56話 王国の要請、毒の町③
オスバルト伯爵様からの説明を終え、私たちは街の市場や観光名所を回ることにした。
坂を下っている間、時折吹く風が潮の香りを乗せ、とても心地よかった。
「わぁ……本当に海の匂いがするのね」
アメリアが目を輝かせる。
「王都とは空気が違うな」
カイルが腕を組みながら呟くと、ミストルティン様はどこか楽しげに周囲を見回した。
「でも、なんか体がベタベタする……」
一方メルは、少し湿った潮風によりベタつきを感じているようだった。
「海水は塩分が入っている分、どうしてもベタつくのよね。海水浴の後とかは特に酷いのよ」
「その割には、よく海水浴場に行ってたよね? 特に気仙沼の――」
「ミストルティン様、やっぱり余計な記憶も覗いていますよね!?」
「さーて、何のことかしらねー?」
とぼけた顔をするミストルティン様に、思わずため息が出てしまった。
そんな中――
「けせんぬまって、この間言った街の名前のこと?」
アメリアお姉さまが首をかしげる。
「そことは別の街。ここと同じ、漁業が盛んな街だよ」
私がそう答えると、ミストルティン様がくすっと笑った。
「うんうん。海といえば気仙沼だよね。波打ち際で全力ダッシュして――」
「待ってください、その先は言わなくていいです!!」
ぴたりと止まる。
「おや? まだ何も言っていないよ?」
にこにこしている。絶対わざとだ。
「へー、エレノア様も走るんですね......?」
メルが興味津々で身を乗り出す。
「若気の至りよ! 中学生だったの!」
「両手に何か持っていた気もするけどなぁ?」
「記憶の精度、高すぎません!?」
「神だからね?」
あっさり。
ぐぬぬ、と言葉に詰まる私を見て、ミストルティン様は楽しそうに肩を揺らした。
「へー、その“けせんぬま”って街にも、いつか行ってみたいわね」
アメリアお姉さまが微笑む。
「多分向こうの世界だと今は寒い季節かなー? 行くなら来年がいいかも」
「「「賛成!!」」」
三人の声が重なる。
「いいけど、気仙沼はこの間の街と違って何もないわよ?」
「何もない、が良いのだよ」
ミストルティン様がさらりと言う。
「海と空と、ちょっと騒がしいエレノアがいれば十分かなー」
「それは褒めてます?」
「さあ?」
ふわっと流される……ずるい。
そんなやり取りをしているうちに、いつの間にか坂を下り終えていた。
視界が開け、活気ある市場が広がる。
白い波が陽光を弾き、港には大小さまざまな船が停泊している。帆が風を受け、ロープが揺れ、魚の匂いと潮の香りが混ざり合う。
「海があると、町の空気まで明るくなる気がするわね」
アメリアお姉さまが柔らかく微笑む。
「活気もありますしね」
カイルが周囲を見渡す。
魚を担ぐ漁師。
値を張り上げる商人。
観光客らしき人々の笑い声。
平和そのもの。
「今世では転ばないようにね?」
横から、軽い一言。
「転びません!」
「どうかなぁ」
にこにこ。
私は軽く睨みながらも、思わず笑ってしまった。
潮風が少しベタつく。でも、それすら心地いい。
今日は観光。明後日は調査。
今はただ――港町の空気を楽しむ時間だ。
私たちは市場を、何の目的もなくただ歩いていた。
王都では滅多に見かけない、新鮮な鮮魚や観光用のお土産、水着まで並んでいる。
その時――
ぐぅぅぅぅぅぅ……
メルが顔を真っ赤にして、こちらを見つめていた。
「ごめんなさい……お腹の音が……」
その光景に、私たちは不覚にも笑ってしまった。
「確かにお昼、まだ食べてないもんね! じゃあ、バレンシア食い倒れツアーでもやりますかー!!」
「「「おー!!」」」
謎に張り切るミストルティン様とアメリアお姉さまたちに、私はただ唖然としていた。
「ほら、エレノアも行くよー!!」
