修学旅行と新学期
四月八日。新学期初日。
朝、俺は昇降口の前で蓮を待っていた。校庭の桜は満開で、風が吹くたびに花びらがひらりと舞う。淡いピンクの粒が、まるで「今日から始まる一年」を祝う紙吹雪みたいに落ちてくる。
春の朝。新しい学年の始まり。三年生。俺たちに残された、最後の一年。
――一年しかない、と言うより。
――一年もある、と言いたい。
そう思えるようになったのは、たぶん選挙の春を越えたからだ。息が切れるほど走った日々を一度経験すると、同じ時間でも重さが変わる。軽くはならない。けれど、扱い方が分かる。
「海斗!」
蓮の声が聞こえた。振り返ると、蓮が駆けてきていた。制服のスカートが春風をはらんで揺れて、髪が少しだけ跳ねる。
その笑顔は、まぶしいくらいまっすぐだった。
「おはよう」
「おはよう」
蓮は俺の隣に並ぶ。隣に来ただけで、周囲の音が少し遠のく。こういう瞬間に、俺は毎回ほっとする。蓮がちゃんと“ここにいる”って確認できるから。
「三年生だね」
「ああ」
「最後の一年……」
蓮の声が、少し感慨深い。桜の季節は毎年来るのに、同じ桜じゃない。去年とは違う春だ。
「一緒のクラスになれて、よかった」
「ああ。俺も」
クラス発表の掲示板を見た時、俺は心底ほっとした。
同じクラスだから安心、ってだけじゃない。近くにいられる分、蓮の“無理”に早く気づける。蓮は大丈夫そうに笑うのが上手い。だからこそ、近い距離は強い。
「じゃあ、教室行こう」
「ああ」
二人で校舎に入る。廊下には生徒が溢れていて、久しぶりのざわめきが耳をくすぐる。春休みの静けさを押し返すみたいに、学校が一気に息を吹き返していく。
三年B組の教室に着くと、すでに何人も登校していた。知った顔がいくつか見える。机の配置の匂い、窓際の光、黒板のチョークの粉――全部、当たり前の景色なのに、どこか新しい。
教室の後ろの方に岡波と雪原がいた。二人とも楽しそうに話している。あの二人がいるだけで、教室の空気がほどける。騒がしくはないのに、安心できる音がする。
「海斗、蓮、おはよう」
岡波が手を振る。
「おはよう」
俺たちも手を振り返した。
席を確認すると、俺と蓮は隣同士だった。窓際。春の光が当たりやすい位置。
些細なことなのに、蓮が隣にいるだけでこの一年の難易度が少し下がる気がする。
「隣だね」
蓮が嬉しそうに微笑んだ。
「ああ」
二人で席に座る。窓の外では、桜が風に揺れている。花びらが舞うたび、教室の空気まで明るくなるみたいだった。
やがて担任の先生が入ってきて、ホームルームが始まる。
「みなさん、おはよう。三年B組の担任になりました」
先生の挨拶、出席確認、連絡事項。
その一つ一つが、「三年生の現実」をじわじわと押し込んでくる。受験、進路、行事――最後の一年は、楽しいだけじゃ終わらない。だからこそ、楽しい行事の価値が上がる。
「さて、今年の修学旅行についてですが」
先生の言葉に教室がざわめく。三年生の大イベント。
行事に“最後”のタグがつく年は、浮かれ方が違う。
「行き先は、京都と奈良です」
先生が資料を配り始める。
「五月の連休明け、五月十日から十三日までの三泊四日」
資料を見ると、詳細な日程が並んでいる。寺社巡り、歴史探訪、班行動。
修学旅行は、観光だけじゃない。普段の距離感が崩れて、関係が一段深くなるイベントだ。いい意味でも、悪い意味でも。
「班分けは、後日行います。それまでに、誰と一緒に回りたいか、考えておいてください」
教室が一気に浮き足立つ。
「修学旅行か……」
蓮が資料を見ながら呟いた。
「楽しみだな」
「うん」
蓮の目が輝く。こういう時の蓮の表情は、素の色が出る。責任とか評価とか、そういう鎧が薄くなる。
「海斗と一緒に回りたい」
「ああ、俺も」
俺が答えると、蓮は嬉しそうに微笑んだ。
※ ※ ※
昼休み。生徒会室。
新学期最初の生徒会ミーティングが開かれた。
蓮、俺、藤崎書記、野村会計、そして新メンバーたち。全員が揃っている。
