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雨と油を吸い潰れたハンチング帽、随分前に仕立てた今の体型に合わないコート、くたびれたシワだらけのスラックス。
あなたは爺さんがいつもの服装で団地内を歩くのを見る。転んで打った所がまだ痛いのか、腰を曲げ弱々しく哀れな様子だ。苦虫を噛み潰すように口をもぐもぐし、何やら不平不満を漏らしている。
爺さんは団地を出ると左に曲がり、新しく小綺麗な薬局に入った。店内の壁は青空のような水色。成人の胸元ぐらいの高さの白い棚が整然と並び、さまざまな医療用品が陳列されている。爺さんはしばらく薬のコーナーを物色したが、お目当ての品物が見つからず、カウンターの薬剤師に質問をする。眼鏡を掛けたその男は、薄桃色の制服を着た年下の女性店員とイチャつき、客の話を半分も聞いていない。
「今日の髪型も素敵だね」
「ありがとうございます。先生も今日のネクタイ、とっても似合ってますよ」
「あのぉ」
「はいはい、ちょっとお待ち下さい。それで土日の予定なんだけど」
「ご家族と過ごす予定でしたよね」
「それが向こうの両親が急に孫に会いたいって言い出して。妻が子供を連れて実家に帰ることになったんだ」
「それってつまり……」
「薬を探してるんですが」
「フリーになったってこと」
「やったぁ♡」
「どこ遊びに行く?」
「うぅん、どうしようかな……」
「はいはい、えーっと、なんの薬ですか」
「精神安定剤」
「また映画館なんでどうですか?」
「それよりも遠出して自然公園に行こう。一泊すればゆっくりできるし」
「えっ、いいんですか!?」
「もちろんさ。今からスマホで予約を入れよう……とその前に、精神安定剤? あぁ、抗不安薬のことですね。服用なさるのはご自身ですか?」
「わしに必要なように見えるか? 知人に買うんじゃ」
「泊まるとなるといろいろ準備しなきゃ」
「そうだね。面倒くさい仕事なんてほったらかしにして、ね」
「こらふざけるな。仕事と遊びのどっちが重要だと思ってるんだ」
「もちろん遊びよ!」
「そういうことです。ですからその知人の方には、こちらの薬をおすすめします。安くて、毒にも薬にもなりませんが、気休め程度にはなるでしょう」
「もうけっこうじゃ!」
爺さんの所で働くようになって一週間がたった。私は少しだけこの爺さんに慣れてきた気がする。
最初は本当に嫌だった。私みたいな若い女が、孤独で、独善的で、自己完結した老人と合うはずがない。でも無理に合わせようとする必要はないのよね。ボケてる爺さんにムキになるのは大人げないから、適当に聞いたふりだけしてればいいのよ。
家政婦の経験がないけど、専業主婦の真似をすればいいはず。まずはお掃除ね。少ない家電家具を水拭きし、狭い床をモップで磨き、バスルームのカビ取りをする。洗濯物を干し、ベッドの布団カバーとシーツを取り替える。
「ゴホゴホっ! ほこりを立てずに掃除できんのか?」
「無理無理。だいたい爺さんが掃除をサボってるせいでしょ」
「年寄りを爺さんと呼んで失礼だと思わんか」
「爺さんは爺さんよ」
手を洗って冷蔵庫を開くと、しおれたリンゴ、食べられるか怪しい卵、カピカピの食べかけのハムが目に入った。
「自炊しないの?」
「自分のためだけに作る気になれん」
「しょーがないわね、私がお昼ごはん作ってあげる」
「お前さんにできるのか?」
「こう見えて女子力高いんだから」
私は爺さんからお金をもらって外に出た。確か遠くない所に大型スーパーがあったわね。
