51話 キャンプの魔法、友情の香り⑧
あっちの世界から帰ってきた私達は、キャンプ地でアイスを食べながらのんびりくつろいでいた。
夜の森は静かで、焚き火の火が小さく揺れている。
手の中のアイスは、日本で買ったもの。
六年ぶりの味。
「……やっぱり甘いわね」
小さく呟く。
六年ぶりに見たお母さんの姿。
――見た、だけ。
スーパーへと続く通路。
専門店が並ぶ、あの少し賑やかな一角。
お母さんはカートを押していて、まだ何も入っていないみたいだった。
買い物の前だったのだろう。
私は、立ち止まった。
「……お母さん」
ちゃんと、呼んだ。
けれど。
声は届かなかった。
私の言葉は、この世界の音。
あちらの世界の人には、ただの異音にしか聞こえない。
ほんの数メートルの距離なのに。
伸ばした指先ほどの距離なのに。
一瞬、視線が交差した気がしたけれど、
きっとそれも偶然だ。
すれ違っただけ。
それでも、ちゃんと嬉しかった。
元気そうだったから。
あの匂いも、
この匂いも。
どちらも、私の大切な記憶だから。
焚き火の火が、ぱちりと弾ける。
夏の終わりの空気は、まだ昼の熱を少し残している。
それでも、火から少し離れると頬を撫でる風がわずかに涼しい。
「エレノア様、冷えませんか?」
メルが心配そうに覗き込む。
「大丈夫よ。ありがとう」
毛布を受け取りながら、小さく笑う。
星空は澄んでいて、この世界の空はやっぱり広い。
「……ねえ、エレノア」
ふいに、隣から声が落ちてきた。
見ると、ミストルティン様が少しだけ退屈そうに焚き火を見つめている。
「さっきから、向こうのこと考えてるでしょ?」
「え」
図星だった。
ミストルティン様はくすりと笑う。
「そんな顔してる」
そう言うと、彼女は片手をひらりと振った。
空間が、わずかに歪む。
魔力の揺らぎは滑らかで、まるで呼吸をするように自然だった。
次の瞬間、何もなかったはずの手の中に現れたのは――
白い、薄い板状の機器。
角の丸い、見慣れた形。
タブレット端末。
焚き火の橙色の光が、その白い表面をやわらかく照らしていた。
「どうしてそれがここに......?」
ルーカスお兄様達は、初めて見る物へ興味津々でタブレット端末を覗く。
「実はこれ、エレノアへのプレゼントなんだ!」
ミストルティン様が得意げに胸を張る。
「それ……この世界の物じゃ、ないですよね?」
「そんな物を持ち込んで、エレノア様に渡して本当に大丈夫なんですか……?」
今度はメルが、少し真剣な声で問いかけた。
その言葉に、ミストルティン様は一瞬だけ視線を細める。
焚き火の火が、ぱちりと音を立てた。
「本当はね、ダメだよ」
いつもの軽さとは違う、少しだけ低い声。
「異世界の技術をそのまま持ち込むのは重大な干渉になる」
焚き火の火が、ぱちりと弾ける。
「これはただの便利な道具じゃない。
情報を集め、保存し、広げる装置。扱い方を間違えれば、一気に均衡を崩す可能性がある」
ルーカスお兄様が真顔になる。
「……そんなに、危険なのか?」
「うん。下手をすれば文明の進行速度が跳ね上がる。
軍事にも、魔導研究にも、経済にも影響する。
連鎖すれば、因果の流れごと大きく傾く」
森の静寂が、少しだけ重くなる。
「だから本来は、絶対に持ち込まない」
ミストルティン様はそう言い切ってから、私を見る。
「でも今は、世界の崩壊を防ぐことの方が優先順位が高い」
その目に、冗談はない。
「それに……前世の知識があるといっても、全部を覚えているわけじゃないでしょ?」
私は小さく息を呑む。
「これから先、わからないことは必ず出てくる。
そのとき、手がかりがあるのとないのとでは、生存率が違う」
白い端末が、焚き火の光を受けて静かに浮かび上がる。
「リスクは大きい。
でも、放っておく方がもっと大きく崩れる」
その目は、おふざけでもなくいつになく真剣だった。
「まぁ多少“調整”はしているから、何でもかんでもできるわけじゃないけどね」
「調整?」
「機能そのものを大きく削ったわけじゃないよ」
ミストルティン様は白い端末を指先で軽く弾く。
「向こうの世界の情報は普通に見られるし、ゲームも動画もそのまま動く」
「えっ」
思わず声が漏れる。
「ただし」
そこで少しだけ声音が変わる。
「ネットショッピングだけは、封じている。
あれは流通も経済も一気に壊しかねないから、使えないようにしてある」
「ねっと……?」
カイルが首を傾げるが、説明はさらりと流された。
「それから、充電と通信」
ミストルティン様の指先が、ほんのり光る。
「この世界に電力網も通信衛星もないでしょ?
