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あなたは今日も住宅団地の中を漂う。
クリスマスが近づき、東エリアの住民は早くも庭の飾りつけを始めた。ある家では祖父母と孫が庭の木に手作りのオーナメントを飾り、和気あいあいとしている。ある家では家族が見守るなか、父が屋根に上がり電飾を施す。例外なく、どの家の庭にも大人と子供が作った大小の雪だるまが置かれている。窓には白いステッカーが貼られ、賑やかだが幻想的な雰囲気を醸し出す。
西エリアは自治会が雪かきをしたばかりらしく、路傍に土と犬の尿が混ざった汚い雪がうず高く積まれている。公園には樹齢の古いモミの木があるが、それを顧みる住民は皆無だ。どの建物も廃墟のように人気がない。ここだけ時間が止まっているのではとあなたが訝しむと、後ろからサクサクと雪を踏みしめる音が聞こえる。彼女だ。
彼女はあなたを追い抜き、爺さんのマンションの前で右往左往し、中に入るのをためらう。その時、彼女のスマホが鳴る。彼女はどこかホッとした様子で電話に出ながら、近くのベンチの雪を片手で払い、座る。彼女は朝からやけにハイテンションで、声が大きい。
「……やっぱりもうだいぶヤバそうですよ……あの有名女優と知り合いだったなんて言うんですけど……えっ、そんな話一度も聞いたことがない? じゃあやっぱりボケ、じゃなかった、思い込みだったんですね……はい、はいはいそうですね……分かりました、なるべく怒らせないように……はい、ではまた」
仕方ないわね。まだ腹が立つけど、今日も一日がんばりましょうか。
いつも通り爺さんの部屋のインターホンを鳴らす。玄関のドアを開けたのはアラフォーの、ばっちりメイクした女。
「へ、部屋を間違えました!」
奥の方から、「おう、上がりな」と爺さんの声がした。
「あなたが家政婦さんね。よろしく」
女は爺さんの娘だった。事情があり急に泊まりに来たらしい。
爺さんは娘に出すついでに私にもコーヒーを淹れてくれた。爺さんの娘は馴れ馴れしく私に話しかける。年齢が倍ぐらい離れてるのに私たちは意気投合した。
「男に頼らずバリバリ働いてガッツリ休んで、女友達とゴールインするなんてカッコいいですね」
「あなたも惚れた男のために我慢して嫌な爺さんの世話をするなんて、なかなかできることじゃないわ」
「そ、そこまで言わんでも……」
「何かあったらケータイに連絡ちょうだい。なんでも力になるから」
「こんど家まで遊びに行きますね」
「あぁそうそう、カギが見つかったんだった!」
なくしたという自宅のカギは、旅行初日にしか着なかったトップスのポケットに入っていたらしい。
「元カレと本格的によりを戻されては困るから電話しないと」
爺さんの娘は片手にスマホを、もう片手に二人の女のヌードステッカーが貼られているキャリーケースを持ち、玄関から外に出た。ドアがバタンと閉じた後、部屋の中には奇妙な沈黙が立ち込めた。
「さてと、とりあえずテーブルを片付けてもらおうか」
私は素直に従い、テキパキ働いた。もう昨日みたいにキレるのはよそう。認知症がこれからますます進行する年寄りなんだから、やさしくしてあげないとね。
爺さんは老眼鏡を掛け、カフェから失敬してきた数日前の新聞を読んでいる。私はその間に掃除と洗濯を終えた。
「ねぇ、お・じ・い・ちゃ・ん」
「なんじゃあ気持ち悪い」
「娘さんが来てて疲れたんじゃない? 肩でも叩こうか」
「親切にしても倅は給料を上げんぞ」
「そんなつもりで言ったわけじゃないのに」
「どうだかな」
私は爺さんを怒らせたくないので黙って肩を叩く。爺さんはうんうん唸り、しきりに首を傾げ、ついにポンと手を打ちこう言った。
「そうか、先週預けた金をまだ返してもらってなかったな」
「なんのこと?」
「食材を買いにスーパーに行っただろう」
「うそっ、私その日のうちに返したでしょう」
「そうだったかのう」