品揃えがいい店で助かったわ。私は両手にビニール袋をぶら下げ、爺さんの部屋まで階段で上がる。一気に五階の手前まで来ると急にめまいがして、踊り場で尻餅をついた。セーターの内側では汗も滲む。運動不足のせいかな。介護が必要なのは爺さんより私の方じゃない。
慣れない狭いキッチンで四苦八苦し、ようやくリビングの小さなテーブルに二人分の食事を並べると、もう午後一時過ぎだった。私は爺さんを寝室から呼び出し、一緒に食卓につく。爺さんは私の特製スープを疑わしそうにジロジロ眺めてから、スプーンで慎重に一口すする。
「……まずっ」
「うっそぉ、年寄りには味が薄すぎた?」
「そういう問題じゃない。調味料も素材も持ち味を殺し合っている。ひどいスープじゃ」
「爺さん味覚おかしいんじゃない?」味覚じゃなくて知覚かも、と私は思った。
「正常じゃ。外のカフェのランチが一番まずいと思っとったが、お前さんの料理はそれを更新したよ」
「あそこがまずい? 食べてみたけど、けっこうイケたよ。お肉とか」
「だんだんお前さんの彼氏がかわいそうになってきたわい」
「彼氏も美味しいって言って食べてくれる。少食だけど」
「ふうん」
文句を言いながらも爺さんは完食してくれた。やっぱ昔の人は違うわ。
私も食べ終え、食器を片付ける前にスマホをいじって一休みする。開けっ放しの窓から風が吹き込む。そろそろ十二月になるからさすがに寒いわね。
テーブルの対面に座りウトウトしていた爺さんは目を覚まし、私のおでこに目を向けた。
「そのアザ、どうしたんじゃ」
「アザですって?」
私はすぐに手鏡を取り出し確認する。アザなんてどこにもないけど……。
「さっき階段でふらついたから、壁に頭をぶつけたのかもしれない」
「階段で? ふぅむ……」
私は丁寧に食器を洗った。時間はまだ二時過ぎ。五時まで働くことになってるけど、さすがにやることがないわ。
爺さんはリビングの椅子に座ったままテレビで国際ニュースを見ている。この国は平和だけど、世界各地では内戦やら紛争やらが多発している。彼の国では先月、大統領が暗殺され、クーデターが起き、軍による恐怖政治が敷かれているという。爺さんは、「けしからん」「こんなはずでは」とぶつくさ言う。
「あのう」
「なんじゃ」
「ヒマなんだけど」
「だったらあの人に手紙を書くのを手伝ってくれ」
「げっ、忘れてなかったんだ」
「もちろんじゃ」
「っていうか、爺さんの話をどこまで信じていいか分かんないし」
「わしを疑うのか」
「どう考えたって作り話じゃないの。ベタだし。それにどうして離れ離れになったか、まだ話してくれてないじゃん」
「それは……」
「当ててあげよっか。身分違いの結婚に反対され、駆け落ちしたけど、彼女が貧乏生活に耐えられなくなり、爺さんを捨てた。彼女は後に女優になり、素敵な俳優と結婚して幸せになった。それなのに爺さんは奥さんを亡くすと未練で、今もうじうじしている。でしょ」
「なかなか上手いじゃないか」
「まぁ仮に爺さんの話が本当だとしても、手紙の宛先はどうするの。彼女の住所を知ってる?」
「いいや」
「事務所宛に書けばいいけど、他のファンレターに紛れて読んでもらえないと思うよ」
「とにかく書くんじゃ」
時計の針はまだ二時を回ったばかり。五時までヒマだから付き合ってあげるか。
爺さんは寝室から下書き用のノートとボールペンを持ってきた。目が悪く、手も震えるから、私が代筆する。
「えぇっと、書き出しはどうするかの」
「愛しい◯◯へ、わしのことを覚えているかい、なんてどう?」
「なんか軽いな。悪ふざけみたいじゃ」
「だったら自分で考えなさいよ」
爺さんは便秘のように「ふうむ」と唸り続けたけど、結局一言も絞り出せないまま五時になった。
