平穏な日々
五月二十日。修学旅行から一週間が経った。
学校は、いつもの日常に戻っていた。授業の進み方も、廊下の雑談も、昼休みの喧騒も。――あの四日間が夢だったみたいに、みんな平然としている。
けれど俺だけは、まだ時々、京都の風の匂いを思い出す。
そして、その度に「隣にいた蓮」の輪郭だけが、妙にはっきりと胸に残る。
数学の授業。黒板に並ぶ数式をノートへ写す。
隣では蓮が、いつも通り丁寧な字で要点をまとめている。真剣な横顔。シャーペンを持つ指先の癖まで、見慣れてしまった。
チャイムが鳴り、昼休み。
「海斗、お弁当。屋上、行こ」
蓮が小さく言った。声は控えめなのに、表情は軽い。
俺は頷いて、二人で階段を上る。
屋上の扉を開けた瞬間、五月の風が頬を撫でた。湿り気のない、あたたかい風だ。フェンスの向こうに青空が広がり、白い雲がゆっくり流れていく。
「……気持ちいいね」
蓮は空を見上げて、少し目を細めた。
俺はその横顔を見て、胸の奥がほどける感覚を覚える。
いつもの場所に腰を下ろす。周囲には何組かいるが、みんな距離を取ってそれぞれの時間を過ごしている。だから、ここだけ静かだった。
蓮が弁当箱を開ける。卵焼き、唐揚げ、野菜の炒め物。彩りが綺麗で、詰め方まで几帳面だ。
「いただきます」
二人で言って、箸を動かす。
今日の授業がどうだったとか、明日の小テストが嫌だとか。
そんな、どうでもいい話が案外いちばん心地いい。特別な言葉がなくても、息が合っていく。
「ねえ、海斗。今日の放課後、生徒会の仕事、早く終わりそう」
「そうなのか」
「だから……終わったら、寄り道したい」
蓮は言い終える直前に、ほんの少しだけ視線を逸らした。照れた時の癖だ。
「カフェ、行く?」
「うん。行きたい」
その一言で、蓮の口元がほころぶ。
「……やった」
蓮は嬉しさをごまかすみたいに、弁当へ視線を落とした。
「海斗の弁当、美味しそう。……それ、何?」
「豚の生姜焼き」
「一口、もらっていい?」
「いいよ」
俺が箸で取って差し出すと、蓮が小さく口を開ける。
「……ん。美味しい」
ふっと笑う顔が、無防備で――危ない。屋上なのに、心臓が変な跳ね方をする。
「海斗のお母さん、料理上手だね」
「まあ、慣れてるんだろうな」
「私も、もっと上手になりたい」
言い方が少しだけ真剣で、蓮らしい。
“将来”を、言葉にしないまま思っている顔だ。
「十分うまいよ。蓮の弁当、ちゃんと美味しい」
蓮の頬が薄く赤くなる。
「……ありがとう」
食べ終えると、蓮が俺の肩に頭を預けてきた。
風が髪を揺らし、陽がまぶしいのに、ここだけ時間が緩む。
「こうしてるとさ……時間、止まればいいのにって思う」
蓮の声は冗談みたいに軽いのに、どこか切ない。
「分かる」
俺がそう返すと、蓮の肩の力が少し抜けた。
「……あ。そうだ」
蓮がスマホを取り出す。
「修学旅行の写真、プリントしたの。昨日」
「早いな」
「だって、綺麗だったから」
画面には、清水寺、金閣寺、嵐山。
あの時間が、紙に閉じ込められている。見返すだけで、胸が温かくなる。
「部屋に飾った。……海斗との思い出、ちゃんと残したくて」
「俺もプリントする。今度、一緒に選ぼう」
蓮が嬉しそうに頷いた、ちょうどその時。
チャイムが鳴り、昼休みが終わる合図が風に混ざった。
「戻ろっか」
「うん」
名残惜しさを誤魔化すみたいに、二人で立ち上がった。
※ ※ ※
放課後。生徒会室。
文化祭準備の実務が始まり、空気が一段変わっていた。
企画書、予算見積もり、提出期限。どれも曖昧が許されない。
蓮は机に資料を並べ、手順を整理している。会長としての立ち回りが、もう自然だ。
「春川くん、この予算案、一次チェックお願い」
野村が紙束を差し出してくる。
「了解」
クラス出展の概算、備品費、印刷費。数字の積み上げに、現実の重みがある。
