準備と期待
四月二十日。修学旅行まで、あと三週間。
放課後の生徒会室は、春の光が残る時間帯だというのに、空気だけはやけに“仕事”の匂いが濃かった。資料の束、付箋、蛍光ペン、タブレット。机の上が小さな戦場になっている。
蓮、俺、藤崎、野村、神崎、そして新メンバーたち――全員が、目の前の紙と数字と予定表に食い下がっていた。
蓮はホワイトボードの前に立ち、日程を書き出していく。字は相変わらず丁寧で、迷いがない。
書きながら整理するというより、“整理されたもの”をそのまま転記しているみたいな安定感があった。
「一日目は、京都駅に午前十時到着。そこから清水寺に向かいます」
蓮の声に合わせて、ペンが紙を走る音が一斉に重なった。
こういう場面で、蓮の強みがはっきり出る。派手な言い回しはしない。でも、情報が抜け落ちない。要点が揃っている。聞く側が迷子にならない。
「二日目は、金閣寺、銀閣寺、そして嵐山」
同じ“京都”でも、一日目と二日目は性質が違う。移動距離、混雑度、想定トラブルの種類。
蓮はそれを分かった上で、説明の順番を組み立てている。聞く側の頭の中を先回りして、地図を作っていくみたいに。
「三日目は、奈良に移動。東大寺、奈良公園」
“奈良”と書かれた瞬間、何人かの一年が小さく「鹿だ……」と呟いて、藤崎に肘で軽く突かれて黙った。
そのやり取りすら、悪くない。緊張しすぎる会議は疲れる。適度に息ができる方が、仕事は前に進む。
「最終日は、伏見稲荷を回ってから、京都駅から帰路につきます」
蓮が最後の行程を言い切ると、部屋の空気が一段落ち着いた。全体像が見えるだけで、不安は半分になる。
そこで神崎が手を挙げた。姿勢がいい。タイミングもいい。話を遮らないのに、必要な確認だけを拾い上げる。
「質問があります」
「はい、どうぞ」
「自由行動の時間は、どれくらいですか?」
蓮はすぐに資料を確認した。ページをめくる動きが迷わない。
「三日目の午後、三時間ほど自由行動の時間があります」
「分かりました」
神崎がメモを取る。真剣さが形になっている。
選挙の時に見えた“自信”とは別の、地味で強い種類の努力だ。俺はそれを少し好ましく思った。こういう努力は、誰かを踏み台にしない。
「他に、質問は?」
蓮が全員を見渡す。
新メンバーが一瞬だけ目を泳がせたが、誰も手を挙げない。分からないことがない、というより、蓮が先に潰しているからだ。
「では、次に、生徒会としての役割分担について」
蓮が新しい資料を配った。
「当日の運営サポート。具体的には、点呼の補助、班行動の見守り、そして緊急時の対応」
ここからは“観光”じゃない。責任の話だ。
蓮の声色も少しだけ硬くなる。生徒会長としての“切り替え”が、言葉に乗る。
「春川くんは、全体の調整役」
蓮が俺を見た。
「はい」
返事はしたが、内心では苦笑いが出た。調整役って、要するに“穴埋め係”だ。予想外が起きた時に走り回る役。
でも、こういう役は嫌いじゃない。蓮が安心できる余白を作れるなら、なおさら。
「神崎くんは、点呼の補助」
「分かりました」
神崎が頷く。迷いがない。
「藤崎さん、野村さんは、それぞれ別のバスに乗って、生徒たちをサポート」
「はい」
二人が声を揃える。
藤崎と野村は、派手さはないが安定している。修学旅行みたいな行事は、こういう“地味に強い人材”が一番頼りになる。
役割分担が決まると、蓮は満足そうに頷いた。
「みんな、準備、よろしくね」
「はい」
全員が声を揃える。
この揃った返事に、俺は少しだけ胸が温かくなる。
選挙を経て、蓮の周りに“任せられる空気”が育っている。蓮ひとりが背負う必要はない――そういう構図が、少しずつ形になってきている。
※ ※ ※
