52話 朝靄の森、崩壊する秩序
「急いで」
私の声と同時に、空気が変わった。
ミストルティン様は一瞬で立ち上がる。
ふざけた笑みはもうない。
「任せて」
軽く指を鳴らす。
空間が、ぴしりと裂ける。
透明な亀裂のようなものが縦に走り、そこから淡い光が滲み出した。
「片付けはまとめてでいい、投げて」
その声に、皆が一斉に動く。
鍋、食器、毛布、折り畳み椅子。
解体途中の簡易テント。
ルーカスお兄様が杭を引き抜き、カイルがロープを外す。
メルは火消しに回る。
「水、いらないよ」
ミストルティン様が手をかざす。
焚き火が、音もなく消えた。
煙さえ残らない。
「痕跡は残さない」
淡々と告げながら、彼女は片手で空間の裂け目を維持している。
投げ込まれた荷物は、重力を無視するように吸い込まれていく。
金属が触れ合う音も、布の擦れる音も、すべて途中で途切れた。
「あと何かある?」
「食料箱!」
「入れて」
木箱が滑るように消える。
私は周囲に視線を巡らせる。
乱れた草。
踏みしめた地面。
「そこも」
言われる前に、ミストルティン様が指を弾く。
踏み跡が、風に撫でられたように整えられていく。
魔力の波が、静かに地表をなぞる。
数分前までキャンプをしていたとは思えないほど、痕跡は消えた。
空間の裂け目が閉じる。
空気が元に戻る。
「よし、移動」
その瞬間。
遠くから、重い振動が伝わった。
どん、と。
地面の奥で何かが走っている。
もう時間はない。
「走るよ」
ミストルティン様が先頭に立つ。
私達は森の外縁へ向かって駆け出した。
背後で、獣の咆哮が重なった。
迫る群れの気配が、確実に近づいている。
キャンプ地は、もう跡形もない。
けれど――
森の奥で、何かが決壊しようとしていた。
少し離れたところで、ミストルティン様が足を止める。
「みんな集まって!」
短く告げる声に、迷いはない。
彼女は片手を掲げ、空気を掴むように指を閉じた。
その瞬間、周囲のマナが一斉に引き寄せられる。
淡い光が足元から立ち上がり、幾何学模様の魔法陣が瞬時に展開された。
「強化、重ねるよ」
低く呟く。
圧縮された魔力が脈打ち、私達の身体へと流れ込んだ。
視界がわずかに澄む。
呼吸が軽くなる。
足の裏に、弾むような感覚。
「速度上昇、持久強化、身体耐久補正。
転倒しても骨は折れない程度にはしてある」
さらりと言う。
けれどその魔力の密度は、明らかに常軌を逸していた。
エングラムの流れが荒れている今、本来なら大規模な術は避けたいはず。
それでも。
「ここから一刻でも離れる」
視線は森の奥へ。
目に見えない乱流が、渦を巻いている。
「異常域に近すぎる」
地面が、また微かに震えた。
どん、と重い振動。
遠くで木々が揺れる音。
「来るよ」
次の瞬間、身体が軽くなる。
一歩で、数歩分の距離を跳ぶ。
風が頬を裂く。
肺が焼けるはずなのに、苦しくない。
強化魔法が限界を押し広げている。
背後から、群れの咆哮が連なる。
重なる足音。
枝が折れ、地面が揺れ、森が鳴る。
魔軍激突。
まだ視認していない。
けれど確実に、こちらへ向かっている。
「振り返らないで!」
ミストルティン様の声が飛ぶ。
私達はただ、走る。
乱れたエングラムの中心から、少しでも離れるために。
森の空気が軋む。
見えない流れが暴れている。
そしてその渦の中で――
何かが、踏み潰されようとしていた。
