33話 猫耳族の小さな風邪①
朝の光が窓から差し込み、屋敷の大広間をやわらかく照らしていた。
メルは寝台からゆっくりと体を起こすが、猫耳が少し下を向き、小刻みに揺れている。体の動きはいつもより重く、肩を丸めながら廊下へ足を運ぶ。
エレノアは横で身支度を整えていた。髪を整え、衣服を軽く調えていく。その動きを見て、メルはかすかに顔をしかめながら歩み寄る。
「エレノア様、手伝います……」
だが、エレノアは手を軽く振って笑った。
「大丈夫よ、メル。今日は一人でやるから、あなたは無理をしないで」
メルは少しだけ肩をすくめ、弱々しく頷く。
「……はい。でも、手伝いたかったのに」
「ありがとう。でも心配しなくていいの。あなたの体調が一番大事だから」
それでもメルは居間へ向かって歩き始める。厨房の方角に足を進めながら、少しずつ体の重さを感じつつも、朝食の準備に参加しようと気を奮い立たせる。
木製の床に足音が静かに響き、羽毛布団の温もりやリネンの香りが朝の静かな時間を優しく彩る。
エレノアはメルの背中を見送り、髪の手入れを続けながら心の中で小さく決意した。
「今日も、ちゃんと見守らなくちゃ……無理はさせない」
朝の屋敷に差し込む光の中、二人の間には言葉にせずとも通じる信頼と、日常の静かな緊張感が漂っていた。
エレノアは庭に出て日課の水やりを終えると、調合に必要な器具や薬草を整えていた。
ビーカーや蒸留器を並べ、蒸留水を計量し、薬草の香りを確かめる。作業は静かで規則正しく、屋敷に柔らかなリズムが生まれる。
そのとき、ふらふらとした足音が庭の小道から聞こえた。
「エレノア様……」
振り返ると、猫耳を少し下げたメルが、体をかろうじて支えながらやってくる。手には何も持たず、足取りも不安定だ。
「メル、大丈夫?」
エレノアが眉をひそめて声をかける。
「……大丈夫です。ちょっとだけ……」
体調が悪いのは明らかだが、迷惑をかけまいと必死に平静を装っている。
「無理しなくていいのよ、座って休みなさい」
エレノアが差し伸べる手を見て、メルは首を小さく振った。
「いいえ……エレノア様が先に準備を始めているので、わたしが先に呼ばないと」
ゆっくりと足を運びながら、メルは屋内へ入っていく。
「……朝食の準備、もう始まってますか?」
小さな声で尋ねるメルに、エレノアは微笑む。
「ええ、もうすぐ用意が整うところよ。あなたは座って、少し休みなさい」
朝食のテーブルには、焼き立てのパン、ベーコンエッグ、スープ、そしてサラダが並ぶ。
カリカリに焼かれたベーコンに半熟のプレーンオムレツ――レーヴェン子爵家の定番の朝食だ。
メルはふらつきながらも椅子に腰を下ろし、少し肩を丸める。
「……朝食、いただけるかな……」
エレノアは真っ先にメルの様子をうかがい、眉をひそめた。
「メル、本当に大丈夫? 顔色も少し悪いし……」
アメリアお姉さまも心配そうにメルを見つめる。
「無理しないでね。今日は休んでていいのよ」
カイルも目を細め、じっとメルを見つめる。
「昨日からずっと無理してたみたいだし……今日はゆっくりしててください」
メルは小さく笑みを浮かべ、猫耳を少し伏せた。
「うん、ちょっと休めば大丈夫だから……心配かけてごめんね」
お父様は穏やかに微笑んで、いつもの軽い口調で言った。
「今日はゆっくり休んで、朝食も無理に食べなくていいぞ」
お母様も優しく頷き、フォークを差し出す。
「そうよ、今日は休みの日なんだから、焦らなくていいのよ」
しかしメルは少し首を振る。
「大丈夫、少しずつなら食べられるから……」
エレノアはそんなメルの頑張る姿に胸をぎゅっと押さえるような思いを抱きながら静かに微笑む。
性格上、一番心配している――それが、エレノアの目の奥に映る、わずかな緊張と優しさだった。