ミーティングが終わり、他のメンバーが帰った後。
生徒会室には、蓮、俺、神崎だけが残された。
蓮は椅子に座ったまま、深くため息をついた。肩が少しだけ落ちている。
会議中の“生徒会長の顔”がほどけて、同級生の表情が戻ってくる瞬間だ。
「お疲れ様」
俺が声をかけると、蓮は微笑んだ。
「ありがとう」
「修学旅行の準備、大変だな」
「うん……でも、楽しみ」
蓮の目が輝く。
こういう“楽しみ”を、ちゃんと口にできる蓮はいい。責任感の人間は、楽しみを後回しにしがちだ。言葉にできるのは、心が健全に動いている証拠だと思う。
「みんなが、楽しい修学旅行を過ごせるように、頑張らなきゃ」
蓮の声が決意に満ちる。
“頑張らなきゃ”は、蓮の癖だ。けれど今日のそれは、追い込みの匂いじゃない。前向きな責任感だ。
「鈴波会長」
神崎が口を開いた。
「はい」
「何か、手伝えることがあれば、言ってください」
その言葉は、余計な色がついていなかった。媚びも、打算もない。
神崎はたぶん、あの春を越えて“勝ち負けじゃない場所”を学んだんだろう。だから今は、役割を果たそうとしている。
「ありがとう、神崎くん」
蓮が微笑む。
「じゃあ、明日の資料作成、手伝ってもらえる?」
「もちろんです」
神崎が頷いた。
「春川さんも、よろしくお願いします」
「ああ」
俺も頷く。
神崎は軽く会釈して、生徒会室を出ていった。
扉が閉まると、室内の音が一段静かになる。紙の擦れる音と、時計の秒針の小さな刻みだけが残った。
部屋には俺と蓮だけ。
「海斗」
「ん?」
「神崎くん、本当に頼りになるね」
蓮の声が嬉しそうだ。
「ああ」
「最初は、どうなるかと思ったけど……」
蓮の目が遠くを見つめる。
たぶん“ライバルだった頃の神崎”を思い出してる。でも、それを引きずってるわけじゃない。過去を片付けて、今を肯定してる目だ。
「今は、いい仲間」
「ああ」
俺は蓮の隣に座った。
「でも、無理するなよ」
「うん、分かってる」
蓮が俺の肩に頭を預ける。
「海斗がいるから、大丈夫」
「ああ」
俺は蓮の髪を撫でた。
“俺がいるから大丈夫”は、嬉しい反面、少しだけ責任が増える言葉でもある。俺が見落としたら、蓮は頑張りすぎるかもしれない。
だから、見ておく。ちゃんと。
「修学旅行、楽しみだな」
「うん」
蓮の声が柔らかい。
「海斗と一緒に、京都と奈良を回れるなんて」
蓮の目が夢見るように遠くを見る。
それは、仕事じゃない目だ。彼女自身の目だ。
「三泊四日……ずっと、海斗と一緒」
「ああ」
「幸せだな」
蓮が俺の胸に顔を埋めた。
「俺も」
二人でしばらく抱き合った。静かな生徒会室。二人だけの空間。
窓の外は春で、部屋の中は少しだけ甘い。
※ ※ ※
四月二十五日。
教室で、班ごとの事前学習が始まった。修学旅行で訪れる場所について調べてまとめる――“遊びの前の宿題”みたいな時間だ。
俺と蓮、岡波、雪原の四人で一つの机を囲んだ。机の上にはタブレット、ノート、筆箱。
四人の距離が近いと、言葉が自然に転がる。こういう空気は、班行動に向いてる。
「じゃあ、俺たちは清水寺について調べるか」
岡波が提案する。
「いいね」
雪原が頷く。
タブレットの画面に清水寺の写真が映る。舞台、三重塔、参道。
旅先で見たら、きっともっと大きく見えるんだろう。
「清水寺って、平安時代に建てられたんだな」
岡波が画面を見ながら言う。
「そうだね。約千二百年の歴史があるって」
蓮がメモを取りながら答える。字がきれいだ。要点の切り方も上手い。
この“まとめる力”は、蓮の才能だと思う。地味に見えて、一番強い。
「清水の舞台から飛び降りる、って言葉があるよね」
雪原が興味深そうに言った。
