演説、そして思い
三月九日。投票日の前日。
朝、俺は誰よりも早く学校に着いた。手には、昨夜整理した応援メッセージと、資料が入った鞄を抱えている。
校門をくぐった瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。睡眠不足の痛みじゃない。焦りと不安が、身体の内側に残した痕みたいなものだ。
――間に合うのか。
いや、間に合わせる。今日で、空気を変える。
校舎に入ると、既に桐谷会長と凛音が来ていた。二人とも、手に資料を持っている。
朝の廊下はまだ冷えているのに、この三人だけ妙に温度がある。息が白いはずなのに、白くならない気がした。心が先に熱を帯びている。
「おはよう」
「おはよう、春川」
会長が、俺に資料を見せた。
「蓮の実績をまとめた。これでどうだ?」
その資料を見て、俺は驚いた。体育祭、バレンタインイベント、その他の活動。全てが、写真付きで詳細にまとめられている。
数字と証拠は、言葉よりも強い時がある。
それが分かっている会長の資料は、必要なものだけで構成されていて、余計な飾りがないのに、ひどく“刺さる”出来だった。
蓮が誰よりも現場にいたこと。誰よりも残っていたこと。誰よりも誰かのために動いたこと。
それが、紙の上でようやく“見える形”になっている。
「すごい……これなら、みんなに伝わる」
「藤崎と野村も、夜遅くまで手伝ってくれた」
会長の声が、温かい。
その温かさが、逆に胸を締め付ける。
蓮は、こういう“温かさ”を受け取るのが下手だ。受け取るより先に、返そうとする。返せないなら、自分の価値がないみたいに思ってしまう。
だから今日は、“返さなくていい温かさ”を浴びせる日だ。
「私も、メッセージ集めたよ」
凛音が、封筒を取り出した。その中には、何十枚ものメッセージが入っている。
「こんなに……」
「みんな、蓮ちゃんのこと、応援してるよ」
凛音の声が、嬉しそうだ。
嬉しそうなのに、ちゃんと慎重だ。蓮の心が今どれだけ薄いガラスみたいか、凛音は分かっている。
「じゃあ、掲示板に貼ろう」
俺たちは、校内の掲示板に向かった。
まだ誰もいない廊下の掲示板は、白い壁の中で妙に目立った。
ここに貼られるものが、今日の学校の“視界”を変える。
誰かが目にして、誰かが立ち止まって、誰かが思い直す――その連鎖を作るための場所。
まず、蓮の実績をまとめた資料を貼る。大きく、目立つように。
次に、応援メッセージ。一枚一枚、丁寧に貼っていく。掲示板が、メッセージで埋め尽くされていく。
紙が貼られていくたびに、掲示板の色が変わる。
無機質な“告知板”が、誰かの気持ちの集合体になっていく。
それは、数字でも理屈でもない“人の温度”だ。
「これで、いいな」
会長が、満足そうに頷いた。
「ああ。これなら、蓮にも届く」
俺たちが作業を終えると、生徒たちが登校し始めた。
足音が増え、話し声が増え、校舎が学校らしい騒がしさを取り戻していく。
掲示板の前に、生徒たちが集まってくる。
「何これ?」
「鈴波さんへの応援メッセージ?」
「すごい……こんなにたくさん」
声が重なっていく。驚きが、興味が、そして少しだけ照れくさそうな温度が混じっていく。
その声に、俺の胸が熱くなる。
――間に合った。
いや、間に合わせた。俺たちが。
※ ※ ※
蓮が学校に来たのは、朝のホームルーム直前だった。
その表情は、まだ暗い。目の下のクマも、まだ残っている。
昨日までの“崩れた後の疲れ”が、まだ身体に貼りついている。