「じゃあまた明日」
「おう」
こんな感じで何も書けないまま最初の一週間が過ぎ、十二月になった。
気温が下がり、雪もほぼ毎日降っている。吐く息はますます白く、遠くの工場の煙突から出る煙はいよいよ黒い。町全体の輪郭が雪で丸みを帯びる。チェーンを巻いた路線バスが道を走り、シャリシャリという特徴的な音を立てる。人々は帽子、マフラー、手袋などで肌を極力隠す。それでも知り合いとすれ違えば分かり、「今日も寒いね」と挨拶する。私たちの町らしい冬だ。
土日の休みを挟み、私は爺さんの家を訪問した。部屋は掃除したばかりのようにキレイで、洗濯物もたまっていなかった。私がいない間に自分でやったようだ。
「お前さんに頼り切りになると一気に老け込みそうだからな」
「いい心がけね」
爺さんはずっと部屋にこもっていたから外の空気を吸いたいという。
「散歩したいの? いってらっしゃい」
「お前さんも来るんじゃよ」
私たちは団地内を歩く。爺さんはやたらゆっくりで、先を探るように一歩ずつ慎重に踏み出す。年寄りのペースに合わせるとじれったい。
やっとのことで団地を出ると爺さんが普通に歩くようになった。
「で、どこに行くの?」
「まずは郵便局じゃ」
爺さんはそこで、はがきと切手を購入した。
「はがきじゃあんまり書けないよ」
「長けりゃいいってもんじゃない」
爺さんがお釣りをちんたら財布にしまっている間、窓口の若い局員は熱心にセールスをする。終身医療保険に加入すれば病気になった場合に毎日給付金が支払われる。さらに死亡保険をセットにすれば遺族に葬儀費用などを残せ迷惑をかけずに済む。今からでも積立投資をすれば相続者にささやかな遺産を残すことができる。
「愛する家族のことを考えれば、手続きが面倒だなんて言ってられませんよ」
「バカもん!」
郵便局を出ると、ランチには少し早いけど爺さん行きつけのカフェに移動した。
「まったく、ふだん行かない所に行くとロクなことがないわい」と爺さんは言い、指定席の窓際のソファーにどっかと腰を下ろした。窓ガラスは、何回もテープを貼っては剥がした跡が残って磨りガラスのようになり、外から見た私たちの姿をちょうどいい具合にぼかす。私は爺さんの対面に座る。
「なんだかんだ言ってうちが一番でしょ」と婆さん店員は言い、サービスのまずいコーヒーを出した。爺さんは「この店が落とし所とはな。我が国は悪くなるばかりだ」と言い返す。
腹が立ったせいか爺さんは変に饒舌になり、この国が輝いていた頃のことを語り出した。私は爺さんが語りに熱中する前に、
「ちょっと、その勢いで手紙に取り掛かろうよ」と促した。
「それもそうじゃな」
爺さんは店員にペンを借り、私に手渡した。
「お前さんの案を一部採用し、書き出しは、懐かしいきみへ、ぼくのことを覚えているかい、にすることにした」
「はいはい、懐かしいきみへ、ね」
ペンは水性で、品質が悪く、インクがドバッと吹き出した。駄目になったこのはがきで試し書きをすると、古いペンは年寄りのように尿もれを続けた。はがき全体がインクで黒く滲んだ。
「こんなやくざなペンしか支給されんのか?」
「それでも国産品なのよ」
仕方なく、私たちは手紙を書くことを諦めた。爺さんの不満は止まらない。
「何が子供に迷惑をかけずに済む、だ。こっちが心配する前に倅が先手を打ってきたわい」
「息子さんは銀行の偉い人なんでしょ。すごいじゃん」
「人様から借りたカネを転がして不労所得を手にするアコギな商売のくせに、椅子にふんぞり返って偉そうな顔をしておる。口を開けば信用、信用ばかり。人を見る基準が信用だから呆れる。自分も信用を失わないよう窮屈に生きてるからあんな顔、あんな態度、あんな服装になるんじゃ」
