84話 選ばれる者、選ぶ者
春の気配が、屋敷の中にもゆっくりと入り込んでいた。
開け放たれた窓からは、まだ少し冷たい風が吹き込んでくる。けれど、その中に混じる空気はどこか柔らかく、冬の終わりを確かに告げていた。
「……少し、暖かくなってきたね」
窓辺に立ちながら、ぽつりと呟く。
庭の木々には、まだ目立った変化はない。けれど、よく見れば枝の先に小さな芽が膨らみ始めている。
ほんのわずかな変化。
でも――それは確かに、季節が進んでいる証だった。
「エレノア様」
背後から、落ち着いた声がかかる。
振り向けば、リリアが書類を抱えて立っていた。
「候補者一覧が整いました」
「……もう?」
思わずそう返すと、
「はい。各方面からの推薦も含め、一次選定を終えております」
淡々とした口調。
けれど、その内容は決して軽くない。
「……そっか」
視線を窓から外し、ゆっくりと机へ向かう。
春が近づくのと同じように。
こちらもまた――止まることなく進んでいる。
椅子に腰を下ろし、差し出された書類へと手を伸ばす。
「……私が決めるわけじゃないけど」
小さく、独り言のように呟く。
最終的な決定は、王城。
ここでの判断はあくまで“選定”。
けれど――
「……ここで落としたら、そこで終わりなんだよね」
誰にも届かない声で、そう続けた。
一度外された名前は、もう戻らない。
推薦も、経歴も、実績も。
すべてがあっても――
“ここを通らなければ意味がない”。
「――はい」
リリアは静かに頷いた。
「本選定に進めるか否か。その判断は、こちらに委ねられております」
「……責任、重いね」
自然と、そう零れる。
「相応の権限でもあります」
淡々とした返答。
けれど、その言葉ははっきりと現実を示していた。
「……」
一瞬だけ、視線を落とす。
けれど――すぐに上げる。
逃げる理由にはならない。
「……見せて」
そう言って、書類を開いた。
そこに並ぶのは――
名前と、経歴と、評価。
そして。
「……ずいぶん、多いね」
静かに、そう呟いた。
ページをめくる。
最初に目に入ったのは、整った筆致で記された経歴だった。
「……王都中央工房、所属歴七年……主任補佐」
小さく読み上げる。
年齢、実績、評価――どれを取っても申し分ない。
「優秀、ですね」
リリアが簡潔に補足する。
「推薦も複数。現場経験も十分にございます」
「……うん」
視線を落としたまま、もう一度確認する。
確かに、良い人材だ。
けれど――
「……今回は、外そう」
静かに告げる。
「理由をお伺いしても?」
「悪くない。むしろ優秀」
一度言葉を区切ってから、続ける。
「でも、この人は“整ってる場所”で力を発揮するタイプだと思う」
「……なるほど」
「今のこっちには、まだ早いかな」
設備も、人も、これから整えていく段階。
その中で求めるのは――
「多少荒くても、動ける人」
「承知いたしました」
さらりと印がつけられる。
一人、外れた。
「……次」
ページをめくる。
「地方工房出身……現場中心」
「小規模環境での対応力に優れるとの評価です」
「……いいね」
自然と頷く。
「こういう人、欲しい」
「本選定対象に残します」
「お願い」
迷いはない。
「……次」
三人目。
「研究寄り、か」
「理論構築を主とする人材です」
「……悪くはないけど」
少しだけ考える。
「今は後回しでいいかな」
「保留で?」
「うん」
淡々と進んでいく選別。
けれど――
「……あ」
ふと、手が止まる。
四人目の欄。
「どうされましたか」
「……この人」
目を細める。
経歴は目立たない。
実績も、特別多いわけではない。
けれど。
「……現場評価、全部安定してる」
「はい。“堅実”との記載が多く見られます」
「失敗も少ない」
「そのようです」
少しだけ考えてから、
「……残して」
そう告げる。
「承知いたしました」
派手さはない。
けれど――
「こういう人、必要だと思う」
「同意いたします」
リリアも静かに頷いた。
「……次」
さらにページをめくる。
気づけば、最初よりも迷いが少ない。
理由も、自然と言葉になる。
「この人は――」
選ぶ。
外す。
保留にする。
その繰り返し。
「……思ってたより、できてるかも」
ぽつりと呟く。
「ご自身で気づかれていなかっただけかと」
リリアの声は変わらず落ち着いている。
「普段から、人の適性は見ていらっしゃいますので」
「……そうかな」
少しだけ苦笑する。
けれど。
「……現場で見てきた分、か」
「経験は大きな判断材料です」
「……うん」
最後のページをめくり終え、書類を閉じる。
机の上には、選ばれた名前と、外された名前。
そして、いくつかの保留。
「……こんな感じかな」
「問題ないかと」
リリアが書類を整える。
「こちらで取りまとめ、王城へ送付いたします」
「……お願い」
背もたれに軽く体を預ける。
ふっと、力が抜けた。
「終わった?」
後ろから、メルが顔を出す。
「うん。一通りは」
「早かったね」
「もっと悩むかと思ってた」
カイルも続く。
「……私も」
正直に答える。
でも――
「ちゃんと見れば、分かるものだね」
小さくそう呟く。
完璧じゃない。
