71話 王国の要請、毒の町⑱
「ターゲットが客室に戻りました!」
黒鴉商会本部の薄暗い指令室で、式紙を通じて屋敷内の様子を確認していた一人の男が声を上げた。
宙に浮かぶ数枚の式紙には、屋敷の廊下や客室前の様子がぼんやりと映し出されている。
魔力の波動を頼りに、ターゲットの位置を正確に捕捉していた。
「確認。確かに客室に入ったな」
別の男が低く呟く。
部屋の空気は重く、張り詰めていた。
誰もが、今回の依頼の危険性を理解しているからだ。
「よし……三十分後に襲撃開始。ターゲットが逃げた場合は、ヘルガーを排除するよう伝えろ」
冷たい光を放つ式紙の前で、男の手がわずかに震える。
闇の中で数々の仕事をこなしてきた黒鴉商会。
だが今回の獲物は、それまでとは格が違う。
静かに応じる声が、指令室の奥から返ってきた。
「了解」
短い言葉だったが、そこには確かな覚悟が込められていた。
指令室の奥、影のように沈む商会員たち。
テーブルの上には地図、連絡用の魔導具、毒薬の瓶、そして契約書の写しが散らばっている。
その中心で、指揮を執る男がゆっくりと椅子にもたれた。
「この作戦が成功すれば、巨額の金を手に入れられる」
低く、愉悦を含んだ声だった。
「使い潰して売れば、さらに儲けになる」
その言葉に、何人かが小さく笑った。
「例の錬金術師の娘か……」
腕を組んだ男が言う。
「王都でも噂になってるらしいな」
「ポーションの品質が異常だとか」
「精霊と契約してるとかいう話もあるぞ」
「はっ、尾ひれがついた噂だろ」
別の男が鼻で笑った。
「どのみち人間だ。
眠らせて縄をかけりゃ終わりさ」
「それに――」
指揮官の男がゆっくりと言葉を続ける。
「生きていれば高値で売れる。
壊れても、錬金素材として売れる」
一瞬、部屋の空気が粘つくように沈んだ。
「……夢の金袋ってわけだな」
小さな笑いが、いくつも重なった。
やがて指揮官の男が指を鳴らす。
「襲撃班は準備を進めろ。
転移阻害の巻物は忘れるな」
「了解」
数人の男が立ち上がり、指令室を後にする。
式紙の映像の中では、屋敷の廊下が静まり返っていた。
ターゲットの客室の灯りは、まだ消えていない。
「……三十分か」
誰かがぽつりと呟く。
時間は、ゆっくりと過ぎていった。
やがて――
指令室の時計が、静かに刻を告げる。
「時間だ」
指揮官の男が言った。
式紙の映像の中で、闇に紛れた襲撃班が屋敷へと近づいていく。
「襲撃班、配置完了」
通信役が告げる。
「よし……突入しろ」
その命令と同時に、式紙の映像の中で窓ガラスが砕け散った。
襲撃が始まった。
「作戦開始」
指揮官の男が満足げに頷く。
その瞬間だった。
――ドォンッ!!!
凄まじい衝撃音が建物全体を揺らした。
天井のランプが激しく揺れ、机の上の書類がばさりと落ちる。
「……っ!?」
全員が顔を上げた。
そして次の瞬間――
「王国騎士団だ!! 動くな!!」
怒号が酒場の上階から響き渡った。
金属がぶつかり合う音。
重い足音。
剣が抜かれる鋭い音。
それらが一斉に降り注ぐ。
男たちの顔から血の気が引いた。
「ば、馬鹿な……」
誰かが震えた声で呟く。
「どうしてここが……」
上階では、すでに乱戦の音が響いていた。
酒場の客の悲鳴。
椅子が倒れる音。
鎧の金属音。
そして――
地下へ続く隠し扉の前で。
――ドンッ!!!
重い衝撃が扉を叩いた。
「扉を破れ!!」
騎士の怒号が、すぐそこから響く。
「……襲撃と、同時に……?」
指揮官の男が呟く。
その額に、冷たい汗が流れた。
彼らはまだ知らない。
自分たちが仕掛けた襲撃が――
すべて読まれていたことを。
「何故だ!? 襲撃を読むことはできても、ここを同時に襲撃するなんて……いくらなんでも出来すぎている!」
黒鴉商会のボスは驚愕に目を見開きながらも、すぐに声を張り上げた。
「お前ら、迎撃態勢を取れ!! 古代魔法を使っても構わん!」
命令が飛ぶと同時に、構成員たちが一斉に動き出す。
魔導具を取り出す者、巻物を広げる者、武器を手に取る者――。
だが、その中の一人が戸惑った声を上げた。
「これから売る予定の奴隷はどうするんですか?」
その言葉に、ボスは苛立ったように舌打ちした。
「今この場で捕まったら首が飛ぶぞ! 奴隷の心配をしている場合か!」
そして、怒鳴るように続ける。
「それよりも、なんとしてでも逃げるタイミングを作れ!
