出会い
天井から水滴が落ちる。
カーターは何度目か分からないほど顔を拭った。
「この場所、終わりがないのかよ……」
クリストファーは無言で隣を歩く。
プールルームはどこまでも続いていた。
黄色い壁。
浅い水。
低く響く照明の音。
その時——
半分水に沈んだ扉があった。
錆びた蝶番。
カーターは目を細める。
「さっき、あんなのあったか?」
クリストファーは首を振る。
二人は迷わなかった。
扉を押し開ける。
光が、二人を飲み込んだ。
足を踏み出す。
草が足に触れる。
広い野原。
果てしなく続く平原。
だが——
おかしい。
すべてが灰色だった。
空も。
草も。
遠くの地平線さえ。
まるで、鮮やかな草原の写真を撮り——
それを完全にモノクロに加工したような世界。
カーターはゆっくりと周囲を見渡す。
「……気が滅入るな。」
クリストファーはしゃがみ、草に触れる。
感触はある。
だが、生命感がない。
二人は歩き出した。
目的地はない。
ただ進む。
カーターが口を開く。
「で……これからどうする?」
クリストファーは前を見据える。
「生き残る。」
遠くに人影が現れた。
かなり離れた場所から、こちらへ向かって歩いてくる。
一定の速度。
迷いのない足取り。
カーターが目を細める。
「……あれ、見えてるよな?」
クリストファーはうなずく。
影は徐々に近づく。
背が高い。
落ち着いた様子。
両手を後ろに組んでいる。
数メートル手前で止まった。
穏やかな笑みを浮かべる。
「ごきげんよう。」
静かな声。
「私の名は、エリアス。」
カーターが口を開く。
「俺の名前はカ——」
「おやおや。」
エリアスが指を立てる。
「君の名前は、すでに知っている。」
カーターの表情が固まる。
「は——?」
その瞬間。
エリアスがカーターの手を掴んだ。
次の瞬間——
カーターが地面に倒れる。
喉が裂けるような叫び。
頭を抱える。
全身が激しく震える。
「やめろ——!!」
叫びは悲鳴に変わる。
痛みだけではない。
恐怖。
生の、本能的な恐怖。
クリストファーが前に出る。
「何をした!!」
反射的にライフルへ手を伸ばす——
ない。
空を掴む。
あのカエル。
ハイになった時に落としたのだ。
エリアスは淡々と言う。
「人を定義するのは、その恐怖だ。」
視線がクリストファーへ向く。
「君は何を恐れている?」
エリアスがクリストファーの手を掴む。
——何も起きない。
沈黙。
エリアスの眉がわずかに動く。
クリストファーは手を振り払う。
「もう一度聞く……何をした?」
エリアスは小さく息を吐く。
「どうやって——」
一瞬の間。
「……いいだろう。」
地面でのたうつカーターを見下ろす。
「彼の恐怖の“核”を取り出し、それを極限まで増幅させた。」
カーターの悲鳴がさらに強まる。
「だが、君には効かなかった。」
エリアスは目を細める。
「なぜだ?」
クリストファーは黙る。
自分でも分からない。
やがてカーターの悲鳴が弱まる。
荒い呼吸をしながら立ち上がる。
背中からライフルを抜く。
「簡単だ……」
息を切らしながら言う。
「こいつは記憶がない。」
エリアスが振り向く。
「それが?」
「何を恐れていたのか、覚えてない……」
カーターが引き金に指をかける。
「“恐怖”そのものを、覚えていない。」
次の瞬間。
エリアスが回転する。
一瞬でカーターの武器を弾き飛ばす。
ライフルが空中を舞う。
エリアスがそれを掴む。
カーターに向ける。
引き金を引く。
カチッ。
その刹那——
カーターは二丁目のライフルを抜く。
銃声。
エリアスの手から銃が吹き飛ぶ。
カーターは再び撃とうとする——
カチッ。
弾詰まり。
エリアスが動く。
灰色の残像。
拳が振り下ろされる。
カーターはかろうじて回避。
クリストファーが突進する。
拳を振るう。
エリアスは滑るように避ける。
反撃。
鋭い一撃がカーターの肋骨に叩き込まれる。
接触した瞬間——
能力が再発動する。
カーターが崩れ落ちる。
絶叫。
痛みを超えた。
純粋な。
生々しい恐怖。
クリストファーが再び飛びかかる。
だがエリアスは振り向きざまに顔面を打ち抜く。
腹部。
顎。
連続の打撃。
クリストファーがよろめく。
エリアスは止まらない。
容赦なく殴り続ける。
灰色の野原は静まり返ったまま。
色のない世界が、ただ見ていた。
ジャック
ジャックは分からなくなっていた。
自分は正しい側にいるのか。
上司のケアルは——神になろうとしている。
そして、あの男なら。
成功する可能性は十分にあった。
本来なら恐れるべき考え。
だが今は——
考えている暇はない。
命令が下った。