「あぁ、なんか分かるわそれ」
「わしが耄碌して、倅の信用に泥を塗ることを恐れとる。親から受けた恩、それへの感謝を忘れてな」
「爺さん子供は一人だっけ?」
「もう一人、娘がおる。四十になるのに独身じゃがな。女友達と同居してるらしい」
「レズビアンか。反対しないの?」
「いい大人が誰を好きになろうが勝手じゃ。女と寝たほうが気持ちいいならそれでいい」
「意外と開放的なのね」
「倅のように不自由、不正直に生きるよりよっぽどマシだ。嫁の尻にまで敷かれおって」
「プッ、だっさ」
「嫁もまた虚栄心の塊でな。年寄りで貧乏でみすぼらしいからって孫たちをわしから遠ざけ、バイオリンやら何やら高尚な習い事をさせている」
「じゃあぜんぜん会ってないの?」
「最近はな」
十二時前になり、爺さんはCランチを二人分注文した。今日は奢ってくれるという。
「わしのことばかり話したが、お前さんに家族はいるのか」
「私だって木の股から生まれたわけじゃないわ。もっとも両親とは暮らしてないけど」
「どうして」
「どっちも酒乱で嫌になるのよ。二人とも常に生傷だらけ。そのくせ離婚しないんだから。酒、ケンカ、セックスをエンドレスで繰り返してるわ」
「それじゃあ一人暮らしか」
「今は彼氏と同棲してる」
「どんな人だ」
「写真を見せてあげる」
私がバッグからスマホを出す前にCランチが届いた。パンは噛み応えがあり、野菜はちょうどいい茹で加減で、肉は表面カリッと中はしっとり。肉を食べ終えると、私は改めてスマホの画面を爺さんに見せる。
「イケメンでしょう」
「胡散臭い感じの男じゃな」
「なに言ってるのよ。真面目で誠実ないい人よ」
「そうは見えんな。頼りないというか、不甲斐ないというか……」
「人の彼氏に勝手にケチつけないでよ」
「わしはこの歳になるまでいろんな人間を見てきた。わしの目に狂いはない。こんな男とは別れるんじゃな」
「写真だけで何が分かるの。デタラメ言うなよこのクソジジイ!」
あなたは彼女が顔を真っ赤にしカフェから出てくるのを見る。
彼女はスマホをバッグにしまい、住宅団地とは反対の方向に歩き、スーパーに入った。夕方前の暇な時間帯で、店員たちは売り物のベッドやソファーを使い昼寝をするか、隅の方でヒマワリの種を食べながらトランプで遊んでいる。客は少なく、近所の高齢者の姿がちらほら見えるぐらいだ。彼女は節電で薄暗い店内を早足で歩き、素早いターンで角を曲がる。やがてあなたは彼女の姿を見失う。
次にあなたが彼女を見つけた時、その肩には薄手の大きなトートバッグが増えていた。彼女は結局なにも購入しないまま店を出る。顔色はさっきよりよく、どこか清々しい様子だ。彼女は習慣的に団地に戻りそうになるが、その場で回れ右をし、次のバス停に向かう。バスを待つ間、彼女はスマホを操作する。また雪が降ってきた。彼女は水を払うように画面をフリックするが、かえって水を大きく広げてしまうだけだった。画面に表示された若い男の顔は涙に濡れたようにぼやけ、表情が読み取れず、歪んで見えた。
噂をすれば影ってやつじゃな。
ランチから戻り、リビングの電気ストーブで体を温めていると、インターホンが鳴った。ドアの向こうには肩を雪で湿らせた倅が立ち、情けないことにゼエゼエあえいでおる。
「なんの用じゃ」
「近くまで来たから様子を見ようと思って」
勤務時間中に来るのだからどうせロクな用事ではなかろう。倅は不動産の価格を査定するようにわしの部屋を調べる。リビング、キッチン、バスルーム、それに二つの寝室。