爺さんは立ち上がり、寝室にしまっておいた財布を持ってきて、中身を検める。大量の小銭が音を立てた。
「わしの勘違いだったようじゃな。すまなかった」
珍しく爺さんが素直に謝ってくれたからこの件はもういいんだけど、私がやさしくした動機を疑われたのだけは許せない。
そのまま爺さんはリビングで新聞を読み、私はキッチンでスマホをいじる。時計の針が十二時を回っても、爺さんは外に食べに行こうとも、料理をしろとも言わない。
静かに時は流れる。爺さんは水を注ぐためキッチンに入ってきた。
「わしは腹が空かんから、適当に食べてくれ」
私もまったく食欲がなく、爺さんの目の前で一人分だけ作る気にも、わざわざ外に出て食べる気にもなれなかった。私は傷ついた獣のようにじっと動かず、痛みに耐えた。小さな窓の外で降る雪を観察しているうちに五時になった。私は爺さんに声をかけず、無言で仕事を終えた。
外に出た瞬間に涙が溢れた。それは階段を一段下りるたびにこぼれ落ち、床を点々と湿らせた。惨めだ、何をやっても惨め。キラキラしたオフィスで働きたいのに書類選考で落とされ、接客業をやれば客か上司にセクハラされ、家政婦をやれば爺さんに人格を疑われ。どうして社会は私を受け入れてくれないんだろう。私は何も悪くないのに。
バス停に立っている時、スマホに懐かしい友達から連絡が入った。久しぶりに集まって飲まないかと。あまり気が進まないけど、こういう時は損得勘定抜きで仲良くなった幼馴染と馬鹿騒ぎするのもアリね。会場も遠くないし。私は「OK」と返事した。
「やっほー」
「久しぶり!」
市中心部の裏通りのナイトクラブ。私と二人の友達は狭いソファー席に座り、再会を祝う。クラブの面積の半分近くを占める中央のホールでは、赤青紫の光に照らされる若い男女が大音量の音楽に合わせ飛び跳ねる。深海で逃げ惑う魚群のように。
私たちは照明と同じ色のカクテルを飲む。
「最近どうしてた?」
社会の底辺で生まれ育った私たちの近況は似通っていた。職を転々とし、その日暮らしでなんとか生きている。野望はなく、偶然の幸運への期待か、社会への不満ぐらいしかない。
「最近どんな仕事してんの?」
「家政婦を始めたんだけどさ、相手の爺さんがほんっと嫌なやつで……」
「マジそれ!? ありえなーい!」
酒を飲み毒をぜんぶ吐いてしまうとすっきりし、気分が上向き、何でもできそうな感じがしてくる。
「お姉さんたち、三人で何してるの?」
同じく三人組の男が私たちの席に近寄り、話しかけてきた。なかなかのイケメンが揃っているわね。彼氏がいる私よりも、募集中の二人の友達が先に食いついた。
「ヒマヒマ」
「一緒に踊りましょう」
私も仕方なく付き合い、余った一人と手をつなぎ、ホールの一角に立つ。私はその男の手を握ったまま上半身を前後に大きく揺らし、その勢いで頭をもっと大きく揺らす。すると照明がぐるぐる回り、酒が頭に回り、全身の感覚が鈍くなる。ダンスが下手なことや人の視線などまったく気にならなくなる。パートナーの男もだんだんリラックスし、一緒に体を揺らす。私は金切り声で絶叫する。
「クソボケジジイ!」
私たちは席に戻り、ガラガラになった喉に追加されたお酒を流し込む。メンバーチェンジし、また踊りに行く。喉が乾き、お酒を飲みに戻る。今度の相手はまだ紹介されていない男で、それで、それで……
気がついたら私は彼氏のマンションの外に倒れていた。ひどく頭が痛む。空は真っ暗で、古い街灯がついたり消えたりしている。ショルダーストラップが切れているバッグからスマホを取り出すと、時間は午前四時半ぐらい。財布の中身はほぼ空っぽだけど、それは前からかもしれない。
こんな時間に彼氏の家に帰れるわけがない。私はベンチに座り、酔いが覚めるのを待ちながら、何が起きたか思い出そうとする。友達は無事かしら。それにしても冷えるわね。まったく私ったら何やってるんだろう。
