飲んでもいいんだぞ」
「いいの。楽しい時も辛い時もお酒は不要よ」
老人と若い娘の宴が始まった。爺さんはワインで食欲に火がついたのか、大胆に七面鳥にかぶりつく。
「意外と食べるのね」
「食える時に食っておくという悪い癖があってな」
彼は家政婦に話していなかったことを話した。戦争であの人と離れ離れになり、人殺しを強いられ軍曹にまでなり、戦場から命からがら帰って来るとあの人が映画デビューし、そのまま手が届かない人気女優になったこと。
「爺さんが生きてることは知ってるの?」
「どうだろうか。何があったにせよ、あの人が新しい人生を歩み出したのだから、わしは邪魔すべきではなかったんだ」
それから彼は、その後の人生をあっさりと語った。
「ふうん、苦労したんだね。今の若者は恵まれてるって感じるわ」
「苦労ならお前さんもな。悪運を使い果たしたと思って、これからの人生に期待することだ」
「爺さんだってこれからだよ。手紙もまだ出してないんだから」
「あれか、あれはやめにした」
「えっ、どうして?」
「この歳になるともう若い頃の記憶などあてにならんのだよ。あの人がわしを愛していたなんて、わしの思い違いや美化かもしれん。美しい思い出のまま取っておいたほうがいい」
「でも……」
爺さんは家政婦の話を聞かず立ち上がり、キッチンからケーキを持ってきた。サンタクロースの砂糖菓子が乗ったシンプルなイチゴのケーキ。
「さて、こんな時はどうするんだったかな」
家政婦は部屋の電気を消し、ケーキに立てたろうそくにライターで点火した。エアコンの風で揺らめく火を見ていると胸が温まり、安らかな心地になる。それも遠い遠い前世から伝わる記憶なのかもしれない。
左右から二人同時に息を吐く。ろうそくから煙が立ち昇り独特な匂いを放つ。二人は暗闇に包まれた部屋で目をつぶり、まぶたの裏の残像が消えるまで瞑想にふける。
家政婦は電気をつけ、ナイフを手にした。
「爺さんはイチゴがいっぱいあるところね」
酸っぱさと甘みが引き立て合い、いつ食べても決して飽きることのない味。どちらか一つが欠けてはならない。
「そろそろ後片付けをしないと」
「わしも手伝おう」
「家政婦は私よ」
「たらふく食べた後は少しでも動かんと」
二人はキッチンに並んで立ち、皿を洗った。飲み慣れないワインで酔った爺さんは上機嫌で話をした。その内容は爺さんどころか家政婦さえ覚えていない。ただ年齢や立場の差を忘れ、共に同じ作業をしながらじっくり話ができたことが重要なのだ。
翌朝は家政婦が先に目を覚ました。爺さんはまだ自分の寝室で気持ちよさそうにいびきをかいている。家政婦はティーバッグのお茶を飲み、体内に残った昨夜の油を流しながら、朝の冴えた頭で考え事をする。
彼女は爺さんの代わりに女優に連絡することを決めた。彼女は、彼はもっと報わるべきという義憤を抱いた。苦労ばかりの人生の最後に大きなサプライズがあってもいいではないか。それに内緒にしておけば、不首尾に終わったとしても、彼の思い出を台無しにすることはないだろう。
ではどうするか。もちろん現代っ子の家政婦が手紙を書くはずがない。彼女はSNSで女優にダイレクトメッセージを送り、接触を試みてはと思った。
「おはよう。早いな」
「爺さんが遅いだけよ」
朝食後、家政婦は爺さんに「笑って」と言い、スマホで写真を撮った。
「何に使うんだ」
「いいからいいから」
家政婦は早速その写真をアイコン画像にし、短文投稿型のSNSで爺さんのアカウントを作った。自己紹介文には、「このおじいちゃんがある女優さんと会いたがっています」と記した。
フォロワーも投稿数もゼロのままDMを送っても不審がられるだけなので、彼女はとりあえず何かを投稿しようと考えた。そこで彼女は毎日少しずつ、爺さんから聞いた女優との思い出話を書くことにした。