春休みを挟むと、同じ部屋でも雰囲気が変わる。年度が変わるだけで、責任の構造が変わる。
「それでは、新学期最初のミーティングを始めます」
蓮が会議を進行する。その姿は堂々としていた。
“堂々としている”のは、声が大きいからじゃない。沈黙を恐れないからだ。空気が揺れた瞬間に、支えられる人間の落ち着きがある。
「まず、新しいメンバーを紹介します」
蓮がドアの方を見る。
ドアが開き、一人の男子生徒が入ってきた。
神崎優馬。選挙で蓮と戦った、あの神崎だ。
室内の空気が一瞬だけ固まる。新メンバーたちが目を丸くするのが分かる。藤崎と野村は驚きよりも、状況を読み取ろうとする表情をしていた。
「神崎くんです。今学期から、生徒会に加わってもらいます」
蓮の言葉は落ち着いている。余計な説明を足さない。
これは、“過去を蒸し返さない”という意思表示だ。会長として、今の目的を優先する判断。
「神崎優馬です。よろしくお願いします」
神崎が深々と頭を下げた。
選挙の時の“前に出る勢い”とは違う。今の神崎は、角を立てずに入ってくる。緊張しているのに、逃げない姿勢だ。
神崎。選挙の時は蓮のライバルだった。
でも、選挙後に神崎は蓮に協力を申し出てきた。
『鈴波さん、選挙では負けました。でも、あなたの生徒会を手伝わせてください』
その言葉を、蓮は受け入れた。そして神崎は生徒会に加わることになった。
――勝負が終わった後に残るのは、人としての選択だ。神崎はそこで逃げなかった。
「神崎くん、こちらこそ、よろしくお願いします」
蓮が神崎に手を差し伸べる。神崎がその手を握る。
握手は形式のはずなのに、ここでは意味が重い。あの春の勝負を“区切る”動作でもあるからだ。
「鈴波会長を、全力でサポートします」
神崎の言葉は真摯だった。
その真摯さが、今は好ましい。けれど俺は同時に思う。神崎は“できるやつ”だ。できるやつが隣にいる時、蓮はさらに“ちゃんと”しようとする。
――だから、見ておく。蓮が無理してないかを。
「ありがとう」
蓮は微笑んだ。
神崎が席に座る。姿勢が正しい。視線が資料に素直に落ちる。
選挙の時の“見られる側”ではなく、“支える側”の座り方だ。
「では、今学期の活動について」
蓮が資料を配り始めた。
「まず、新入生歓迎会。四月十五日に開催します」
蓮の説明が続く。その説明を全員が真剣に聞く。
生徒会の会議は、声が大きい人間が勝つ場じゃない。段取りを組める人間が進める場だ。蓮はそこを分かっている。分かっているから、淡々と進められる。
「次に、修学旅行。五月十日から十三日」
蓮が資料を見せる。
「生徒会としても、準備に関わります」
「具体的には?」
神崎が質問した。的確なタイミングだ。場を止めない。確認だけを拾う。
「班分けの調整、日程の最終確認、そして当日の運営サポート」
蓮の答えは短く、要点が揃っていた。
こういう“仕事の回答”ができるのが、蓮の強さだ。
「分かりました」
神崎が頷く。
ミーティングが進む。
その間、俺は神崎を観察していた。態度、目線、聞き方。
選挙の時の傲慢さはもうない。本気で蓮をサポートしようとしている。
――信頼できる。少なくとも今は。
※ ※ ※
ミーティングが終わり、神崎以外のメンバーが帰った後。
生徒会室には、蓮、俺、そして神崎だけが残された。
「神崎くん」
蓮が神崎を見た。
「はい」
「本当に、ありがとう。生徒会に入ってくれて」
「いえ」
神崎は首を横に振った。
「選挙で負けた時、悔しかったです」
神崎の声は正直だった。見栄を張らない。過去を隠さない。
だからこそ、今の言葉が信用できる。
「でも、鈴波さんの演説を聞いて、分かりました」
「……」
「鈴波さんは、本気で生徒のことを考えている」
神崎の目が蓮を見つめる。
「だから僕も、鈴波さんと一緒に、この学校をよくしたいと思いました」
その言葉に、蓮の目が潤む。
蓮は勝った。でも、勝つことより、“届く”ことに価値を置く。だから、こういう言葉が刺さる。
