未来の者、過去の者
三月二十一日。卒業式の翌日。
春休みが始まり、校舎は驚くほど静かだった。昨日までの拍手も、合唱の反響も、椅子を引く音も――全部、きれいに引いている。残っているのは、春の光と、廊下の空気が持つ少しの冷たさだけだ。
それでも生徒会室には、俺と蓮が来ていた。式が終わったから終わり、じゃない。むしろ、式が終わったから始まる。
会長がいなくなった“空席”を見て、初めて役割は現実になる。
窓の外には柔らかな日差しが降り注いでいた。春の光は、昨日と同じはずなのに、今日は少し違って見える。体育館を照らす光じゃない。日常の机を照らす光。これから積み重ねる時間の、地味で確かな照明だ。
「海斗、これ、どう思う?」
蓮が資料を差し出してきた。新入生歓迎会の企画書。ページの端が少し折れているのは、さっきまで何度も読み返していた証拠だ。
蓮は“任された瞬間”より、“任された後”に緊張するタイプだ。結果より、継続に責任を感じる。
「いいんじゃないか。分かりやすい」
俺が答えると、蓮の肩がほんの少し落ちる。緊張が、息に変わる。
「本当?」
「ああ。新入生も楽しめると思う。説明の順番も、迷わない作りだ」
褒めるだけじゃなく、どこが良いかを言葉にする。蓮はそこに安心する。評価の“根拠”があると、自分を信じられるからだ。
俺の言葉に、蓮は小さく微笑んだ。
「よかった」
蓮は資料をファイルに綴じた。その動作が、慣れている。
――もう、完全に生徒会長だ。
肩書きじゃなくて、手がそうしている。迷いが減り、動きが整っている。それは、背負った人間の所作だ。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「会長がいなくなって、まだ実感がないの」
蓮の声が、少しだけ寂しそうだった。寂しさは弱さじゃない。大事なものを受け取った人間が、次に進む前に必ず通る感情だ。
「分かる」
俺も同じだった。桐谷会長の存在感は“いる時”より“いない時”に重くなる。指示がない、背中がない、声がない。空白が語る。
「でも、私、頑張らなきゃ」
蓮の視線が前を向く。昨日までの“送り出す”じゃない。“作っていく”方向だ。
「会長から受け継いだものを、大切にしながら……」
言いながら、蓮は一度だけ息を吸う。背負う前に、胸の中の空気を整えるみたいに。
「私らしい生徒会を、作っていきたい」
「ああ。蓮なら、できる」
短い言葉。でも、今日の蓮にはそれが一番効く。長い励ましより、確信を一言で言われる方が、背中が軽くなる。
その時、ドアがノックされた。
振り返ると、凛音が立っていた。制服じゃない私服の凛音が、春休みの空気を連れてくる。学校が“休み”に入ったことを、そこでようやく思い出す。
「蓮ちゃん、海斗くん、いた」
「凛音ちゃん」
蓮が嬉しそうに立ち上がる。人が入ってくるだけで、部屋の温度が少し変わる。
生徒会室は会議の場所だけど、今日は“帰ってくる場所”にも見えた。
「どうしたの?」
「ちょっと、様子を見に来たの」
凛音が入ってくる。視線が机の上の資料に落ちる。そこで状況を把握するのが凛音らしい。心配しているのに、邪魔はしない距離感。
「卒業式、お疲れ様」
「ありがとう」
蓮は凛音の手を握った。握り方が、昨日より自然だ。
昨日は「支えられている側」の握りだった。今日は「同じ場所に立っている側」の握りに見える。
「凛音ちゃんも、手伝ってくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
凛音は微笑んでから、ふっと肩の力を抜いた。
「で、新しい生徒会、どう?」
「うん……まだ、始まったばかりだけど」
蓮の声が少し不安げになる。始まったばかり、という言葉に、責任の重さが滲む。
「でも、頑張る」
