2人だけの世界
五月十二日。修学旅行三日目。
目を開けた瞬間、思い出す。今日は自由行動の日だ。
班単位の予定に追われない、地図の線をなぞるだけの一日じゃない。自分たちで選んで、自分たちで歩ける日。
胸の奥が、自然に高鳴った。
朝食を済ませ、全員で集合場所へ向かった。廊下もロビーも、昨日までとは空気が違う。みんな私服の話、行き先の話で落ち着かない。
“観光客になる準備”が、学校行事の顔を上書きしていく。
「それでは、自由行動の説明をします」
先生が声を張ると、生徒たちのざわめきが少しだけ収まった。
「午前九時から午後五時まで、自由行動です。ただし、必ず二人以上で行動すること。緊急時の連絡先を確認しておくこと」
先生の言葉に、今度は別の種類の緊張が混ざる。
自由の裏には責任がある。修学旅行は、そこがリアルだ。
「午後五時には必ず旅館に戻ってください。遅刻は論外です」
「はい」
全員が声を揃える。
“はい”の中に、楽しみと焦りが同居していた。
「では、楽しんできてください」
先生のひと言で、空気が弾けた。
生徒たちは一斉に散っていく。行き先の名前が飛び交い、笑い声が広がる。
俺は玄関前で蓮を待った。
昨日の夜に立てた計画は頭に入っている。でも、今日の主役は計画じゃない。――蓮と、二人で歩くことだ。
やがて、蓮が現れた。
私服の蓮は、制服のときよりも少しだけ“距離”が近く見えた。
白いワンピースの裾が風に揺れて、髪は下ろされている。光が当たるたび、柔らかい輪郭が浮かぶ。
「海斗、お待たせ」
「いや、今来たところだ」
自分の声が妙に落ち着いて聞こえたのは、たぶん緊張を隠したかったからだ。
蓮が俺を見上げる。目が少しだけ泳いで、それから微笑んだ。
「海斗、かっこいい」
頬がうっすら赤い。
俺も私服で、ジーンズに白いシャツ、薄手のジャケット。気合いの入れ方がばれてしまうようで、少しだけ照れる。
「蓮も、綺麗だ」
言った瞬間、蓮の頬がさらに赤くなる。
「……ありがとう」
蓮は恥ずかしそうに、でも自然に俺の腕に自分の腕を絡めた。
その柔らかな重みが、“今日は特別だ”と改めて知らせてくる。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
俺たちは嵐山へ向かった。
※ ※ ※
電車に揺られ、嵐山駅に着く。
駅を出た瞬間、空気が観光地の匂いに変わった。人の流れ、案内板、土産物の看板。日常の速度が、少しだけ早い。
「わあ、素敵」
蓮が目を輝かせる。
俺たちは手を繋いで歩き出した。
周りに人がいても、繋いだ手だけは“二人の世界”の入り口みたいに温かい。
渡月橋へ向かう。橋が近づくほど、川の音がはっきりしてくる。
橋の上に立つと、流れが視界の下をすべっていく。風が水面を撫で、光が散る。
「綺麗だね」
蓮が川を見つめて言った。
「ああ」
俺はカメラを出し、蓮の横顔を撮る。
蓮が気づいて、少しだけ笑った。
「海斗、一緒に撮ろう」
通りかかった観光客に頼んで、二人の写真を撮ってもらった。
渡月橋を背に並ぶと、蓮は指先でこっそり俺の手を握り直す。――その小さな仕草が、写真よりずっと嬉しい。
「ありがとうございます」
蓮が丁寧に頭を下げる。
橋を渡って、竹林の道へ。
竹林に入った瞬間、空気が変わった。
音が柔らかくなり、光が細く落ちる。竹がまっすぐ伸び、風が葉を擦る音だけが目立つ。
「すごい……」
蓮が見上げる。
その顔が、ただの“観光”じゃなくて、ちゃんと景色に呑まれている。
俺は言葉を足さずに、蓮の手を握り直した。
「海斗」
「ん?」
「なんか……映画のワンシーンみたい」
蓮の声が少しだけ夢を見る。
「そうだな」
俺たちは竹の間をゆっくり歩いた。
観光客はいるのに、視線の端に溶けていく。足音だけが並び、心拍が同じ速度になる。
竹林を抜け、天龍寺へ。庭園は、静かで、整っていた。池に映る景色が揺れて、まるで絵の具が溶けるみたいに色が混ざる。
「美しいね……」