「ああ。あの舞台、高さ十三メートルもあるらしい」
俺も調べながら答える。
四人で調べた内容をまとめていく。作業は地味なのに、なぜか楽しい。
たぶん、旅の匂いがもう始まっているからだ。
「修学旅行、楽しみだな」
岡波が伸びをしながら言った。
「うん。京都も奈良も、初めて」
雪原も嬉しそうだ。
「俺も」
俺も同じだった。歴史の街。その街を、蓮と一緒に回れる。
「海斗と蓮、ラブラブだもんな」
岡波がからかうように言う。
「え? あ……」
蓮の頬が赤く染まる。
「流石にか」
俺も少し照れくさい。
「当たり前だろ。いつも一緒じゃん」
岡波が笑う。
「まあ、いいんじゃない? お似合いだし」
雪原も微笑む。
「ありがとう……」
蓮が小さく呟いた。
からかいは、悪意じゃない。むしろ祝福に近い。
そういう関係に戻りつつあるのが、俺は嬉しい。
四人でまた作業に戻る。和やかな雰囲気。その空気が心地よい。
※ ※ ※
五月一日。修学旅行まで、あと九日。
放課後、生徒会室で最終確認をしていた。
日程、座席、予算、緊急時の連絡網。修学旅行は“楽しみ”の塊だけど、裏側は“段取り”の塊だ。段取りがあるから、安心して楽しめる。
「バスの座席配置、確認しました」
藤崎が報告する。
「予算の最終調整も、完了しました」
野村も続ける。
「よし。あとは、当日を待つだけだな」
蓮が満足そうに頷いた。
「鈴波会長」
神崎が口を開いた。
「はい」
「僕、修学旅行、すごく楽しみなんです」
神崎の声が、少しだけ少年っぽい。
こういう言い方ができるのは、今の神崎が“仲間の場所”に立てている証拠だと思う。
「実は、京都も奈良も、行ったことなくて」
「そうなんだ」
蓮が微笑む。
「じゃあ、一緒に楽しもうね」
「はい」
神崎も微笑む。その笑顔は、選挙の時のそれとは全く違う。柔らかく、温かい。
「春川さんは?」
神崎が俺に聞いた。
「俺も、初めてだ」
「そうなんですね」
「楽しみだな」
俺が言うと、神崎は頷いた。
「そういえば、神崎くん、どの班?」
蓮が聞いた。
「ああ、僕はA班です」
「そうなんだ。じゃあ、現地で会ったら、声かけてね」
「はい」
神崎が嬉しそうに微笑む。
ミーティングが終わり、全員が帰っていく。
生徒会室に残るのは、いつも最後に落ち着く空気。忙しさの熱が引いて、静けさが戻る時間。
俺と蓮だけが残った。
「海斗」
「ん?」
「あと九日」
蓮の声が期待に満ちている。
「ああ」
「楽しみだね」
「ああ」
俺は蓮の手を握った。
「蓮と一緒に、京都と奈良を回れる」
「うん」
蓮の目が輝く。
「絶対、いい思い出にしよう」
「ああ」
二人で窓の外を見る。五月の空が青い。
もうすぐゴールデンウィーク。そして、その後すぐに修学旅行。
その日が、刻一刻と近づいていた。
※ ※ ※
その夜、俺は家で修学旅行の荷物を確認していた。
着替え、洗面用具、カメラ、常備薬、予備の充電器。旅行の準備は、心配性の棚卸しみたいな作業だ。
スマホが振動した。蓮からのメッセージだ。
『海斗、荷物の準備してる?』
『ああ、今やってる』
すぐに返信が来る。
『私も。楽しみすぎて、眠れないかも』
俺は思わず笑った。
蓮がこういう子どもみたいなことを言うのは、珍しい。だから嬉しい。
『大丈夫。ちゃんと寝ろよ』
『うん。海斗も』
『ああ』
『おやすみ、海斗。大好き』
『おやすみ、蓮。愛してる』
メッセージを送り終えると、俺は再び荷物の確認に戻った。
修学旅行。三泊四日。蓮と一緒に過ごす、特別な時間。
その時間がもうすぐ始まる。
期待と、少しの緊張を胸に、俺は準備を続けた。
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