海斗の決意
三月七日の夜。家に帰った俺は、制服のまま玄関に立ち尽くした。
家の中は暖房の匂いがして、テレビの音が遠くから聞こえる。いつもなら「日常」だ。でも今日は、何もかもが薄い膜越しに見える。
蓮が倒れた瞬間の音が、まだ耳の奥に残っている。
あの場にいた全員の息が止まったみたいに、世界が一度、沈んだ。
――このままじゃダメだ。
蓮が諦めようとしている。
それは「負けたくない」という気持ちが消えたからじゃない。
むしろ逆だ。負けることが怖すぎて、自分を切り捨てようとしている。選挙も、自分の夢も、「全部やめれば傷つかない」と心が逃げ場を作ろうとしている。
でも、俺は知っている。
蓮がどれだけ必死に積み上げてきたか。
誰にも見えない場所で、誰にも褒められない作業を、当たり前みたいに抱えてきたか。
あの子は、強い。
強すぎて――折れる時は静かに、音もなく崩れる。
蓮の夢を、蓮の決意を、俺が守る。
守るってのは、腕力でも根性でもない。
“支え”を増やして、蓮一人に集中していた重さを分散させることだ。
俺はスマホを握った。手のひらが汗ばんでいる。
怖いのは、失敗することじゃない。
間に合わないことだ。
最初に電話をかけたのは、凛音だった。
「もしもし、春川くん?」
「凛音、今から話すこと、蓮には内緒にしてくれ」
言った瞬間、心臓が少しだけ落ち着く。
“内緒”は裏切りじゃない。これは、守るための作戦だ。
「どうしたの?」
「蓮が、選挙を諦めようとしてる」
「え……」
凛音の声が震えた。静かな子ほど、動揺は深い。
その沈黙の奥に、彼女も同じ危機感を抱いているのが分かった。
「でも、俺は諦めたくない」
言葉を強くする。強くしないと、折れるのは俺になる。
「蓮の夢を、守りたい」
「春川くん……」
「協力してくれないか」
凛音は少し息を吸って、落ち着いた声で聞き返す。
「具体的には、何をするの?」
「まず、蓮の本当の姿を、もっと多くの生徒に伝えたい」
俺は頭の中で何度も組み立てた言葉を、崩さずに出した。
「蓮は、真面目で、誠実で、みんなのことを本気で考えてる」
「うん」
「でも、それが十分に伝わってない」
伝わっていないのは、蓮が悪いからじゃない。
“伝えるための仕組み”が、足りていないだけだ。
派手さや数字に押されるのは、今の空気がそうなっているから。
「神崎の派手な活動に、押されてる」
「確かに……」
「だから、俺たちが動く」
自分が言った「俺たち」に、少し救われる。
一人じゃない。蓮も、一人じゃない。
「分かった。私も協力するわ」
「ありがとう」
「で、具体的には?」
「明日、学校で話そう。桐谷会長や、藤崎、野村にも声をかける」
「分かったわ」
通話が切れた瞬間、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
希望って、最初はこんなふうに小さい。
でも、確かに“灯る”。
次に桐谷会長へ電話をかける。
「春川か。どうした?」
「会長、蓮のことなんですが……」
今日のことを、倒れたことも、諦めようとしていることも、全部話した。
言葉にするたびに胸が痛んだが、隠したら終わりだ。
「そうか……」
会長の声が沈む。いつもの落ち着きが、今夜は重い。
「俺の責任だな」
「会長?」
「俺が、鈴波に立候補を勧めた」
その一言が、真っ直ぐだった。
逃げない人の言葉は、重い。
「でも、ちゃんとサポートしきれなかった」
「そんなことありません」
反射的に否定した。でも会長は譲らない。
「いや、ある」
厳しい声。責めているんじゃない。
自分の未熟さを、言い訳せず受け止めている声だ。
「俺は、鈴波に期待しすぎた」
「……」
「鈴波は、まだ二年生だ。生徒会長のプレッシャーを、一人で背負うには、まだ早かった」
俺は唇を噛んだ。
“まだ早い”という言葉が、蓮の心に刺さっていないといいと思った。
でも会長は、そこで終わらせない。
「でも、春川」
「はい」
「お前が、鈴波を守ろうとしてるのは、よく分かった」
声が少しだけ明るくなる。
その変化が、俺の背中を押した。
「俺も、協力する」
「本当ですか?」