だが――
王都との中間地点付近で、魔物に襲われている馬車があった。
街道の中央で横倒しになったその馬車は、明らかに
魔軍激突によって被害を受けた形跡がある。
地面は大きく抉れ、土がめくれ上がり、
木々は根元からへし折られている。
車輪は砕け、車軸は歪み、
車体そのものも横から圧殺されたかのようにひしゃげていた。
偶発的な襲撃ではない。
“流れ”が、ここを通過した。
そして今――
その場に残ったのは、群れの尾。
数体どころではない。
十数体、いや、それ以上。
狼型、猪型、角を持つ大型種。
興奮しきった魔物達が、血の匂いに引き寄せられ、馬車の周囲を取り囲んでいる。
既に護衛線は崩壊していた。
その隣には、護衛対象を守ろうとした冒険者と思われる者達が倒れている。
剣を握ったままの者。
折れた槍の柄を掴んだままの者。
盾は砕かれ、鎧は抉られ、
街道の土は赤黒く濡れている。
まだ息のある者もいる。
だが、魔物との距離はあまりにも近い。
次の瞬間には、喉笛に牙が届く。
一刻も争う状態だということは、目に見えていた。
背後ではなお、地鳴りが続いている。
群れの本流が追いつけば、
ここは完全に踏み潰される。
「エレノア様! 前方からも魔物の群れが……!」
メルの声が張り詰める。
その視線の先――
街道の向こうから、土煙を上げて迫る魔物の群れ。
石畳はひび割れ、地面が振動で細かく跳ねている。
濁った咆哮が一直線にこちらへ突き進んでくる。
そして。
背後からも、重い地鳴り。
振り返れば、同じように街道を埋め尽くす影。
前後から挟まれている。
左右は開けた草地だが、既に散開した魔物が回り込み始めている。
遮蔽物はない。
馬車は横倒しのまま。
逃げるのは――不可能。
「やむを得ない!」
ミストルティン様の声が鋭く響いた。
「エレノア達は魔物討伐をお願い!」
即断だった。
「ミストルティン様は!?」
私の問いに、彼女は街道の中央へ踏み出す。
「私は、メルとカイルを守りつつ馬車の方に行かないようにするから!」
魔力が一気に膨れ上がる。
馬車へ到達させない。
流れを、ここで堰き止めるつもりだ。
牙が光る。
蹄が石を砕く。
次の瞬間、魔物達が一斉に街道を蹴った。
「多重起動!!」
ルーカスお兄様の足元に、小規模な魔法陣が重なる。
術式処理を一時的に並列化する補助魔法。
同時に扱える魔法は、せいぜい二つか三つ。
それでも本来なら熟練者でなければ不可能な芸当だ。
「氷柱!」
空間に生成された氷柱は、三本。
鋭く圧縮された槍が、ほぼ同時に射出される。
一体目の狼型の喉を貫き、
二体目の前脚を砕き、
三体目の肩を穿つ。
悲鳴が上がる。
先頭が崩れ、群れの足並みが一瞬乱れた。
だが。
後続がその身体を踏み越える。
数が、違いすぎる。
「押し切られる……!」
多重起動は強力。
けれど、持続も魔力消費も重い。
多重起動は短時間の爆発力こそあるが、連続運用は難しい。
押し切られれば終わる。
「任せなさい! 圧気弾!!」
アメリアお姉さまが前へ出る。
片手を突き出した瞬間、空気が唸った。
目に見えないはずの気流が、歪みとして視認できるほど圧縮される。
次の瞬間――
轟音。
圧縮された空気の塊が、真正面の魔物の群れへ叩き込まれた。
狼型の魔物がまとめて吹き飛ぶ。
骨が軋む音。
体が宙を舞い、後続を巻き込んで転がる。
