結果、そして未来へ
三月十日。投票日。
朝、学校に着くと、既に体育館前には行列ができていた。生徒たちが、投票のために並んでいる。
普段なら、体育館の前に人が溜まるのは行事のときだけだ。今日は違う。これは“祭り”じゃない。“決断”の列だ。
一人ひとりの足が少しだけ重くて、でも目は妙に冴えている。話し声も、いつもの雑談とは違う。選挙という言葉が、校内の空気を薄く硬くしていた。
その光景を見て、俺の胸が高鳴る。今日、全てが決まる。
高鳴りの中には、期待だけじゃなく恐れもある。蓮が一度倒れたことを、俺の身体が覚えている。勝っても負けても、あの夜の泣き声だけはもう二度と聞きたくない。
――勝ち負けより、大事なのは蓮。
だけど蓮は、勝ち負けを自分の価値に結びつけてしまう。そこが怖い。
蓮と一緒に、体育館に向かった。蓮の手が、少し震えている。
「大丈夫か?」
「うん……ちょっと、緊張してる」
蓮の声が、小さい。小さいのに、整っている。
“ちゃんとしてる”声。
倒れた日の蓮は、ちゃんとできなくて泣いていた。今日は、ちゃんとしようとしている。ちゃんとしようとしていること自体が、まだ危うい。
「でも、今日は無理しないよ」
「そうか」
俺は、蓮の手を握った。その手を、温める。
冬ほど寒くないはずなのに、蓮の指先はまだ冷たい。緊張は熱を奪う。恐怖は、体温を奪う。
俺はその冷たさに、言葉じゃなく温度で返した。
「俺が、そばにいる」
「うん」
蓮は、微笑んだ。その笑顔が、昨日より明るい。
明るいのに、光源が弱い。まだ“自分の内側から出る明るさ”じゃなく、“支えられて出る明るさ”だ。
それでもいい。今はそれでいい。光は光だ。
体育館に入ると、投票箱が設置されていた。そこに、生徒たちが次々と投票用紙を入れていく。
紙が落ちる音が、小さく響く。
たった一枚の紙が、誰かの一年を変えてしまう。そう思うと、その音がやけに重い。
一人、また一人。その度に、俺の緊張が高まる。
蓮は黙って投票箱を見つめていた。
視線はまっすぐなのに、瞳の奥が揺れている。何かを数えているみたいに。失点、差、票、未来――そんな言葉が無言で回っている。
「春川くん、蓮ちゃん」
凛音が、駆け寄ってきた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日、決まるわね」
凛音の声が、少し緊張している。
凛音もまた、昨日までの“踏ん張り”を知っている。蓮を支えた一人だから、結果の重みを自分の体に通して感じている。
「ああ」
「蓮ちゃん、頑張ってね」
「うん、ありがとう」
蓮は、凛音の手を握った。
握った瞬間、蓮の肩がほんの少しだけ落ちた。
頑張って、って言葉は時に刃になる。でも今日は違う。凛音のそれは“頑張れ”じゃなく、“一人じゃない”の合図だった。
三人で、しばらく体育館で待機していた。
列が進み、投票が続き、午前が削れていく。
削れるのは時間だけじゃない。心も削れていく。結果の前は、いつだってそうだ。
※ ※ ※
投票は、午前中いっぱい続いた。
昼休みになると、桐谷会長から校内放送が流れた。
『投票は、予定通り終了しました。現在、開票作業を行っています。結果発表は、放課後三時に、体育館で行います。全校生徒は、三時までに体育館に集合してください』
会長の声が、校内に響く。
“予定通り”という言葉が逆に怖い。予定通りに進むほど、逃げ場が消えていく。
あと、三時間。その三時間が、とても長く感じる。
午後の授業は、全く集中できなかった。時計ばかり見てしまう。蓮は、どんな気持ちでいるだろうか。
蓮の席を思い浮かべる。鉛筆の動きはいつもより遅いだろう。ノートの文字は整っているだろう。整っていれば整っているほど、心が限界を隠している。
俺は“苦しんでいる”ことは分かる。だけど、何が蓮をここまで追い立てているのか――その中心には、まだ触れられない。
やがて、三時が近づいてきた。
俺は、教室を出て、体育館に向かった。廊下には、多くの生徒が溢れている。みんな、結果を知りたがっている。
好奇心もある。勝敗の話題が欲しいだけの人もいる。
でも今の俺には、それすらありがたい。結果に注目が集まるほど、“蓮が倒れたこと”だけで語られにくくなる。蓮が勝っても負けても、今日は“蓮の価値”が一つの形で示される日になる。