時間さえ稼げば、裏の転移陣から脱出できる!」
その言葉に、男たちは顔を引き締めた。
「了解!」
地下指令室に、武器を構える音と魔力の唸りが満ちていく。
その時――
――ドォンッ!!
地下へ続く扉が、再び激しく叩きつけられた。
「早く扉を破れ!!」
騎士の怒号が、もう目の前まで迫っていた。
黒鴉商会の地下本部に、戦いの気配が一気に満ちていく。
そして次の瞬間――
扉が、内側へと大きく軋んだ。
――ガンッ!!!
凄まじい衝撃音とともに、地下へ続く扉が内側へと弾け飛ぶ。
砕けた木片と金具が床に散らばり、その向こうから――
武装した騎士たちが雪崩れ込んできた。
鎧の金属音が地下室に響き渡る。
先頭に立つ騎士が剣を掲げ、力強く叫んだ。
「こちらは、セレディア王国騎士団!!
エレノア嬢誘拐未遂、及び王命違反の疑いで――
貴様ら全員を拘束する!!
抵抗すれば、その場で斬る!!」
鋭い殺気が一斉に放たれ、騎士たちが武器を構える。
だが、その言葉に黒鴉商会の構成員たちは怯まなかった。
むしろ、怒りを露わにする。
「はっ……!」
ボスが吐き捨てるように笑った。
「国の犬がほざくんじゃねぇ!!」
次の瞬間、怒号が地下室に響き渡る。
「お前ら――全員殺せ!!!」
その命令と同時に、商会員たちが一斉に武器を抜いた。
剣が抜かれる音。
魔法陣が展開される光。
巻物が破られ、古代語の詠唱が響き始める。
地下本部は、一瞬で戦場へと変わった。
そして――
騎士と闇商会が、真正面から激突した。
「総員! 正当防衛権の行使を許可する!!」
騎士の号令が地下室に響き渡る。
剣が一斉に抜かれ、盾が構えられた。
対する黒鴉商会の構成員は百七十人。
騎士団はわずか五十人。
どう考えても騎士団が不利な状況だった。
この時は、まだ――
黒鴉商会が勝つと、誰もが思っていた。
だが次の瞬間、戦場は一気に混沌へと変わる。
「かかれぇぇ!!」
商会員たちが一斉に突撃する。
「隊列維持! 盾を上げろ!!」
騎士たちは即座に陣形を組み、前列が盾を構え、後列が剣を振るう。
――ガキィン!!
金属が激しくぶつかり合う音が地下室に響いた。
「ぐっ……!」
一人の騎士が剣撃を受けてよろめく。
そこへ、別の商会員が魔法を放った。
「焼き払え! 炎弾!!」
火球が一直線に騎士へと飛ぶ。
――ドォン!!
爆炎が広がり、煙が地下室を包み込んだ。
「やったか!?」
だが、煙の中から姿を現した騎士は――まだ立っていた。
「なに……!?」
騎士は苦しげに息を吐きながら、小瓶を握り潰す。
口元から、淡い光が広がった。
それは――ポーション。
エレノアが作った高品質ポーションだった。
「まだ……やれる!」
傷口がみるみる塞がっていく。
「くそっ、回復が早すぎる!」
黒鴉商会の男が舌打ちする。
その間にも、戦いは各所で激しく続いていた。
剣がぶつかり合い、魔法が飛び交う。
「落ちろ!!」
騎士が一人、鋭い突きを放つ。
――ドスッ!!
