表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

1

 あなたは海外の住宅団地の中を歩く。

 団地内には新旧の住宅がある。新は豊かなファミリー向けの一戸建て、旧は貧しい一人暮らし向けの賃貸マンション。新旧は中央に敷かれた道路で東西に分かれる。あなたと彼女の足は自然と東エリアに向く。

 遊具が置かれた公園では子連れの住民が憩う。公園を抜けるとよく整備された車道に沿い、二台分のカーポートと芝生の庭を備えた新しい家が並ぶ。あなたの先をゆく彼女は庭でパター練習に勤しむ三十代の男性に話しかける。男性は頭を二度振る。彼女は次に、道を歩く高齢のマダムに同じことを聞く。マダムは彼女の背後、つまりあなたの方を指差す。

 彼女は振り返り、あなたに近づく。あなたは初めて彼女の顔を見る。二十歳ぐらいだろうが、色白で油っけがなく、真っ赤な口紅が痛々しい。髪はパーマとカラーリングでもっと若い頃から痛めつけているのか、枯れ草のようにパサパサし生気がない。彼女は鶏みたいにやせ細った足であなたの隣を通り過ぎる。

 あなたは彼女の後をつけ、中央の道路の横断歩道を渡り、西エリアに入る。車道は穴だらけで、ウォーターサーバーのボトルを運ぶ三輪車がガタガタ揺れる音が耳障りだ。古く高い建物が多く日当たりが悪い。彼女とあなたは陰をかき分けるようにしてひたすら前に進む。

 彼女は角が擦れたバッグからスマホを取り出し画面を見て、画一的なマンション群の中から一つを選び、ためらいつつ中に入る。あなたは彼女に続かず、歩道沿いの錆びついたベンチに座って上を向く。日陰のベランダには色も形も違う洗濯物が干され、それが垂直に連なり、薄汚い万国旗のようだ。

 三十分もしないうちに彼女が出てきた。速歩きで、息を弾ませ。怒っているとも笑っているともつかない表情。彼女は中央の道路に戻り、そこから団地を出た。

 彼女が残した安物のきつい香水の匂いと、マンションの中から漏れる古いヒトとモノの匂いは混ざり合わず、あなたの目と鼻の先で複雑なマーブル模様を描いた。


 あんな家政婦を送ってくるなんて、倅のやつ、わしをボケ扱いしとるな。

 家の鍵と間違えて車庫の鍵を持って外に出るなど誰にでもあることじゃ。わしはその足でまっすぐ門の守衛の所に行き、事情を話して合鍵を貸してもらい事なきを得た。ただそれを近所の連中に見られたのがまずかった。おせっかいなやつが管理人に相談し、そこから倅に連絡が行き、それで倅が余計なことをした。どいつもこいつもけしからん。

 もう昼時か。腹を立てたら無性に腹が空いてきた。これもわしが若い証拠じゃ。

 わしは団地を出てすぐのカフェに入った。わしがここのマンションに入居する前からある古びた店で、初めて利用する人間ならばカウンター席のガタついた椅子、スポンジがはらわたみたいにはみ出ているソファー、油とヤニの重みでのろのろ回転するシーリングファンなどに驚くことじゃろう。

「今日は何にする」

「Cランチに決まっとるじゃろう」

「そりゃあそうだけど、一応ね」

 店員は厨房に引っ込み、油にガソリンでも混ぜているのか物凄い火力で肉を焼き、五分もしないうちにランチをテーブル席まで運んできた。パンは石のように硬く、野菜は半煮えで、肉は表面ジャリッと中はグチャグチャ。二十年ほど前にこの婆さんが働き始めてからずっとこうだ。

「相変わらずひどい味だな」

「今日は虫の居所が悪いようね。なんかあった?」

「そうそう、そうじゃった」

 わしは携帯電話を取り、倅にかけた。呼出音が八回鳴ると留守電に切り替わった。わしは根気強くかけ直しながら壁に目をやる。年代物の古時計はわしらに先駆け、ある遠い日の午前一時二十五分で動かなくなっていた。