体育館に入ると、既に多くの生徒が座っていた。前方には、演台が設置されている。
ざわめきが天井に反射して、波みたいにうねっている。
俺は、適当な席に座った。周りを見渡すと、凛音が手を振っている。俺も、手を振り返す。
やがて、舞台に桐谷会長が現れた。その手には、封筒が握られている。
封筒一枚が、こんなに怖いものだなんて知らなかった。
体育館が、静まり返る。
「それでは、生徒会長選挙の結果を発表します」
会長の声が、体育館に響く。その声に、緊張が滲む。
会長だって人間だ。後輩の未来を握る発表を、完全に平然とはできない。
俺の心臓が、激しく鼓動する。その音が、自分でも聞こえるほどだ。
隣を見る。蓮がいる。蓮の背筋はまっすぐで、膝の上の手が固く握られている。
――“ちゃんと”しすぎている。
嫌な汗が出そうになる。
「投票総数、九百八十三票」
会長が、封筒を開ける。その動作が、ゆっくりに感じる。
空気が薄い。息が浅くなる。
「神崎優馬くん、四百六十八票」
会長の言葉に、体育館がざわめく。
四百六十八票。半数近い票を、神崎が獲得している。
蓮の指が、わずかに震えた。俺は気づく。でも蓮は気づかれないように、指先を太ももに押しつける。
痛みで震えを止めようとしている。
やめろ、と言いたいのに言えない。今この瞬間の蓮は、言葉一つで崩れるかもしれない。
ということは……蓮は……
「鈴波蓮さん、五百十五票」
会長の言葉が、体育館に響く。
その瞬間、体育館から大きな歓声が上がった。
「鈴波さん、勝った!」
「やった!」
「おめでとう!」
生徒たちの声が、体育館を満たす。
拍手の音が床を揺らす。声が天井を打つ。
俺は、信じられない気持ちで立ち上がった。勝った。蓮が、勝った。
胸の奥に張りついていた鉛みたいな重さが、ふっとほどける。息が戻る。
舞台を見ると、蓮が現れていた。その顔が、涙で濡れている。でも、その表情は、笑顔だ。
その笑顔が、眩しいほど“人間”だった。
ちゃんとした笑顔じゃない。こぼれてしまった笑顔。救われた笑顔。
蓮が、桐谷会長の隣に立つ。会長が、蓮の肩を叩く。
「鈴波蓮さんが、次期生徒会長に選ばれました」
会長の言葉に、また大きな拍手が起こる。
蓮が、マイクの前に立った。
「みんな……」
蓮の声が、体育館に響く。その声が、震えている。
「ありがとう……」
蓮の涙が、止まらない。
「私……勝てると思ってなかった……」
蓮の声が、正直だ。
正直であることは、強い。
ここまで追い詰められた人間が、正直を口にするのは、相当な勇気がいる。
「でも、みんなが……支えてくれて……」
蓮の目が、体育館の生徒たちを見渡す。
「応援してくれて……」
蓮の声が、感情的になる。
「だから、勝てました」
蓮が、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとう」
体育館から、また大きな拍手が起こる。その拍手が、蓮を包み込む。
俺は、その光景を見ながら、涙が溢れそうになった。よかった。本当に、よかった。
“勝ったから”じゃない。
“戻ってきたから”だ。蓮が、あの地獄の縁から。
※ ※ ※(蓮視点)
名前が呼ばれた瞬間、世界が白くなる。
歓声が、拍手が、光の粒みたいに降ってくる。
嬉しいのに、怖い。
勝ったのに、まだ何かが終わっていない気がする。
――当然よ。
耳の奥で、冷たい声がした。
心臓が一度だけ跳ねる。
舞台の端、照明の外に、影が立っている気がした。背筋が伸びる。勝手に、伸びる。
――勝って当たり前。次は“結果”を出しなさい。
――期待に応えられないなら、意味がない。
いつもなら、その声に膝が固まる。
でも今日は――違う。
拍手が、影を削っていく。
“おめでとう”が、声の刃を鈍らせる。
海斗が見ている。凛音ちゃんが泣いている。会長が肩を叩く。
私は、誰かに支えられて立っている。
影は消えていない。
でも、薄い。
光の中では、影は目立てない。
私は、初めてその事実を知った。
※ ※ ※ (海斗視点)
蓮が、舞台を降りる。その瞬間、生徒たちが蓮に駆け寄る。
「鈴波さん、おめでとう!」
「よく頑張ったね!」
「これから、よろしくお願いします!」
生徒たちの声が、蓮を励ます。
人の輪の中心で、蓮は何度も頭を下げ、笑って、泣いて、また笑った。