商会員の一人が胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。
「ちっ……一人やられた!」
仲間の男が叫ぶ。
だが、それでも戦況は大きくは崩れない。
「囲め!! 数で押し潰せ!!」
商会員たちは数の利を活かして騎士を包囲していく。
「ぐっ……!」
騎士の肩に斬撃が入る。
血が飛び散る。
だが騎士はすぐにポーションを飲み干した。
「まだだ……!」
傷は完全ではないものの、致命傷にはならない。
エレノア製ポーションの効果が、戦線を支えていた。
しかし――
黒鴉商会側も、決して弱くはない。
闇の仕事で鍛えられた荒くれ者たち。
魔法を扱える者も多く、戦い慣れている。
すでに数人の構成員が倒れていたが、
大半はまだ戦える状態だった。
地下本部は完全な乱戦となり、
剣。
魔法。
怒号。
それらが入り混じり、戦場は膠着していく。
騎士団五十人。
黒鴉商会百七十人。
互いに決定打を与えられないまま、
戦いは拮抗していた。
だが――
この時、まだ誰も知らない。
この戦場に、
一人の“想定外”が現れることを。
そしてその人物こそが――
黒鴉商会が、唯一読み間違えた存在だった。
それは、突如やってきた。
「おや? まだ終わってないのかしら?」
軽い声とともに、空間がわずかに歪む。
次の瞬間――
淡い光が弾け、一人の女性が商会本部の地下へと転移してきた。
騎士と商会員が激しく戦う戦場のど真ん中に、
まるで散歩でもしているかのような余裕の態度で立っている。
「な、なんだ貴様!!」
黒鴉商会の構成員が怒鳴った。
女性は首をかしげ、つまらなそうに肩をすくめる。
「名乗る必要ある?」
そして、指先で宙に浮かぶ式紙を軽く指差した。
「式紙で私たちのこと確認してたんでしょ?
それともあの式紙、ただのお飾りか何かなのかしら?」
あまりにも分かりやすい挑発だった。
次の瞬間――
三人の構成員の頭から、まるで湯気でも出そうな勢いで怒りが噴き上がる。
「テメェェ!!!!」
一人の男が地面を蹴った。
闇商会で鍛えられた高速の剣技。
一瞬で間合いを詰め、鋭い突きが女性の喉元へと一直線に走る。
――貫いた。
そう、誰もが思った。
だが。
キィィン!!!!
鋭い金属音が地下室に響いた。
男の剣は――途中で止まっていた。
「な……?」
構成員の男の目が見開かれる。
その剣先を、誰かが軽く――指で掴んでいた。
「お前はどうしてそんな挑発をする……」
低く呆れた声が落ちる。
女性の前には、いつの間にか一人の男が立っていた。
片手で剣先を軽く握り、そのまま攻撃を止めている。
まるで子供の遊びでも止めるかのような、あまりにも余裕の動きだった。
「ヒッ……!!」
剣を振った男の顔から血の気が引く。
「ば、化け物だ……!」
男は思わず後ずさった。
女性はくすりと笑う。
「あら? 忙しかったんじゃないの?」
その言葉に、男は肩をすくめた。
「アルとクロノから連絡があってな」
そして、黒鴉商会の構成員たちをゆっくりと見渡す。
その瞳には、冷たい光が宿っていた。
「我が愛し子に危害を加えようとした者の顔を――」
男は、静かに言った。
「拝みに来た。」
その瞬間。
地下本部の空気が、明らかに変わった。
黒鴉商会の構成員たちの背筋を、
言いようのない悪寒が走る。
彼らはまだ知らない。
今、目の前に現れた二人が――
この戦場の“常識”を、これから完全に壊す存在だということを。
「ミストルティン様に大地の精霊王様!!」
騎士が二人に気づき、声を上げた。
その言葉を聞いた瞬間、黒鴉商会のボスや幹部、構成員たちの顔が一斉に青ざめる。
「大地の精霊王……だと!? ならこの女は……」
その問いに、女性は呆れたような表情を浮かべた。
「ようやく気づいた?」
そして肩をすくめる。
「そうよ。あなた達人間族からは、魔法の神って呼ばれてる存在よ?」
「あああああああり得ない!!!!」
幹部の声は震え、完全に戦意を失っていた。
「あの娘を神族が守っているなど……あり得ない!!」
だが――
「ほぅ……」
黒鴉商会のボスだけは、いたって冷静だった。
「随分と余裕たっぷりね?」
ミストルティンが冷ややかに言う。
その言葉に、男はほくそ笑んだ。
「神族を倒せば、世界そのものを手に入れられる。
チャンスだと思わないかね?」
「何が言いたい……」
大地の精霊王が静かに問う。
すると男は一本の巻物を取り出し、詠唱を始めた。
天を統べる理よ、
神の座を裁く原初の法よ。
偽りの神格を断ち、
万象の理へ還せ。
「――顕現せよ
神滅断罪」