それでも蓮は、制服の襟を正し、髪を整え、姿勢を保って歩いてくる。
その姿は綺麗で、真面目で、でも痛々しい。
“ちゃんとしている”のが、今の蓮の鎧だからだ。
蓮が、自分の靴箱に向かう。その靴箱に、手紙が入っていた。
蓮が、不思議そうにその手紙を開く。
俺は、少し離れたところから、それを見ていた。
見える距離。届かない距離。
近づきすぎたら、蓮はまた頑張ってしまう。
だから俺は、今日は“見守る側”に徹する。
手紙には、俺が書いた言葉が綴られていた。
『蓮へ。今日の放課後、中庭に来てください。大切な話があります。海斗』
蓮が、手紙を読み終えて、周りを見渡す。俺は、すぐに隠れた。
蓮の表情が、少し困惑している。でも、その目に、少しだけ好奇心が宿っている。
その小さな好奇心が、光みたいだった。
昨日までの蓮は、好奇心より恐怖が先に立っていたから。
――ここからだ。今日で、少しでも、蓮の視界を明るくする。
※ ※ ※
昼休み。中庭には、多くの生徒が集まっていた。
いつもなら、蓮が演説をする時間。でも、今日は違う。
台の上に立ったのは、凛音だった。
凛音は深呼吸を一つして、視線を上げた。
“話す人間”じゃなく、“守る人間”の目をしている。
「みんな、聞いてください」
凛音の声が、中庭に響く。
「今日は、私から、鈴波蓮について話させてください」
凛音の言葉に、生徒たちが静まる。
ざわめきが引く。空気が“聞く空気”に変わる。
それだけで、胸の奥が少し救われる。
「鈴波蓮は、私の親友です」
凛音の声が、真剣だ。
「そして、誰よりも真面目で、誰よりも優しい人です」
凛音が、蓮との思い出を語り始める。体育祭の時のこと。バレンタインイベントの時のこと。
「蓮ちゃんは、いつもみんなのことを考えてた」
凛音の声が、感情的になる。
「自分のことより、みんなのことを優先してた」
凛音の目から、涙が溢れる。
その涙は、弱さじゃない。守りたい気持ちの証明だ。
「だから、倒れちゃったんです」
凛音の言葉に、生徒たちがざわめく。
「蓮ちゃんは、弱いんじゃない。強すぎるんです」
凛音の声が、中庭に響く。
「だから、お願いします」
凛音が、深々と頭を下げた。
「鈴波蓮を、応援してあげてください」
中庭から、拍手が起こった。その拍手が、だんだんと大きくなっていく。
叩かれる手の音が、波みたいに広がっていく。
誰かが一歩踏み出すと、周りも踏み出せる。その連鎖が、今ここで起きている。
俺は、その光景を見ながら、胸が熱くなった。
凛音、ありがとう。
※ ※ ※
放課後。俺は中庭で蓮を待っていた。
台の上に立ち、蓮が来るのを待つ。
日が傾き始めた中庭は、光と影が長く伸びている。
昨日までの影は、蓮を追い立てるために存在していた。
でも今日は違う。影が伸びるほど、光も濃くなる。
やがて、蓮が中庭に現れた。その表情が、困惑している。
「海斗? 何?」
「蓮、ちょっと待ってろ」
俺は、マイクを取った。そして、周りを見渡す。
既に、多くの生徒が集まっていた。みんな、俺たちに協力してくれている。
今日の人だかりは、“見物”じゃない。
誰かを支えるために集まった人だかりだ。
その違いが、空気に出る。
「みんな、集まってくれて、ありがとう」
俺の声が、中庭に響く。
「今日、みんなに伝えたいことがある」
俺は、蓮を見た。蓮が、驚いた表情で俺を見つめている。
「鈴波蓮について」
俺の言葉に、蓮の目が見開かれる。
「蓮は、昨日、選挙を諦めようとしてた」
俺の言葉に、生徒たちがざわめく。
「でも、俺は諦めたくなかった」