「種をまいて、育つのをゆっくり待つしかないわね」
年越しの夜。団地の東エリアからカウントダウンの声が聞こえ、続けて花火が上がり、敷地内の建物と木々を幻想的な色で染める。帽子、マフラー、分厚いコート、長靴でフル武装した子供たちが外に出て、雪合戦をし、夜ふかしの楽しみを満喫する。大人たちはそんな次の世代の姿を見て、また新しい一年を平和に迎えられ良かったと感じ入る。やがて寒い外より部屋の暖房が恋しくなって家に戻り、目覚まし時計に邪魔されることなく、温かな夢と希望に包まれながら今日の昼頃まで寝過ごすのだろう。
西エリアは至って静かで、外に出る人はいない。ただし普段より電気がついている部屋が多いようだ。ある部屋の窓には向き合い座る二人の影が浮かび、夜明け前になり電気を消すまでそこを離れなかった。
新年初日、マンション入口のドアの張り紙が新しくなった。ついに建て替えが本決まりし、詳細な日時については追って連絡する、立ち退きや再入居に関する問い合わせは管理人まで、と書かれている。
急な情報は住民たちに衝撃を与えた。今までほとんど交流がなかった住民どうしが踊り場で話し合ったり、住民の家族が頻繁にマンションを出入りするようになった。
張り紙を見た家政婦は、「どうするの?」と爺さんに聞いた。
「まだ分からん」
年中休暇の爺さんに特別な予定はなかった。いつものように寝起きし、自分で決めた習慣を繰り返すだけで時が過ぎていく。
「お昼ごはんの食材がなくなっちゃった」
「じゃあ久しぶりにカフェにでも行くか」
ご無沙汰していた爺さんは、街のほとんどの店と同様、カフェも年末年始に休業になることを忘れていた。
「スーパーも明日まで休みだって。こんなことなら買い込んでおくんだったわ」
「わしもうっかりしておった」
世の長期連休の最終日、爺さんの娘の披露宴が開かれた。場所は市街地のレストランで、新郎新婦? は大人数で座れる一卓を予約していた。
乾杯の音頭を頼まれた爺さんは、二人の幸せな結婚生活と健康を祈った。
少人数だが、友として純粋な気持ちで祝おうとする人が集まり、宴席は大盛りあがりを見せた。彼らは爺さんと家政婦に優しく、別け隔てなく接した。家政婦は爺さんが、性別が定かではなく歳も大きく離れた人たちと普通に会話できるのが意外だった。
「わしは戦場で何でも見てきたからな」と、爺さんは冗談めかして言った。
友人たちが引き上げた後も、爺さんと家政婦はレストランに残り、新婚の二人と話を続けた。
「これから娘のことをよろしく頼みます」と、爺さんは父親らしいことを言った。
「お義父さんならいつでも歓迎しますから遊びに来てくださいね」
満腹になった爺さんと家政婦は真っ直ぐ帰らず、駅の周辺をぶらついた。明日から仕事が始まるからか、歩行者が少なく、年末年始を祝う装飾も取り払われ、寂しさが目立つ。
彼らは駅前の緑地に入り、ベンチに座った。庁舎の五時のチャイムが鳴り、冷たく乾いた空気を振動させる。
「いつまでわしのところで働くつもりだ」
「なに、私を追い出したいの?」
「時間がある今のうちに、将来のために勉強をしたらどうだ。わしが急死したり倅が給料を出さなくなったら一巻の終わりだぞ」
「おめでたい日に縁起でもないことを」
「わしは本気で言っておる。お前さんの未来のためにな」
爺さんは暗くなってきた空を仰ぎ見、白い息を吐いた。鳥が群れをなして飛んでいった。
「だって私、自分に何ができるかも分からないんだよ」
「とりあえず高卒認定試験を受けてみたらどうだ。最低限の学力を証明できるし、その気になれば大学にだって進学できる」
「勉強か。嫌だなぁ、やりたくないよ」