近所の野良猫が断るようにニャンと鳴き、私の膝の上に座った。私はその背中に手を置き、温もりを交わす。まぁいいか。変な喪失感はあるけど、それと共にストレスもどこかに吹っ飛んじゃった。心と体がすっと軽くなったみたい。今日こそ爺さんとの関係を修復しないと。
私はバスに乗り、団地前で降り、爺さんのアパートに入った。階段を半分ほど上がると残っていた酔いが一気に回り、頭がふらつく。全身が温まり、体の節々が痛み出す。私は這うようにしてなんとか五階に上がり、爺さんの部屋のインターホンを鳴らす。
「いったいどうしたんじゃ」
「ちょっと二日酔いで……」
「とにかく中に入りなさい」
爺さんは私をリビングの椅子に座らせ、冷蔵庫の上に置いてある救急箱を取り、消毒液で湿らしたガーゼを私の顔に貼る。
「いてて!」
「我慢するんじゃ」
爺さんはテキパキと私に応急処置を施す。それで私は体のあちこちに生傷があることに気づいた。
「また彼氏にやられたな。何があった」
「そんなんじゃないって。昨日ちょっと友達と飲みすぎて、たぶんどこかで転んだのよ」
「転んだだけでこうはならん。目の周りが真っ黒だ。彼氏に殴られたに違いない」
「どうして彼氏がやったって決めつけるのよ?」
「この歳になるまで生きてきて、それぐらい分からんでどうする」
爺さんは救急箱を元の場所に戻す。私はその間、肩をぶるぶる震わせ、必死に怒りを抑える。このジジイ、私の素敵な彼氏を侮辱するなんて。私たちの関係を、愛情をバカにするなんて。私のたった一つの生きる意義を否定するなんて。
アアアアア!
あなたは彼女の絶叫に驚かされる。それはマンションの狭い階段と通路でこだまし、踊り場の窓から外に漏れる。直後に、重い物でも落としたかのような音と共に、彼女がマンションから転がり出る。彼女は地面にうつ伏せのまま泣きじゃくる。服はところどころ破れ、まくった腕には包帯が巻かれている。泣き止み、痙攣が止まった彼女はゆっくり立ち上がり、手でほこりを払う。顔はアザだらけ、しかもひどく青ざめている。
誰かが階段をゆっくり下りる音を聞くと、彼女は大きく舌打ちをし、速歩きで団地の出口を目指す。数人の通行人が唖然として彼女を見守る。彼らが気を取り直したころ、ようやく爺さんがマンションから出てきた。通行人の一人の中年女は爺さんに突っかかる。爺さんは「バカもん!」と怒鳴りつけてから身を転じ、彼女を追おうとする。それまで見て見ぬふりをしていた男二人は両脇から爺さんの肩と腕を取り、引き止める。
「彼女を行かせてはならん。誰かなんとかしてくれ!」
爺さんはあなたに目を向ける。この場合の誰かとはあなたのようだ。あなたは頷き、彼女の後を追う。
まったくどうかしとる。こんな老いぼれに何ができると思っておるんじゃ。
わしは団地を出て、バスを待つ人の中に家政婦の姿を探すが、見当たらない。あの様子で無事に帰れるか心配じゃ。警察に補導されてもおかしくない。
わしはまずカフェに寄る。モーニングが終わった後で、いつもの店員はヒマそうにタバコを吹かしている。
「うちの家政婦を見なかったか」
「朝から若い女の尻を追いかけてんの? 熱心ね」
「冗談を言ってる場合じゃない」
「ごめんごめん。さっきまで皿洗いしてたから気づかなかったわ」
わしはカフェを飛び出し、対面の雑貨屋に入る。ちょびヒゲの店主は客ではなく自分のために壁に掛けたテレビを見ながらこう言う。
「そういやさっき外を騒がしい集団が通り過ぎていったね。ありゃなんだったのかなぁ」
「外に出て、見なかったのか?」
「それより大変なんだ! あの清純派アイドルが二股不倫だって。人は見かけによらないよ」
男はリモコンでテレビの音量を上げる。番組はその二股不倫とやらを時系列に従い詳細に伝えている。わしは呆れて外に出る。
騒ぎとはきっと家政婦のことで、通り過ぎたということはバスに乗らず歩きでどこかに行ったのじゃろう。わしは地下鉄に向かいながら目撃者を探そうとするが、道行く人の誰もが自分の生活に精一杯で、周りに注意しているようには見えない。わしは家政婦を探すのを諦め、児童公園で休憩する。