俺は、はっきりと言った。
「蓮の夢を、守りたかった」
俺の声に、力が込められる。
胸の奥の怖さを、声で押し出す。
怖いからこそ、言葉にする。言葉にしないと、また蓮が一人で抱える。
「だから、みんなに協力してもらった」
俺は、掲示板を指差した。
「掲示板を見てくれ。そこには、蓮の実績が貼られてる」
生徒たちが、掲示板を見る。
「そして、みんなからの応援メッセージも」
俺の言葉に、生徒たちが頷く。
「蓮は、誰よりも真面目に、誰よりも誠実に、生徒会の仕事をしてきた」
俺は、蓮を見つめた。
「そして、みんなのことを、本気で考えてる」
蓮の目から、涙が溢れ始める。
その涙は、悔しさじゃない。
張りつめていた糸が、やっと緩む涙だ。
「だから、お願いだ」
俺は、生徒たちに頭を下げた。
「蓮に、もう一度チャンスをください」
俺の言葉に、中庭が静まり返る。
静まり返った空気の中で、俺の心臓の音だけがうるさい。
そして、一人の生徒が声を上げた。
「鈴波さん、頑張って!」
その声をきっかけに、次々と声が上がる。
「鈴波先輩、応援してます!」
「体調、大丈夫ですか?」
「鈴波さんに投票します!」
生徒たちの声が、中庭を満たしていく。
言葉が矢じゃなく、手のひらみたいに飛んでくる。受け止められる言葉。抱きしめられる声。
その声を聞いて、蓮の涙が止まらなくなった。
俺は、台を降りた。そして、蓮に近づく。
「蓮」
「海斗……」
蓮の声が、震えている。
「これ、全部……」
「ああ。みんな、蓮を応援してる」
俺の言葉に、蓮は泣き崩れた。
「ありがとう……ありがとう……」
蓮の声が、嗚咽混じりになる。
俺は、蓮を抱きしめた。周りの視線は気にしない。
むしろ今日は、見られていい。
“弱い姿”じゃない。
助けを受け取る姿は、ちゃんと強い。
※ ※ ※(蓮視点)
みんなの声が、痛い。
でも、昨日までの痛さと違う。
刺す痛さじゃなくて、温度が高すぎて涙が出る痛さ。
『完璧でありなさい』
胸の奥で、いつもの声が鳴る。
亡霊が、視界の端に立っている気がする。
背筋を正すように、私を引っ張る“習慣”みたいに。
でも今日は、その影の輪郭がぼやけている。
海斗の腕の温かさが、私の背中を押し返してくる。
凛音ちゃんの声が、亡霊をかき消す。
会長の資料が、“私のやってきたこと”を証拠に変える。
『休むのは負けよ』
そう言われるはずなのに、今日は聞こえない。
代わりに、別の声が聞こえる。
「大丈夫」
「頑張って」
「投票する」
私は、初めて“頑張らなきゃ”じゃなく、
“頑張りたい”と思ってしまう。
怖いのに。
でも、怖さの中に、光がある。
※ ※ ※ (海斗視点)
「蓮、もう一度、頑張れるか?」
俺の問いに、蓮は顔を上げた。その目が、涙で濡れている。でも、その目に、光が戻ってきている。
「うん……」
蓮は、小さく頷いた。
「もう一度……頑張る」
「無理はするなよ」
「うん……でも、今度は大丈夫」
蓮は、俺を見つめた。
「海斗がいるから」
「ああ」
「みんながいるから」
蓮の声が、力強くなる。
「だから、もう一度……頑張れる」
俺は、蓮を抱きしめた。蓮の身体が、温かい。
「蓮」
「ん?」
「演説、しないか?」
俺の言葉に、蓮は驚いた表情を浮かべた。
「え? 今?」
「ああ。みんな、待ってる」
俺は、周りを見渡した。生徒たちが、期待の目で蓮を見つめている。
「でも……私……」
「大丈夫。蓮なら、できる」
俺の言葉に、蓮は少し考えた。そして、決意したように頷いた。
「分かった」