「ごめん、いま会議中なんだ」

「会議がなんだ。親をコケにしやがって。わしはまだ耄碌しとらんぞ」

「分かった、分かってるって、あとでかけ直すよ」

「どうしたの?」

「倅がわしに家政婦を寄越したんだ」

「親孝行のいい息子さんじゃない」

「バカな、あいつはただ」

「うちの息子なんか……」

 店員はカウンター席の椅子に座り、干からびたソーセージみたいな足を組み、じれったそうにタバコに火をつけた。「ぷはぁ」と白い煙を吐き、客に出すはずのコーヒーを自分に淹れると、通路を挟みわしに延々と愚痴った。

 こんなカフェだがよく利用している。

 店を出たのは五時過ぎだったはずだ。倅がわしに電話をかけてくるのがたいてい、銀行の営業時間が終わった直後だからだ。

「ごめんごめん、家政婦のことだよね。馬が合わなかった?」

「そういう問題じゃない。お前は相談もせずわしに家政婦をつけることにしたな。どういう魂胆だ」

「魂胆って、ひどい言い方だなぁ。ぼくはただ父さんのことを心配して」

「わしがボケてお前に迷惑をかけることを、だな」

「そんなだから父さんとは何も相談できないんだ」

「ともかくわしに手伝いなんか必要ないからな」

「もう1カ月分の給料を前払いしてあるんだから、少しの間だけ目をつぶってくれよ」

 そうかそれは惜しいなと思っている隙に、倅のやつは一方的に電話を切った。

 手伝いが必要と思われたこともそうだが、それ以上に無駄な出費をさせることが苦痛じゃ。

 わしはもう七十六になるが、なかなかどうしてしっかりしておる。五階の部屋まで息を切らさず上がれる。エレベーターなど不要じゃ。頭もはっきりしてる。カフェでいつものランチを食べた後にいつもの雑貨屋に寄ることだって忘れない。

 雑貨屋はカフェの対面にある。最近は近くにコンビニとかいう店ができたせいで客が減っているが、わしが買う物を把握している顔なじみの店員がいる雑貨屋の方が好みじゃ。

「いらっしゃい。またいつものやつだね」

 キザなちょびヒゲを生やした中年男は紙袋に手際よく商品を入れる。タコス味のスナック菓子、安物のジン、それに地元メーカーが作る薬っぽい匂いがクセになる紫色のコーラ。

「こんなもんで済ませちゃだめだよう」

「分かっとるよ」


 あなたは爺さんが薄い紙袋を後生大事に抱え雑貨屋から出てくるのを見る。

 十一月下旬の夕方、今冬の初雪が降った。雪はまたたく間にずんずん積もり、街を銀一色に染めた。爺さんは雑貨屋の店先できょろきょろし、雪で方向感覚を失ったのか、団地に背を向け歩き出す。歩道に不揃いな足跡を残しつつ。

 爺さんは三ブロック先の大きな建物の前で足を止めた。門がなければ警備員もおらず、誰でも敷地内に自由に入れそうだが、爺さんは目に見えない壁に阻まれたかのようにそこに立ち尽くす。あなたは爺さんから目をそらし、一階の窓から建物の中を見る。明るく広々とした食堂では、爺さんと同じぐらいの歳の高齢者がテーブルに行儀よく座り、栄養バランスの良い夕飯を食べている。外から見ているだけでも、部屋の中が暖炉で暖かく、和気あいあいとしていることが分かる。食堂の片隅には早くも大きなクリスマスツリーが置かれている。

 あなたは爺さんの肩がぶるぶる震えていることに気づく。爺さんは紙袋をしっかり抱え直し、今度はまっすぐ団地に向かい歩き出した。

 団地の西エリアに入って間もなく爺さんが転んだ。痛みに耐えうずくまっていると、心配した歩行者の男女が彼に声をかけた。爺さんは「大丈夫」を繰り返し、うっとうしそうに手を振る。親切にしてやってるのになんだその態度はと男が怒りそうになると、女は男の耳元に口を寄せ、何かを囁く。男は納得したように大きく頷き、女の手を握りその場を立ち去る。

 爺さんは二十分もするとようやく立ち上がった。その間、一度も携帯電話を取り出そうとしなかった。爺さんはよろめきながらマンションに入り、手すりを使い階段を上り始めた。


 あんなボケた偏屈ジジイの家政婦をやれだなんて信じられない!