「蓮ちゃんなら、大丈夫よ」
凛音の声は明るいのに、根拠がある。選挙の時、倒れた時、立ち上がった時。全部を見てきた人の“大丈夫”。
「海斗くんもいるし」
凛音が俺を見る。
「ちゃんと支えてあげてね」
「ああ、もちろん」
俺の返事に、凛音は満足そうに頷いた。
“支える”って言葉は簡単だけど、凛音はその重さを知っている。だからこそ、念を押すわけじゃなく、信頼として置いていく。
「じゃあ、私はこれで」
凛音が生徒会室を出ていく。
「また連絡するわね」
「うん、ありがとう」
蓮が手を振る。
凛音が去ると、生徒会室には再び静けさが戻った。けれど、さっきまでの静けさとは違う。静かだけど、空虚じゃない。
次の章の静けさだ。
※ ※ ※
午後、俺と蓮は桐谷会長に会いに行くことにした。
会長が、進学する大学の近くのカフェで待っているという。
学校という“舞台”から降りた会長に会う。それは、別れの確認じゃない。線を伸ばしていくための挨拶だ。
電車に乗り、都心に向かう。車窓から見える景色が、春の色に染まっている。桜のつぼみが膨らみ始めている。まだ咲いていないのに、咲く前の気配だけで季節は変わる。
人も似ている。変わる前から、もう変わっている。
カフェに着くと、既に桐谷会長が座っていた。私服の会長は少し新鮮で、でも“会長”のままだった。背筋の伸び方も、視線の置き方も、変わらない。役職が抜けても、人はすぐには変わらない。
「会長」
「おお、来たか」
会長が手を振った。
その仕草に、昨日までの体育館が一瞬だけ重なる。手を振る角度が、あの答辞の終わりに似ていた。
俺たちは会長の向かいに座った。
「お疲れ様、二人とも」
会長がコーヒーを飲みながら言った。
「昨日の卒業式、完璧だった」
「ありがとうございます」
蓮が少し照れくさそうに答える。
照れの中に、誇りがある。褒められることを怖がらなくなっている。受け取れるようになっている。
「鈴波、お前は本当によくやった」
会長の声が温かい。
「俺は、お前に任せて、本当によかったと思ってる」
「会長……」
蓮の目が潤む。
昨日、体育館で泣いたのとは違う涙だった。これは“役割を引き継いだ人間が、背中を押される涙”。
「これから、お前が、この学校を引っ張っていく」
会長が蓮の目をまっすぐ見つめた。
「大変なこともあるだろう。でも、お前なら、乗り越えられる」
「はい」
蓮の声が力強い。短い返事なのに、芯がある。昨日までの“頑張らなきゃ”じゃない。“やる”の返事だ。
「そして、春川」
会長が俺を見る。
「はい」
「鈴波を、頼んだぞ」
「はい」
俺はしっかり答えた。
会長が俺に頼むのは、蓮が弱いからじゃない。蓮が強いからだ。強い人間ほど、走り切ってしまうことがある。隣のブレーキが必要になる。
「お前たち二人なら、大丈夫だ」
会長が微笑む。
「俺は、安心して、大学に行ける」
その言葉に、胸が熱くなる。
“安心”は、任せた側の赦しだ。任された側にとって、これほど強い支えはない。
「会長」
蓮が口を開いた。
「本当に、ありがとうございました」
声が少し震える。
「会長がいなかったら、私、ここまで来られませんでした」
涙が溢れる。
「会長に出会えて、本当によかったです」
「俺も、お前に出会えて、よかった」
会長の声が優しい。
「鈴波、お前は、本当にいい副会長だった」
会長が蓮の頭を撫でた。
「そして、これから、いい生徒会長になる」
「はい……頑張ります」
蓮は涙を拭った。
「会長、またいつでも学校に来てくださいね」
「ああ、もちろん」
会長が微笑む。
「たまには、顔を出すよ」
三人でしばらく話し込んだ。大学のこと。これからのこと。生徒会の失敗談も、成功談も。
会長は、もう“現役の指示役”じゃないのに、言葉が自然と次の世代の道具になる。