猪型も、横から直撃を受けて軌道を逸らされる。
石畳が砕け、砂塵が舞い上がる。
“面”で削る魔法。
数で押す群れに対して、最適解。
一瞬、前方の圧が緩む。
だが。
後方からさらに影が押し寄せる。
終わらない。
群れはまだ、尽きていない。
「これじゃあ埒が明かないわ!」
ルーカスお兄様が舌打ち混じりに呟く。
腰のポシェットから素早くマナポーションを取り出し、栓を歯で抜く。
一息で飲み干す。
喉を通る青い液体が、失われかけた魔力を強引に引き上げる。
足元に再び魔法陣が展開される。
「氷柱!」
空間が凍りつく。
鋭い氷柱が再び生成され、群れへと放たれる。
だが――
先ほどとは違う。
狼型の魔物が、跳んだ。
氷柱の軌道を読んで横へ逸れ、後続がその隙間を縫う。
猪型は正面からではなく、角度を変えて突進してくる。
群れが、学習している。
完全に見切られたわけではない。
だが、十分な効果が出ない。
数体は仕留める。
しかし、圧は削りきれない。
むしろ、魔法の発動位置を見て回避行動を取る個体まで現れ始める。
「……まずい」
消耗戦になる。
そして消耗戦になれば――
数で劣るこちらが不利だ。
「みんなを助けて! 精霊の緑鞭!」
私が唱えた瞬間、街道の石畳が割れ、緑光が噴き上がる。
伸びた蔦が魔物の脚と胴を絡め取り、暴れる個体ごと地面へ引きずり込んだ。
数体が悲鳴と共に呑み込まれる。
一瞬、前線に隙間が生まれる。
だが、蔦を引き千切る大型個体が現れ、再び地鳴りが迫った。
勢いは削げた――それでも、まだ終わらない。
「一体どうすれば......」
完全に倒した数より、押し寄せる魔物の方が圧倒的に多い。
焼け石に水。
包囲は、むしろ狭まっている。
「……初めて使うけど、やるしかない……!
天聖の光針!!」
光が収束しかけた、その瞬間――
「待って! エレノア! 今の状態で使ったらエレノアが持たない!!」
ミストルティン様の声が鋭く響く。
練り上げかけた魔力が、脈打つ。
限界を超える術。
撃てば、確実に殲滅できる。
だが同時に――
私の“器”が耐えられない。
それでも、やるしかなかった。
広範囲にわたって光が魔物を包み込む。
魔物たちは上を見上げ、状況を把握しようと必死にもがく。
次の瞬間、突如として光の雨が降り注ぎ、魔物を次々と貫いていった。
逃げ惑う群れに残された余地はなく、無慈悲に打ち砕かれていく。
ーーこれで大方魔物は討伐できた
「頭が......」
魔力切れで意識が朦朧とする。
「まずい......このままじゃ......」
完全に倒れそうになった次の瞬間ーー
だれかに支えられ辛うじて助かる
「ったく......エレノア嬢は無理しすぎなんだよ!」
「アル!」
ミストルティン様が安堵の表情を浮かべる。
戦場を駆ける者――アルは、私に向かって腕を差し伸べる。
「俺の魔力を受け取れ! 魔力譲渡!!」
腕に触れた瞬間、温かく鋭い力が私の体に流れ込む。
徐々に魔力がみなぎっていく感覚がした。
「久しぶりだな! エレノア嬢」
「アル! どうしてここに……」
ミストルティン様が少し眉を寄せると、アルは肩をすくめて説明した。
「ソフィアがお前とエレノア嬢の手助けをしてこいって言われてな。
ついでに、任務も任されてる」
「なるほどね……とりあえず詳細は後で聞くとして、任せてもいい?」
「は!? こっちはとうの昔に暴れたくてうずうずしてたんだ!