朝食を終え、メルは食器を片付けようと立ち上がった。
「よし……わたし、ちょっと――」
しかし、立ち上がった瞬間、ふらりと体が傾く。完全に倒れそうになるその瞬間、エレノアが素早く飛びかかり、メルをしっかり抱きかかえた。
「メル! 大丈夫なの!?」
さらにお父様も横から手を差し伸べ、腰と背中を支える。
「しっかりつかまれ、無理をするな!」
メルは驚いた表情で二人に支えられ、やっと安定した体勢を取ることができた。
「えっ……あ、ありがとうございます……」
アメリアお姉さまやカイルも駆け寄り、心配そうに見守る。
「熱はあるのか……?」
「顔色は……少し悪いね」
お母様は穏やかに声をかける。
「今日は休ませて、無理はさせちゃダメよ」
メルは申し訳なさそうに微笑む。
「ごめんなさい……でも、少しすれば……大丈夫……」
だが、エレノアは腕の中で体を支えながら、厳しい目で言った。
「もう我慢しないで! 今日は絶対に休むのよ!」
カイルもそっと肩を支え、優しく声をかける。
「無理しないで、メル……今は休もう」
お父様がおんぶしてメルを運び、エレノアがそばで支える形で部屋に入ると、二人は静かにメルをベッドに横たえた。
「よし、ここなら安全ね」
エレノアはメルの肩に手を添え、優しく微笑む。
お父様も少し肩をすくめ、穏やかに言った。
「今日だけは、ゆっくり休め」
二人はベッドのそばに座り込み、メルの呼吸を確かめながら静かに待機する。
その間、メルを鑑定し風邪の原因を特定することにした。
(ーー本当はあまり勝手に人を鑑定するのはよくないけど、やるしかないよね)
そう自分に言い聞かせ鑑定すると、
名前:メル
種族:獣人族(猫耳族)
職業:調理師
HP:50
MP:400
スキル:火属性(3/10) 調理(5/10)
称号:ミストルティンのお気に入り第二号(笑)
状態異常:共鳴熱によりHPが大幅に減少
猫耳族特有の風邪なので通常の風邪薬では効果がない
……ミストルティンのお気に入り第二号って何!?
てか第一号は誰なのよ!!
心の中でそう突っ込んでいると居間から駆けてきたお母様とアメリアお姉さまが部屋に入る。
「……あの、残念だけど、在庫の薬はちょうど切らしてしまったみたい」
お母様は少し困惑気味に言った。
エレノアはメルの額に手を当てながら説明を始める。
「……あの、多分今回の熱、共鳴熱だと思います……猫耳族特有のもので、普通の風邪薬ではすぐには効かないと思います」
「共鳴熱……?」
お母様とお父様が顔を見合わせ、少し戸惑った表情を浮かべる。
「共鳴熱は、ウィルスや細菌による感染ではなく、猫耳族特有の聴覚と魔力のバランスが崩れると発症する風邪です」
エレノアは真剣な目で説明し、メルを優しく見守った。
「なるほど……よく知っているな……」
お父様はゆっくりうなずき、手元を見ると、エレノアが小さな光を空間収納から取り出した。ハイポーションだ。
「ハイポーションなら即時に――」
エレノアが言いかけると、両親は驚きの声を上げた。
「ちょ、ちょっと待て! そんなもの、どこから!?」「空間収納から……?」
エレノアは落ち着いた表情で答える。
「空間収納は、精霊王様からいただきました」
お父様はポーションを手に取ろうとするエレノアに声をかけた。
「風邪だぞ?」
「ですが、回復ポーションなら即時に――」
エレノアは真剣な目で言いかける。
「もったいない」
お父様が首を振る。
「風邪をポーションで治すって聞いたことないわよ!」
お母様も思わずツッコミを入れ、場に軽い笑いが広がった。
エレノアは微笑みながら、しかし決して油断せず、メルの状態を見守る。
「でも、急を要するならこれが一番安全で早い方法なんです」