俺は数分でざっと見て、気になる箇所に印をつけた。
「……ここ、想定単価が甘い。去年実績より低い」
「確かに。訂正しておきます」
野村は即答した。仕事が早い。
「鈴波会長、企画書の下書き、できました」
神崎が資料を差し出す。
「ありがとう。――うん、読みやすい。これで進めよう」
蓮がそう言った瞬間、神崎の表情が少し緩んだ。
“役に立てた”という実感が、彼をちゃんと変えている。
作業は順調に進んだが、最後に蓮がホワイトボードの数字を見て、眉を寄せる。
「……予算、ちょっと厳しいね」
その言い方は落ち着いているのに、声の端に焦りが混ざった。
「削る? それとも、運用で抑える?」
俺が訊くと、蓮は少し考え込んでから、顔を上げた。
「まずは、各クラスに“必須と任意”を分けて再提出してもらう。そこで余白を作る」
判断が早い。
蓮は、背負うべきところで背負えるようになっている。
それでも、終わった瞬間には肩が落ちた。
「みんな、お疲れさま。今日はここまで」
メンバーが帰っていき、室内に静けさが戻る。
残ったのは、俺と蓮だけ。
「……お疲れ」
「ありがとう」
蓮は椅子に座ったまま、両腕を上に伸ばした。
あの“会長の顔”から、一瞬だけ“普通の蓮”に戻る。
「昼に言ってたカフェ、行く?」
「……行きたい」
その返事が、少しだけ甘える音になる。
※ ※ ※
駅前の小さなカフェ。窓際の席。
夕方の街は、まだ明るい。
注文したカフェラテとアイスコーヒーが運ばれてきて、香りがふわりと立った。
「こうして二人で寄り道するの、久しぶりだね」
蓮がカップを両手で包む。
「修学旅行前は、毎日慌ただしかったし」
「だな。戻ってきた感じがする」
蓮はラテを一口飲んで、嬉しそうに息をついた。
「……美味しい」
その顔を見て、俺もようやく肩の奥が緩む。
「文化祭、楽しみ?」
俺が聞くと、蓮は頷きながらも、少しだけ目を伏せた。
「楽しみ。でも……会長として初めてだから、怖いのもある」
“ちゃんとできるかな”を、飲み込んだ言い方だった。
俺はテーブルの下ではなく、ちゃんと見える位置で蓮の手に触れた。
握り込まず、安心だけを渡す触れ方。
「大丈夫。今日の判断、もう会長だった」
蓮は驚いたみたいに目を瞬かせ、それから照れくさそうに笑う。
「……ありがとう。海斗がいると、前向ける」
言い過ぎると甘くなりすぎるから、俺は短く返す。
「俺も同じ」
少し間が落ちた。
店内には他の客もいるのに、その間だけは二人の呼吸が合う。
「ねえ、海斗。今週末、空いてる?」
「空いてる」
「じゃあ……デートしよう。ショッピングして、映画も観たい」
「いいな。土曜で」
蓮の顔がぱっと明るくなる。
その瞬間、俺は思う。――特別なイベントじゃなくて、こういう小さな約束が、日常を支えてる。
※ ※ ※
カフェを出て、駅まで歩く。手を繋ぐ。
それだけで十分だった。
「今日、楽しかった」
「俺も」
「修学旅行みたいな特別も好きだけど……こういう普通が、好き」
蓮は言いながら、泣きそうな顔になって、それを笑顔で押し戻した。
「普通って、贅沢なんだね」
俺は返す。
「贅沢だな。だから、守ろう」
駅に着き、改札の前で足を止める。
「じゃあ、また明日」
「うん。……おやすみ」
俺は周りを気にしつつ、ほんの一瞬だけ蓮の額に触れるようにキスをした。
“見せつける”んじゃなく、“確認”みたいなやつだ。
蓮は目を丸くして、それから小さく笑った。
「……明日も、頑張れそう」
電車に乗り込む蓮の背中を見送りながら、俺は胸の中で明日の段取りを組む。
文化祭は、きっと簡単じゃない。予算も、人も、思惑も動く。
でも――蓮は前を向いている。
だから俺も、前へ行く。
明日も、蓮の隣で。
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