よし、こいつらでいっちょ遊んでくるわ!」
そう言うと、アル――戦闘の神様は空間から剣を取り出した。
「お前ら、どこまで耐えられるかな? 瞬閃移動!!」
その声と同時に、アルの姿は一瞬で消えた。
「おらおらおら! お前ら、遅すぎて話にならんな!」
どこからともなく響く声に目を向けると、次々と魔物が無惨に倒れていく。
空気を切り裂く軋みと衝撃が森全体に伝わり、地面に残る魔物の影が小刻みに揺れる。
まるで戦場そのものが、アルの意思ひとつで再構築されたかのようだった。
最後の一体が倒れた瞬間、アルはふと手を止め、準備体操でも終えたかのような表情を浮かべる。
「チっ……なんだよ、もう終わりかよ。つまんねーやつらだな」
その軽口と、余裕たっぷりの態度。
戦場を駆け抜けた圧倒的な存在感が、まだ空気の中に残っていた。
「あとは、お前らに任せるわ! 近くにまだ魔物の気配があるから、そいつらで遊んでくるわ」
そう言うと、アルは乱れたエングラムの流れの方向へ、矢のように駆け出していった。
アルが駆け出した後、意識がまだふわりと揺れる中、ミストルティン様がすっと私の横に来た。
「無茶して……!」
その声と同時に、強く抱きしめられる。
胸に押し付けられる体温と腕の力に、思わず体が固まる。
「……成功したのね……しかも、一発で……。しかも耐えたの?」
彼女の目は、驚きと心配で大きく見開かれていた。
魔法の神として、その難易度や負荷は知り尽くしているはずなのに――
それを使いこなした私の身体に、やはり予想外の感動を覚えているのだ。
「……うん、なんとか」
抱きしめる力はまだ緩まない。戦場で消耗した心身と魔力の余韻が胸の中で交錯する。
「本当に……無茶しすぎなんだから……!」
私は小さく頷くしかなかった。思った以上に体が持ったことに、自分でも少し驚いていた。
「とりあえず、負傷者を何とかしないと……」
私がそう言うと、ミストルティン様はようやく私から離れ、馬車の近くまで歩き出す。
「生体反応はだいぶ弱いけど、ハイポーションでまだ治せる範囲ね」
頷き、馬車の扉を壊して中を覗き込む。そこには、貴族と呼ばれても違和感のない身なりの男女四人が、体中から血を流してぐったりと横たわっていた。
「これは、酷いわね……」
少し年上くらいの少女は、一刻を争うほどの大怪我を負っていた。その上に、妹を庇おうと覆いかぶさる兄と思われる人物がいる。
「早くしないと危険ね! エレノア、ハイポーションをお願い!」
その声にハッとし、空間収納からハイポーションの入った箱を取り出す。しかし反応はなく、飲ませることも困難だった。
「お洋服を汚すことになるけど……今はそんなこと言ってられないよね」
私は兄を一度ミストルティン様に預け、馬車の外へ出す。真っ赤に染まった場所にハイポーションを振りかけると、淡い光を帯びて広がった。
血の色が徐々に落ち着き、少女の呼吸が整う。
「……えっ……?」
驚きの声と共に、少女の目がゆっくりと開いた。まだ震える手で体を押さえ、かすかに笑みを浮かべる。
「……あ、ありがとう……ございます……!」
胸が詰まる。周囲の魔物の気配はまだあるが、少なくとも今は安全だ。
ミストルティン様は軽く頷き、戦場の余韻を静かに受け止める。兄もゆっくり立ち上がり、妹を守った安堵の表情を浮かべた。
次は兄と両親の治療に取り掛かる。
「エレノア、そっちは兄とご両親ね。ハイポーションを順に使って」
ミストルティン様は淡々と指示を出し、魔力の流れを整える。手が軽く触れるだけで、傷口は光に包まれ、血の色が落ち着き呼吸が整う。
「……こんなに手際がいいなんて……」
兄が感嘆する声を漏らす。
同時に破損した馬車も、ミストルティン様の魔法で復元されていく。破れた扉、曲がった車輪、ひびの入った装飾。すべて元の状態に戻った。
治療が一段落し、兄が深く頭を下げる。
「……本当に、お礼を……!」
「いいえ、そんなことを言われる筋合いではありません」
ミストルティン様は淡々と答える。
「せめてお名前だけでも……!」
「名乗るほどの物ではありません」
兄の声が途切れ、戸惑いの表情を浮かべる。しかし、ミストルティン様は振り返らず、静かに王都へ歩き出した。
その背中は、軽やかでありながら圧倒的な存在感を漂わせていた。
兄と家族は、助けられた命の重みと神格の力の差を静かに胸に刻み、見送るしかなかった。




