思い出と重圧
三月十七日。卒業式まで、あと三日。
朝から、生徒会は卒業式の準備に追われていた。会場設営の最終確認。来賓への案内状の確認。式次第の印刷。どれか一つを終えたと思ったら、次のタスクが顔を出す。やることが山積み――という言葉は、こういう時のためにあるのだと実感する。
選挙が終わって、結果が出て、拍手に包まれて。そこまでの熱がまだ胸の奥に残っているのに、現実はすぐに「次の責任」を運んでくる。
生徒会長という肩書きは、勝ち取った瞬間に完成するものじゃない。勝った翌日から、試され始める。
俺は生徒会室で資料を整理していた。来賓リストを確認しながら、座席表と照らし合わせる。名前と肩書き、入退場の動線、席の並び。些細なズレが、そのまま混乱になる。誰かの勘違いで済むならまだいい。来賓対応はそうはいかない。「失礼」が一度でも発生したら、取り返しがつかない。
隣では、蓮が式辞の原稿をチェックしていた。桐谷会長が作成した原稿を、蓮が読み上げる。言葉の意味より先に、言葉の重さが喉を通るのが分かる。式辞は、ただの朗読じゃない。壇上で言葉を預かる行為だ。卒業する三年生へ、そして式に集まる全員へ――学校を代表して送る声になる。
「……以上をもちまして、式辞とさせていただきます」
蓮の声が、生徒会室に響く。硬い。丁寧だが、硬い。
練習の音だ。まだ“言葉”ではなく“文章”の音になっている。
「どうだった?」
蓮が俺に聞いた。自信があるようでない、でも逃げる気もない目。
「悪くない。でも、もう少し自然な感じで」
俺はできるだけ具体にする。自然、という言葉は便利だけど曖昧で、焦りの燃料にもなる。だから、“何をどうすれば自然に聞こえるか”の方向だけは渡す。
「自然に……」
蓮はもう一度原稿に視線を落として、読み始めた。今度は、ほんの少しだけ柔らかい声で。語尾の置き方が変わる。息の吸い方が変わる。
繰り返すたびに、声が「読んでいる声」から「届ける声」へ寄っていく。
何度も、何度も練習を繰り返す。蓮はこういう時、真面目さが武器になる。最初から完璧じゃなくても、改善の反復で仕上げていく。
それが蓮の強さだと、今なら胸を張って言える。
ドアがノックされた。振り返ると、桐谷会長が立っていた。
「邪魔するぞ」
「会長、どうぞ」
会長が生徒会室に入ってくる。その手には段ボール箱が握られている。箱の角が少し擦れていて、何度も開け閉めされてきた歴史が滲んでいた。
「これ、過去の卒業式の資料だ」
会長が箱を机に置く。段ボールが机に触れる音が、やけに“引き継ぎ”を実感させた。
「参考にしてくれ」
「ありがとうございます」
蓮が箱を開ける。中には、何年も前からの卒業式の記録が入っていた。写真。式次第。反省点のメモ。紙の端が少し黄ばんでいるものもある。
それは“過去”じゃない。次に活かすために残された“手順書”だ。
「卒業式は、伝統だ」
会長の声が重い。
伝統という言葉は華やかに聞こえるけれど、現場の言葉に訳すと「積み重ねた失敗と改善」になる。誰かの失敗を、次の誰かが拾って修正して、また次に渡していく。そうして完成度が上がっていく。
「先輩たちが、積み重ねてきたものを、俺たちが受け継ぐ」
「はい」
「そして、お前たちが、次の世代に繋げていく」
会長の言葉に、蓮は真剣に頷いた。
“繋げていく”という言葉が、蓮の背中に責任として乗るのではなく、支えとして置かれていくのが見えた気がした。自分一人の成果じゃない。自分一人の失敗でもない。そういう構造が、蓮を少しだけ楽にする。
「鈴波」
「はい」
「お前なら、できる」
会長の声が、温かい。叱咤じゃない。期待の押し付けでもない。現場を見てきた人間の判断だ。
「俺は、お前を信じてる」
「会長……」
蓮の目が潤む。
蓮は強い。でも、こういう言葉に弱い。弱いというより――救われる。
「ありがとうございます」
「春川も、鈴波を支えてやれ」
「はい」
俺はしっかり答えた。ここは軽く返しちゃいけない。蓮の背中を支えるというのは、都合よく寄り添うことじゃなく、必要な時に止めることも含めた責任だ。
会長は満足そうに頷き、生徒会室を出ていった。