蓮は、涙を拭いた。そして、台に向かう。
台の上に立つと、蓮は深呼吸をした。
息を吸う。吐く。
その動作が、今日は“罰”じゃない。
ちゃんと呼吸していいんだと、身体が思い出していくみたいだった。
「みんな……」
蓮の声が、中庭に響く。その声が、少し震えている。でも、力強い。
「ごめんなさい。昨日、倒れて……みんなを心配させて」
蓮の言葉に、生徒たちが静かに聞いている。
「私……もう、諦めようと思ってました」
蓮の声が、正直だ。
「でも……海斗が……凛音ちゃんが……会長が……みんなが……」
蓮の声が、震える。
「私を、支えてくれました」
蓮の目から、また涙が溢れる。
「だから、もう一度、頑張ります」
蓮の声が、はっきりと響く。
“頑張らなきゃ”じゃない。
“頑張る”だ。
義務じゃなく、選択の言葉だ。
「明日の投票日。私、鈴波蓮に、チャンスをください」
蓮が、深々と頭を下げた。
中庭から、大きな拍手が起こった。その拍手が、中庭全体を包み込む。
「鈴波さん、頑張って!」
「応援してます!」
「明日、投票します!」
生徒たちの声が、蓮を励ます。
蓮が、顔を上げる。その表情が、笑顔だ。涙を流しながらも、笑顔。
俺は、その笑顔を見て、安心した。
蓮が、戻ってきた。
※ ※ ※
その日の夕方。生徒会室。
蓮と俺、二人きり。
夕日の残り香みたいな光が窓から差し込み、机の上の紙を薄く染めている。
今日貼ったメッセージのいくつかが、脳内でまだ揺れていた。
「海斗」
「ん?」
「ありがとう」
蓮は、俺の手を握った。
握り返す指に、今日はちゃんと力がある。
いつもの“ちゃんとした力”じゃない。
頼っていい時の、素直な力だ。
「私のために、こんなにしてくれて」
「どういたしまして」
俺は、蓮の頭を撫でた。
「蓮の夢を、守りたかっただけだ」
「海斗……」
蓮は、俺の胸に顔を埋めた。
「愛してる」
「俺も、愛してる」
二人で、しばらく抱き合っていた。
抱き合う時間は、問題を消すわけじゃない。
でも、“一人じゃない”という事実を、身体に刻んでくれる。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「明日……勝てるかな」
蓮の声が、少し不安そうだ。
不安は残っている。
でも、今日の不安は“崩れる不安”じゃない。
“挑む不安”だ。
「大丈夫」
俺は、はっきりと言った。
「蓮なら、できる」
「本当に?」
「ああ。俺が保証する」
俺の言葉に、蓮は微笑んだ。
「ありがとう」
蓮は、顔を上げた。その目が、俺を見つめる。
その瞳の奥に、まだ薄い影がちらつく気がした。
けれど、今はその影より、目の中の光が強い。
――“影”は、消えていない。
ただ今日は、光の方が勝っている。
だから、影は薄くなる。薄くなるだけで、十分だ。
「海斗がいてくれて、本当によかった」
「俺も、蓮がいてくれてよかった」
俺は、蓮にキスをした。優しく、温かく。
キスが終わると、蓮は恥ずかしそうに俺の胸に顔を埋めた。
「明日、頑張るね」
「ああ」
「そして、勝つ」
蓮の声が、力強い。
「俺も、信じてる」
窓の外を見ると、夕日が沈んでいく。オレンジ色の空が、だんだんと紫色に変わっていく。
その境目が、今日の蓮みたいだった。
不安と希望が混じりながらも、確かに夜の先に朝が来ると分かる色。
明日。投票日。全てが決まる日。
その日が、もうすぐそこまで来ていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