「しかし冷えるね」
「わし一人でエアコンを使うのはもったいない」
「ところで家政婦はどうしたの?」
「今日は帰らせた。コーヒーを淹れるから座るといい」
わしは高い豆を丁寧に挽く。湯を注ぎ粉を湿らせると酸味の強い、果物のような華やかな香りが広がる。部屋の体感気温が少しだけ上がる。
倅はわしのコーヒーを無感動で一口すすり、「家政婦とは上手くやってる?」と聞いた。
「どうだかな。祖父と孫ぐらいの年齢差だから、考え方や価値観に差があるのは仕方ない。それに他人だしな」
わしもコーヒーを飲み、砂糖とミルクを入れる。なるべく震えないようにと思っても、スプーンでかき混ぜる時にカタカタと耳障りな音が出る。
「電話ではゆっくり話す時間がなかったが、なぜわしに家政婦を?」
「実は嫁さんからぜひそうしろってうるさく言われたんだ」
「またあんな女の言いなりになったのか。わしをバイキン扱いしおって」
「父さんが子供たちに危険なことを教えるからだよ」
「トンカチやノコギリを使うことがか? あの子たちだって楽しんでたぞ」
「その代わりに指をケガしたけどね。楽器を演奏するのに指は一番大切なんだ」
「わしらにも嫁にも音楽の素質などないのに、見栄だけは一人前だな」
「それはひとまず置いといて、一つ重要な話があるんだけど」
一カ月ぐらい前、マンションの入口のドアに紙が貼られた。エレベーターもない老朽化したこのマンションを建て替えるという件についてだ。反対する住民も少なくないが、放置すれば危険ということで強制的に行われるという。借主には一定基準の立ち退き料が支払われる。わしは長く借りていたこの部屋を退職金で購入した。そんなわしのような区分所有者は今の部屋を時価で売却するか、建て替え後に再入居する。
「父さんはどうするつもりなんだい?」
「住み慣れた部屋を取り壊されるだけでも惜しいのに、慣れ親しんだ環境から離れるなんてまっぴらごめんじゃ。わしは再入居するぞ」
「ここって父さんにとってそんなに暮らしやすいのかい?」
わしが入居してから、この団地の周辺環境には大きな変化が生じた。歩いて十数分の所に地下鉄駅ができ、市中心部に行きやすくなったことで、地価が上がった。駅前には繁華街が形成された。車で十分もかからない郊外には会員制スーパーなどがあり便利だ。だが、わしのように徒歩圏内でしか生活しない老人に恩恵はない。倅からすれば、わしがここに住み続けるのは無意味な贅沢というわけだ。
しかしわしにとっては違う。駅前の開発の手はぎりぎりここまで届かず、静かな住環境が残されている。小さな個人の店が並び、そこの経営者や店員とは顔なじみじゃ。長年暮らした愛着があれば思い出もある。得るものより失うものが多い老人にとって安定ほど尊いものはない。
「郊外の方が街全体が新しく、住みやすいよ。今よりもっと広い部屋を買ってもお釣りがくるしね。建て替え後に再入居するなら自己負担金もバカにならないし、建て替える間の仮住まいも必要になる。面倒で、割に合わないよ」
要するに、倅や嫁はわしを一時的に自宅に引き取りたくない。郊外の広い家を買わせてそれと「お釣り」を相続したい。だからボケてきたわしを放っておけず、家政婦を雇ったというところじゃろう。
「老人ホームに入れとは言わないんじゃな」
「それだけはおれが断固反対した。父さんのために」
倅が自信満々に胸をドンと叩くので、わしは思わず吹き出してしまった。笑えてくるほど呆れた連中ばかりだ。
「とっとと出てけ!」
わしはキッチンでコーヒーカップを洗いながら昔を思い出す。