部屋には、俺と蓮だけが残された。
蓮が資料を見ながら、小さくため息をついた。緊張で酸素が足りなくなった人が、ようやく呼吸を取り直すみたいなため息。
「大丈夫か?」
「うん……ちょっと、プレッシャーを感じてるだけ」
蓮の声が正直だ。隠さない。
それだけで、俺は少し安心する。隠し始めた時が一番怖いから。
「会長の期待に、応えられるかな」
「応えられる」
俺ははっきり言った。根拠のない励ましじゃない。選挙を経て、蓮が“できる人間”であることを、俺は何度も確認してきた。
「蓮は、もう立派な生徒会長だ」
「でも……」
「会長も、そう思ってるから、お前に任せたんだ」
蓮は小さく頷いた。視線が、少しだけ落ち着く。
「そうだね……頑張らなきゃ」
またその言い方。
でも今は、前より危うく聞こえなかった。頑張らなきゃ、の裏に「一人じゃない」がちゃんと残っているからだ。
※ ※ ※
昼休み。俺と蓮は屋上で弁当を食べていた。
久しぶりの屋上。冷たい風が吹いているが、日差しが暖かい。三月の空は、まだ冬の名残を引きずっているのに、光だけは確実に春へ寄っている。
その矛盾が、今の俺たちに似ている気がした。怖いのに、前へ進める。重いのに、少しだけ軽い。
「美味しい」
蓮の弁当を一口もらって、俺は言った。
「ありがとう」
蓮は嬉しそうに微笑んだ。
選挙の頃の、張り詰めた笑顔じゃない。ちゃんと息をしている笑顔だ。
二人で静かに食事を続ける。その時間が穏やかで、だからこそ大事にしたくなる。
忙しさは、こういう「短い休息」を奪ってくる。奪われたら戻せばいい。今は、その練習でもある。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「会長のこと、覚えてる? 最初に会った時」
蓮の問いに、俺は記憶を辿る。
「ああ。去年の春だったか」
「うん」
蓮の目が遠くを見る。
「あの時、私、すごく緊張してた」
「そうだったのか」
「生徒会に入って、初めての仕事で」
蓮の声が懐かしそうだ。
今の蓮は、当時の自分を“過去の自分”として見ている。つまり、成長している。
「会長が、優しく教えてくれて……」
蓮の目が潤む。
「会長がいなかったら、私、ここまで来られなかった」
「……」
「体育祭の時も、バレンタインイベントの時も、選挙の時も……」
蓮の声が感情的になる。
「いつも、会長が支えてくれた」
蓮の涙が頬を伝って落ちた。
「だから、会長が卒業するのが……寂しい」
俺は蓮の手を握った。握ることで、言葉を補う。
「会長は、卒業しても、蓮のことを見守ってくれる」
「本当に?」
「ああ。会長は、そういう人だ」
蓮は小さく微笑んで、涙を拭った。
「そうだね」
そして、顔を上げる。
「だから、私、頑張らなきゃ」
「ああ」
「会長に、恥ずかしくない卒業式を作る」
蓮の声に、芯が戻る。
“恥ずかしくない”は、見栄じゃない。感謝の形だ。
「そして、会長を、笑顔で送り出す」
「蓮なら、できる」
俺の言葉に、蓮は頷いた。
※ ※ ※
放課後。体育館での設営リハーサル。
生徒会メンバー全員が集まっていた。桐谷会長、蓮、俺、藤崎、野村、そして新メンバーたち。
体育館は広い。広い分だけ、作業は大雑把になりやすい。でも卒業式は、大雑把が許されない行事だ。椅子一脚のズレが、列全体の歪みに繋がる。
「じゃあ、椅子の配置から始めるぞ」
会長の指示で全員が動き始める。
椅子を運び、指定された位置に置いていく。作業は単純だが、単純だからこそミスが出る。
同じ動作を繰り返すほど、人は気が緩む。だからこそ、手順を守る必要がある。
蓮も椅子を運んでいる。その表情が真剣だ。一つ一つ丁寧に置いていく。
“丁寧さ”は時間がかかる。だけど、丁寧さは事故を防ぐ。卒業式は事故が起きたら終わりだ。だから丁寧でいい。丁寧であるべきだ。
「鈴波、そっちはいいか?」
会長が蓮に声をかける。
「はい、問題ありません」
蓮の声がしっかりしている。
その返事に、少しだけ“生徒会長の音”が混じっていた。
椅子の配置が終わると、次は演台の設置。重い演台を全員で運ぶ。