そう言うと、ミストルティン様は私の手を握り、ぐいっと引っ張っていった。
通りを歩いていると、まず目に入ったのはサザエのつぼ焼き屋台だった。湯気が立ち上り、潮の香りと香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「うわ、すごくいい匂い……」
メルが顔を輝かせる。
「ほら、これ食べてみなさい」
ミストルティン様がひとつつまみ、私たちに手渡す。
口に入れると、貝の旨味がジュワッと広がり、思わず目を細めた。
「……お、美味しい!」
メルも頬を赤らめ、嬉しそうに頷く。
「お、エレノアも気に入ったみたいだね」
カイルはにこやかに串を握りしめていた。
次に、イカの姿焼きの屋台に立ち寄る。炭火で炙られたイカは、外は香ばしく、中はふっくら柔らかい。
「うーん、この香ばしさ……たまらないわ」
アメリアお姉さまが目を細める。
「ひと口ちょうだい」
私は串を差し出すと、アメリアも笑顔で受け取った。
「お、やっぱり王都とは違うね」
カイルが頷く。
「海の近くって、やっぱり魚も新鮮ね」
メルも満足そうだ。
さらに進むと、バレンシア名物の魚のスパイス串の屋台が並ぶ。香辛料の香りが通りに漂い、ひと口かじるとピリッとした刺激と魚の旨味が口の中で弾ける。
「……辛っ、でも美味しい!」
メルが驚いた顔で笑う。
「辛いの苦手だったの?」
私が訊ねると、彼女はちょっと赤面して首を振る。
「慣れてないだけ……でも、これも美味しい」
屋台を抜けると、浜で茹でられたばかりの大きなエビが目に入る。殻を剥き、プリプリの身を口に運ぶと、潮の香りと甘みが口いっぱいに広がる。
「……海の恵みだわ」
アメリアが小さく呟く。
「本当に、港町に来たって感じだね」
カイルが空を見上げる。
そして最後に、鉄砲魚の形をした蒸しスイーツの屋台。丸い頭に小さなヒレ、口元の模様まで丁寧に再現されている。中にはドライフルーツが練り込まれ、ほのかな甘みが広がる。
「かわいい……!」
メルが目を輝かせ、指でつつく。
「見た目は鉄砲魚だけど、味はちゃんと甘いのね」
私がかじると、しっとりした生地と果実の甘みが口の中に広がる。
「ふふ、王都じゃ見かけないお菓子ね」
アメリアお姉さまが微笑む。
「……うーん、もっと食べたい気がする」
カイルも思わず笑みをこぼした。
通りを歩きながら食べる楽しさ。潮風に混ざる香ばしさ、甘み、スパイスの刺激。市場の喧騒も、私たちの足取りも、軽やかに街に溶けていった。
その時、ふと遠くから視線を感じる。ちらりと横を見ると、何人かの地元民がこちらをじっと見ていた。
「……どうやら、王都から来た人だって気づかれてるみたいね」
私が小さく呟くと、ミストルティン様がくすりと笑った。
「ふふ、目立つのは仕方ないわ。でも、それも旅の醍醐味ってもんよ」
皆で笑いながら、港町の空気と食べ歩きを満喫する。
今日は調査でも事件でもなく、ただ自由に歩き、食べ、笑う時間――港町バレンシアの一日を、私たちは心ゆくまで楽しんだ。
市場をひと通り回り、屋台でイカやエビ、魚のスパイス串を食べ歩いたあと、私たちは通りの奥にある落ち着いた食堂に入った。
木製の扉を開けると、潮風と木の香りが混ざった温かい空気が迎えてくれる。だが、扉をくぐった瞬間、店内の空気が一変した。
「……あ、あの……」
自然と、客たちの視線がこちらに集まる。小さな子どもも、大人も、厨房の奥から出てきた料理人まで、誰もがふと足を止め、じっと私たちを見つめる。
視線の先には、私たちの服にあしらわれた細かい刺繍――王都騎士団や王家関係者にしか許されない紋章があった。微かに光る紋章は、港町の人々には一目で「王都の者」と分かるものだったのだ。
「……あの、王都の方々ですよね?」
