修学旅行 2日目
五月十一日。修学旅行二日目。
目が覚めた瞬間、旅館の朝だと分かった。
畳の匂い。障子越しの光。遠くで聞こえる廊下の足音。家とは違う情報が、静かに身体を起こしてくる。
隣の布団では岡波がまだ寝ていた。口元が少し開いていて、寝息がやけに規則正しい。昨日あれだけ喋っていたくせに、スイッチが切れると一気に落ちるタイプだ。
雪原の姿は見えない。たぶんもう起きて、身支度をしているんだろう。あいつは準備が早い。
時計を見ると六時半。朝食は七時半。まだ一時間ある。
俺は静かに布団を抜け、廊下に出た。
旅館の廊下は、音が吸い込まれるみたいに静かだ。足音が妙に優しく聞こえる。
すると、女子部屋のドアがちょうど開いた。
蓮が出てきた。
その瞬間、胸が小さく跳ねた。昨日からずっと一緒にいるのに、こういう“偶然のタイミング”は毎回ずるい。
「海斗、おはよう」
「おはよう」
蓮は俺の隣に並ぶ。髪はきちんと整っていて、表情も明るい。
選挙や卒業式の前みたいな張り詰めた顔じゃない。ただ楽しみにしている顔。そこにいるだけで安心する。
「よく眠れた?」
「ああ。蓮は?」
「うん。ぐっすり」
蓮は小さく頷いて、窓の外を見た。朝の光が頬の輪郭を柔らかくしている。
「今日も、楽しみだね」
「ああ」
今日は奈良だ。東大寺、奈良公園――“教科書で見た場所”を、実際に歩ける日。
「朝食まで、少し時間あるね」
「そうだな」
「散歩しない?」
蓮がそう言うなら、断る理由なんてない。
俺たちは旅館の外へ出た。
朝の京都は、夜よりもさらに静かだった。
まだ観光客の熱が立ち上がる前で、空気がすっと冷たい。建物の影が長く伸びていて、街全体が寝起きの顔をしている。
旅館の周りをゆっくり歩く。
風が弱く、鳥の声だけが目立つ。こういう時間は、修学旅行のテンションとも違って、妙に現実感がある。
「綺麗だね」
蓮が空を見上げた。
青い空に、白い雲が薄く流れている。
“今日は何も問題が起きません”と保証されているみたいな、穏やかな天気だった。
「海斗」
「ん?」
「昨日、すごく楽しかった」
蓮の声は、浮ついた明るさじゃない。確かめるみたいな、落ち着いた喜びだった。
「今日も、楽しもうね」
「ああ」
俺は蓮の手を握った。
触れた瞬間、温度が伝わってくる。大丈夫だ。今日も、きっといい一日になる。
※ ※ ※
朝食後、全員が集合し、奈良に向かった。
バスに乗り込む。今日も俺と蓮は隣同士だった。
隣ってだけで、移動時間の質が変わる。窓の外を眺める時も、眠くなる時も、安心できる場所が隣にある。
バスが動き出す。車窓の景色が流れていき、京都の街が少しずつ遠ざかる。
昨日見た寺や門や石畳が、もう“過去の景色”になっていくのが不思議だった。
車内では、生徒たちが昨日の話をしている。
「金閣寺やばかった」「八つ橋買った?」そんな言葉が弾む。楽しさが、まだ体の中に残っている。
「春川先輩、鈴波会長」
前の席から神崎が振り返った。表情が明るい。選挙の時の硬さは、ほとんどない。
「昨日、どうだった?」
「よかったよ。清水寺、想像以上だった」
俺がそう言うと、神崎は満足そうに頷く。
「僕は金閣寺が印象的でした。写真、何枚撮ったか分からないくらいで」
「分かる」
蓮が小さく笑う。
神崎は、その笑いに自然に混ざってくる。
“仲間になった”って、こういうことなんだろうな。
一時間ほどで奈良に到着した。
バスを降りると、空気がまた変わった。
京都よりさらに落ち着いていて、空間に余白がある。観光地なのに、街が急かしてこない感じがする。
「さあ、最初の目的地は東大寺です」
先生の声が響く。
「班ごとに行動してください。集合時間は十二時。東大寺の南大門前です」
俺たちは四人で歩き始めた。
人混みの中でも、つい班の位置関係を確認してしまうのは、生徒会の癖かもしれない。迷子が出ないか、遅れている奴はいないか。――自分でも笑う。
歩いていると、鹿が近づいてきた。奈良公園の鹿。教科書の写真みたいな光景が、当たり前の距離で起きている。