公園の遊具は壊れっぱなしで使用中止になっている。ベンチにだらしなく座る営業マンはスマホに夢中だ。フェンス沿いには段ボールハウスが並ぶ。木陰には帽子をかぶった売人風の男が立ち、鋭い目つきで公園内を観察している。ハイになった女三人組に売人が近づこうとした時、わしが声をかける。
「うちの家政婦を知らんかね」
「知るわけねーだろボケ」
「おい爺さん、商売の邪魔だ。失せろ」
わしが守りたかった祖国の未来とはこれか。なんとも皮肉なことだ。わしは肩を落としカフェに戻る。
「家政婦は見つかった?」
「いいや。今日も一つCランチを頼む」
食事中、わしはソファーに座り家政婦のことを考える。あれは重症じゃな。放っておけばいずれ大惨事になるじゃろう。知り合ったのも縁だからなんとかしてやりたいものだが……
店を出ると天気が雪からみぞれに変わった。水を含んだ重い雪がベチャベチャ落ち、わしの白髪頭と肩を濡らす。わしは悶々としながら自宅に帰った。
わし一人の部屋は静かで暗い。みぞれのせいか空気がじっとりし、重苦しい。わしはリビングの椅子に座り、人生の数々の節目を振り返る。生きるほど節目は増え、その印象が薄れ、思い出すのに時間がかかるようになる。曖昧になった、誇張した、都合よく作り変えた記憶に裏切られることもしばしばだ。わしは記憶という名の幻想の間をさまよい時を過ごした。
夕方前、部屋のインターホンが鳴った。
「ピポーン、ピポピポピポーン」
この鳴らし方を覚えていることだけは確かだ。わしは確かにドアの向こうの相手を知っている。
「先輩、お久しぶりです」
「やっぱりお前か」
わしより三つ下の後輩は上がり、濡れたコートを椅子にかけた。わしはコーヒーを淹れてやりながら世間話をする。
「珍しいじゃないか。どうした」
「風の噂で家政婦を雇ったと聞きましてね。ひょっとしてどこかお悪いのかと」
「いいや至って健康だ。わしよりもお前のほうが体調が悪そうだが」
実際に後輩はわしより老けて見える。髪の毛はとっくの昔になくなり、どこかの島国のような形をした痣がむき出しになっている。それに表情だ。昔はあんなに活発で輝いていたのに、今は疲れ切った様子で、深いシワが何本も刻み込まれている。
「あぁ、いただきます」
後輩はコーヒーを一口飲むと、細く長くため息をついた。これは昔からある、長話をする前の癖だ。
「子供が二世帯住宅を建ててから一緒に住むようになったんですけどね、いろいろと気苦労が絶えないんですよ……」
年寄りだからと気を使われるのは最初だけ。まず、妻と嫁の間で家事のやり方などを巡り諍いが起きる。それは後輩と、その息子や孫にも飛び火し、家庭内の雰囲気が一気に悪くなる。後輩は失点の埋め合わせをしようと孫の世話を買って出る。ところが孫が転ぶなどしてちょっと怪我しただけで後輩のせいにされる。仕方なく家でじっとしていると、掃除の邪魔になるから外に出ろと嫁に言われる。息子は嫁の言いなりで、ちっとも味方になってくれない。
「どこも一緒だな」
「こんな思いをするぐらいなら、先輩みたいに一人暮らしのほうがずっと気楽ですよ」
天気が悪いせいで外が早くも暗くなってきた。わしは時計を見て、「帰らなくても大丈夫なのか」と聞く。
「このまま真っ直ぐ帰る気分になれません」
「じゃあたまには飲みに行くか」
わしと後輩は傘を差して外に出た。気温が下がり、みぞれがまた雪になった。地面は溶けた雪でぐちゃぐちゃしている。背が高かったはずの後輩は腰を曲げ、下に目をやりながら慎重に歩く。わしはぬかるみの中を後輩と共に歩んだ日々を思い出す。
バーはわしらの足で団地から十五分ほど歩いた所にある。表通りの古びた店で、人目につきにくく、若者より年老いた常連客が多い。入口近くにはカウンター席が、店の奥には歌やジャズなどのパフォーマンスを披露する舞台があり、大きなピアノも設置されている。近隣住民の祝い事などがなければ至って静かな店で、酒を飲みながら話をするにはうってつけの環境だ。