蓮が小さく言う。
ベンチに座り、しばらく黙って眺める。
黙っていられる時間が、二人の距離をもう一段だけ近づけてくれる気がした。
「海斗」
「ん?」
「……幸せ」
蓮の声は小さく、でも確かだった。
「こうして二人きりで」
蓮の目が少し潤む。
俺は蓮の肩を抱き寄せる。抱き締めるというより、“逃げない場所を作る”みたいに。
「俺も」
言葉はそれだけで十分だった。
※ ※ ※
昼食は川沿いの小さなレストランにした。テラス席は風が心地よく、川の音が会話の隙間を埋めてくれる。
「美味しい」
蓮が嬉しそうに言う。
「ああ。こういうの、旅って感じするな」
蓮は頷き、指先でグラスを回す。
制服のときより少し大人びて見えるのは、景色のせいか、私服のせいか。
「今日、すごく楽しい」
「俺も」
「ずっと、海斗と二人きりで……夢みたい」
蓮が目を伏せて笑う。
俺は蓮の手を握った。人目のある場所で、それ以上はしない。けど、それで十分だった。
食後は土産屋を覗き、小さな寺をいくつか回った。
「海斗、これ可愛い」
蓮が小さな置物を手に取る。
「似合う。蓮っぽい」
そう言うと、蓮は照れたように笑って、それを買った。
“手に取ったものを持ち帰る”って、たぶん未来の自分へ投資することなんだろう。
時計を見ると、もう午後三時。
五時には旅館へ戻らないといけない。自由行動のルールは、自由を守るためにある。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「もう少しだけ……二人きりでいたい」
蓮が甘えるように言う。
その声に負けそうになる自分が、正直いた。
「静かな場所、ないかな」
俺は周りを見渡し、少し外れた場所に小さな神社を見つけた。人が流れない導線のところに、控えめな鳥居。
「あそこ、行ってみるか」
「うん」
※ ※ ※
神社は小さく、静かだった。
境内に入ると、観光地の音が一枚だけ遠ざかる。木々の匂いと、影の涼しさが落ち着く。
「静かだね」
蓮が小声で言った。
「ああ」
本殿で手を合わせる。願い事は口にしない。
言葉にすると崩れそうで、胸の中にしまっておきたかった。
参拝を終え、境内の奥へ歩く。小さな社があって、そこはさらに人の気配が薄い。
蓮が立ち止まり、俺を見る。
視線が熱を帯びる。言葉が追いつかないときの、蓮の目だ。
「海斗……」
「蓮……」
俺は蓮を抱き締めた。
軽い抱擁じゃない。けど、乱暴でもない。――互いを確かめ合うみたいな抱き締め方。
蓮の顔が近づく。
唇が触れた。短く、熱いキス。二回、三回。息が浅くなる。
そのまま、もう少し深く行きたくなる。
でも、俺はふっと額を寄せて、呼吸を整えた。
「……蓮。戻ろう」
蓮が一瞬だけ名残惜しそうに目を伏せて、それから小さく頷く。
「うん……」
俺は蓮の手を握り直す。
「約束。今日は“帰る”までが自由行動だ」
俺がそう言うと、蓮は少し笑って、
「海斗、ずるい。かっこいい」
なんて言う。
それだけで、胸の奥が満たされていく。
※ ※ ※
午後五時。旅館に戻った。
部屋に入ると、岡波と雪原がすでに戻っていた。
「おかえり」
岡波が手を振る。
「ただいま」
「どうだった?」
「よかった。嵐山、やっぱ綺麗だった」
岡波は頷き、雪原が「写真見せて」と笑う。
部屋の空気が“修学旅行のいつものテンション”に戻っていく。
「俺たちは伏見稲荷行ってきた」
岡波が言う。
「千本鳥居、圧巻だったぜ」
「いいな。写真ある?」
「あるある」
――こういう会話が、ちゃんと“班”の思い出も作っていく。
夕食の時間。大広間に集まる。今日も豪華な料理が並ぶ。
蓮と目が合った。
蓮は少しだけ頬を赤くして、すぐに視線を逸らす。俺も同じだ。
さっきの神社の空気が、まだ手の中に残っている――きっとこれは絶対に残る。そんな確信が微かにあった。
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