卒業式 当日
三月二十日。卒業式当日。
朝、蓮の部屋で目が覚めた。カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。春の朝の光は、冬のそれと違って角がない。刺すように入ってこない。触れるみたいに、部屋の輪郭をほどいていく。
蓮はまだ俺の腕の中で眠っていた。寝顔は穏やかで、昨夜まで肩に張り付いていた硬さが、少し薄れている。眠ることは、誰かに許されないとできない種類の休息だ。蓮が眠れている。それだけで、胸の奥の緊張が一段ほど落ちた。
時計を見ると、朝の六時。あと一時間で学校へ向かわなければならない。
「蓮」
小声で呼びかけると、蓮の瞼がゆっくりと動いた。眠りの底から浮かび上がってくるみたいに、焦点のない目が俺を捉える。
「海斗……」
「おはよう」
「おはよう……」
少し眠そうに微笑んだ。その微笑みが、昨日より自然だ。整えた笑顔じゃない。眠気と緊張が混ざった、今の蓮の顔。
「今日……卒業式だね」
「ああ」
俺が答えると、蓮の表情が少し引き締まった。頬の力が抜けたのに、目だけが前を向く。逃げない目だ。
「頑張らなきゃ」
「ああ。でも、焦るな」
俺は蓮の頭を撫でた。髪の温度が、昨日よりあたたかい。
「ゆっくり、準備しよう」
「うん」
言葉は短い。でも、その短さがいい。長い言葉は、今日みたいな朝には重くなる。必要なのは、確かめ合う温度だ。
二人でベッドから起き上がった。
※ ※ ※
朝七時。学校に到着すると、すでに生徒会メンバーが集まっていた。
藤崎、野村、そして新メンバーたち。制服の襟を整えながら、体育館へ向かう視線の先は一様に固い。今日はイベントじゃない。式だ。失敗は笑いに変えられない。だからこそ、みんなの動きが慎重になる。
「おはようございます」
蓮が全員に挨拶する。声は落ち着いている。背筋も伸びている。選挙の時と違って、“勝つための声”じゃない。“支えるための声”だ。
「おはようございます」
全員が声を揃える。その揃い方が、昨日よりきれいだ。引き継ぎの数日間で、知らないうちにチームになっている。
「じゃあ、準備を始めよう」
蓮の言葉で全員が動き出した。
体育館へ向かい、椅子の設営を開始する。リハーサル通りに、一つ一つ丁寧に配置していく。椅子の脚が床に触れる音が、乾いたリズムを刻む。等間隔。左右のライン。通路幅。
式の“見えない安心”は、こういう几帳面さで作られる。
俺は椅子を運びながら、蓮の様子を横目で見た。蓮は真剣だ。でも、落ち着いている。指示が短く、無駄がない。言葉が整理されているのは、心が整理されている証拠だ。昨日、眠れたことが、こんな形で効いてくる。
椅子の配置が終わると次は演台の設置。全員で力を合わせて、演台を中央に運ぶ。
「せーの」
俺の掛け声で、全員が力を込める。演台がゆっくりと動いていく。重い。だが、重いのは当たり前だ。こういう“重いもの”を、みんなで持つ日なのだから。
位置を微調整して、完成。演台がしっかり固定されると、空気が少し変わる。ここで言葉が交わされる――その場所が“出来た”という実感が、体育館全体に行き渡る。
「よし、次は花だ」
蓮の指示で、藤崎と野村が花を運んでくる。大きな花束が、演台の両脇に置かれる。花の赤が、体育館の無機質さに“祝い”の色を足す。
紅白の幕も舞台に飾られる。その布の揺れが、今日が特別な日だと教える。式は細部で成立する。人の気持ちも、細部で揺れる。
徐々に体育館が整っていく。その様子を見て、胸に実感が湧く。
本当に、今日が卒業式なのだ。
「蓮、完璧だ」
声をかけると、蓮は少し安心したように微笑んだ。
「ありがとう」
朝九時。設営が完了した。
体育館を見渡すと、すべてが整っている。椅子の配置。演台の位置。花の飾り。計算され尽くされた“余白”。ここに人が入った瞬間、ちゃんとした式になる。
「みんな、お疲れ様」
蓮が全員に声をかけた。
「完璧な設営だった」
その言葉に、全員がほっとした表情を浮かべる。肩が少し下がる。呼吸が深くなる。
準備が整って初めて、人は“式”に入れる。
「あとは、十時の開式を待つだけだ」
