外伝『鍵を託した夜』 ―終電の先は、選ばれなかった世界でした―
※本作は『終電の先は、選ばれなかった世界でした』の外伝です。
本編で語られなかった夜の話を描いています。
本編既読を推奨しますが、単独でもお読みいただけます。
庭に、列車が現れたのは月の低い夜だった。
音はなかった。
風も、光も、前触れもない。
ただ、そこに在るように、
石畳の上に古い車体が止まっていた。
扉の前には、仮面の男が立っていた。
「降りられますか」
その声は、私ではなく、
列車の中にいる“誰か”に向けられていた。
私は少し距離を置いたまま、
そのやり取りを見守っていた。
⸻
一人の女性が列車から降りて来た。
服装も、言葉も、この国のものではない。
それでも、目だけは驚くほど落ち着いていた。
「……ここは、どこでしょうか」
震えた声ではなかった。
状況を理解しようとする、静かな問いだった。
私は名を名乗り、
ここが私の屋敷の庭であることを伝えた。
彼女は小さく息を吐き、
それから、困ったように笑った。
「迷ってしまったみたいですね」
そう言ってから、
彼女は自分の名を名乗った。
異世界の名であることはすぐに分かったが、
嘘ではないと、なぜか確信できた。
その夜、庭で話したのは、
取るに足らないことばかりだった。
彼女の世界の話。
人が多く、建物が空を隠すほど高いこと。
夜でも灯りが消えないこと。
「落ち着く場所は、少ないんです」
そう言って、
彼女は遠くを見るような目をした。
その横顔が、
この庭と奇妙に重なって見えた。
⸻
彼女は、長く留まれない。
そういう確信だけが、
私の中にあった。
だから私は、約束をしなかった。
未来の話もしなかった。
夜が更けるたび、
列車は静かに待っていた。
私は、気づいていた。
「……この世界は、静かですね」
その言葉のあと、
彼女は帰り道の話をしなかった。
その時、
私は初めて、
この庭が彼女にとって居場所になりつつあることを悟った。
⸻
ネックレスを渡したのは、
最後の夜だった。
小さな装飾品。
特別な力があるようには見えない。
「これは?」
「ただの贈り物です」
嘘ではなかった。
だが、すべてでもなかった。
それは“鍵”だった。
境界が重なった時、
想いが一致した時だけ、
列車を呼び戻すための。
私は、その仕掛けを語らなかった。
語れば、
彼女は選べなくなる。
帰らねばならないと知りながら、
希望に縛られてしまう。
それだけは、
してはならなかった。
⸻
別れは、静かだった。
列車の扉が開き、
彼女は一度だけ振り返った。
「ありがとうございました」
それ以上は、何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
異世界の者は、長くはとどまれない。
それを引き止める力は、
この世界には存在しない。
列車が去った後、
庭は何も変わらなかった。
屋敷も、人も、夜空も。
ただ一つ、
私の中でだけ、音が消えた。
⸻
それから私は、
彼女の消息を知らない。
戻れたのか。
無事だったのか。
あの世界で、どんな人生を送ったのか。
知る術はなかったし、
知ろうともしなかった。
⸻
(彼女の視点)
列車に乗った時、私はまだ、帰り道の途中だと思っていた。
見知らぬ場所に着いたのだと理解するまでに、
それほど時間はかからなかった。
それでも、不思議と怖くはなかった。
庭は静かで、
空気は澄んでいて、
自分の輪郭が、少しだけはっきりする気がした。
あの人――領主だと名乗った男性は、
必要以上のことを聞かなかった。
それが、ありがたかった。
「長くはいられない」
理由は分からなくても、
体が先に知っていた。
それでも、
何も持たずに帰るのは、
少しだけ、怖かった。
ネックレスを渡された時、
私はそれを“お守り”だと思った。
希望だとは、思わなかった。
だから、帰れた。
帰って、
生きて、
選んだ。
それでも、
夜になると、
静かな庭を思い出すことがある。
忘れてはいない。
ただ、戻らなかっただけだ。
⸻
それから、長い時間が過ぎた。
息子が生まれた。
小さな手で、
私の指を握った時、
私は初めて、この世界に根を下ろしたのだと知った。
別れが、
無駄ではなかったと。
それからさらに時が流れ、
私は病に倒れた。
白い天井を見上げることが増え、
窓の外には、
あの庭とは似ても似つかない空があった。
それでも、
胸元に手をやると、
あの夜の温度が、まだ残っている気がした。
病床で、
私はネックレスを外した。
「大切なものなの」
理由は、話さなかった。
ただ、
彼の手にそれを託した。
いつか、
彼が迷って立ち止まる夜が来た時、
これは、
ただの飾り以上のものに
なってくれるかもしれない。
そう思っただけだった。
それが、
私にできる、
最後の選択だった。
⸻
ただ一つだけ、
願ったことがある。
もしも、
彼女がこの世界を忘れず。
もしも、
この世界が彼女を忘れなければ。
想いが、
言葉を越えて残るなら。
いつか、
また列車は現れる。
それは期待ではない。
信仰に近いものだった。
⸻
後に、私は娘を授かった。
彼女が成長し、
屋敷の庭に立つ姿を見るたびに、
あの夜のことを思い出した。
だからこそ、
異世界の青年が現れた時、
私は即座に理解してしまった。
——鍵は、渡っている。
だが、その意味を知ったのは、
もっと後のことだ。
あのネックレスを、
彼が握りしめた時。
私は初めて、
すべてを悟った。
そして同時に、
知ってしまった。
私は、
何も知らずに、
希望だけを託していたのだと。