「わあ、鹿だ!」
蓮の目が一気に輝く。
「近づいてくるな」
岡波が少し引き気味に言う。
鹿は人慣れしている。だからこそ、遠慮なく来る。そこが怖いんだろう。
鹿が蓮に寄ってきて、鼻先で手を嗅いだ。
「くすぐったい」
蓮が笑う。その笑顔が、旅の景色にぴったり合う。
「鹿せんべい、買おうか」
雪原が提案した。
「いいね」
全員が頷く。
鹿せんべいを買った途端、鹿の密度が上がった。
“食べ物を持っている人”として認識されると、距離感がゼロになる。鹿の目が真剣すぎて笑える。
「すごい数だね……」
蓮が戸惑いながらも楽しそうに言う。
せんべいを差し出す手が少し震えている。怖いのか、面白いのか、両方なんだろう。
岡波がカメラを構えた。
「蓮、いいシーンだぞ」
シャッター音。
鹿に囲まれている蓮。絶対あとで見返して笑うやつだ。
※ ※ ※
東大寺に到着した。
南大門をくぐった瞬間、空気の重さが変わった。
音が吸い込まれるというより、音が“下がる”。人の声が小さくなる。自然と背筋が伸びる。
大仏殿が見えた。その大きさに、言葉が遅れる。
「すごい……」
蓮が息を呑む。
「……でかいな」
岡波が、珍しく素直な声で言う。
大仏殿に入ると、大仏が鎮座していた。
視界が“像”で埋まる。存在感という言葉が軽くなるほどの圧。そこにあるだけで、場の空気を支配している。
「わあ……」
蓮が見上げたまま動けない。
畏敬。そういう感情を、教科書で理解した気になっていたけど、実物は全然違う。
「すごいね……」
蓮の声が小さい。
それでも、目は真っ直ぐに大仏を捉えていた。怖いのとは違う。飲み込まれそうで、でも目を離したくない――そんな顔だ。
四人で様々な角度から回る。
近づけば細部が見える。離れれば全体が見える。どの距離でも“でかい”のに、どの距離でも整っている。造形の説得力が異常だ。
「海斗、写真撮ろう」
蓮が俺の手を引いた。
「ああ」
岡波にカメラを渡し、大仏を背景に並ぶ。
「はい、チーズ」
シャッター音。
写真に収まると、大仏の大きさが逆に嘘みたいに感じる。現地の圧は、画面じゃ削れるんだな。
大仏殿を出て境内を散策する。敷地が広く、建物が点在している。歩くだけで“歴史の中を移動している”気分になる。
「東大寺、すごく広いね」
蓮が感心する。
「ああ。歩いてるだけで、時間が厚い」
自分で言って、少し照れた。
でも蓮は笑わずに頷いた。
歩いていると、柱に穴が開いている場所があった。
「これ、何?」
雪原が興味深そうに覗く。
「大仏の鼻の穴と同じ大きさらしい」
岡波が説明した。
「くぐると、無病息災のご利益だって」
「じゃあ、くぐってみようよ」
蓮が言う。
こういう時の蓮は、会長の顔じゃなくて、普通の女子高生の顔になる。好奇心が先に出る。
一人ずつくぐる。穴は意外と狭い。
蓮の番になった。穴に入っていく姿が、ちょっと面白い。
「きゃあ、狭い……!」
穴の中から声がする。
「大丈夫か?」
俺が聞くと、
「うん、大丈夫!」
蓮は反対側から出てきた。髪が少し乱れている。
「海斗も、くぐってよ」
「ああ」
俺もくぐる。確かに狭い。肩の位置をうまくずらさないと引っかかる。
抜けた瞬間、変な達成感があった。しょうもないのに、笑える。
「お疲れ様」
蓮が笑う。
四人で笑い合う。
こういう瞬間が、あとで一番残るんだろうなと思った。
※ ※ ※
昼食後、奈良公園を散策した。
広い公園。鹿が自由に歩き回り、人がそれを当たり前に受け入れている。
不思議な景色だ。動物園とは違う。共存という言葉が、現実の形になっている。
「平和だね」
蓮が鹿を見ながら言う。
「ああ」
芝生に座って休憩する。地面が少しひんやりしていて、風が気持ちいい。
岡波と雪原は少し離れた場所で鹿と遊んでいる。雪原は写真を撮り、岡波は“鹿せんべいを奪われる寸前”みたいな顔をしている。
「海斗」
「ん?」
「修学旅行、本当に楽しいね」
蓮の声は、柔らかくて、満ちている。