わしと後輩はカウンター席に座り、バーテンダーに一杯目のビールを注文する。
「あぁ、やっぱり外で飲む酒は旨いもんですね」
「家では飲まんのか?」
「遠慮しながら飲んでも味気ないですから」
家事を司る特権を奪われた妻はみるみるうちに年老い、今や嫁に抵抗する気力をすっかり失った。孫たちは大きくなり、嫁の真似をし、年寄りを嫌っている。老夫婦はなるべく家族の目につかない所でじっとする。家族に客が来れば軽く挨拶するだけで、すぐに退席する。余計な話をすれば後で必ず叱られるから。そのくせ、たまに水を汲むため音を立てずにリビングを通ると、「いるなら息ぐらいしてよ」と驚かれる。そこにいてもダメ、いなくてもダメ。いったいどうしろというのか。
「ひどい話ですねえ。いったいこの国の若い世代はどうしちまったんだか」と、初老のバーテンダーが口を挟み、注文していないカクテルとナッツを出してくれた。
わしは家族からの仕打ちより、それに対して後輩が何もしないことに我慢がならなかった。
「それでお前は息子をガツンと叱ったり、奥さんを嫁から守ったりせず、ただ家で気配を殺してうじうじしているんだな」
「もう私たちの時代じゃありませんから」
「上等兵、起立!」
後輩は反射的に椅子を下り、曲がっていた腰を少しだけ伸ばした。
「年老いても人の尊厳を失うなよ。お前さえそれをしっかり握って手放さなければ、誰にも奪うことはできないんだ。いいか、お前もおれも生き残ったんだから、亡くなった戦友の分まで胸を張って生き、愛する者を愛し、守るべき者を守り……」
最後まで言えないうちに胸が一杯になり、全身がわなわな震え出し、目から熱い涙が溢れた。
「軍曹!」
わしらは塹壕の中で祖国の勝利を知った時のように抱き合った。バーテンダーは無言でおしぼりを出した。
「おれも人のことを言えないな」
わしは自分のことを話した。嫁から疎まれ孫にあまり会えないこと、息子が自分の都合でわしに家政婦をつけたこと。その家政婦がおかしく、心配なこと。
「どうも同居している彼氏から暴力を振るわれているようなんだ。今日なんかは二日酔いで仕事に来て、体中が傷だらけだった。それなのに必死に彼氏をかばおうとして。あれは精神的にやられているな」
「でもどうして彼氏のせいだって分かるんですか?」
「携帯電話で写真を見せてもらった。それに家政婦の極端な反応を見れば、まず間違いあるまい」
「昔もそんなふうに決めつけて失敗したことがありましたね。おれの勘に狂いはない、あの物音は敵の偵察兵だって言って撃ったら、現地の女を強姦してる最中の味方でしたっけ。尻に弾痕が残ったそうですよ」
「軍紀違反だから敵みたいなもんだ、いわば天罰だな」
「あのころは若かったですね」
「なんでもできると思ってた。ところが戦争がそうではないことを教えてくれた」
「不思議ですよね。戦時中の人の方が健全に思えて、今の世代が不健全に見えるのは」と、バーテンダーがつぶやいた。
「生まれた時から不景気で、この国の限界を知っているからそうなるんだ。だから狭っ苦しい生き方しかできない。自分より弱い女を殴るぐらいが関の山だ」
「またその話ですか」
「わしは歳を取ったが、まだ力は残っている。その力は誰かのために有意義に用いねば」
「何をする気です?」
「俄然、燃えてきたぞ」
わしはカクテルをあおり、グラスをカウンターに叩きつけた。
「家政婦の彼氏を懲らしめる。決めた」
「軍曹、早まるのはよしてくださいよ!」
地下鉄の駅構内に入る頃には、私は落ち着きを取り戻していた。私は他の乗客の中に紛れ、流れに乗るようにして電車に入り、彼氏の家の最寄り駅で降りた。
ほんの少し離れていただけなのに、同居中のマンションがひどく懐かしい。こんな時間に帰るのが久しぶりだからかしら。エレベーターで上がり、合鍵で部屋のドアを開く。彼氏の匂いに包まれ恍惚として立ち尽くす。父親の記憶がない私にとって最も安心できる、頼りになる匂い。