蓮の声は落ち着いている。その様子を見て、俺は少しだけ安心した。
蓮は今日、“自分を見せる日”じゃない。“誰かを送る日”を守る日だ。だからこそ強い。
※ ※ ※
十時。卒業式開始。
体育館には全校生徒と保護者、そして来賓が集まっていた。数百人の気配が空間を埋め、いつもの体育館が別の場所に見える。椅子の並びが、呼吸の揃い方まで変えてしまう。
俺は生徒会席に座っていた。蓮の隣。蓮の表情は緊張している。けれど、目はまっすぐ前を向いている。緊張で縮むのではなく、緊張ごと姿勢が整っている。
国歌斉唱。全員が起立し、歌う。音が反響して体育館に戻ってくる。その音の輪の中に、自分がいるのが分かる。今日の一音は、いつもより重い。
開式の辞。校長がマイクの前に立つ。言葉が体育館の中央に落ちる。
拍手の中、卒業生が入場してくる。制服を着た三年生たち。少し緊張しているのに、目だけが輝いている。終わる日だからこそ、今が鮮明になる。
桐谷会長も、その中にいた。表情は穏やかだ。あの人が穏やかでいられるのは、やり残しを作らない人だからだ。だからこそ、今日の穏やかさは“達成”の穏やかさだ。
卒業証書授与。一人一人、名前が呼ばれる。そのたびに立ち上がり、壇上へ向かう。証書を受け取る瞬間、拍手が起こる。
拍手は同じように見えて、全部違う。家族への拍手もあれば、仲間への拍手もある。教師への拍手もある。自分自身への拍手もある。
やがて、桐谷会長の名前が呼ばれた。
「桐谷健吾」
会長が立ち上がる。その背中が堂々としている。壇上へ向かい、校長から卒業証書を受け取り、深々と頭を下げる。
拍手が体育館全体を包む。会長が席に戻る。その表情が、満足そうだ。
全員の授与が終わると校長の式辞。来賓祝辞。送辞。式は滞りなく進む。
俺はときどき、蓮の横顔を見た。集中している。言葉を聞きながら、頭の中で次の段取りを確認している。
今日の蓮は、“舞台の外にいる人間”として、式を支えている。
そして、卒業生代表の答辞。
桐谷会長が壇上に立った瞬間、体育館の空気が一段沈んだ。静まり返るというより、全員が同じ呼吸をするようになる。
言葉が始まる前の静けさは、奇妙なほど重い。ここから先は、誰も途中で戻れない。そういう沈み方だ。
会長が原稿を手に取る。紙が軽く揺れる。その揺れだけで、会長もまた“卒業する一人”なのだと分かる。
「三年間……本当に、あっという間でした」
声が響く。落ち着いているのに、感情が滲んでいる。
会長の言葉は、うまい言い回しで飾られていない。だから胸に入る。あの人はいつもそうだ。現場で積んだ言葉だけを、必要な分だけ渡してくる。
「この学校で過ごした日々は、私にとって、かけがえのない宝物です」
会長の言葉が続く。友人、部活動、生徒会。
“宝物”という言葉が、ただの比喩じゃない。会長は、本当に宝物として抱えている。だから、その言葉は軽くない。
「特に、生徒会での一年間は……本当に、充実していました」
その一文で、俺の胸がきゅっとなる。
“充実”という言葉の裏に、夜遅くまでの作業や、揉めた話し合いや、失敗の後始末が全部詰まっているのが分かるからだ。
会長の視線が、ふっと蓮へ向いた。
「副会長の鈴波蓮。彼女と共に、多くのイベントを成功させることができました」
蓮の目から涙が溢れた。ハンカチで拭いながらも、顔は上がっている。
泣いているのに、逃げない。受け取るために泣いている。
「彼女は、本当によく頑張ってくれました」
会長の声が、誇らしげだ。
この一言を、蓮はずっと欲しかったんだと思った。誰かに評価されたい、という浅い意味じゃない。自分の努力が“見られていた”という確認。
努力は、見られて初めて報われることがある。
「そして、新しい生徒会長として、これからこの学校を引っ張っていってくれるでしょう」
体育館から拍手が起こった。会長の言葉に反応した拍手だ。
“任せた”の拍手。
会長が卒業することを惜しみつつ、次へ渡す拍手。
会長が在校生に向け、そして保護者・先生方へ頭を下げる。
最後に、もう一度。