妻とは勤務先の工場で知り合った。わしは製造現場の技術者で、彼女は事務棟の職員だった。食堂で仕事仲間と食事をしている時、わしは彼女の姿をよく目にした。快活でよく食う娘じゃった。同僚と大きな声で話すから、近くに座っていれば内容はほぼ筒抜けだった。噂好きで、おせっかいで、心優しい。それに工場内では人目を引くほどの美人だった。わしは彼女に妙に惹かれた。あの人とは正反対のタイプの彼女を追うことで実らなかった恋を忘れたかったのかもしれん。
ともかくわしらは知り合い、付き合い、結婚した。わしが二十八で、妻が二十三だった。翌年に倅が誕生し、その五年後に娘が誕生した。わしらは家族向けの社宅で、ささやかだが幸せに暮らしておった。
ところが娘が五歳の時に妻が亡くなった。享年三十四歳。二人の子供を男手ひとつで育てるわしは悲嘆に暮れてなどおれんかった。子供たちが独立するまで、わしは人生で最も辛く苦しい時代を送った。人一倍働いて稼ぎ、ほとんどすべての家事を担当し、死んだように眠った。子供とゆっくり話をし、その人格形成に関わる時間を作れなかったことが悔いじゃ。
倅が大学を、娘が高校を卒業し就職すると、わしの両肩から重荷が下りた。わしは社宅の代わりに住宅補助を受け、今のマンションに引っ越した。やがて長男が結婚し、わしが定年退職した年に一人目の孫ができた。わしは便利屋のバイトをやりながら、嫁の都合が悪い時に孫の面倒を見た。二人目の孫はこの家で預かったこともある。思えばそれは最後の幸せな時だった。
今やわしは完全に仕事を辞め、リタイアした。倅はそこそこ出世し、娘はぶらぶらしている。孫も大きくなり、もうわしのような老いぼれには懐かないだろう。それでいいんじゃ。人生には大切なことが山ほどある。わしはお前たちの負担になりたくない。できれば遺産だって残してやりたい。
だが、それをわしに図々しく求めるのはさすがに残酷ではないか。
まだ早いが酒が飲みたくなってきた。わしは棚からスナック菓子、冷蔵庫からコーラ、冷凍庫からジンを取り出し、リビングのテーブルに並べる。これは孤独な飲み会を開きたい時のために買っておいたものだ。グラスに氷を一個だけ入れ、とろとろのジンをちょびっと、コーラをなみなみと注ぐ。菓子の袋を開くと人工的なタコスの匂いが部屋いっぱいに充満する。
テレビをつければ雰囲気が華やぐ。わしはチャンネルをお気に入りのトーク番組に合わせる。酸いも甘いも噛み分ける六十代の司会者が老若男女のゲストから興味深い話を引き出し、それに気の利いたコメントを添え、視聴者の関心を引き笑いを誘う。わしは自分で作った酒をすする。安いジンのスパイシーな香りと、紫色のコーラの薬臭さが混ざり合い、わしの鈍くなった味覚と嗅覚を刺激する。その後にスナック菓子を食べると、その酸味がいっそう引き立ち、また一口酒を飲みたくなる。
番組の最初のCMが終わる頃にはだいぶいい気分になる。わしは椅子の上で姿勢を正し、司会者の進行に従い番組に出演し、大声でトークに加わる。
ふと、わしは二十代の創業者とやらの話し方や態度が気に入らず、激怒する。
「だからさぁ、今どきそんな古臭いこと言ってないで、少しは価値観をアップデートしてくださいよぉ」
「お主の軽薄な価値観とやらでわしの尊い記憶と経験を上書きできると思うなよ!」
うちの家政婦と同世代のくせに生意気な口をききやがって。とはいえ、さっきはわしも彼女にデリカシーがないことを言ってしまったな。あの子が誰と付き合おうと勝手なのに偉そうに忠告などして。自分ではもうやり直せない人生。それが他人のものであっても、少なくとも失敗を避けてほしいと願うのは、年寄りの悪いクセかもしれん。
ドンドンドン!