「せーの」
会長の掛け声で、全員が力を込める。演台が少しずつ動いていく。
重さは分担できる。でも、方向は揃えないと前に進まない。チームってこういうものだ。
中央の位置に設置すると、会長が位置を微調整する。
この数センチの調整が、式の見栄えを決める。誰も気づかないかもしれない。だが、気づかないレベルまで整っていることが、式を“式”にする。
「よし、これでいい」
会長の言葉に全員がほっと息をつく。
「次は、花の配置だ」
藤崎と野村が花を運んでくる。演台の両脇に綺麗に配置する。
体育館が少しずつ卒業式の会場らしく変わっていく。その変化が目に見えるだけで、気持ちが整っていく。準備とは、現場と心を同時に整える作業なんだと思った。
「よし、これで完成だ」
会長が体育館を見渡す。
「本番は、これと同じように設営する」
「はい」
全員が頷く。
「鈴波」
「はい」
「本番、頼んだぞ」
会長の言葉に、蓮は真剣な表情で頷いた。
「はい。必ず、成功させます」
会長は満足そうに微笑んだ。
※ ※ ※
リハーサルが終わり、片付けをした後。
生徒会室に、俺と蓮だけが残された。
蓮が椅子に座ったまま、深くため息をついた。肩が重そうだ。
“終わった”のため息じゃない。“ここまで来た”のため息だ。
「疲れたか?」
「うん……ちょっと」
蓮の声が疲れている。でも、前みたいな危うさはない。疲れを疲れとして認められている。それが大事だ。
「でも、これで準備はほぼ完璧」
「ああ」
俺は蓮の隣に座った。
「あとは、本番だけだな」
「うん……」
蓮の目が不安そうになる。
本番は怖い。怖いけど、その怖さは“逃げたい怖さ”じゃない。“ちゃんとやりたい怖さ”だ。
「本当に、うまくいくかな」
「大丈夫だ」
俺は蓮の手を握った。
「蓮は、ちゃんと準備してきた」
「でも……」
「もし、何かあっても、俺たちがいる」
俺の言葉に、蓮が顔を上げる。
「ありがとう、海斗」
「どういたしまして」
蓮は俺の肩に頭を預けた。
「海斗がいてくれて、本当によかった」
「俺も、蓮がいてくれてよかった」
二人で、しばらくそうしていた。
静かな生徒会室。窓の外は、既に暗くなり始めている。昼の光が消えていく代わりに、室内の蛍光灯が現実を照らす。
それでも、今日の疲れは悪い疲れじゃなかった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「会長……きっと、素敵な答辞を読むんだろうね」
蓮の声が柔らかい。
「ああ」
「私も、会長の答辞、楽しみ」
蓮の目が優しい。
「会長が、どんな言葉で、この学校に別れを告げるのか……」
「きっと、感動的な答辞だろうな」
俺の言葉に、蓮は頷いた。
「うん」
そして、顔を上げる。
「だから、私も頑張る」
蓮の目に決意が宿る。
「会長に、恥ずかしくない卒業式を作る」
「ああ」
俺は蓮を抱きしめた。
「蓮なら、できる」
「うん」
蓮は俺の胸に顔を埋めた。
卒業式まで、あと三日。
蓮の、生徒会長としての初めての大仕事が、刻一刻と近づいている。
※ ※ ※
その夜、家に帰った俺は机に向かった。
明日やるべきことをリストアップする。最終確認事項、当日の動き、想定されるトラブルと対応。
不安はゼロにはならない。だから、手順に落とし込む。手順が増えるほど、心は落ち着いていく。
蓮を支えるために。俺が、しっかりしなければ。
スマホが振動した。蓮からのメッセージ。
『海斗、今日もありがとう。明日も、よろしくね。おやすみ』
短い文なのに、今日一日の重さが入っている。
“ありがとう”と“よろしくね”が同時に来るのは、信頼の形だ。
俺は微笑んで、返信を打つ。
『おやすみ、蓮。明日も頑張ろう』
送信すると、すぐにハートマークのスタンプが返ってきた。
俺はスマホを置き、再びリストに目を通す。
卒業式。桐谷会長たち三年生を、笑顔で送り出す。
そのために、俺は全力を尽くす。
その決意を胸に、俺は準備を続けた。
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