「何もしない苦しみと勉強の苦しみのどっちがいい」
家政婦は答えず、下を向く。学校にいい思い出がないのかもしれない。
「お前さんには自分で何かを身につける楽しさを知ってほしい」
それから二人は言葉数少なめに電車に乗り、爺さんのマンションに帰宅した。披露宴でたらふく食べたので夕飯は抜きにした。爺さんは、シャワーを終え寝室に向かう家政婦の背中にこう言った。
「人生をやり直すいい時期だと思うがな」
家政婦はベッドに寝転がりながらスマホを使い、SNSをチェックする。今のところ爺さんのアカウントは反響が乏しく、アクセス数が少なく、フォロワーもほとんど増えていない。家政婦は根気強く爺さんと女優にまつわるエピソードを投稿した後、このままではまずいと思った。話だけではなく物的証拠を挙げないと。
翌週のある日。家政婦は体調不良を偽り、爺さんに一人でランチに行かせた。彼が不在の間、彼女は部屋の中を調べ回った。リビングの棚の引き出しには、過去の納税証明書などの捨てるに捨てられない書類が詰め込めるだけ詰め込まれている。テレビボードには家政婦が実物を初めて見るビデオテープというものが入っているが、時代を考えればさすがに女優と一緒に撮った映像などはなさそうだ。
次に爺さんの寝室へ。衣装ダンスを開くとカビの匂いが溢れ出した。くしゃみをしながら古い衣服をかき分けるが何も見つからない。女優との記念品などはないのだろうか。
「ピポーン、ピポピポピポーン」
玄関のドアの外には爺さんではない年寄りが立っていた。
「先輩いますか?」
「先輩って?」
家政婦はすぐにそれが爺さんの後輩、かつての戦友であることを知った。
「へぇ、じゃあ本当に先輩があなたを救い出したんですね」
「今ちょうどお昼ごはんを食べに行ってるんで、中で待っててください」
家政婦は後輩をリビングの椅子に座らせ、雑談する。後輩の暮らしに関する愚痴を聞き終えると、彼女は爺さんが女優について話したことはないかとたずねる。
「えっ、先輩があの女優と? そんなバカな! でもそうだな……」
後輩によると、爺さんは性に潔癖で、仲間内で猥談になると顔をしかめ、席を外すことが多かったという。
「国に恋人を残してきたんだろうっては思ってたけどね。みんなそのことでは先輩を煙たがっていたな」
家政婦は、爺さんの思い出の品に心当たりはないかと聞いた。
「そういえばあの古い車はどうしたのかな。あぁそうか、車庫にあるのか」
爺さんが車庫を持っているとは初耳だ。その中には車以外にも何かあるに違いない。しかし車庫の鍵はどこにあるのだろうか。
玄関のドアを開く音がし、爺さんが帰ってきた。年寄りどうしで積もる話もあるだろうから、家政婦は寝室に退却する。謎の車庫。そこには何が隠されているのだろうか。家政婦はタイムカプセルでも発掘するような気分になってきた。
「しかしもう一月中旬かぁ、早いわね。っていうか、あれ? いつもより遅くない?」
家政婦は恐る恐る薬局を訪れる。
初めて来る店で、商品案内パネルもなく、買うべき商品がなかなか見つからない。彼女はカウンターの男の薬剤師が引っ込み、代わりに出てきた女の店員に声を掛ける。
「あの、ちょっと聞きたいことがあるんですが……」
「はい。なんでしょうか」
折悪しく奥から薬剤師が出てきた。家政婦が口ごもると、男と女が勝手に話を始めた。
「クリスマスばかりか新年まで私をほったらかしにして、悪いと思わないんですか?」
「ごめんね。今年は妻の実家に遊びに行って留守だったから」
「そんなこと言って他にいい人でもできたんでしょう」
「違うって」
「あのぉ」
「私に手をつけておいて、あっさり捨てられると思ったら大間違いですからね」