受け継ぐというのは、こういうことなのだと思った。
※ ※ ※
夕方、カフェを出た後、俺と蓮は駅に向かった。
春の夕暮れ。空がオレンジ色に染まっている。昨日の夕暮れより、少し軽い色に見えるのは、たぶん俺たちの方が変わったからだ。
「海斗」
「ん?」
「会長に会えて、よかった」
蓮の声が嬉しそうだ。
「ああ」
「これで、本当に、新しい時代が始まる気がする」
蓮の目が前を向く。
「私、頑張るね」
「ああ。俺も、全力でサポートする」
俺の言葉に、蓮は微笑んだ。
「ありがとう」
蓮が俺の手を握る。その手が温かい。
不安がゼロになったわけじゃない。ただ、温度がある。温度がある手は、前へ進める。
「これからも、ずっと一緒だよね」
「ああ、もちろん」
俺は握り返した。
「どんな時も、一緒だ」
「海斗……」
蓮の目から涙が溢れる。けれど、その涙は幸せの涙だ。
“寂しい”の涙が、今日ここで“前へ行く”の涙に変わった気がした。
駅のホームで、俺は蓮にキスをした。周りに人はいたが構わなかった。今の蓮は、顔を上げられる。だから、隠す必要もない。
キスが終わると、蓮は恥ずかしそうに俺の胸に顔を埋めた。
「もう……人がいるのに」
「いいだろ」
俺が言うと、蓮は小さく笑った。
笑える。これが何よりだ。
電車が来て、二人で乗り込んだ。並んで座り、窓の外を眺める。
春の景色。桜がもうすぐ咲く。その予感が、空気に満ちている。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「新学期、楽しみだね」
蓮の声が明るい。
「ああ」
「三年生になって……私が生徒会長で……」
蓮の目が輝く。
「きっと、忙しくなるよね」
「ああ」
「でも、楽しみ」
蓮は俺を見つめた。
「海斗と一緒なら、どんなことでも、乗り越えられる気がする」
「俺も、同じだ」
俺は蓮の肩を抱いた。
「これから、どんなことがあっても、一緒に乗り越えていこう」
「うん」
蓮は俺の肩に頭を預ける。
電車がゆっくりと走っていく。窓の外の景色が流れていく。
流れていくのに、置いていかれる感じがしない。進んでいる感じがする。
卒業式が終わり、桐谷会長たちが卒業した。
そして、新しい時代が始まる。
蓮が生徒会長として。俺が蓮を支える者として。
楽しいことも、辛いことも、全部待っている。
でも、大丈夫だ。二人で、支え合っていける。
その確信を胸に、俺たちは新しい未来に向かって進んでいく。
※ ※ ※
その夜、蓮の部屋。
二人でソファに座っていた。窓の外には東京の夜景が広がっている。街の光が瞬いているのに、部屋の中は静かだ。静けさは、孤独じゃなくて、選び取った安心だ。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今日、本当にいい日だった」
蓮の声が幸せそうだ。
「会長にも会えたし……」
「ああ」
「海斗とも、ずっと一緒にいられたし」
蓮が俺を見つめる。
「幸せ」
「俺も」
俺は蓮を抱きしめた。
「これからも、ずっとこうしていたい」
「ああ」
蓮は俺の胸に顔を埋めた。
「海斗……今夜も、一緒にいて」
「ああ」
俺の答えに、蓮は嬉しそうに微笑んだ。
二人で蓮の部屋に向かった。
時間がゆっくり過ぎていく。二人だけの世界。
春休み。そして、もうすぐ新学期。
三年生になり、蓮は生徒会長として新しい日々を歩み始める。
俺も、蓮を支えながら、一緒に歩んでいく。
どんな困難があっても、二人で乗り越えていく。
その決意を胸に、俺たちは新しい未来を迎える。
卒業式編、終わり。
そして、新しい物語の始まり。
俺と蓮の物語は、まだまだ続いていく。
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