修学旅行 前夜
五月九日。修学旅行の前日。
朝から、学校全体が浮き足立っていた。教室の扉が開くたび、廊下の話し声が雪崩みたいに流れ込んでくる。
「どんな服持ってく?」
「お土産何買う?」
「夜、同じ部屋のメンツ誰だっけ」
そんな言葉が、授業前の空気に混ざって弾ける。いつもなら眠そうな顔をしている連中まで、今日は目が冴えていた。
俺は教室で、蓮と並んで座っていた。窓の外には五月の青空。初夏の光が、机の上のプリントを白く眩ませる。
前日ってだけで、景色の輪郭まで少し鮮明に見えるから不思議だ。
「ねえ、海斗」
蓮が小声で話しかけてくる。声は抑えているのに、期待が滲んでいる。
「ん?」
「荷物、全部準備できた?」
「ああ。昨夜、全部チェックした」
“チェックした”の言葉に、蓮がほっと息を吐く。
「よかった。私も、もう完璧」
蓮の目が、きらっと光った。
生徒会長としての蓮は、段取りと確認の鬼みたいなところがある。なのに今は、その几帳面さが可愛げの方へ寄っている。楽しみで、ちゃんと準備したくなる顔だ。
チャイムが鳴り、ホームルームが始まった。担任が教壇に立つ。
「さて、みなさん。明日から修学旅行ですね」
言われる前から分かっているのに、あえて言われると、教室の空気が一段上がる。ざわめきが波みたいに広がった。
「最終確認をします。集合時間は、明日朝七時。学校の正門前です」
担任が資料を配り始める。
「バスの座席は事前に決めた通り。班行動の際は必ず時間を守ること。――あと、体調が悪い場合は無理しない。これ、絶対」
“絶対”のところだけ、妙に強い。先生も先生で、前日らしく緊張しているんだろう。
「それと、生徒会からもお知らせがあります。鈴波さん」
「はい」
蓮が立ち上がった。椅子が小さく鳴る。
教壇の前に向かう背中は、堂々としている。クラスメイトの視線が一斉に蓮へ集まるのが分かる。――もう「副会長」じゃない。「会長」になったんだな、と俺はそこで改めて実感する。
「みなさん、おはようございます。生徒会長の鈴波蓮です」
蓮の声が教室に響いた。クリアで、聞き取りやすい。言葉の端が揺れない。
前の蓮なら、こういう場面で少しだけ喉が硬くなっていた。今は違う。責任を背負う声になっている。
「明日からの修学旅行、楽しみですね」
教室のあちこちから「おー」「楽しみ!」と返る。
蓮はその反応を受け止めながら、目線を一人ひとりに配っていく。ここが蓮の上手いところだ。全員を“参加者”にする視線を持っている。
「生徒会としても、みなさんが安全に、楽しく過ごせるようサポートします」
きっぱりと、でも硬すぎない。
“安全”と“楽しく”を同じ重さで言えるのが、蓮らしいと思った。
「何か困ったことがあれば、遠慮なく生徒会メンバーに声をかけてください」
言い切った後、蓮は少しだけ頷く。
「それでは、みんなで最高の思い出を作りましょう」
深く頭を下げる。拍手が起こった。
拍手の音は教室の壁に当たって跳ね返り、やけに明るく響いた。
蓮が席に戻ってくる。照れくさそうに、でも誇らしそうに。
「お疲れ様」
俺が小声で言うと、蓮は小さく笑った。
「ありがとう」
その一言に、さっきまでの“会長の顔”がほどけて、いつもの蓮が戻る。俺はその切り替えに、胸の奥が少し温かくなった。
※ ※ ※
放課後、生徒会室。
“ミーティング”という言葉だけで、部屋の空気が引き締まる。
蓮、俺、藤崎、野村、神崎、新メンバー。全員が資料を前にして座っていた。緊張しているのに、どこか楽しげでもある。仕事と遠足のテンションが、同じ部屋で同居していた。
「それでは、最終確認をします」
蓮が資料を開く。ページをめくる音が、やけにきれいに揃う。
「集合時間、バスの座席配置、役割分担。全て、確認しましたね」
「はい」
全員が頷く。その頷きにズレがない。
蓮は“頷きの揃い方”まで見ている。そういうところが、頼れる。
「当日、何か問題があれば、すぐに連絡を取り合いましょう」
蓮の声は落ち着いている。
前日の会議で焦るのは最悪だ。焦りは伝染して、ミスを呼ぶ。蓮はそれを分かっている。
「連絡手段は、スマホのグループチャット」
蓮がスマホを見せた。生徒会メンバー全員が入っているグループ。
「緊急時は、すぐにここで連絡します。既読がつかない場合は、個別に電話。――ここまでいい?」
「分かりました」
全員の声が揃った。
「では、最後に」
蓮が全員を見渡す。ここだけ、会長の声が少し柔らかくなる。
「みんな、明日からの修学旅行、楽しみましょう」
顔がほころぶ。
責任者が笑うと、場が緩む。緩むと、緊張が良い具合に抜ける。蓮は“仕事の空気”を作るのも、“仕事の空気を抜く”のも上手い。
「生徒会の仕事も大切だけど、私たちも生徒です」
言葉の温度が、ちょうどいい。
「思い切り、楽しみましょう」
「はい!」
返事が弾けた。
こういう瞬間、蓮の周りにちゃんと仲間がいるって実感する。
ミーティングが終わり、メンバーたちが帰っていく。
「鈴波会長、春川さん」