「そんなつもりないから」
「妊娠検査薬を探してるんですが」
「検査薬って、まさかきみ……」
「できてたらまずいんですか? ゴムをつけなかったのはどちらさんでしたっけ」
「それはきみが安全日だって言うからだよ」
「薬剤師なのに性に関する基本的な知識もないんですね。とにかく、お腹の子には責任を取ってもらいますから」
「そんなぁ」
「あっそうだ、中絶薬も買っておいたほうがいいかなぁ」
「中絶薬……それだ!」
「薬なんか飲ませるつもり?」
「今からでも遅くないかしら」
「九週目までなら大丈夫だ。えっと最後にアレしたのは自然公園に行った時だから……ぜんぜん余裕だね!」
「サイテー。示談金をたっぷりむしり取るから覚悟しなさい」
「がんばって。私も応援してるから」
家政婦は店員とがっちり握手し、店を出た。
帰宅後、彼女はバスルームに入り自分で検査した。結果は陽性だった。
彼女が最後に元カレと事に及んだのは十二月上旬だったはずだ。彼に弄ばれ、避妊措置を取らせることもできなかった。彼女は今、精神的に支配されていた彼の子種を宿している。
コンコン。バスルームのドアをノックする音。
「まだか」
「ごめんごめん。いま出るね」
爺さんは洗面台に置かれている検査薬の箱に気づいたが、何も言わなかった。
この日の夕飯も家政婦が作った。
「いい味加減になったな。上達した」
「あのさ、話があるんだけど」
爺さんはリモコンでテレビを消した。家政婦は無言でうつむき、意を決して顔を上げる。
「赤ちゃん、できたみたいなの」
「そうか。お前さんはどうしたいんだ」
「父親がいなくて、母親もこんな人間なら、生まれてもかわいそうよ。今ならまだ間に合うし、堕ろそうと思うんだけど」
「そうか」
爺さんは肯定も否定もせずスープを一口啜る。本当に良くなった、と彼は思う。
「自信がないの。一人で生きていくだけで精一杯なのに子供まで抱えたらどうなるかって」
「確かにな」
「それに私は悪い親の影響を受けているから、自分の子供も同じ目にあわせるかもしれない」
「そうかもな」
「ねぇ、爺さんは子供を作って良かったと思う?」
「わしには心の支えが必要だったんだ」
終戦後、爺さんは帰国した。戦争に勝ったとはいえ、得たものより失ったものの方が多く、命をかけて戦った元兵士たちは誰からも感謝されなかった。国も民も急に平和主義に転じ、若者を戦場に送り出したことなど都合よく忘れようとした。人を殺して心が荒んだ元兵士たちは世間から疎んじられ、社会に馴染めなかった。
「国や組織のために尽くすという価値観を失ったわしは初めて、自分で選び、つかみ取る必要性を感じた。自分の手の届く、責任を負える範囲内で、裏切りのない人の輪を作る。わしが生き直すため家族が欲しかった」
「そうだったのね」
「それからわしは言い訳できなくなった。弱音を吐くことも許されなくなった。その代わりやることははっきりしていた。家族を幸せにするため無我夢中で働いた。その結果が、嫁の尻に敷かれ体面ばかり気にする倅とその孫、それから子を産むことのない娘だ」
「爺さんは頑張ったよ」
「悔いはまったくないわけではない。だが、何もやらず不貞腐れているよりはマシだったんじゃないかな」
家政婦は寝室の電気を消し、ベッドに入った後、爺さんの言葉を反芻した。こんな形で爺さんと出会い、その家に転がり込んだことは運命ではないかと感じた。彼女は片手でお腹をさする。この子は生き直すきっかけ。私が人として成り立つための支え。自分のために生き、この子を生かす。そのためなら何だってできるはずだ。まだ若いんだし、可能性を殺すべきではない。
彼女はベッドを飛び出し、リビングでまだ晩酌中の爺さんにこう言った。
「私、産むよ」