詠唱を終えた瞬間、激しい光が空間を包み込んだ。
その光は地下本部だけに留まらず、
地上へと溢れ出し――
バレンシアの街すら飲み込むほどの輝きとなって広がる。
誰もが目を閉じるほどの神々しい閃光。
だが――
「そんな魔法で神族を倒せるとか思っているのかしら……」
光の中心で、ミストルティンは呆れた表情を浮かべていた。
まるで何事もなかったかのように、ゆっくりと歩き出す。
そして――
空中に浮かび、術式を維持していた巻物へと手を伸ばした。
ビリッ。
あまりにもあっさりと、巻物を破り捨てる。
その瞬間、空間を満たしていた光が嘘のように消えた。
「なぜだ……」
黒鴉商会のボスの声が震える。
「なぜ死なない!?」
ミストルティンは軽くため息をついた。
「考えてみなさいよ……」
そして、つまらなそうに言い放つ。
「そんな魔法で死ぬなら、神族なんてとっくに絶滅してるわよ」
ゆっくりと首を傾げる。
「神話で、神が入れ替わったなんて話……聞いたことある?」
ボスの顔から血の気が引いていく。
ミストルティンはさらに続けた。
「そもそも――」
床に落ちた巻物を、つまらなそうに足で軽く踏む。
「その術式は古代発光魔法よ」
冷たい声だった。
「詠唱だけをそれっぽくした――
ただの偽物ね」
その言葉に、地下室の空気が一瞬凍りついた。
すると、ミストルティンの隣に立っていた男――
大地の精霊王が小さくため息をついた。
「古代語を読めるのに、術式も確認せずに発動するとは……」
彼はゆっくりとボスへ視線を向ける。
その目に宿っていたのは怒りですらない。
ただの――軽蔑だった。
「愚かだな」
大地の精霊王の視線は、まるで道端のゴミでも見るかのようだった。
その一言が、静かに地下室へ落ちる。
黒鴉商会の構成員たちも、騎士団も――
誰も言葉を発しない。
ただ一人。
ボスだけが震えていた。
「……は……」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
「はは……」
次第にそれは大きくなり――
「ははははははははははは!!!!」
地下本部に狂った笑い声が響き渡った。
騎士の一人が思わず身構える。
「気でも狂ったか……?」
だがボスは笑い続ける。
涙すら浮かべながら。
「偽物……だと……?」
肩を震わせながら顔を上げる。
その目は、完全に壊れていた。
「ふざけるな……」
拳が震える。
「ここまで……ここまでやったんだぞ……」
「王都の裏を使い……
人を売り……
金を積み……
命を賭けてここまで来た……」
声が歪む。
「それが……偽物だと……?」
沈黙。
そして――
ボスは、ゆっくりと笑った。
「……まあ、いい」
その声は、妙に落ち着いていた。
ミストルティンがわずかに眉を動かす。
次の瞬間。
ボスの体の周囲に、黒い霧のようなものが現れ始めた。
騎士の一人が叫ぶ。
「なっ……魔法陣だ!?」
「止めろ!!」
だが、ミストルティンは動かなかった。
「無駄よ」
静かに言う。
「もう詠唱は終わってる」
黒い霧は急速に濃くなっていく。
それは毒だった。
見るだけで分かるほどの、濃密な毒気。
「はは……」
ボスは笑った。
「さすがに……神には勝てないか」
口元から血が流れ始める。
「だがな……」
その体がゆっくり崩れていく。
「騎士に捕まるくらいなら死んだ方がマシだ」
毒はすでに全身を蝕んでいた。
皮膚が黒く変色し、呼吸が乱れる。
それでも、最後まで笑っていた。
「覚えておけ……」
ボスの視線がミストルティンに向く。
「この世界の商人は……」
そして――
崩れ落ちた。
「……もっと、汚い」
ドサリ。
体は床へと倒れ、二度と動くことはなかった。
地下本部は静まり返る。
騎士の一人が恐る恐る近づく。
「……死んでいます」
大地の精霊王が軽く鼻を鳴らした。
「愚かな男だ」
だがその時、騎士団の中から一人の男が前に出た。
倒れた男の顔を確認し――
目を見開く。
「……まさか」
その声に、周囲の騎士が振り向いた。
「知っているのか?」
騎士はゆっくりと答える。
「はい……」
少しだけ顔が強張る。
「この男は……」
地下本部に静かな声が落ちる。
「王都に本店を置く商会の支店長です」
その言葉に、騎士団の空気が一変した。
そして続ける。
「以前……」
騎士はゆっくり言った。
「エレノア嬢に接触し、囲い込もうとしていた人物です」
地下本部に、重い沈黙が落ちた。
ミストルティンは、倒れた男を一瞥し――
小さくため息をついた。
「……なるほどね」
そして静かに言った。
「本当に、くだらない事件だったわね」
地下本部は、完全な静寂に包まれた。