 午後のまだ早い時間。私は新しい勤め先になりそうな団地に近いバス停に立っている。

 でもいいこと、もう二十歳の大人なんだから落ち着いて考えなさい。爺さんの世話をするったって、トイレとお風呂は自分でできるんだし、この仕事としては楽なほうよ。それに給料だって悪くないわ。爺さんの息子は地銀の取締役とかでリッチだから、上手くやればボーナスも出してくれるかも。そしたら彼氏にプレゼントだって買ってあげられるじゃん。

 とにかく今度ばかりは根気強く働かないと。こないだ嫌味な大家が彼氏に、次に家賃を滞納したら追い出すって脅してたから。貧乏だと足元を見られるのよね、あんなに才能がある人なのに。

 私はバスを降り、近所のスーパーで食料を買い込んだ。給料を前払いでもらったから今日は栄養のつく物を作りましょう。

 エレベーターで八階に上がり、合鍵を使い、マンションのドアを開く。同居生活を初めてもう半年ぐらいになるけど、落ち着き癒やされる彼氏の匂いが、またたまらなくいいのよね。それに彼氏の部屋の本棚。私にはちんぷんかんぷんの、音楽の理論だかなんだか難しいことが書かれている古い本からは、年代物のワインのコルクみたいな甘く芳醇な匂いが漂い、それが彼氏の品格をいっそう高めてくれる感じがする。

 狭いキッチンで料理中に彼氏が帰ってきた。私は慌てて手を洗い、エプロンで拭き、彼を出迎える。暗く沈んだ顔。今日もダメだったんだ。

「音大なんか出て何になるんだって、わざわざ面接官の嫌味を聞きに行ったようなものだよ」

 私は彼を慰めたいけど、そのための言葉を持たない。本当に何になるんだろうね。でも私はあなたの尊さを知ってるよ。あなたが本当はすごい人なんだって。

 彼氏はキッチンに入り、冷蔵庫のシャンパンに驚く。

「おいおい豪勢だな。お金は大丈夫なのか」

 心配しないで。あなたが成功するまで私が工面するから。

「家政婦のバイトに採用されたの。これが一カ月分のお給料よ」

 彼氏の顔がぱっと明るく輝いた。玩具を手にした少年のよう。作曲に専念する時の難しい顔とは対照的。

「飲みすぎるなよ。きみは自分が思っているほど酒に強くないんだから」

 彼氏はいつも私の体を心配してくれる。たまにお酒を飲んで上機嫌になるぐらいで大げさに驚いたりして。

 私は出来上がった料理を狭いリビングのテーブルに並べ、しばらく使ってなかったワイングラスを取り出し、それにシャンパンを注ぐ。薄桃色がかった金色の液体が星屑のような泡を立てる。私たちの希望に満ち溢れた未来の予兆のように。

 食事を始めた。彼氏は食事中にテレビをつけることを好まない。照明も暖色に調節済み。薄ぼんやりとした部屋の窓から、マンションの外に広がるネオン街を見下ろし無言で食事をすると、不思議と心が安らぐものだ。

 普段なら黙って頭を空っぽにする彼氏も今日ばかりは、「厄介な人じゃなかっただろうね」と気遣ってくれる。

「ええ。体はまぁいいんだけど、ただ頭がちょっと」

「認知症か」

「物忘れが激しくなるだけなら分かるんだけど、初対面の私を相手に、妄想じみた話を延々と聞かせるの」

「へぇ、どんな?」

「◯◯って人、知ってる?」

「知ってるも何も、この国を代表する有名女優じゃないか。こないだ見た映画にも出演していたな。もう七十代だっていうけど気品があって。昔は清楚な美少女で、アイドルみたいな存在だったそうだけど」