それは“完璧な会長”の所作じゃない。
“人として嬉しい”の所作だ。俺はそれが、何より嬉しかった。
俺は、蓮に近づいた。蓮が、俺を見つけて、駆け寄ってくる。
「海斗!」
「蓮、おめでとう」
俺は、蓮を抱きしめた。周りの視線は、もう気にならない。
気にする必要がない。今日は、隠す日じゃない。祝う日だ。
「ありがとう……海斗のおかげ……」
蓮の声が、涙声になる。
「海斗がいなかったら、ここまで来られなかった」
「蓮が、頑張ったからだ」
俺は、蓮の頭を撫でた。
「俺は、ただ支えただけだ」
「ううん、海斗のおかげ」
蓮は、顔を上げた。その目が、涙で濡れている。
「本当に、ありがとう」
「どういたしまして」
俺は、蓮の涙を拭った。
涙は弱さじゃない。余裕が戻った証拠だ。
「これから、忙しくなるな」
「うん……でも、大丈夫」
蓮の声が、力強い。
その“力強さ”が以前と違う。
以前は、背中を反らせて出す力強さだった。
今は、支えを受け取った上で出す力強さだ。
「海斗が、そばにいてくれるから」
「ああ、もちろん」
俺の言葉に、蓮は微笑んだ。
「愛してる、海斗」
「俺も、愛してる。蓮」
二人で、抱き合ったまま、周りの歓声を聞いていた。
※ ※ ※
その日の夕方。生徒会室。
桐谷会長、蓮、藤崎書記、野村会計、凛音、そして俺。全員が集まっていた。
さっきまでの体育館の喧騒が嘘みたいに、ここは落ち着いている。
勝利の熱がまだ残っているのに、仕事の空気がすでに始まっている。
生徒会って、こういう場所だ。
「改めて、鈴波、おめでとう」
桐谷会長が、蓮に握手を求めた。
「ありがとうございます、会長」
蓮は、会長の手を握った。
「お前なら、いい生徒会長になれる」
「頑張ります」
蓮の声が、決意に満ちている。
「藤崎、野村、お前たちも、鈴波を支えてやってくれ」
「はい!」
二人が、声を揃えた。
「春川」
会長が、俺を見た。
「お前も、よくやった」
「いえ」
俺は、頭を下げた。
「これからも、鈴波を頼む」
「はい」
会長は、満足そうに頷いた。
「さて、じゃあ、これからのことを話そう」
会長が、資料を広げた。
「俺たち三年生は、もうすぐ卒業する」
会長の声が、少し寂しそうだ。
「だから、引き継ぎを始める」
「はい」
蓮が、真剣な表情で頷く。
「新生徒会は、四月から本格的に始動する」
会長の説明が、続く。その説明を、全員が真剣に聞いている。
未来が、形になっていく音がする。
“勝った”はゴールじゃない。スタートの合図だ。
しばらくして、会議が終わった。
凛音と、藤崎、野村が帰った後。
生徒会室には、桐谷会長、蓮、そして俺だけが残された。
「鈴波」
「はい」
「一つ、言っておきたいことがある」
会長の声が、真剣だ。
「生徒会長は、大変な仕事だ」
「はい」
「責任も重い。プレッシャーもある」
会長の目が、蓮を見つめる。
「でも、一人で抱え込むな」
「……はい」
「今回、お前は自分を追い込みすぎた」
会長の声が、厳しい。
「生徒会長になっても、同じことを繰り返すな」
「はい……気をつけます」
蓮の声が、小さい。
小さいのに、逃げていない。
“叱られている”のではなく、“守られている”と理解しようとしている声だ。
「春川がいる。藤崎も、野村もいる。凛音もいる」
会長の声が、温かくなる。
「みんなに、頼れ」
「はい」
蓮は、頷いた。
「よし。じゃあ、俺は帰るぞ」
会長は、立ち上がった。
「二人とも、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
会長が、生徒会室を出ていった。
部屋には、俺と蓮だけが残された。
※ ※ ※
静かな生徒会室。二人きり。
蓮が、椅子に座ったまま、深くため息をついた。
「やっと……終わった」
蓮の声が、安堵に満ちている。
「ああ」
俺は、蓮の隣に座った。
「長かったな」
「うん……」
蓮は、俺の肩に頭を預けた。
それだけで、胸が詰まる。
蓮が自分から寄りかかるのは、今まで意外と少なかった。寄りかからせるのは得意なのに、寄りかかるのは下手だったから。
「でも、勝てて……本当によかった」
「ああ」
俺は、蓮の髪を撫でた。
「これからが、本番だな」
「うん……」
蓮は、顔を上げた。
「でも、今度は大丈夫」
蓮の目が、俺を見つめる。