「本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げた会長の姿に、体育館全体が呼吸を止めたように見えた。
拍手がさらに大きくなる。大きいのに、乱暴じゃない。包む拍手だ。
会長が席に戻る。
その瞬間、俺はようやく息をした。涙が溢れそうになる。会長の言葉の重みが、胸の底に沈んでいく。
蓮も泣いていた。でも、その涙の奥で、目が少し強くなっている。
“受け取った人”の目だ。
※ ※ ※
校歌斉唱。全員が起立し、歌う。三年生の声が大きい。最後の校歌だと分かっている声。
歌が終わり、閉式の辞。卒業式が終わった。
卒業生が退場していく。拍手の中、一人また一人、体育館を出ていく背中。
背中というのは不思議だ。顔よりも、別れを実感させる。
桐谷会長も、その中にいた。会長が俺たちの方を見た。優しい目。
小さく手を振る。俺と蓮も手を振り返す。
会長が体育館を出ていく。
胸が締め付けられる。
今日が終わるのは、式が終わるからじゃない。会長が“この校舎の人”ではなくなるからだ。
※ ※ ※
卒業式が終わり、片付けが始まった。
椅子を片付け、演台を運び、花を撤去する。さっきまで“式”だった場所が、また“体育館”に戻っていく。
戻っていく速さが、残酷なくらい早い。式の重みは、物理的には何も残さない。残るのは、人の中だけだ。
誰も口を開かない。余韻が残っている。
でも、その沈黙は暗くない。胸の中に大切なものをしまう沈黙だ。
片付けが終わると、蓮が全員に声をかけた。
「みんな、お疲れ様。完璧な卒業式だった」
その言葉に、全員が頷く。
完璧だった――という評価を口にできるのは、蓮が“背負う側”に立った証拠だ。
「これも、みんなのおかげだ。ありがとう」
蓮が深々と頭を下げる。
その頭の下げ方は、会長に教わったものだ。でも、蓮の色になっている。丁寧で、まっすぐで、誠実だ。
「これから、私たちが、この学校を作っていく」
蓮の声が力強い。
「みんな、力を貸してくれ」
「はい!」
全員の声が揃う。
その声を聞いて、俺は確信した。
蓮なら大丈夫だ。立派な生徒会長になれる。
蓮が不安を抱えていても、それは“立てない”不安じゃない。“立つ覚悟”の不安だ。
※ ※ ※
夕方。生徒会室。
俺と蓮だけが残っていた。
蓮は窓の外を見ていた。背中が少し寂しそうだ。
今日の寂しさは、置いていかれる寂しさじゃない。
“受け取った”寂しさだ。渡されたものが重いほど、人は寂しくなる。
「蓮」
「ん?」
「お疲れ様」
「ありがとう」
蓮が振り返る。目が少し赤い。泣いていたのだろう。
「会長……卒業しちゃったね」
「ああ」
「寂しいな……」
声が小さい。
小さいけれど、逃げる声じゃない。
寂しいと口にできるのは、前へ進む準備ができているからだ。
「でも、会長は、きっと見守ってくれてる」
俺が言うと、蓮は小さく頷く。
「そうだね」
そして微笑む。その笑顔は、どこか大人びていた。
「私、頑張らなきゃ」
蓮の目に決意が宿る。
「会長に、恥ずかしくない生徒会長になる」
「ああ。蓮なら、できる」
俺の言葉に、蓮は微笑んだ。
「ありがとう、海斗」
蓮が俺の手を握る。
握り方が、以前より少しだけ強い。
“支えて”ではなく、“一緒に”の握り方だ。
「これからも、よろしくね」
「ああ、もちろん」
俺は蓮を抱きしめた。温かい。
守るとか、支えるとか、そういう言葉を超えて、ただ隣にいるという現実が一番強い。
「愛してる、海斗」
「俺も、愛してる。蓮」
二人でしばらく抱き合っていた。
窓の外を見ると、夕日が沈んでいく。オレンジ色の空が綺麗だ。
今日という一日は、沈んでいくのに、終わりじゃない。
沈むから、明日が来る。
卒業式が終わった。桐谷会長たちが卒業した。
そして、新しい時代が始まる。
蓮が生徒会長として。俺が蓮の隣で支える者として。
これから、どんな日々が待っているのだろう。
期待と、少しの不安。
その両方を胸に抱えたままでも、人は歩ける。
今日、蓮がそれを証明した。
俺たちは、新しい未来に向かって歩き始めた。
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