「その女優と知り合いっていうか、付き合ってたっていうのよ」

「バカな。だったら古いマンションで一人寂しく暮らしているはずがない」

「そうなのよ。でも本人はそう信じ込んでいるからタチが悪いの。なんでも学生時代に彼女と知り合って、恋に落ち、逢瀬とやらを重ねたけど、結局離れ離れになったんだって」

「どうして」

「それが話してくれないの。きっとまだ話の続きを作り終えてないのよ」

「となると、認知症とも限らないね。新しく知り合ったきみの関心を引こうとしているのかも」

「なんにしてもそんな与太話にこれから付き合わされるのかと思うと気が重いわ」

「仕事だから仕方ないな」

「そうね。ところであなた、手紙の出し方って知ってる?」

「むかし小学校で習った気がする。はがきか封筒に切手っていうのを貼り、外のポストに入れるそうだね。それがどうしたい?」

「あの爺さん、女優に手紙を書きたいそうなの」


 そうじゃ。わしも老い先短いから、今のうちに伝えたいことがあるんだ。

 あの頃は国も民も若かった。民全体が国のより良い明日を信じ、誰もが若者のような無謀な自信を持っていた。

 わしが生まれた頃にはすでに国が国としての体裁を整え、一通りの機能を備えていた。各国との外交も始まり、国際舞台で恥をかかされることもしばしばだった。国内ではいつか先進国に一矢報いてやろうという気運が高まっていた。臥薪嘗胆の日々。わしらはじっと耐え、力を蓄え、その力を試す未来を待っていた。

 先進諸国にならい学校教育が始まった。おかげでわしは小学一年生から教育を受けることができた。国語算数体育、それに世界共通語。おかしなものだが、グローバル化された今の世代よりわしらの方が流暢にそれを話せる。

 とにかくわしは中学を卒業し、高校に上がった。高校とは国営企業や軍隊で働く優秀人材を育成する場だった。わしはそこで工業を専攻した。卒業後は軍需工場で働くつもりで、勉強と実習に励んだ。スポンジのように何でも吸収した。知識も技術も愛国思想も、それから愛情も。

 あの人はある財閥の箱入り娘じゃった。同じ高校に通う庶民のわしは、選択科目で彼女と同じ教室になることがあった。どんな人だったかって? それは言葉では言い表せないような美しささ。生まれ持っての気品というか、楚々とした佇まいで、ただそこにいるだけで白い花の清い香りが漂い、見る者の邪な心をかき消すような印象じゃった。当然、周りの全員が彼女に憧れた。しかし誰も彼女と親しくなれんかった。女子は金持ちの彼女を敬遠し、男子は高嶺の花と勝手に諦めた。わしは……わしも最初はそうじゃった。

 ある雨の日の放課後、わしは返す本があったから図書室に行った。たまには息抜きもいいだろうと思い小説を読んだ。雨がしとしと降り、ページをぱらぱらめくり。わしが久しぶりに本から顔を上げると、テーブルを挟んで向かい側に座るあの人と目が合った。水たまりに雨粒が落ちたように、彼女の瞳が静かに揺らめいた。

「あの、お勉強?」

「ええ。そんなところです」

 わしが彼女の声をまともに聞いたのはそれが初めてじゃった。しばらく発声していなかったせいか、か細くかすれておったが、芯の強さを感じさせた。

 彼女の手前には本も勉強道具も置かれてなかった。ずっとそこにいて、わしに話しかける頃合いを見計らっていたのだろうか。

「あなたもこんな遅くに勉強ですか」

「いえ、その、どうも手違いがあって」

 雨の日はいつも屋敷の方から車が迎えに来るはずなのだが、今日はそれがなぜか来ない。歩いて帰りたいが傘がない。

「それならぼくのを使ってください」

「それではあなたが濡れてしまいます」

「男ですから気にしません」

「私は気にします。ですから、差し支えなければ一緒に使わせてもらえませんか」

 わしと彼女は学校を出て、湿った道を歩いた。当時は街灯が少なかったから月明かりがなければほぼ真っ暗じゃった。それなのに、すぐ隣を歩く彼女のまぶしいこと。わしは下ばかりを向いた。長いスカートの下に見える彼女のふくらはぎは白く引き締まり、青春の麗しさが満ち溢れていた。わしは傘を握る右手を彼女の方に伸ばし、代わりに自分がずぶ濡れになるのが心地よくてたまらなかった。美しく可憐なものを守っているという満ち足りた感覚があった。