メルは安心したように目を閉じ、静かに息を整えた。
「それなら、薬を調合して治療するしかないわね」
エレノアは静かに言い、薬草や調合の準備を頭の中で整理する。
お父様は少し考えてから、うなずいた。
「わかった。それなら市場で材料を揃えて調合するのか。よし、今日はそれで行こう」
お母様も安心した表情で頷く。
「休息日だからお店は限られるけど、薬屋と薬草店、食品店くらいは開いているはずね」
こうして、メルを休ませつつ、必要な薬を市場で揃えて調合する方針が決まった。
エレノアは慎重にメルの体調を見守りつつ、手早く行動の段取りを考え始めた。
ーー屋敷・実験室
猫耳族特有の風邪を治すべく、錬金術や薬学の本を片っ端から調べていた。
だが、これといった情報は見つからない。
「うーん……風邪で耳鳴りが酷くなることはよく聞くけど、それに特化した薬ってあったかな……」
「エレノアの前世にも、似たような症状はあったの?」
アメリアお姉さまが訊ねる。
「厳密に言うと、私の前世では風邪は総合的な名称として呼ばれていて、症状は人によってさまざまだったよ。
喉から来る人もいれば、メルみたいに耳の不調を訴える者もいるし……
私は咳が酷くなって、いつも気管支炎になってたなー」
「そうなのね……」
参考になる情報を調べ尽くし暗礁に乗り上げていたその時だったーー
「エレノアーー!!アメリアーー!!会いたかったよーー!!」
……騒がしい変態――ミストルティン様がやってきた。
私は心の中で覚悟を決め、受け入れる体制を整える。
すると案の定、物凄い勢いで私へ抱き着いてきたのだ。
「はぁ……エレノア、今日もいい匂いするし、かわいいね……」
「だから言ってること、変態のそれですからね!?」
「ミストルティン様は、相変わらずねー……」
冷静に突っ込むアメリアお姉さまをよそに、ミストルティン様は私の匂いを堪能しまくっている。
頬が熱くなり、少し意識してしまう。肩や背中に顔が近づくたび、胸の奥がざわつくのを感じた。
「や、やめ……じゃなくて、もう……匂いばっかりは……」
言葉に詰まりながらも、軽く腕を押し返す。ミストルティン様はにやりと笑い、さらに嬉しそうに私の肩に顔をうずめた。
「もう神の領域に連れて行ってちょっと遊んでもいい?」
「いいわけないでしょ!!」
ハァハァと完全に興奮しているミストルティン様の対応に困っていると、アメリアお姉さまが冷静に口を挟む。
「あのー……私はどういう反応をすればいいのかしら……?
あとエレノアをお持ち帰りするのは許可するわよ」
「お姉さま!?」
「いいの!?」
その隙に、私は必死で腕を振りほどき、ミストルティン様の抱きつきをかわした。
「ちょ、ちょっと落ち着いてください! いい加減正気に戻ってください!」
ミストルティン様は一瞬、目を見開いたまま固まる。
「……え? あ、あれ……? 私、何してたんだ……?」
私は勢いよく後ろに下がり、机や椅子の間をすり抜けて距離を取る。
「そうです、正気に戻った瞬間に自分の行動を振り返ってください!」
アメリアお姉さまは冷静に眉をひそめつつも、少し楽しそうに笑っている。
「……ミストルティン様、少し落ち着きなさい。あなた、悪いことはしてないけど……やりすぎよ」
ミストルティン様は顔を赤らめ、手で頭をかきながらあわてて謝る。
「ご、ごめん……エレノア……興奮しすぎた……」
私は深呼吸をして、距離を取りつつも、頬がほんのり赤くなるのを感じた。
心の中で自分に気づかれないように微笑みを浮かべながら、私は静かに実験室に戻る。
「……次からは、挨拶くらいにしてくれれば十分なんだけど……」
こうして、ミストルティン様は反省しつつ正気に戻り、私は少しだけ心がざわつくまま、でも安心して作業に戻ることができたのだった。