注文を取りに来た若い店員が、少し顔を赤らめながら声を震わせる。
私たちは顔を見合わせ、少し驚く。
「……え?」
ミストルティン様は片手で肩をすくめ、軽く笑った。
「さーて、どうしてバレちゃったのかしらね」
私が訊ねると、店員は小さくうつむきながら説明した。
「まず、歩き方や立ち居振る舞いで違いが分かりました……それに――」
店員は手元を少し震わせるようにして続ける。
「街の人々が、オスバルト伯爵様の屋敷に入るところを見たんです。そこで“あの屋敷に入る人は王都の者に違いない”って、すぐに噂が回って……」
なるほど、港町では小さな出来事もすぐに情報になり、店員の耳に届いたのだろう。さらに、服装の刺繍や立ち居振る舞いが決定打となったのだ。
「それで、王都から来た方だと……」
カイルが苦笑する。
店員は頭を下げつつ、手元のメニューを差し出した。
「お好きなものをどうぞ……特別メニューもございます」
「特別メニュー?」
私が訊ねると、店員は小さく頷いた。
「港で採れた新鮮な魚や、ここでしか味わえない地元料理の盛り合わせです」
「ふふ、それは楽しみね」
アメリアが嬉しそうに微笑む。
「では、私はお任せで!」
メルが元気よく答え、期待で胸を躍らせている。
「よーし、私も!」
カイルもにこやかに注文を決めた。
ミストルティン様は少し挑発的に店員を見つめ、軽く笑みを浮かべる。
「私は……全部食べてみたい気分だけど、どうかしら?」
店員は一瞬たじろいだものの、笑顔を保ち、厨房へ戻っていった。
港町の静かな食堂。潮風と香ばしい匂いに包まれながら、王都の者としての微妙な緊張感――そして小さな高揚感――を味わいつつ、私たちは今日最後の食事を楽しむ準備を整えた。
「そういえば、エレノアにお願いしたいことがあるんだけど、いい?」
「なんですか?」
ミストルティン様は、先ほどまでの楽しそうな顔から、真面目な表情に変わっていた。
「周りに聞かれるとまずいから、防音結界を張るね」
そう言うと、指をパチッと鳴らす。先ほどまでのにぎやかな声は、途端に届かなくなった。
「で、話なんだけどね……この間、キャンプの帰りに起きた魔軍激突の後、私とアルで原因を調査しに行ったんだけど、あれの原因がわかったの」
「そうなんですか? で、何が原因だったんですか?」
「あの魔軍激突は、誰かが意図的に発生させたみたいなの」
その言葉に、私は眉をひそめた。
「エングラムの流れを調整したってことよね? そんな魔法、聞いたことないんだけど……」
アメリアお姉さまがそう言うと、ミストルティン様は静かに答えた。
「あるよ。この間チラッと話したと思うけど、古代魔法と呼ばれる体系にね」
その言葉に私はハッとした。
あの日、ミストルティン様が言っていた――この世界が一度滅んだ原因が古代魔法だということ。
そして、エングラムの流れが意図的に変えられたこと。
その二つが、重なり合ったのだ。
「もしかして、古代魔法が原因で世界が滅んだのって、エングラムの流れを変えられた、または何かの目的があってエングラムを利用しようとしたから……ですか……?」
その言葉に、ミストルティン様は静かに頷いた。
「察しがいいわね。正解よ。
滅んだ原因は――たった一人の錬金術士が、世界のあらゆる法則をコントロールする力がエングラムにあると気づいたことにあるの。
その錬金術士は膨大な術式を書き込み、発動させたわ。
でも、前に話した通り、エングラムは濃すぎると人間が生きられなくなるのよね。
それは直接体に取り込んだとしても、同じことが起きる。
膨大な量のエングラムを一気に吸収した結果、その錬金術士の体は耐えきれず滅びてしまった。
そして大地はエングラムの流れを失い、天変地異が次々と起こり――世界は滅んだの。
これが、以前この世界が滅んだ原因よ。」
