卒業式の前夜
三月十九日。卒業式の前日。
朝から、学校全体に緊張した空気が漂っていた。廊下の足音がいつもより揃って聞こえるのは、たぶん錯覚じゃない。三年生たちが、明日で学校生活を終える。その実感が、教室の隅や掲示板の前、昇降口の靴箱の列にまで、じわじわ染み出してきている。
笑い声はある。いつも通りの雑談もある。けれど、その一つ一つに、軽い乾きが混じっている。明日が来ることを知っている人間の声だ。
終わりが見えている時間は、やけに丁寧に進む。
放課後。俺は生徒会室で最終確認をしていた。式次第のチェック。来賓リストの確認。座席表の再照合。印刷物の枚数、封筒の数、予備のペン、ガムテープ、養生テープ。
完璧に整っている――と口にできる状態にまで、ひとつずつ項目を“閉じて”いく作業。
万が一に備えることは、不安の増幅じゃない。不安を手順に落とすことだ。見えない怖さを、見える作業に変えることだ。
そうして初めて、当日「声」に集中できる。
蓮も、隣で資料を見ていた。顔は真剣で、目線の動きが速い。明日への緊張が、そのまま瞳に映っている。
それでも、席を立たない。投げない。逃げない。
蓮はいつもそうだ。真面目すぎるくらい、最後まで付き合ってしまう。
「蓮、準備は完璧だ」
俺は、確認の意味を込めて言った。
彼女の“心”に対して、現実を提示するみたいに。
「うん……分かってる」
蓮の声が、少し硬い。分かっているのに、安心できない声。
「でも、やっぱり不安で」
蓮は資料から目を離さない。その視線が何度も同じ行に戻っている。読み落としを探しているんじゃない。自分の中の不安の居場所を、紙の上で確かめようとしているように見えた。
「蓮」
俺は蓮の肩に手を置いた。言葉より先に、温度を渡す。
「大丈夫だ」
「……うん」
蓮はようやく顔を上げた。目が疲れている。頑張り続けてきた人間の目だ。
選挙が終わっても、プレッシャーが消えるわけじゃない。肩書きが増えれば、怖さも増える。
ただ、怖いのは悪いことじゃない。大事にしたいものがある証拠だ。
「少し、休憩しないか?」
「でも、まだ……」
「もう、やることはない」
俺ははっきりと言った。ここは曖昧にしたら、蓮は“まだ何かある”を自分で生み出してしまう。
「あとは、明日、全力を出すだけだ」
蓮は少し考えた表情を浮かべて、ようやく小さく頷く。
「そうだね……」
資料を閉じる。その動作が、やけに重い。
閉じた瞬間に、明日が近づくからだ。
その時、ドアがノックされた。振り返ると桐谷会長が立っていた。
「鈴波、春川、ちょっといいか」
「はい」
会長が生徒会室に入ってくる。その表情が、いつもより柔らかい。普段は背筋で場を締める人なのに、今日は少しだけ“卒業する人”の顔をしていた。
「明日の準備、見せてもらった」
会長が机の上の資料を見る。目線が速い。現場の人間の確認の仕方だ。
「完璧だな」
「ありがとうございます」
蓮の声が、少し緊張している。褒められているのに、まだ肩が抜けない。
「鈴波、ちょっと話がある。二人で、屋上に来てくれないか」
会長の言葉に、俺と蓮は顔を見合わせた。
「はい」
三人で屋上へ向かった。階段を上る音だけが静かに響く。
校舎の中のざわめきが一段ずつ遠ざかって、心臓の鼓動が少しずつ近づいてくる。
屋上のドアを開けると冷たい風が吹いた。三月の夕暮れ。空がオレンジ色に染まっている。
日中の忙しさが嘘みたいに、屋上は静かだった。静かすぎて、言葉が輪郭を持ってしまう。
会長がフェンスに寄りかかった。その背中が、少し寂しそうに見える。
「明日で、俺も卒業だ」
会長の声が屋上に響く。
「早いな……」
三年という時間を、短いと言える人間の背中には、それなりの積み重ねがある。
生徒会室の鍵の開け方、資料の置き場所、会場設営の段取り、失敗の潰し方。そういう小さな知識が全部、会長の姿勢に滲んでいる。
「三年間、あっという間だった」
会長は空を見上げた。
「特に、生徒会での一年間は……本当に、充実してた」
その声は温かい。懐かしむ声なのに、後悔の匂いがない。
それが何よりすごいと思った。全力で走ってきた人間の声だ。