 その時、わしの右手が、みずみずしい温もりを帯びた柔らかい肌で包まれた。

「雨がかかってます。もっと中に入ってください」

「ぼ、ぼくはいいんです」

 彼女はいっそう強くわしの手を握り、押し返し、「あなたに悪いから」と強い声で言った。

 わしはついに彼女の顔を見た。瞳はもはや水たまりではなく奔流になっていた。その勢いに耐えかねるかのように、彼女はわずかに眉をしかめ、顔を赤らめていた。わしは彼女を怒らせたと思い、「じゃ、じゃあ」と言うと、一緒に傘に入った。

 風はなく、雨は天からまっすぐ降り注いだ。傘の下にできた円筒のような空間でわしらは身を寄せ合った。近づくとかえって彼女から花の匂いがしなくなった。代わりに乳飲み子のような、甘く清らかな香りがわしの鼻腔をくすぐった。わしは母の懐に抱かれたような懐かしい気分に浸り、肩の力を抜いた。

 それからはあっという間じゃった。雨が小ぶりになり、止んでも、わしらは気にせずそのまま歩き続けた。角を曲がると唐突に彼女の屋敷が見えてきた。すべての部屋の電気がつき、執事や女中が慌ただしく門を出入りしていた。

「送ってくれてありがとう。ここまででいいから」

「でも……」

 彼女はにっこり笑い、傘の下から出て、手のひらを上に向け両腕を広げた。わしは傘を畳んだ。

「それに、男の子と一緒にいるところを見られたくないから」

 彼女はわしの返事を待たず、踵を返して屋敷に向かい走っていった。

 言うまでもなく、わしはその日から恋に落ちた。

 学校にいる時は常に目で彼女を探した。人混みをろ過し、彼女の姿だけを取り出す。これは恋する者なら誰でもできることじゃ。彼女もわしに同じことをしてくれた。わしらは毎日、廊下やどこかで必ずすれ違った。彼女は頭を小さく下げ、わしに会釈をした。人目を忍ぶその様子にわしの心はときめいた。

 たいていの男は憧れの女にふさわしい人になろうと己を高めたがるものじゃ。わしもそうで、あの人に恋することで学業に支障をきたすことはなかった。わしは彼女と分不相応だと知ってたから激しく勉強した。その甲斐あって、次の学内共通テストでわしはトップになった。二位は彼女だった。わしの名前が彼女の隣に並んだことがこの上なく誇らしかった。

 男子と女子の成績最上位は、校庭で全学年の生徒の前で表彰された。学年主任は、わしらを見習いお国のために猛勉強しろと生徒たちに発破をかけ、わしらには増長せずますます励めと戒めた。わしは神妙な顔で頷き、彼女と共に壇上を下りながら、小声でこう言った。

「それじゃあ図書室で一緒に勉強しようか」

「ええ」

 その日からわしらは放課後、ほとんど毎日一緒に勉強した。あの表彰のおかげでわしらは自然とセットにされ、図書室で二人きりで学習していてもまったく怪しまれなかった。わしと彼女は専攻違いで、別々に宿題をやり自習することが多かったが、世界共通語だけは一緒に学んだ。わしらは教科書に載っている会話を練習することに飽き足らず、辞書を引きながらさらに話を膨らませていった。

 外国語ならば、母国語でも聞きにくいことを聞けてしまうものだ。わしらは下校中、趣味や好きな食べ物、休日の過ごし方、家庭環境や家族関係などの情報を交換した。わしらは相手のことをもっと知りたかった。

「大人になったら何になりたい?」と、彼女は世界共通語でわしに聞いた。

「立派な技術者になり、お国のために貢献したい。きみは?」

「それが分からないの。お父さんもお母さんも家の跡継ぎになる弟に夢中で、私みたいな望まれず生まれてきた女の子のことなんてどうでもいいみたい」

「そうなんだ」

「だからせめて自由に生きさせてほしいのに、あれはするなこれもするなばっかり。もううんざりしちゃう」

「きみは家を離れ自分の可能性を試すべきだ」

「そんなこと分かってるわ。でも、そうするわけにはいかないのよ」

 当時は今ほど女性が自立できる時代ではなかった。ましてや彼女のような恵まれた環境から無一文の女になろうなど正気の沙汰とは思えん。わしもまだ、「きみを守ってやる」などと言う資格はなかった。

