修学旅行 1日目
五月十日。修学旅行一日目。
朝七時。学校の正門前は、普段の登校とはまるで別世界だった。
制服の列に混じって、転がるキャリーケース。肩に食い込む大きなボストンバッグ。紙袋から覗くお菓子。――“旅”の匂いがする荷物が、あちこちに並んでいる。
生徒たちの顔も、今日はやけに明るい。
眠そうにしている奴もいるけど、それは徹夜の眠気じゃなくて、早起きの眠気だ。笑い声の質が軽い。胸の奥が弾んでいるのが、こっちまで伝染してくる。
俺も荷物を持って集合場所へ向かった。点呼表を持った先生が、少しだけ強張った顔で生徒を数えている。
“事故なく、時間通りに、全員を運ぶ”。旅行は楽しいけど、学校行事はオペレーションだ。だから先生の表情も固くなるんだろう。
「海斗!」
蓮の声が飛んできた。振り返ると、蓮が小走りで近づいてくる。頬が少し紅い。朝の空気が冷たいせいか、単純にテンションのせいか。
「おはよう」
「おはよう」
蓮は俺の隣に並んで、息を整える。
笑顔が眩しい。昨日の“会長の顔”とは違う。今日は“修学旅行に行く高校生”の顔だ。
「ついに、今日だね」
「ああ」
蓮の目が輝いている。その輝きは、見ているだけで嬉しくなる。
「春川、鈴波」
神崎が声をかけてきた。大きな荷物を持っているのに、姿勢がやけに綺麗だ。もともと目立つタイプだったけど、最近は“やる気”の方が前に出ている。
「おはよう」
「おはようございます」
「楽しみですね」
「ああ」
俺が頷くと、神崎も小さく笑った。
選挙の時と同じ顔なのに、表情の角が丸い。人って、こんなに変わるんだな。
やがて先生たちが点呼を始めた。クラスごとに名前が呼ばれ、返事が返る。
いつもなら、誰かしら返事が遅れて笑いが起きるのに、今日はみんな妙に素直だ。楽しみすぎて、余計なことをしたくないのかもしれない。
「よし、全員揃った」
先生の声が響く。
「それでは、バスに乗り込んでください」
その一言で、生徒たちが一斉に動き出した。五台のバスの前に、自然と列ができる。
荷物を積む音、先生の誘導、友達同士の「同じバスだ!」の歓声。朝の空気が、にぎやかに揺れる。
俺と蓮は同じバスだった。荷物を預けて乗り込む。座席は窓際に俺、通路側に蓮。隣同士。
「わあ、隣だね」
蓮が嬉しそうに言う。
「ああ」
隣ってだけで、旅の安心感が増す。くだらないことかもしれないけど、こういう小さな確定事項が“楽しい”を強くする。
やがて全員が乗り込むと、バスが動き出した。学校を出る瞬間、車内から歓声が上がる。
「出発だ!」
「京都、行くぞ!」
その声が、窓ガラスを震わせる。
俺は蓮の横顔を見た。笑っている。ほんの少しだけ、目の奥が潤んでいる気もしたけど、それはきっと朝の光のせいだ。
高速道路に入る。窓の外の景色が、流れていく。
街並みが遠ざかって、代わりに空が広くなる。進むほど、日常が背中側へ沈んでいく感じがする。
「ねえ、海斗」
蓮が俺の肩に頭を預けた。
「ん?」
「幸せ」
小さな声。柔らかい声。
「海斗と一緒に、修学旅行」
「俺も」
俺は蓮の髪を撫でた。
バスの中は賑やかで、後ろの席では岡波と雪原がトランプで盛り上がっている。笑い声が途切れない。
それでも、俺と蓮の間だけ、少し静かだ。静かだからこそ、心臓の音が近い。
時間がゆっくり過ぎていく。
バスは、京都に向かって走り続けた。
※ ※ ※
午前十時。京都駅に到着した。
バスを降りると、空気の質が変わった。
東京より湿り気が少なくて、香りが淡い。人の密度は同じくらいあるのに、どこか“古い街の呼吸”が混じっている気がする。
「わあ、京都だ」