「鈴波、お前と一緒に仕事ができて、よかった」
「会長……」
蓮の目が潤み始める。
「お前は、本当によく頑張った」
会長が蓮を見る。評価じゃない。確認だ。
この一年の蓮の努力を、最も近い場所で見てきた人間の言葉。
「体育祭、バレンタインイベント、そして選挙」
「はい……」
「全部、成功させた」
会長の声が誇らしげだ。
「お前は、もう立派な生徒会長だ」
「ありがとうございます……」
蓮の涙が頬を伝って落ちる。
その涙は弱さじゃない。背負ってきたものが、一瞬だけ軽くなる時に出る涙だ。
「俺は、お前を信じてる」
会長が蓮の肩を叩いた。
「これから、この学校を頼んだぞ」
「はい!」
蓮の声が力強く響く。
その瞬間だけ、蓮の目が“明日”じゃなく“これから”を見た。
「春川」
会長が俺を見る。
「はい」
「鈴波を、頼んだぞ」
「はい」
俺はしっかり答えた。言葉が軽くならないように。
「お前がいれば、鈴波は大丈夫だ」
会長の言葉に胸が熱くなる。
俺は蓮を支える。けれど同時に、蓮は俺を支える。
その相互性を、会長は見抜いている。
「お前たち二人なら、どんな困難も乗り越えられる」
会長は微笑んだ。
「だから、これからも、支え合っていけ」
「はい」
俺と蓮は声を揃えた。
会長は再び空を見上げる。オレンジ色の空が、だんだん紫色に変わっていく。
色が変わるのは一瞬なのに、見ている側は“時間”を感じてしまう。
たぶん、別れも同じだ。唐突に見えて、実際は前から少しずつ進んでいた。
「明日、いい卒業式にしてくれ」
「はい、必ず」
蓮の声が決意に満ちている。
会長は満足そうに頷いた。
「じゃあ、俺はこれで」
会長が屋上を出ていく。その背中を、俺と蓮は黙って見送った。
屋上には、俺と蓮だけが残された。
※ ※ ※
冷たい風の中、俺と蓮は並んでフェンスに寄りかかった。
空を見上げる。星が少しずつ見え始めている。冬の星座が、まだ空に残っている。けれど、その星の隙間に、春の気配が混じっている気がした。
「海斗」
「ん?」
「会長……本当に、いい人だよね」
蓮の声が優しい。
「ああ」
「私、会長に出会えて、本当によかった」
蓮の目から、また涙が溢れる。
「会長がいなかったら、私、ここまで来られなかった」
言葉の端に、感謝と寂しさが絡んでいる。
この寂しさは、依存じゃない。尊敬の寂しさだ。
「会長が、私を信じてくれたから……」
蓮の声が震える。
「私、頑張れた」
俺は蓮の手を握った。冷たい。
寒さのせいだけじゃない。緊張と涙で、体温が外へ逃げていく。
「蓮」
「ん?」
「明日、会長に恩返ししよう」
蓮が顔を上げる。
「最高の卒業式を作って、会長を送り出そう」
「うん」
蓮は涙を拭った。
「そうだね」
目に決意が宿る。
不安が消えたわけじゃない。不安を抱えたまま立つ、という覚悟が宿った。
「私、頑張る」
蓮の声が力強い。
「会長に、恥ずかしくない卒業式を作る」
「ああ。俺も、全力でサポートする」
俺の言葉に、蓮は微笑んだ。
「ありがとう、海斗」
蓮は俺の腕に自分の腕を絡めた。
その仕草が、頼ることへの許可みたいに見えた。
「海斗がいてくれるから、私、頑張れる」
「俺も、蓮がいるから頑張れる」
二人でしばらく空を見上げた。星が増えていく。
星の数が増えるほど、空は暗くなるはずなのに、不思議と心は落ち着いていく。
見上げる場所があると、人は前を向ける。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「私たちも、いつかこうして卒業するんだよね」
蓮の声が、少し寂しそうだ。
「ああ」
「その時、私たちは……どうなってるのかな」
蓮が俺を見る。問いというより確認だった。未来に、居場所があるかどうかの確認。
「一緒にいる」
俺ははっきり答えた。
迷ったら、蓮は不安を拾ってしまう。だから迷わない。
「どんな時も、一緒だ」
「本当に?」
「ああ。約束する」
蓮の目から涙が溢れた。でも、その涙は軽い。
苦しい涙じゃない。ちゃんと息ができる涙だ。
「ありがとう……」
蓮は俺の胸に顔を埋めた。
「愛してる、海斗」
「俺も、愛してる。蓮」
俺は蓮を抱きしめた。身体が温かい。