「俺も」
「海斗と一緒だから、もっと楽しい」
蓮の視線が、まっすぐに俺を射抜く。
照れくさいのに、嬉しい。嬉しいのに、言葉が出ない。
俺は蓮の手を握った。
それだけで十分だった。
「ねえ、海斗。明日、自由行動だよね」
「ああ」
「嵐山、楽しみだね」
期待に満ちた顔。
竹林、渡月橋――予定を立てるだけで楽しいっていうのは、分かる。
「竹林、歩こうな」
「うん」
蓮は嬉しそうに笑った。
その後もしばらく散策して、興福寺や春日大社へ足を伸ばした。
歩くほど、奈良の“歴史の層”が肌に触れる。寺社の静けさが、観光の熱をうまく冷ましてくれる。
※ ※ ※
夕方。旅館に戻った。今日も同じ旅館だ。
部屋に戻ると、荷物を置いて一息つく。その瞬間、身体の奥がふっと緩む。
楽しいって、体力を使うんだなと今さら思う。
「疲れたな」
岡波が畳に寝転がる。
「分かる。でも、いい疲れだ」
俺が言うと、雪原が「うん」と短く笑った。
夕食は今日も豪華だった。京都料理が並び、色が綺麗で、食べるのが惜しい。
「いただきます」
四人で声を揃える。
箸を進めながら、今日の景色を振り返る。
東大寺の大仏。奈良公園の鹿。――“大きさ”と“のどかさ”の落差が強すぎて、記憶が濃い。
「今日も、いい一日だったね」
蓮が嬉しそうに言う。
「ああ」
俺も同じ気持ちだった。
夕食後は自由時間。俺は大浴場へ行くことにした。
湯に浸かると、肩から力が抜ける。旅館の湯は、家の風呂より“終わった感”が強い。
湯船で岡波と並ぶ。岡波が、いつものからかい半分の顔で言った。もうあの時にできた隔たたりは、無くなっているように思えた。
「なあ、海斗。蓮と、うまくいってるな」
「まあな」
「羨ましいぜ」
岡波は笑う。
その笑い方が、妙に素直で、逆に照れる。
「雪原はどうなんだ?」
俺が聞き返すと、岡波は一瞬だけ言葉に詰まった。
「ああ……まあ、いい感じかな」
耳が赤い。分かりやすすぎる。
俺は笑いそうになるのをこらえて、「そうか」とだけ返した。
部屋に戻ると、雪原がテレビを見ていた。岡波はすでに布団に近い位置で転がっている。
蓮の姿は見えない。まだ女子風呂だろう。
しばらくして、ドアがノックされた。
「はい」
開けると、蓮が立っていた。髪が少し湿っていて、香りが柔らかい。
浴衣姿が、旅館の光に妙に馴染む。
「海斗」
「どうした?」
「ちょっと、話したいことがあって」
声が小さい。周りに誰かいるのを気にしているというより、二人だけの温度に落としてきた声だ。
「分かった。廊下で話すか」
「うん」
俺たちは廊下へ出た。
旅館の廊下は静かで、声が自然に小さくなる。だからこそ、距離が近い。
「で、どうした?」
「えっとね……」
蓮の頬が赤い。
俺は一瞬、別のことを想像してしまったが、蓮はすぐにスマホを出した。
「明日の自由行動のこと、ちゃんと計画したくて」
「ああ」
「嵐山の地図、持ってきたの」
俺たちはスマホを覗き込み、ルートを確認する。竹林の道、渡月橋、天龍寺。時間配分。移動手段。
こういう計画立ては、蓮の得意分野だ。楽しそうに目が動く。
「ここ、先に行きたい」
「じゃあ、朝のうちに回そう」
「うん。……楽しみだね」
蓮の目が輝く。
「ああ。二人で、ゆっくり回ろう」
俺がそう言うと、蓮は嬉しそうに微笑んだ。
その表情だけで、明日がもう少し近くなる。
「じゃあ、そろそろ戻らないと」
「そうだな」
蓮が女子部屋へ向かう。その後ろ姿を見送りながら、胸の奥に静かな期待が積もっていく。
明日。自由行動。嵐山。
二人で歩く時間が、たぶん一番“修学旅行っぽい”時間になる。
部屋に戻り、布団に入る。
疲れがどっと押し寄せるのに、心は満たされている。楽しい一日って、こういうことだ。
修学旅行二日目。今日も、確かに良い一日だった。
そして、明日も――蓮と一緒だ。
その期待を胸に、俺は目を閉じた。
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