インターホンがあるのに玄関をやかましく叩く人間は一人しかいない。わしはドアを開き、娘を迎える。
「お父さん元気ぃ?」
「見ての通りピンピンしておる」
娘はたまに天文現象のような気まぐれでわしの顔を見に来る。今日はまた季節外れの格好をしておる。つば広の麦わら帽子、ハイビスカス柄のワンピース、涼し気なビーチサンダル、ピンク色の小さなキャリーケース。冬の曇り空に輝くスーパームーンのようだ。
「女友達と南の島に行ってきたばかりなんだけど、どっちもホテルに家のカギを置き忘れちゃって。笑えるよね」
「似た者同士じゃな」
「彼女は元カレの所に泊めてもらうっていうから、私はお父さんの所に来たの」
「寒いから早く上がりなさい」
わしはしばらく使っていなかったエアコンをオンにする。かび臭く、くしゃみが出る。
「この番組まだ終わってなかったの?」
娘は南国で買ってきたお土産をリビングのテーブルに並べる。チョコ、クッキー、ドライフルーツ。酒の肴にならんものばかり。人が酒に酔う必要のない恵まれた土地。観光客が集まるのも無理はない。
「わしにくれるのか?」
「一泊させてもらうお礼よ」
如才ない、憎めない娘。倅に負けんぐらい親不孝者なのに。
「あぁこいつ大嫌い! ねえ、チャンネル変えようよ」
娘はリモコンを操作し、クラシックの名曲と共に海外の街道やら自然風景やらをひたすら映す番組にした。これでずっと話がしやすくなった。
「お酒ある? 時差ボケで、飲まないと眠れそうにない」
「わしの特製ジンコークで良ければ」
「いただくわ」
娘はわしが作ったそれを飲むたびに、「ケミカル!」「トキシック!」と連呼する。最初はバナナチップスやドライマンゴーを食べていたが、すぐわしのスナック菓子を独占するようになった。
「独身貴族の暮らしを満喫してるようね」
「お前たちが放っておいてくれるからな」
「これは一本取られたわ」
娘はキャハハと笑い、自分で酒を作る。
「で、彼女とはどうなんだ」
「順調よ。今回の旅でお互いの気持ちを確かめ合ったの。やっぱり私たちにはこの相手しかいないって」
「どんなに仲が良くても、同性どうしではそこまでだ。先はない」
「そんなことないわ。私たち、結婚するつもりなの」
「ほう」
「結婚したら子供も作る」
「ど、どうやって?」
「いろいろ方法はあるんだけどね、例えば彼女の元カレから一人ずつ受精するとか」
「わしの価値観はそこまでアップデートされておらんが、高齢出産だから慎重にな」
「実用的なアドバイスありがとう!」
テレビの街道では雨が降ってきた。石造りの古い建築物と彫刻群が湿り気を帯び、内に秘めた当時の熱気と活気を少しだけ放ち、街全体をぼんやりとした霧で覆う。わしに話すべきことを一気に話し終えた娘は黙り、音楽が停まったテレビの雨の音に耳を澄ます。
「結婚するって決めてから、お母さんのことをよく思い出すの」
「母さんはいい母親だったな」
「ケンカばっかりしてたくせに」
「わしも母さんも譲ることを知らなかった。ぶつかり合ったおかげで角が取れ、結婚する前より丸い人間になれた」
「若い頃はよっぽどとんがってたのね」
「母さんだって。でも結婚してから、特にお前たちが生まれてからは変わった。あんなに子供好きの女はいなかった。それに料理が得意じゃったな」
「私のお母さんは一番なんだって信じてる。今でもね」
街道の雨が上がった。春の太陽が顔を出し、裸婦像から汗が引いた。野良猫が石段で日向ぼっこをしている。バックパックを背負った若い男女が歴史ある駅に入り、次の目的地に向かう。
すぅ、すぅと、静かないびきが聞こえる。安心したのだろう、娘が寝てしまった。
わしは肩で娘を担ぎ、ふだん使っていない寝室のベッドに寝かせてから、リビングの後片付けをする。いろいろあった今日もあと少しで終わろうとしている。日常生活をかき乱されれば疲れるが、それは想定外の刺激、生きる張り合いをもたらしてくれることもある。だからわしは今日という一日を送れたことに満足している。
「母さんや、倅も娘も元気にやっとるぞ」