だからそこは、エングラムとマナを媒体にして動くように変換してある」
森の空気が、わずかに震える。
「電気の代わりにマナ。
ネットワークの代わりにエングラムの情報層。
仕組みとしては近いものがあるから、接続先を“この世界仕様”に差し替えただけ」
さらっと言うが、内容は神域レベルだ。
白いタブレットが、静かに私の手の中で光を受けている。
「つまり……」
アメリアお姉さまが慎重に言葉を選ぶ。
「これは“異物”ではあるけれど、完全な外来種ではない、ということですか?」
ミストルティン様は満足そうに頷いた。
「その通り。暴走はしない。
世界の法則の中に、ちゃんと収めてある」
焚き火がまた、ぱちりと弾けた。
私は、白い端末を見つめる。
前世の記憶と、今の世界。
その境界線が、静かに手の中に収まっていた。
「まぁ、どうしても必要なものがあったら言ってね!」
急にいつもの調子に戻る。
「その時は、均衡が大きく崩れない範囲のものなら、私が直接向こうで買ってくるから」
「直接……?」
ルーカスお兄様が小さく呟く。
「物質の持ち込みは危険。でも、私が選別して少量ずつ持ってくるなら、影響は最小限で済む」
さらっと言うあたりが恐ろしい。
「それに、本とかアプリは自由に買っていいよ。
あれは情報とデータだから、世界を壊す類いのものじゃないし」
にこっと笑う。
「どうせ、向こうで金とか宝石をちょっと換金すれば、百万単位ですぐ用意できるしね!」
「……さらっととんでもないことを」
メルが頭を抱える。
ミストルティン様は気にした様子もない。
「安心して。エレノアが困るようなことにはしないよ。
これは“甘やかし”じゃなくて、必要な投資だからね」
白い端末が、静かに私の手の中で重みを持つ。
前世と今世をつなぐ、小さな窓。
焚き火の橙色が、白い端末の縁をやわらかく縁取っている。
ミストルティン様は、私の手からひょいとタブレットを取り上げた。
「しんみりはここまで!」
軽く指を滑らせる。
見慣れた画面が開き、色とりどりのアイコンが夜の森に浮かび上がった。
「せっかくだし、向こうの世界の“劇”でも観ない?」
「劇、ですか?」
メルが首を傾げる。
「うん。舞台じゃなくて、映像で演じるやつ。記録というより、最初から“映像作品”として作られた物語」
そう言いながら、迷いなく配信アプリを開く。
一覧には、鮮やかな画面写真が並ぶ。
壮大な城、雨の中で向き合う男女、空を裂く光。
「……小さな板の中に、人が……?」
ルーカスお兄様が思わず身を乗り出す。
「これは“映画”っていう娯楽だよ」
ミストルティン様は当然のように言って、一本を選ぶ。
「音も映像も全部ここに収まってる。
向こうの世界では劇場っていう専用の建物で観ることも多いけどね」
再生ボタンに触れる。
次の瞬間、森の闇の中に音楽が流れ出した。
重厚な序曲。
広がる街並み。
動き出す登場人物たち。
焚き火の爆ぜる音と、映画の音響が重なり合う。
私は、その光景を静かに見つめた。
六年前にいた世界が、
今、この森の中にそっと映し出されている。
エンドロールが流れ終わり、森に静寂が戻る。
