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外伝『鍵を託した夜』 ―終電の先は、選ばれなかった世界でした―

作者: 出雲
掲載日:2026/01/04

※本作は『終電の先は、選ばれなかった世界でした』の外伝です。

本編で語られなかった夜の話を描いています。

本編既読を推奨しますが、単独でもお読みいただけます。

庭に、列車が現れたのは月の低い夜だった。


音はなかった。

風も、光も、前触れもない。


ただ、そこに在るように、

石畳の上に古い車体が止まっていた。


扉の前には、仮面の男が立っていた。


「降りられますか」


その声は、私ではなく、

列車の中にいる“誰か”に向けられていた。


私は少し距離を置いたまま、

そのやり取りを見守っていた。



一人の女性が列車から降りて来た。


服装も、言葉も、この国のものではない。

それでも、目だけは驚くほど落ち着いていた。


「……ここは、どこでしょうか」


震えた声ではなかった。

状況を理解しようとする、静かな問いだった。


私は名を名乗り、

ここが私の屋敷の庭であることを伝えた。


彼女は小さく息を吐き、

それから、困ったように笑った。


「迷ってしまったみたいですね」


そう言ってから、

彼女は自分の名を名乗った。


異世界の名であることはすぐに分かったが、

嘘ではないと、なぜか確信できた。


その夜、庭で話したのは、

取るに足らないことばかりだった。


彼女の世界の話。

人が多く、建物が空を隠すほど高いこと。

夜でも灯りが消えないこと。


「落ち着く場所は、少ないんです」


そう言って、

彼女は遠くを見るような目をした。


その横顔が、

この庭と奇妙に重なって見えた。



彼女は、長く留まれない。


そういう確信だけが、

私の中にあった。


だから私は、約束をしなかった。

未来の話もしなかった。


夜が更けるたび、

列車は静かに待っていた。


私は、気づいていた。


「……この世界は、静かですね」


その言葉のあと、

彼女は帰り道の話をしなかった。


その時、

私は初めて、

この庭が彼女にとって居場所になりつつあることを悟った。



ネックレスを渡したのは、

最後の夜だった。


小さな装飾品。

特別な力があるようには見えない。


「これは?」


「ただの贈り物です」


嘘ではなかった。

だが、すべてでもなかった。


それは“鍵”だった。

境界が重なった時、

想いが一致した時だけ、

列車を呼び戻すための。


私は、その仕掛けを語らなかった。


語れば、

彼女は選べなくなる。

帰らねばならないと知りながら、

希望に縛られてしまう。


それだけは、

してはならなかった。



別れは、静かだった。


列車の扉が開き、

彼女は一度だけ振り返った。


「ありがとうございました」


それ以上は、何も言わなかった。

私も、何も言わなかった。


異世界の者は、長くはとどまれない。

それを引き止める力は、

この世界には存在しない。


列車が去った後、

庭は何も変わらなかった。


屋敷も、人も、夜空も。


ただ一つ、

私の中でだけ、音が消えた。



それから私は、

彼女の消息を知らない。


戻れたのか。

無事だったのか。

あの世界で、どんな人生を送ったのか。


知る術はなかったし、

知ろうともしなかった。



(彼女の視点)


列車に乗った時、私はまだ、帰り道の途中だと思っていた。


見知らぬ場所に着いたのだと理解するまでに、

それほど時間はかからなかった。

それでも、不思議と怖くはなかった。


庭は静かで、

空気は澄んでいて、

自分の輪郭が、少しだけはっきりする気がした。


あの人――領主だと名乗った男性は、

必要以上のことを聞かなかった。


それが、ありがたかった。


「長くはいられない」


理由は分からなくても、

体が先に知っていた。


それでも、

何も持たずに帰るのは、

少しだけ、怖かった。


ネックレスを渡された時、

私はそれを“お守り”だと思った。


希望だとは、思わなかった。


だから、帰れた。


帰って、

生きて、

選んだ。


それでも、

夜になると、

静かな庭を思い出すことがある。


忘れてはいない。


ただ、戻らなかっただけだ。



それから、長い時間が過ぎた。


息子が生まれた。


小さな手で、

私の指を握った時、

私は初めて、この世界に根を下ろしたのだと知った。


別れが、

無駄ではなかったと。


それからさらに時が流れ、

私は病に倒れた。


白い天井を見上げることが増え、

窓の外には、

あの庭とは似ても似つかない空があった。


それでも、

胸元に手をやると、

あの夜の温度が、まだ残っている気がした。


病床で、

私はネックレスを外した。


「大切なものなの」


理由は、話さなかった。


ただ、

彼の手にそれを託した。


いつか、

彼が迷って立ち止まる夜が来た時、

これは、

ただの飾り以上のものに

なってくれるかもしれない。


そう思っただけだった。


それが、

私にできる、

最後の選択だった。







ただ一つだけ、

願ったことがある。


もしも、

彼女がこの世界を忘れず。


もしも、

この世界が彼女を忘れなければ。


想いが、

言葉を越えて残るなら。


いつか、

また列車は現れる。


それは期待ではない。

信仰に近いものだった。



後に、私は娘を授かった。


彼女が成長し、

屋敷の庭に立つ姿を見るたびに、

あの夜のことを思い出した。


だからこそ、

異世界の青年が現れた時、

私は即座に理解してしまった。


——鍵は、渡っている。


だが、その意味を知ったのは、

もっと後のことだ。


あのネックレスを、

彼が握りしめた時。


私は初めて、

すべてを悟った。


そして同時に、

知ってしまった。


私は、

何も知らずに、

希望だけを託していたのだと。


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