「今日は仕事に行かなかったのか?」
「娘さんが遊びに来てるから、私に用事はないんだって。あなたこそ面接は?」
「クリスマス前だからな。みんな休むことばかり考えて、面接なんかやる気がないようだ」
私はキッチンに入り、肉、野菜、卵、牛乳などを冷蔵庫に入れる。
「そんなに沢山買ってきたのか。給料をもらってるからって無駄遣いするなよ」
あなたに食べてもらう物を買うのに無駄遣いだなんて。
仕事を休み、お昼に家で愛する人とサラダやパスタを食べる。贅沢なひとときね。それなのに彼氏は難しい顔をしている。
「悩んでいても始まらないんだし、明日は久しぶりに息抜きなんてどう?」
「仕事はいいのか?」
「どうせ爺さんボケてるんだから、来ても来なくても気付かないわよ」
「条件がいい仕事なんだから大切にしないと」
「だいじょうぶだいじょうぶ」
私たちにだってクリスマス休暇があっていいじゃない。私は彼氏の心配をよそに明日の計画を立てる。まず、いちおう爺さんの様子を見ておこうか。さっさと家事を済ませて、買い物に行くとか適当に言い訳して外出し、そのまま彼氏と遊びに行く。っていうか、しばらくはそんな感じでいいかも。爺さんは家政婦なんか必要ない、息子さんはとりあえず私を雇っておきたい、私は爺さんと一日中同じ家にいたくない。サボったところで誰に何の損失もないんだから。
手紙は……くっだらない、放っておけばいいわ。
あなたは彼女を見失った翌日の午前十時過ぎ、彼女が爺さんのマンションから出てくるのを目撃する。
いつものラフな格好とは違い、今日の彼女はとびきりおしゃれだ。足取りも軽く、ステップを踏み、鼻歌までうたっている。彼女は団地を出て、バス停を通り過ぎスーパーも素通りし、地下鉄駅に入った。彼女は電車に乗り、市中央駅で降りて地上に出ると、駅前の奇妙な形のモニュメントの前で待っていた彼氏に手を振る。やや小柄で痩せている、縁無し眼鏡をかけた彼氏は優しく微笑む。
二人は手をつなぎ若者に人気のカフェに入った。窓際のソファー席に隣り合って、スイーツと飲み物がつくちょっぴり贅沢なランチを注文する。店員が去ると、彼氏は彼女の腰に手を伸ばし抱き寄せ、一緒にスマホを見る。彼女は見せてもらったものに大げさにリアクションする。すぐに前菜のサラダが届いた。よっぽど美味しいのか、二人とも幸せそうな笑みを浮かべる。
その時、あなたは外の歩行者の中に見慣れた後ろ姿を見つける。その背中は店内に入り、店の奥に席を見つけ、窓を向くようにして座る。帽子をかぶりサングラスを掛けているが、あなたにはそれが爺さんだと分かる。爺さんは飲み物を注文すると、新聞を読むふりをしながらカップルの様子をうかがう。彼女たちは白身魚に舌鼓を打っている。
カフェを出ても爺さんの尾行は続く。カップルは呑気にデートを続ける。ボウリングで腹ごなしをし、ブティック街でウィンドウショッピングを楽しみ、映画館でラブストーリーを鑑賞する。ディナーはそれほど値が張らないレストランで、ワインを飲みながら都会の夜景を一望し、クリスマス前のロマンチックな雰囲気に浸る。若い男女の目は街のイルミネーションで輝く。対照的に、年老いた男はサングラス越しに淀んだ目を二人に向けつつ、苦いコーヒーを啜る。
爺さんは二人が何事もなく自宅に帰るのを見届けてから、自分のマンションがある団地に戻った。
ふと、爺さんはマンションに通じる道を外れ、雪が薄く積もった芝生の上を歩き出した。あなたは一定の距離を保ちながら足跡を追う。その先には背が低く横に長い、いくつものシャッターを備えた建物がある。爺さんと思われる黒い影はポケットから鍵を取り出し、シャッターのロックを解除する。ガラガラという不吉な音が夜の団地の片隅に響く。ほこりを被った大きなクラシックカーが現れ、鈍い光沢を放つ。爺さんは誰にも見られていないことを確認してからシャッターを下ろした。