蓮が目を輝かせた。
「ああ」
京都駅の大きな構造。モダンな造り。だけど、その奥に古都の気配がある。
駅って場所なのに、観光の入口みたいに見える。
「それでは、最初の目的地、清水寺に向かいます」
先生の声が響く。
「班ごとに行動してください。集合時間は十二時。清水寺の正門前です」
生徒たちが班ごとに動き始める。
俺たちの班は、俺、蓮、岡波、雪原の四人。ちょうど良い。賑やかだけど、まとまりやすい人数だ。
「じゃあ、行こうか」
俺が声をかけると、全員が頷く。
バスで清水寺へ向かう。車窓から見える京都の街並み。
町家の屋根が連なり、看板の色が派手すぎない。景色が“整いすぎてない”のに、どこか統一されている。
そういう街の作り方が、京都なんだろう。
やがて清水寺に到着した。
バスを降りると、参道が広がっていた。坂道の両脇にお土産屋。香ばしい匂い。焼きたての甘い匂い。外国語が混じるざわめき。
観光地の熱が、肌にまとわりつく。
「すごい人だね」
蓮が驚いたように言う。
「ああ」
人混みの中でも、蓮は周りをよく見て歩く。ぶつからないように、雪原を気にしながら速度を調整している。
こういうところも、会長らしい。
「これ、可愛い」
雪原が土産屋の前で立ち止まった。
「八つ橋だって」
岡波も覗き込む。
「帰りに買おうか」
蓮が提案する。
“今買って荷物になる”より、“帰りに買う”を選ぶところが、やっぱり蓮だ。
坂を上りきると、仁王門が見えてきた。大きくて、重い。
門が“入口”というより、“境界”に見える。ここから先は、日常じゃない――そう言われているみたいだった。
「わあ、すごい」
蓮が小さく息を呑む。
門をくぐると、本堂が見えた。想像より大きい。木の色が深い。歴史が積もった色だ。
そして、舞台。あれが“清水の舞台”。
「高いな……」
岡波が見上げる。
「うん。言葉が生まれるの、分かる気がする」
雪原が感心したように言う。
確かに。ここに立つと、足元がすうっとする。高い場所って、心も少し浮く。
舞台に上ると、京都の街が一望できた。
遠くまで屋根が続き、その上に空が広い。景色が、綺麗なのに“派手じゃない”。その落ち着きが、心を静かにする。
「綺麗……」
蓮が目を輝かせた。
「ああ」
俺はカメラを取り出した。蓮の横顔、背景の街、光の角度。
蓮は写真に撮られるのが上手い。笑顔を作る、じゃなくて、景色を見て自然に出る表情がそのまま綺麗だ。
「海斗、一緒に撮ろう」
蓮が俺の腕を引いた。
「ああ」
岡波にカメラを渡して、二人で並ぶ。
「はい、チーズ」
シャッター音。
画面を確認すると、俺と蓮が笑っている。ちゃんと、今の俺たちが写っている。
“思い出”って、こうやって形になるんだなと、少しだけ不思議だった。
「いい写真だね」
蓮が嬉しそうに言う。
「ああ」
清水寺を回り、音羽の滝へ。
水が落ちる音が、参道の喧騒を切り離すみたいに響く。
「何をお願いする?」
蓮が俺に聞いた。
「そうだな……蓮との幸せ、かな」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
でも蓮は、頬を赤くして、嬉しそうに目を細めた。
「海斗……」
それだけで、滝の水より胸が熱くなる。
※ ※ ※
十二時。集合時間。
清水寺の正門前に全員が集まった。先生が人数を確認する。
こういう“区切り”がちゃんとあると、旅行は回る。先生たちの顔が少しだけ緩んだのが分かった。
「それでは、昼食です。この近くのレストランに向かいます」
京都料理の店。構えが落ち着いていて、入り口からもう“京都っぽい”。
