閑話 影の護衛
ーー二日前
「エレノア・フォン・レーヴェン、並びにその家族。そしてミストルティン様の護衛任務を命ずる」
低く響く声が、石造りの広間に静かに反響した。
「御意」
一斉に膝をついた影たちが、短く応じる。
彼らは王族直属の諜報機関。
表の歴史には決して記されることのない、王都の“影”である。
齢六歳。
それが、エレノア・フォン・レーヴェンという少女の年齢だ。
しかしその実力は、常識の枠を遥かに逸脱している。
卓越した錬金技術により、王城で使用されるポーションの大半は、すでに彼女の製作したものへと置き換わっていた。
国家戦略物資の供給源。
それが、たった一人の少女。
当然、目を付ける愚か者も現れた。
どこぞの愚かな貴族と、その取り巻きども。
もっとも——
その一味は、すでにこの世にいない。
王命のもと、速やかに処断された。
影は感情で動かない。
ただ、国家の脅威を排除しただけだ。
数ヶ月前に発生した誘拐未遂事件——
その一件以降、王都最高水準の極秘護衛が密かに配置されている。
対象はエレノア本人のみならず、その家族。
任務は単純。
命に代えてでも、護衛対象を守り抜くこと。
それ以上でも、それ以下でもない。
——だが。
今回の任務には、異例があった。
護衛対象に「神族」と称される存在が含まれている。
陛下より直々に手渡された極秘文書。
そこには、エレノア嬢およびレーヴェン子爵家の子供たち、そして魔法を司る存在——ミストルティン様と共に、郊外での“キャンプ”を行うと記されていた。
「……場所次第では、護衛難易度が跳ね上がるな」
誰ともなく、低く呟く。
神族を守る。
それは単なる護衛任務ではない。
万一にも失敗すれば——国家の存亡に関わる。
責任を取る、などという生易しい話では済まない。
首が飛ぶ。
それで終われば、まだ温情だ。
影は失敗を許されない。
だからこそ、存在している。
「第一隊《常闇》は現地に展開。護衛対象に随伴せよ。
第三隊《宵闇》は屋敷を固守。警戒を最大まで引き上げろ」
「「はッ!」」
命令と同時に、影は散った。
音もなく。
気配すら残さず。
王都最高峰の諜報部隊が、動き出す。
ーー二日後。
当日の護衛任務は、概ね順調に進行していた。
唯一の想定外は、魔法を司る存在——ミストルティン様が一時的にエレノア嬢の傍を離れたこと。
だが、それも即座に補正される。
第一隊《常闇》は対象に随伴し、周囲百メートル圏内を完全封鎖。
第三隊《宵闇》は屋敷を厳重警戒下に置く。
進行ルート上の魔物は事前に殲滅済み。
残存反応も逐次排除。
不審人物の洗い出しは前日までに完了。
監視対象は全員所在確認済み。
罠、呪術痕、魔力残滓——異常なし。
そして。
第二隊《月影》は広域にて待機。
第四隊《黒陰》は即応態勢を維持し、事態急変時の介入に備えている。
二重三重の包囲網。
完璧だった。
少なくとも——影の計算上は。
だが——ここで重大な異常が発生する。
それは、護衛対象が夕食を終えた直後のこと。
交代要員との接触のため、第一隊が視線を切った時間は僅か数秒。
訓練された動作。
死角はない。
感知網も維持されている。
そのはずだった。
次の瞬間。
対象の気配が、消えた。
焚き火は燃えている。
食器は温かいまま。
椅子も、荷物も、そのまま。
だが——
エレノア・フォン・レーヴェン。
その家族。
ミストルティン様。
護衛対象全員が、現地キャンプ場から完全に消失していた。
転移反応なし。
魔力波動なし。
物理的痕跡なし。
影の包囲網を嘲笑うかのように。
“そこにいた”という事実だけを残して。
「……状況を報告しろ」
声は静かだった。
だが、報告を受けた瞬間——
その場の全員が、息を呑んだ。
「第一隊《常闇》は即座に周辺を完全封鎖。
現場の保全と証拠確保を最優先とする。」
「第三隊《宵闇》は屋敷へ緊急伝令を飛ばし、警戒レベルを最大へ引き上げ。
同時に一部精鋭を現地へ急行させ、捜索網を展開。」
「第二隊《月影》、第四隊《黒陰》へ緊急招集命令。」
数十秒後。
王城へ、最優先符号の報告が上がる。
——護衛対象、全員消失。
玉座の間に、重い沈黙が落ちた。
誰も、言葉を発せない。
陛下は、ゆっくりと立ち上がる。
その眼に浮かんでいたのは、怒りでも動揺でもない。
——理解不能という事実。
「王国全域、第一級厳戒態勢へ移行せよ」
命令は、静かに発せられた。
それが、余計に恐ろしかった。
城門は封鎖。
転移門は凍結。
主要街道は即時検問。
各地の駐屯騎士団へ緊急通達。
辺境砦にも封鎖命令が走る。
第三隊の増援が現地へ到達。
索敵結界を再展開し、地上・地下・上空の三層捜索を開始。
それでも——
何も見つからない。
魔力反応、なし。
空間歪曲、なし。
術式残滓、なし。
痕跡すら、ない。
影が見失った。
それはすなわち——
国家が、“理解できない何か”に触れたということだった。
張り巡らされた警戒網の中、陛下は即座に次の指示を下す。
「第一隊は、引き続き付近を徹底捜索せよ。わずかな違和感も見逃すな」
「第二隊は王国北部および西部を担当。街道・砦・転移拠点を重点的に洗え」
「第三隊は王都内を完全封鎖。地下水路、旧区画、貴族街まで全域を確認せよ」
「第四隊は南部と東部を担当。辺境騎士団と連携し、封鎖線を敷け」
間を置かず、命令は続く。
「報告は最短間隔で上げろ。独断専行は許可する。ただし——必ず生きて戻れ」
静かな声だった。
だが、その一言が、場にいた全員の背筋を凍らせる。
国家総力による捜索が、今、始まった。
それから一時間が経過した。
——未だ、発見報告なし。
各地から上がるのは「異常なし」の定型報告のみ。
魔導索敵も、結界網も、成果はゼロ。
次第に、場の空気が変わり始める。
焦燥。
それは誰も口にしないが、確実に広がっていた。
影ですら掴めない。
国家総力をもってしても、痕跡すら得られない。
その事実が、静かに恐怖へと変わりつつあった——そのとき。
「——報告!!」
伝令が玉座の間へ駆け込む。
「キャンプ地にて——護衛対象を確認!!」
空気が、止まった。
「……確認は確実か」
「はっ! 複数名による目視確認済み! 魔力照合も一致! 負傷なし!」
一瞬。
そして——
玉座の間に、張り詰めていた緊張が、音を立てて崩れた。
その場の者たちが、はっきりと分かるほど安堵の表情を浮かべる。
陛下は目を閉じる。
ゆっくりと、息を吐いた。
それは、今日初めての安堵の呼吸だった。
「……全隊に通達。第一級厳戒態勢は維持。ただし捜索規模を縮小。詳細確認を最優先とする」
声は、変わらず静か。
だが、その奥に滲むものは明らかだった。
——戻ってきた。
国家を揺るがす“空白”は、ひとまず終わったのだ。
玉座の間に、ようやく人の温度が戻る。
それでも。
誰もが理解していた。
なぜ消え、なぜ戻ったのか。
その答えは、まだ何一つ分かっていないのだと。