「ありがとう……」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
神崎が再び頭を下げた。
その姿を見て、俺も頭を下げる。
「神崎、よろしく頼む」
「春川さん、こちらこそ」
神崎が俺に手を差し伸べる。俺はその手を握った。
握手の感触は固い。神崎がまだ少し緊張しているのが分かった。でも、その緊張は悪くない。緊張できるやつは、簡単に踏み外さない。
神崎が生徒会室を出ていく。
部屋には、俺と蓮だけが残された。
「海斗」
「ん?」
「神崎くん、いい人だね」
蓮の声が嬉しそうだ。
「ああ」
「選挙の時は、ライバルだったけど……」
蓮の目が遠くを見る。
過去を思い出してる、というより。過去を“整理”している目だ。蓮はたぶん、ずっと心のどこかで引っかかっていた。あの春の勝負が、誰かを傷つけたんじゃないかって。
「今は、仲間」
「ああ」
俺は蓮の肩を抱いた。
「これから、忙しくなるな」
「うん」
蓮が俺の胸に頭を預ける。
「でも、海斗がいるから、大丈夫」
「ああ」
大丈夫、という言葉を蓮が言えるのは強い。
――ただ、それを“自分を追い込む免罪符”にしないでくれ。
俺はそう思う。でも言わない。今は前へ進む回だ。支える側は、必要な時に言えばいい。
二人でしばらく抱き合った。
新学期。新しい仲間。
そして、修学旅行。
これからどんな日々が待っているのだろう。
忙しさも、笑いも、たぶん小さな衝突も。全部まとめて、今の俺たちの“最後の一年”になる。
その期待を胸に、俺たちは新しい学期を歩み始めた。
※ ※ ※
その日の放課後。教室。
修学旅行の班分けの話が始まっていた。教室の空気が、昼より少しだけ軽い。授業が終わった後のざわめきは、未来の予定で簡単に膨らむ。
「海斗、絶対一緒の班だよね」
蓮が確認するように言ってくる。
その言い方が可愛い、だけじゃない。蓮は今、安心できる“確定”を欲しがっている。新学期の始まりは、楽しいと同時に、心が揺れる時期でもあるから。
「ああ、もちろん」
「よかった」
蓮が嬉しそうに微笑む。
「他に、誰を誘う?」
「そうだな……」
俺は教室を見渡した。岡波と雪原が楽しそうに話している。あの二人なら、道中の空気が明るくなる。班行動は、相性がすべてだ。テンションだけじゃなく、トラブル時の落ち着きも含めて。
「岡波たちも、同じ班がいいかもな」
「そうだね」
蓮が頷く。
「じゃあ、四人で一つの班にしよう」
「ああ」
班の人数は四人から六人。四人なら動きやすいし、誰かが孤立しにくい。
何より、蓮が気を張り過ぎずに済む。
班分けの用紙に、名前を書き込んでいく。
春川海斗、鈴波蓮、岡波傑、雪原夢。
この四人で京都と奈良を回る。その想像が楽しい。
旅行の良さは、“目的地”じゃなく“道中”にある。普段の学校では見えない顔が見える。普段の会話が少しだけ深くなる。夜の部屋で、笑い疲れて寝落ちする。そういう積み重ねが、あとになって一番残る。
「楽しみだね」
蓮が資料を見ながら言った。
「ああ」
「京都の寺社巡り……金閣寺、清水寺、伏見稲荷……」
蓮の目が輝く。
「それに、奈良の東大寺も」
「楽しみだな」
俺も資料を見る。三泊四日。蓮と一緒に過ごす、特別な時間。
生徒会長とか、副会長とか、そういう肩書きから少し離れて、“同級生”に戻れる時間でもある。
「海斗と一緒なら、どこに行っても楽しい」
蓮の声が甘い。
「俺も」
俺は蓮の手を握った。
「修学旅行、最高の思い出にしよう」
「うん」
蓮が微笑む。
窓の外では、桜の花びらが舞っている。春の風が、教室にそっと入り込んでくる。
新学期が始まった。そして修学旅行が待っている。
三年生。最後の一年。
この一年を、最高の一年にする。
その決意を胸に、俺たちは新しい日々を歩み始めた。
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