「わあ、素敵なお店」
蓮が嬉しそうに言う。
席に着くと、料理が運ばれてきた。彩りが細かい。器まで含めて一つの作品みたいだ。
「いただきます」
四人で声を揃える。
口に入れると、味が静かに広がった。薄味。だけど物足りないんじゃない。素材の味を引き立てる“余白”がある。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、心が落ち着く。
「美味しい」
蓮が嬉しそうに言う。
「ああ」
雪原が「写真撮っていい?」とスマホを構え、岡波が「俺も」と真似をする。
そういう騒がしさが、今度は心地よかった。
※ ※ ※
午後。金閣寺へ。
入り口を抜けた先、金色の建物が視界に飛び込んできた。
金色が“派手”じゃなくて、“存在感”としてそこにある。池に映る姿まで含めて、完成している景色だった。
「わあ……」
蓮が息を呑む。
「すごい……」
「綺麗だな」
俺も同じだった。
写真を撮っても撮っても、画面の中に収まりきらない。目で見る方が速いのに、残したくなる。
「海斗、また一緒に撮ろう」
蓮が俺の手を引く。
「ああ」
岡波が「はいはい」と笑いながらシャッターを切る。
旅って、こういう連鎖でできていく。誰かが楽しいと、それが次に回る。
次は銀閣寺。金閣寺と対照的な、静けさの美。
庭園を歩くと、足音まで落ち着く。砂紋の模様が、時間の流れを目に見える形にしたみたいだった。
「日本の美って、こういうことなんだね」
蓮がしみじみと言う。
「ああ」
俺も頷いた。
派手じゃないのに、目が離せない。蓮の性格にも、少し似ていると思った。
※ ※ ※
夕方。旅館に到着した。
京都の中心部にある旅館。木の匂い。畳の感触。玄関の静けさ。
入った瞬間、今日の疲れが“良い疲れ”に変わっていく。
「わあ、素敵な旅館」
蓮が目を輝かせた。
部屋割りが発表される。俺たちの班は四人部屋。畳の広い部屋。
“ここで三日間”という言葉が、現実味を帯びて胸に落ちる。
「ここで、三日間過ごすんだね」
蓮が嬉しそうに言った。
荷物を置いて、浴衣に着替える。浴衣ってだけで、旅行のスイッチがもう一段入る。
夕食は大広間。料理が並び、今日一日が“ちゃんと終わる”感じがする。
「いただきます」
全員で声を揃える。
食べながら、今日の景色を思い返す。清水寺。金閣寺。銀閣寺。
目で見た色が、まだまぶたの裏に残っている。
「今日、すごく楽しかったね」
蓮が嬉しそうに言う。
「ああ」
俺も同じだ。
楽しいだけじゃなくて、“満ちている”。そういう一日だった。
夕食が終わり自由時間。俺と蓮は旅館の庭を散歩することにした。
庭には小さな池。池に月が映っている。水面が揺れるたび、月が少しだけ形を変える。
「綺麗だね」
蓮が池を見つめながら言う。
「ああ」
俺は蓮の手を握った。
昼間の人混みと違って、夜の京都は音が少ない。少ないから、呼吸がよく聞こえる。
「今日、楽しかった」
「俺も」
「明日も、楽しみだね」
蓮が俺を見上げる。
「ああ」
俺は蓮にキスをした。軽く、優しく。
蓮は恥ずかしそうに俺の胸に顔を埋める。
「もう……旅館なのに」
「誰もいないから、大丈夫だろ」
そう言うと、蓮が小さく笑った。
その笑い声が、庭の静けさに溶けていく。
二人でしばらく歩く。京都の夜の匂い。湿った石の匂い。木の匂い。
修学旅行一日目。最高の一日だった。
そして明日も、蓮と一緒。
その確かな期待を胸に、俺たちは旅館へ戻った。
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