神崎が声をかけてきた。深々と頭を下げる動きが、もう自然になっている。
「明日、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
蓮が微笑んだ。
「神崎、楽しもうな」
俺も言う。
「はい」
神崎は嬉しそうに笑って、生徒会室を出ていった。
扉が閉まると、部屋が急に静かになる。夕日が窓から斜めに差し込み、机の角をオレンジ色に染めていた。
部屋には、俺と蓮だけ。
「海斗」
「ん?」
「明日から、楽しみだね」
蓮の声が弾んでいる。弾みながらも、どこか落ち着いているのが蓮らしい。
「ああ」
「京都と奈良……海斗と一緒に回れるなんて」
蓮の目が、夢を見るみたいに遠くを見た。
「俺も、楽しみだ」
俺は蓮の手を握った。
その手は温かい。前みたいに冷たくはない。今の蓮は、“楽しみ”にちゃんと身体が追いついている。
「三泊四日。蓮と、ずっと一緒」
「うん」
蓮は俺の肩に頭を預ける。
「幸せだな」
「ああ」
抱き合う。静かな生徒会室。
窓の外の夕日が、明日へ向かう時計みたいに沈んでいく。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今夜、私の部屋に来てくれない?」
甘える声。だけど、頼り切る声ではない。
明日を楽しむための、前夜の確認みたいな言い方だった。
「明日の前に、海斗と一緒にいたい」
「ああ」
俺が答えると、蓮は嬉しそうに微笑んだ。
※ ※ ※
夜。蓮の部屋。
リビングのソファに並んで座る。窓の外には、東京の夜景。光が線になって伸びて、街が生き物みたいに瞬いている。
「海斗」
「ん?」
「カメラ、持ってく?」
「ああ。たくさん写真撮りたいからな」
「私も」
蓮は嬉しそうに笑う。
「海斗との思い出、たくさん残したい」
「ああ」
俺は蓮の手を握った。
「清水寺で、金閣寺で、伏見稲荷で」
蓮が指を折って数える。
“仕事の段取り”じゃなくて、“思い出の段取り”を立ててるのが、なんだかくすぐったい。
「全部、海斗と一緒に写真撮ろうね」
「ああ」
蓮の目が輝く。その輝きが、俺の胸の奥を温める。
「ねえ、海斗。自由行動の時間、どこ行く?」
蓮がスマホの地図を見せてくる。
「嵐山とか、どうかな」
「いいな」
俺も覗き込む。嵐山、竹林の道、渡月橋。
写真で見ただけでもきれいだ。現地は、きっともっと。
「竹林の道、歩きたい」
蓮が言う。
「二人で、ゆっくり」
「ああ」
同じ気持ちだった。急がない時間。予定に追われない時間。
修学旅行の中で、それがどれくらい貴重か、俺はなんとなく分かっている。
「じゃあ、自由行動は嵐山に決定だな」
「うん」
蓮は満足そうに頷いた。
二人でしばらく地図を見ながら、店の候補や移動時間をざっくり計算する。
こういう“前夜の相談”が、旅の一部なんだと思う。
「海斗」
「ん?」
「今夜、一緒にいて」
蓮の声が柔らかい。
「ああ」
蓮が俺の手を引く。
部屋の奥へ向かう途中、ふわりと甘い匂いがする。いつもと同じ匂いなのに、今日は“前日”の匂いが混じっている気がした。
ベッドに座る。蓮が俺の目を見つめる。
「明日から、楽しみだね」
「ああ」
抱きしめる。蓮の身体が腕の中に収まる。
この温度があるから、俺は明日も落ち着いて動ける。
「でも、今夜は、ただ一緒にいたい」
「ああ」
俺は蓮の髪を撫でた。
「明日への期待も、海斗と一緒なら、もっと膨らむ」
「俺も、同じだ」
抱き合ったまま、時間がゆっくり流れていく。
外の光も、街の音も、遠い。ここには俺と蓮だけ。
やがて蓮の呼吸が規則正しくなった。眠ったのだろう。
その寝顔を見つめながら、俺は決意を新たにする。
明日から修学旅行。
“楽しむ”のも、“守る”のも、全部やる。蓮と一緒に、最高の思い出を作る。
そう心の中で言って、俺も目を閉じた。
※ ※ ※
翌朝。朝六時。
カーテンの隙間から朝日が差し込む。五月の朝の光は柔らかい。
蓮はまだ俺の腕の中で眠っていた。穏やかな寝顔。昨日の緊張も、今日の期待も、全部いったん沈んでいる顔だ。
「蓮」
小声で呼ぶと、ゆっくり目が開く。
「海斗……おはよう」
「おはよう」
「今日……修学旅行だね」
眠そうなのに、目だけはもう輝いている。
その輝きが、今日の始まりをちゃんと告げていた。
「ああ。準備しないとな」
「うん」
二人で起き上がる。
朝食を簡単に済ませ、それぞれの家へ戻って最終確認。
荷物、カメラ、財布、充電器。全部揃っている。
時計を見ると六時半。あと三十分で家を出る。
スマホが振動した。
『海斗、準備できた?』
『ああ。もうすぐ出る』
『私も。学校で会おうね』
『ああ』
メッセージを送り終えると、俺は荷物を持って家を出た。
修学旅行。三泊四日。蓮と一緒に過ごす、特別な時間。
その時間が、今日から始まる。
期待と興奮を胸に、俺は学校に向かった。
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