デッドスペースの拠点に侵入した民間人二名の排除。
ジャックはその支援として派遣された。
歩きながら、手袋の感触を確かめる。
デッドギフトを得たのは二か月ほど前。
長い時間ではない。
それでも彼は、会社の“犬”の中でも特に信頼されている。
忠誠心があるからではない。
従順だからでもない。
能力が強力だからだ。
――《消去》。
自分より弱い相手、あるいは物体に触れれば。
接触部分はひび割れ。
ガラスのように砕け。
存在ごと消える。
完全に。
跡形もなく。
もし相手が自分より強ければ——
消えはしない。
ただ、激痛を与えるだけ。
指を軽く動かす。
「……なんて使いづらい能力だ。」
それだけではない。
彼は“時間”も消せる。
約〇・五秒。
一瞬を飛ばすことができる。
だが発動するたびに——
小さな、だが確かなリスクがある。
自分自身を消してしまう可能性。
存在を賭ける能力。
灰色の野原が視界に広がる。
白。
黒。
色のない草原。
生命の抜け落ちた地獄。
そして——
彼はそれを見た。
カーターが地面に倒れている。
絶叫。
痛み以上の。
純粋な恐怖。
クリストファーは血まみれ。
何度も殴られ、立つのもやっとの状態。
その前に立つエリアス。
冷静。
乱れ一つない。
ジャックはゆっくりと息を吐く。
状況は理解した。
その瞬間——
決断した。
迷いはない。
音を立てずに近づく。
灰色の草が揺れる。
エリアスは気づかない。
ジャックは背後に立つ。
一瞬。
腕を伸ばす。
触れる。
ひびが走る。
陶器のように。
胸部に穴が開いた。
綺麗に。
正確に。
“消去”された空洞。
時間が止まったような静寂。
次の瞬間——
血が噴き出す。
灰色の世界に、黒い液体が流れる。
エリアスが前のめりに崩れる。
ジャックは一歩下がる。
クリストファーがゆっくりと顔を上げる。
視線が交わる。
その目は——
空虚だった。
恐怖も。
安堵も。
感謝もない。
何もない。
その無表情を見た瞬間。
ジャックの胸に、わずかな不安が生まれた。
エリアスは灰色の草の上に崩れ落ちた。
血が広がる。
色のない世界に、濃い影だけが滲む。
風は吹かない。
空も沈黙したまま。
残ったのは静寂だけだった。
カーターは横たわったまま荒く息をする。
クリストファーは口元の血を拭い、無言でジャックを見つめている。
ジャックはゆっくりと両手を上げた。
「俺はお前たちを殺しに来たわけじゃない。」
カーターが苦く笑う。
「それは信じにくいな。」
ジャックは倒れたエリアスに視線を向けた。
「お前たちをここに送り込んだのは、ケアルという男だ。」
クリストファーは瞬きもしない。
「お前たちは、奴の計画における“想定外の変数”なんだ。」
カーターが膝をつきながら問い返す。
「計画?」
ジャックはわずかに間を置く。
「神になることだ。」
灰色の空気がさらに冷える。
「ケアルは“エネルギーを吸収する能力”を持っている。」
「物体。人間。条件を満たせば何でもだ。」
クリストファーの表情は変わらない。
ジャックは続ける。
「この場所には上位存在がいる。」
「S-002と、S-001だ。」
カーターが睨む。
「説明しろ。」
「S-002は“ヘルパー”。」
「価値があると判断した人間にデッドギフトを与える存在だ。」
自分を指す。
「俺の能力もそれだ。」
一呼吸。
「S-001は“エンフォーサー”。」
「この場所のルールを執行する存在だ。」
「主に、レベルの大規模な破壊。」
「それを行った者を——消去する。」
跡も残らない。
存在ごと。
クリストファーが静かに言う。
「ケアルはそれを吸収するつもりか。」
ジャックはうなずく。
「奴はあいつらを“エネルギー”だと考えている。」
「エネルギーなら吸収できる、と。」
カーターの目が細くなる。
「吸収できたら?」
「人間を超える。」
ジャックは低く言った。
「奴の中では、それが“神”だ。」
沈黙が落ちる。
灰色の草がわずかに揺れる。
「だから止める必要がある。」
ジャックの声は静かだった。
カーターは立ち上がり、まだライフルを握ったまま。
「なぜ俺たちに協力する?」
ジャックはすぐに答えなかった。
自分でも完全には分からない。
「……神の下で働く気はない。」
カーターの目は鋭いまま。
銃は完全には下がらない。
信頼はない。
まだ。
そして——
クリストファー。
彼はただ見ている。
感情のない瞳で。
読めない。
空洞のような視線。
ジャックの胸に、わずかな違和感が残る。
この男は——
どこか欠けている。
灰色の野原は果てなく続く。
色のない空。
前方には、人を超えようとする男。
そして今——
三人は同じ敵を見据えていた。