それでも。
「……任された分は、やらないと」
その言葉に、リリアは静かに頷いた。
窓の外では、やわらかな風が枝を揺らしている。
春は、もうすぐそこまで来ていた。
「……次は、受け入れ準備だね」
ぽつりと呟く。
選ぶだけじゃ終わらない。
ここからが、本番だ。
「……忙しくなりそう」
そう言いながらも――
その声は、どこか少しだけ前向きだった。
「では、受け入れに向けた準備に移行いたします」
リリアが手際よく書類をまとめながら言う。
「部屋の割り振り、作業区域の確保、資材の再配置……優先順位を整理いたします」
「……やること多いね」
思わず、正直な感想が漏れる。
「はい」
即答だった。
「ですが、既にある程度は進めております」
「……さすが」
小さく苦笑する。
本当に、抜けがない。
「エレノア様には、最終確認をお願いできればと」
「うん、それならできる」
全部を抱え込む必要はない。
任せられるところは任せる。
「……それでも、結構動かないといけないよね」
「そうだな」
カイルが腕を組みながら頷く。
「人が増えりゃ、回るようにはなるけど、その前が一番大変だ」
「最初が一番忙しいってやつね」
メルも同意するように言った。
「……だよね」
小さく息をつく。
分かってはいたけれど、実感として重くなるのはこれからだ。
「――本日中に、ある程度の配置案はお出しできます」
リリアが淡々と続ける。
「明日以降は、実際の導線確認に移行可能です」
「……早いね」
「時間が限られておりますので」
無駄がない。
本当に。
「……じゃあ」
椅子から立ち上がる。
「その配置、見に行こうか」
「かしこまりました」
すぐに返ってくる返事。
「動くのか?」
「うん。座って考えるより、見た方が早いし」
「それは確かに」
カイルが軽く肩をすくめる。
「じゃ、付き合うよ」
「私も行くー」
メルも手を上げた。
自然と、全員が動き出す。
「……ノエルは?」
ふと視線を向ける。
窓際、いつもの場所。
「……いる」
短い返事。
いつの間にか、そこにいた。
「……行くよ?」
「勝手にしろ」
そっけない言葉。
けれど――
そのまま、立ち上がる気配。
「……来るんだ」
小さく呟くと、
「護衛だ」
一言だけ返ってきた。
「……そっか」
少しだけ、口元が緩む。
「じゃあ、行こうか」
扉へ向かって歩き出す。
その後ろを、自然と皆が続く。
屋敷の中はまだ整いきっていない。
空いた部屋、積まれた箱、これから変わっていく場所。
けれど――
「……ここから、だね」
小さく呟く。
整えていく。
人も、場所も。
全部。
春が近づくように。
少しずつ、確実に。
新しい拠点が――
形になっていく。
「まずは、空いている部屋の確認からですね」
リリアが先導するように歩き出す。
「こちらになります」
案内された先の扉を開けると――
「……広いね」
思わず、そう呟いた。
がらんとした空間。
まだ何も置かれていない分、その広さが際立つ。
「ここを数室、人員用に調整予定です」
「……何人くらい?」
「現時点の選定数ですと――」
一拍。
「十数名ほどになります」
「……十数」
復唱する。
その言葉が、ゆっくりと現実として落ちてくる。
「……」
視線を、部屋の中へと巡らせる。
ベッド。
収納。
作業スペース。
生活導線。
そして――
「……足りなくない?」
ぽつりと呟く。
「調整は必要になります」
リリアは淡々と答える。
「隣室との連結、または一部用途変更を検討しております」
「……つまり」
カイルが横から口を挟む。
「大改造だな」
「ですね」
即答だった。
「……あはは」
思わず、乾いた笑いが漏れる。
「軽く見てたかも」
「今からでも遅くはありません」
リリアは変わらず落ち着いている。
「段階的に整備していけば問題ございません」
「……うん」
頷きながらも、
視線は部屋から動かない。
広いはずの空間。
けれど今は――
全然足りていないように見える。
「……」
小さく息を吸って、
吐く。
「……やろうか」
そう言うと、
「おう」
「やるしかないね!」
二人の軽い返事。
そして。
「……当然だ」
ノエルの短い一言。
「……うん」
もう一度、頷く。
その瞬間。
「――あ、エレノア様」
リリアが何かに気づいたように口を開く。
「一つ、申し上げ忘れておりました」
「……?」
嫌な予感がした。
「本日中に、追加で物資が搬入される予定となっております」
「……追加?」
「はい。先ほど選定いただいた内容を踏まえ、最低限必要と判断された分が」
「……どれくらい?」
静かに問い返す。
そして――
「先ほどの倍程度かと」
一拍。
「……倍?」
「はい」
当然のような返答。
「……」
視線が、ゆっくりと部屋の中へ戻る。
さっきよりもさらに――
狭く見えた。
「……終わるかな、これ」
ぽつりと零れる。
「努力いたします」
リリアの落ち着いた声。
「任せろ」
「なんとかなるって!」
軽い声が重なる。
そして。
「……寝る時間は減るな」
ノエルの現実的な一言。
「……」
少しの沈黙のあと。
「……春って、忙しいんだね」
小さく、そう呟いた。
誰も否定しなかった。