焚き火の音だけが、ぱちり、と小さく弾けた。
「……すごい……」
メルが目元を押さえる。
「こんな物語……初めて見ました」
ルーカスお兄様も深く息を吐く。
「小さな板の中とは思えないな……」
アメリアお姉さまは静かに微笑み、カイルはまだ呆然と画面を見つめている。
皆、完全に心を奪われていた。
――その時。
胸の奥を、何かがかすめた。
違和感。
隣を見る。
ミストルティン様の表情も、わずかに変わっていた。
「……エレノア」
小さく名を呼ばれる。
私は、ほんのわずかに頷く。
流れが。
エングラムの大河が。
さっきよりも、明らかに重い。
淀みではない。
止まってもいない。
むしろ――増えている。
流量が、押し寄せるように増幅している。
自然な循環の範囲を、ほんの少しだけ超えて。
空気も森も、何も変わらない。
けれど、世界の奥底だけがざわめいている。
「……触れられてないね」
ミストルティン様が、静かに言う。
「でも、自然でもない」
声は低いが、焦りはない。
私は焚き火を見る。
炎は変わらず揺れている。
皆はまだ映画の余韻の中。
この違和感に気づいているのは、私と――
ミストルティン様だけ。
視線が交わる。
問いも説明もない。
ただ、互いに理解している。
何かが、動いた。
けれど今は――
それを口にする必要はなかった。
燃えさしが崩れる音がした。
白いタブレットの画面は、静かに暗転していた。
翌朝。
森は何事もなかったかのように、淡い朝靄に包まれていた。
小鳥のさえずり。
湿った土の匂い。
焚き火の残り火から立ちのぼる細い煙。
けれど――
「……悪化してる」
私の呟きに、ミストルティン様が無言で頷く。
昨夜感じた増幅は、一時的なものではなかった。
エングラムの流れはさらに膨れ上がり、局所的に渦を巻いている。
大河の水位が、目に見えないところで静かに上昇しているような圧。
「これは……」
ルーカスお兄様も、空気の異様さに気づいたらしい。
森の魔物たちの気配が落ち着かない。
遠くで枝が折れる音。
低い唸り。
群れの移動が、いつもより早い。
「小規模のスタンピートが起きてもおかしくないね」
ミストルティン様の声は軽いが、目は笑っていない。
流れが不安定な時、魔物は敏感に反応する。
刺激が連鎖すれば、一斉暴走もあり得る。
「撤退するわ」
私は即座に判断する。
様子を見る余裕はない。
「キャンプの撤収、急いで!」
メルとカイルが素早く動き、アメリアお姉さまは荷をまとめる。
ルーカスお兄様は周囲の警戒に回った。
森の空気が、ぴり、と張り詰める。
昨日まで穏やかだった場所が、まるで別の森のようだ。
「転移は?」
私の問いに、ミストルティン様は首を横に振る。
「痕跡を残したくない。境界まで走るよ」
エングラムの乱流の中で大規模な術を使うのは、余計に刺激になる。
それくらい、今は不安定だ。
荷を背負い、森の外縁へ向かう。
背後で、遠くの獣の咆哮が重なった。
まだ始まっていない。
けれど、始まる前触れは十分すぎるほどある。
朝日が木々の隙間から差し込む。
穏やかな光とは裏腹に、
世界の流れは、確実に荒れていた。