「海斗が、そばにいてくれるから」
「ああ」
俺は、蓮の手を握った。
「どんな時も、蓮のそばにいる」
「ありがとう」
蓮は、微笑んだ。
その微笑みの奥で、何かが一瞬だけ揺れた気がした。
影の名残。理由は分からない。俺にはまだ輪郭が掴めない。
でも、今日はその揺れよりも、微笑みの方が勝っている。
※ ※ ※
二人で、生徒会室を出た。廊下を並んで歩く。手を繋いで。
窓の外を見ると、夕日が沈んでいく。オレンジ色の空。その空が、美しい。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「これから、もっと忙しくなるよね」
「ああ」
「でも、楽しみ」
蓮の声が、明るい。
「みんなのために、いい学校を作りたい」
「蓮なら、できる」
俺の言葉に、蓮は微笑んだ。
「海斗がいてくれるから」
「ああ」
二人で、学校を出た。駅に向かう。その道のりが、いつもより輝いて見える。
勝利の帰り道だからじゃない。
“孤独じゃない帰り道”だから輝くんだ。俺はそう思った。
生徒会長選挙。長く、辛い戦いだった。蓮は、自分を追い込み、倒れた。でも、みんなの支えで、立ち上がった。
そして、勝った。
これから、新しい日々が始まる。生徒会長としての蓮。その蓮を、俺が支える。
どんな困難があっても、二人で乗り越えていく。
その決意を胸に、俺たちは歩き続けた。
※ ※ ※
蓮の家のリビング。
二人で、ソファに座っていた。窓の外には、東京の夜景が広がっている。
夜景の光は遠いのに、確かにそこにある。
それが今日の蓮みたいだと思った。遠くまで消えそうなのに、ちゃんと残っている光。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今日、本当にありがとう」
蓮は、俺を見つめた。
「海斗がいなかったら、私、ここまで来られなかった」
「蓮が、頑張ったからだ」
「ううん、海斗のおかげ」
蓮は、俺の手を握った。
「海斗が、私の夢を守ってくれた」
蓮の目から、涙が溢れる。
「海斗が、私を信じてくれた」
「当たり前だ」
俺は、蓮を抱きしめた。
「蓮は、俺の大切な人だから」
「海斗……」
蓮は、俺の胸に顔を埋めた。
「愛してる」
「俺も、愛してる」
二人で、しばらく抱き合っていた。
※ ※ ※(蓮視点)
海斗の胸は温かい。
その温かさが、嬉しいのに、怖い。
温かいものは、いつか失うから。
窓に映る自分の顔が、少しだけ大人びて見える。
その横に、もう一つ影が重なった気がした。
――勝ったのね。
――だから何? これからよ。
声は、私の耳じゃなく頭の内側で鳴る。
昔から同じ場所にある、冷たい鈴みたいな声。
でも今日は、はっきり見えない。
夜景の光が、カーテンの隙間から淡く差して、部屋の隅を白くする。
その光の中では、影が薄い。輪郭が曖昧になる。
“母”だと断言できないほど、ただの癖みたいにぼやけている。
――期待に応えなさい。
――次は、失敗しないで。
喉がきゅっと締まる。
けれど、海斗の腕が強くなる。
私は、息を吐ける。
……今は、聞こえてもいい。
聞こえたままでも、私はここにいる。
海斗の隣にいる。
光がある場所にいる。
※ ※ ※ (海斗視点)
「ねえ、海斗」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒だよね」
「ああ、もちろん」
俺は、はっきりと答えた。
「どんな時も、蓮のそばにいる」
「ありがとう」
蓮は、顔を上げた。その目が、俺を見つめる。
「じゃあ……今夜も、一緒にいて」
蓮の声が、甘い。
「ああ」
俺は、蓮にキスをした。深く、優しく。
蓮も、応じてくれる。吐息が重なる。
その温度が、余計な言葉を溶かしていく。
キスが終わると、蓮は恥ずかしそうに俺の胸に顔を埋めた。
「海斗……私の部屋、行こう」
「ああ」
二人で、蓮の部屋に向かった。
生徒会長選挙は、終わった。蓮が、勝った。
でも、俺たちの物語は、まだ続く。
これから、もっと楽しいこと、辛いこともあるだろう。
でも、大丈夫だ。二人で、支え合っていける。
その確信を胸に、俺は蓮と一緒に、新しい未来に向かって歩き続ける。
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