 晴れた日の下校中、わしは彼女に下々の暮らしの楽しみを教えてやった。駄菓子屋で買い食いし、川で水切り遊びをし、爆竹を鳴らし、いつも最後には公園でブランコを漕いだ。全身で同じ風を浴び、夕焼け空に浮かぶ雲を数え、一番星を指差す。わしらはそんな日々を繰り返し、穏やかにゆっくりと感情を深めていった。

 そのまま何も起きなければ、わしらもなんとなく卒業し、別れていたかもしれん。激しく燃えるかに見えた火は紙から焚き木に燃え移らず、もうもうと煙ばかりを吐き虚しく息絶えていたかもしれん。そうなる前に火に油を注いだのは戦争じゃった。

 わしらはあの日、やはりブランコを漕いでいた。彼女は立ち乗りし、勢いよく漕ぎ、そのまま遠い彼方へ飛んでいきそうだった。座って考え事をしていたわしが先に変な音を耳にした。雷のようじゃがそうではない。ゴゴゴゴと続き止むことを知らず、だんだん近づいてくる。それは轟音になりわしらの頭上を飛び越え、空中で大きく旋回し、海にまっすぐ向かっていった。

「あれはなに?」

「戦闘機だ、迎撃だ」

 すぐさま電柱の拡声器から警報が鳴った。こんな時、わしらは避難所の学校に集合することになっていた。わしはとっさに彼女の手を引いた。ずっとチェーンを握っていたからか、彼女の手は冷たくこわばった感触がしたが、力強くわしの手を握り返した。

 校庭にはすでに近隣住民が集まっていた。わしらは別れ、自分の家族を探した。その間、少し前にわしと彼女が立った壇に校長が上がり、マイクを使って短くこう伝えた。

「彼の国が我が国に宣戦布告しました!」

 寝耳に水だった。わしらはいつか必ず軍事大国になり、我が国の力を世界中に知らしめるつもりじゃったが、それが今日からになるとは。

 わしは家族を見つけた。戦争と聞き、まだ小学生の妹は恐怖で全身を震わせた。母も不安そうな顔をしていた。わしは家族の命を脅かす敵が憎く、海の彼方の空を睨みつけた。

 警報が鳴り止んだ。校庭にいても何の役にも立たないので解散となった。わしは家族と帰ろうとしたが、木の下で一人ぽつんと佇む彼女を見つけ、駆け寄った。

「どうした」

「家族がいないの。たぶん自宅の防空壕に隠れていると思う」

「きみをほったらかしにしてか。ぼくが送るよ」

 わしは家族に事情を説明し、彼女と二人で学校を離れ、いつもの通学路を歩いた。人々は大急ぎで自宅に向かった。そこが安全なわけでもないのに、やはり安心を求めるのじゃな。とにかく町全体が騒然としておった。絶えず遠くから爆音が伝わってきた。敵機が海に墜落し、金属と燃料の匂いがする煙を立ち上らせ、それが固まり黒雲になり汚い雨を降らせた。まだ夕方なのに真っ暗になった。どの家も電気を消していた。

 わしらはふと、また手を握り合っていることに気づいた。明日は生きられないかもしれないという恐れと、生きるのは今しかないという情熱が若い心を騒がせた。わしは人々が逃げ惑う暗闇の中、彼女を抱いた。彼女もわしを抱き返した。初めての口づけは血と雨の味に引き立てられこの上なく甘美だった。

 余韻に浸りながら彼女の屋敷の前にたどり着いた。わしは再び彼女を抱き寄せ、耳元で、母国語でこう囁いた。

「ぼくは戦争に行くよ。この国の未来を切り開くため、きみら愛する人を守るため」

 雨が大降りになり、わしを止めようとする彼女の声をかき消した。聞こえなくても何を言っているかは明らかじゃった。それでもわしは行かねばならなかった。彼女との身分違いの実らぬ恋を諦めて。

 わしは今でも雨の日が好きじゃ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