その言葉に、私たちはただ唖然とした。
「なら、今回のエングラムの流れが乱れた原因が、誰かの手による意図的な事象なら――まだその力を欲しがる人がいるってことですよね……」
メルがそう静かに呟くと、ミストルティン様は首を横に振った。
「正直、わからないわ……
私が見た術式は、世界が滅んだ時に見たものとは全く異なっていたのよ。
そしてその術式には、ある一人のエルフの少女が接続されていたの。
私は直接、核となる部分を見たわけじゃないけど、アルの話によると――少なくとも何千万年前から発動され続けているそうよ。」
「エルフだとしても、そんなに長く生きられるわけない……よな?」
カイルがそう零すと、ミストルティン様は静かに頷いた。
「そうね。
例え長命種と言われるエルフだとしても、せいぜい長くて数千年よ。
それに発動された時代は、滅ぶ前の古代文明。
あとは、大体察すると思うけど――あらゆる変化を封じる結界魔法が施されていたの。」
その言葉に私たちは言葉を失った。
悪趣味という言葉がこれほど似合う話はない――そう思っていた。
「で、エレノアに相談っていうのは、その保護したエルフの少女の治療を手伝ってほしいのと、回復後に彼女を支えて欲しいの」
私は少し身を引きながら、ミストルティン様の真剣な表情を見つめる。胸の奥で何かがざわついた。数千万年にわたって発動され続けた術式――その少女を支える責任の重さを、ほんの一瞬で理解してしまったのだ。
「……わかりました」
私は静かに答える。声は低く、けれど決意がこもっていた。
「ありがとう、エレノア」
ミストルティン様の口元がわずかに緩む。しかしその目は依然として鋭く、どこか痛みを帯びていた。
「まず、少女は長期間結界に囚われていたから、身体も精神も脆くなっているはず。無理はさせられないわ。だから、治療は慎重に行う必要があるの」
「具体的には?」
アメリアお姉さまが訊ねる。
「神聖魔法には、精神を復元する魔法があるの」
ミストルティン様が静かに説明する。
「少女の精神の深層まで光を届かせ、失われた感覚や記憶の断片を少しずつ繋ぎ合わせるの。ただ、一人でやると膨大な時間がかかるし、安全性も保証できない。だから、エレノア、手伝ってほしいの」
私は頷いた。
「わかりました。可能性が少なくても、やれることはやります。支えることは必ずできる」
ミストルティン様は指先に淡い光を集め、少しだけ息を吐いた。
「正直言うと、元に戻るかどうかは2割くらいの見込みしかない。でも、やらないよりはずっと可能性はある。あなたと一緒なら、安全性と効率は格段に上がるわ」
私は自然と気を引き締めた。
「わかりました。任せてください」
「そういうわけで、エレノアには精神的ケアもお願いしたいの」
ミストルティン様は少し俯き、柔らかく言った。
「安心させ、ここは安全だと理解させ、焦らず少しずつ身体を取り戻させること。そして孤独感を和らげるために、信頼できる存在がそばにいること――少女にとって、あなたの存在は大きな支えになるはず」
胸が熱くなる。誰かのためにここまで強く頼られるのは、初めてのことかもしれなかった。
「……わかりました。全力で支えます」
私は自然と微笑んで答える。
ミストルティン様も軽く微笑み返す。
「ありがとう……さて、話はここまでにして、そろそろ食事の時間ね」
その瞬間、足元からふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。
「あ、料理が運ばれてきたわね」
ミストルティン様はくるりと周囲を見渡し、指を鳴らした。
「防音結界、解除するわ」
にぎやかな市場の声が、一気に耳に戻ってくる。潮風と食欲をそそる香りの中、私たちは改めて昼食の準備を整えた。