寒い屋上でも、抱きしめると温度が戻る。そういう単純な事実が、妙に救いになる。
屋上に俺たちだけ。冷たい風が吹いているが、心は温かい。
明日。卒業式。蓮の、生徒会長としての初めての大仕事。
そして、桐谷会長たちを送り出す日。
その日が、もうすぐそこまで来ていた。
※ ※ ※
屋上を降りた後、俺と蓮は一緒に帰ることにした。
駅までの道のりを、手を繋いで歩く。街灯が道を照らしている。その光は柔らかく、影を優しく伸ばす。
夕方の空気は冷たいのに、歩いていると少しだけ身体が温まる。そういう感覚も、今は大事だった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今日、私の部屋に来てくれない?」
蓮の声が少し甘える。けれど、甘えの形をした“確認”でもある。
明日が怖いから、今夜だけは一人になりたくない――そういうお願い。
「いいのか?」
「うん。明日の前に、海斗と一緒にいたい」
蓮の目が俺を見つめる。
逃げじゃない。整えるための選択だ。
「分かった」
俺が答えると、蓮は嬉しそうに微笑んだ。
駅で電車に乗り、蓮のマンションに向かった。
部屋に入ると、いつもの広いリビングが広がっていた。窓の外には東京の夜景。遠い光が、今日の疲れを薄く包む。
「何か、飲む?」
「ああ、お茶でいい」
蓮がキッチンへ向かう。その後ろ姿を見送りながら、俺はソファに座った。
蓮の生活の匂いがする部屋は、学校とは違う静けさがある。背負うものの重さが、少しだけ置ける静けさ。
しばらくして、蓮が紅茶を持って戻ってきた。温かい香りがリビングに広がる。
「ありがとう」
二人で紅茶を飲みながら、窓の外の景色を眺める。街の光が綺麗だ。
綺麗だと思える時点で、今日はちゃんと終われる。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「明日、緊張する……」
蓮の声が小さい。
「大丈夫だ」
俺は蓮の手を握った。
「蓮なら、できる」
「本当に?」
「ああ。俺が保証する」
蓮は小さく微笑んだ。
不安がゼロになったわけじゃない。ただ、不安を抱えたままでも眠れる場所ができた。
「ありがとう」
蓮は俺の肩に頭を預けた。
「海斗がいてくれて、本当によかった」
「俺も、蓮がいてくれてよかった」
二人でしばらくそうしていた。静かなリビング。二人だけの空間。
明日の準備はもう終わっている。今夜の役目は、身体と心を“明日に渡す”ことだ。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今夜、一緒にいてくれる?」
蓮の声が甘える。
「ああ」
俺が答えると、蓮は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
蓮は俺の手を引いて、自分の部屋に向かった。
蓮の部屋。その甘い匂い。慣れた空気。
ここまで来て、ようやく俺は気づく。蓮は今日、“明日”を怖がっているだけじゃない。
“期待に応えたい自分”と、“失敗したくない自分”が、同じ場所で息をしている。それが緊張の正体だ。
蓮が俺を抱きしめた。身体が温かい。
「海斗……」
「蓮……」
二人でベッドに座る。蓮が俺の目を見つめる。
「今夜は、ただ一緒にいたいの」
蓮の声が柔らかい。
「ああ」
俺は蓮を抱きしめた。腕の中に収まる重さが、確かな現実になる。
「明日への不安も、海斗と一緒なら、消える気がする」
「大丈夫だ」
俺は蓮の髪を撫でた。
「俺が、そばにいる」
「うん」
蓮は俺の胸に顔を埋めた。
時間がゆっくり過ぎていく。二人だけの世界。
明日のための夜。逃げの夜じゃない。整える夜だ。
やがて、蓮の呼吸が規則正しくなってきた。眠ったのだろう。
俺はその寝顔を見つめながら、決意を新たにする。
明日。蓮を、全力でサポートする。
誰かを送り出す日を、誰かが不安で崩れる日にしない。
その決意を胸に、俺も目を閉じた。
卒業式前夜。静かな夜が、過ぎていった。
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