ほこり、鉄、油、ボロ布。車庫の匂いをかぐのは久しぶりじゃ。
最も使い慣れたナイフを丹念に研ぎ、拳銃のメンテナンスをし、心穏やかに覚悟を決める。使えるようになった武器を上着の内ポケットに隠し、今でも走れるか分からない古い愛車のボンネットを撫で、「行ってくるぞ」と心の中で念じる。電気を消し、シャッターを半分上げ、ガシャンと下ろす。野良猫の群れが甲高い声をあげ、散る。
重い武器を帯びると重い責任を感じる。暴力は別の、より邪悪な暴力を取り払うため行使されねばならない。その判断に責任が伴うのだ。しかしその重さを嫌って判断を躊躇してはならない。力とは畢竟、正しく使われるためにあるのだから。
わしはバスを降り、家政婦とその彼氏とやらが住むマンションの前に立った。部屋は八階にあると分かっている。電気はまだついているな。時間は十時過ぎ。わしは中に入り、エレベーターではなく階段を使う。戦場における便利とは往々にして敵の罠を意味する。わしは息切れしないよう、夜の階段をゆっくり一歩ずつ上がる。
八階にたどり着いたが、外から見た部屋の玄関ドアはどれだろうか。通路は真っ暗で、部屋番号や名前がある表札を掲げている家は一つもない。しかし耳を澄ますと男の声が聞こえる。一方的に怒鳴り、それにガタゴトと物が動く音や、コップかガラスが割れる音が混ざる。わしはその音の方に向かう。女の悲鳴。間違いない、家政婦の声だ。
インターホンを押す。どうも鳴らないようで、無反応だ。中でドンドンと音がする。わしもドアをバンバン叩く。今度はさすがに聞こえたようで、中の動きがやむ。ドシドシドシと足音が近づき、扉の向こうでピタリと止まる。のぞき穴から漏れていた光が消える。わしは敵意と殺意に満ちた視線を感じる。
「停電のお知らせです。エレベーターなどが使えなくなるので連絡に来ました」
のぞき穴から光が漏れ、「ちっ、うざってえな」という悪態と共に、ドアが少しだけ開く。わしはすかさず左足を入れ、左肘でドアをさらに開きつつ、右手で懐の拳銃を取り出す。男は「マジかよ」と言い、後退りする。わしは銃を構えたまま廊下を渡り、男を奥のリビングに追い詰める。髪の毛がぐしゃぐしゃになり、顔を真っ赤に腫らした家政婦が床に座り込んでいる。
「どうして爺さんが……」
呼んでもいないのに爺さんが勝手にうちの中に入ってきた。手には玩具のモデルガンを握っている。そんなもので私の彼氏を脅せると思ったのかしら。
「彼女にこれ以上暴力を振るうな、分かったか!」
バカな爺さん。暴力だなんて大げさなこと言って。これは教育、躾よ。彼氏のためとはいえ、また無断で万引きした私が悪いんじゃない。私には我慢できなかった。彼氏があの腕時計が欲しくて欲しくてたまらないことを知りながら素通りするなんて。
その腕時計は今、床で無惨な姿になっている。ベルトがちぎれ、中から臓器が飛び出し、針だけがまだ引きつけを起こしている。ヒビの入ったガラスが部屋を細切れにして反射する。その中には彼氏の真っ直ぐな目があれば、爺さんの歪んだ目もある。私は顔を上げる。彼氏ならば大丈夫なはずだ。
彼氏は勇敢に爺さんに詰め寄り、理路整然と反論する。私は彼を応援するように「そうよ、そうよ」と頷く。爺さんはそのまま部屋の隅に追いやられる。情けなく震え、両手を組み、必死に命乞いをする。彼氏は許さず、爺さんに誓わせる。
「二度と彼女に手を出すな。もしまたおかしなことがあったら、これだぞ」
パンッ!
温かい水が床を湿らせる。壁によりかかり、尻餅をつき失禁しているのは、爺さんじゃない。見慣れない、弱々しい生き物。追い詰められても反撃できないネズミ以下の存在。これが、これが私の彼氏だったの?
「さぁ行くぞ」
しわくちゃの温かい手が私の手を強く引く。薄く立ち込める硝煙の向こうには本当の爺さんの顔がある。
「言ったじゃろう。わしはボケてなどおらんと」