「ああ。明日、放課後に生徒会室に来い」
「はい」
電話を切った俺は、藤崎と野村にもメッセージを送った。
『明日の放課後、生徒会室に集まってください。蓮のことで、相談があります』
すぐに返事が来る。
『了解です』
この短い二文字が、今夜は妙に頼もしい。
人は、助けを求めた瞬間に弱くなるんじゃない。
助けが集まった瞬間に、強くなれる。
スマホを置く。ノートを開く。
明日、みんなに提案する計画を書き出す。
言葉にして、形にして、誰でも動けるようにする。
“想い”は、仕組みに落とさないと届かない。これは、俺が学んだことだ。
時計は深夜一時。
眠気はない。
代わりに、ひとつだけある。――焦りでも恐怖でもなく、決意だ。
蓮のために。
あの子が自分を責める前に、世界の方を変える。
※ ※ ※
三月八日。投票日まで、あと二日。
朝、学校に着いた俺は、蓮のクラスへ向かった。
廊下の空気が冷たい。けれど、昨日までの冷たさとは違う。
俺の中で、もう逃げ道は塞がれている。進むだけだ。
蓮は席に座っていた。
表情が暗い。顔色はまだ戻っていない。目の奥の光が薄い。
それでも俺は、そこに“生きている蓮”がいることに、安堵した。
「蓮」
「海斗……」
小さく微笑む。
でもそれは、笑顔の形をした「謝罪」みたいだった。
「体調は、どうだ?」
「うん……少しよくなった」
「そうか」
俺は隣に座った。
いつもなら、手を握って「大丈夫」って言いたくなる。
でも今日は、違う。
「今日は、無理するなよ」
「うん……でも、もう……」
声が沈む。
蓮は目を伏せたまま言った。
「選挙、諦めようと思う」
「……そうか」
俺は、あえて引き止めなかった。
ここで止めたら、蓮は“守られること”さえ罪だと思ってしまう。
まずは受け止める。受け止めた上で、世界の方を動かす。
「ごめんね、海斗」
「謝るな」
頭を撫でる。
その髪が、昨日より少しだけ温かい気がした。
「蓮が決めたことなら、それでいい」
「ありがとう……」
涙を堪える顔。
俺はその横顔を、胸に刻む。
“この顔を、もう二度とさせない”。
「じゃあ、俺は教室に戻るな」
「うん」
教室を出る。
廊下を歩きながら、決意はさらに硬くなる。
蓮は諦めようとしている。
でも、俺は諦めない。
蓮の夢を、俺が守る。
※ ※ ※
放課後。生徒会室に全員が集まっていた。
桐谷会長、凛音、藤崎書記、野村会計。そして俺。
顔ぶれを見た瞬間、胸の奥が熱くなる。
誰も、蓮を見捨てていない。
「集まってくれて、ありがとう」
俺は全員を見渡した。
「今日、みんなに集まってもらったのは、蓮のことで相談があるからだ」
「鈴波さん、大丈夫なの?」
藤崎が心配そうに聞く。
「身体は、少しよくなった。でも……」
俺は息を吸う。
ここから先は、言葉で人を動かす。
蓮がやってきたことを、俺たちが代わりに“社会に提出”する。
「蓮は、選挙を諦めようとしてる」
「え……」
藤崎と野村の表情が固まる。
「そんな……」
「昨日、倒れた時に、心が折れたんだ」
沈黙が落ちる。
でもそれは絶望じゃない。
全員が、同じ方向を見ている沈黙だ。
「でも、俺は諦めたくない」
俺は言い切った。
「蓮の夢を、守りたい」
凛音が俺を見る。その目に、覚悟がある。
「だから、みんなに協力してほしい」
ノートを開く。
“祈り”を“計画”に変えたページ。
「これが、俺の考えた計画だ」
全員が覗き込む。視線が真剣になる。
「まず、蓮の本当の姿を、もっと多くの生徒に伝える」
俺は、順番通りに説明する。
「蓮が、どれだけ真面目に、誠実に、生徒会の仕事をしてきたか」
「そのために、俺たちが各クラスを回る」
頷きが返ってくる。
この瞬間、蓮の重荷が少しだけ、俺たちに分散された気がした。
「次に、蓮が倒れた理由を説明する」
「倒れた理由?」
藤崎が聞く。
「ああ。蓮は、体調管理ができなかったわけじゃない」
俺ははっきり言った。ここは揺らがない。
「選挙に本気だったから、自分を追い込みすぎたんだ」
誰かが息を呑む。
“責める言葉”を、“理解の言葉”に変える。
それが今、必要なことだ。
「それを、ちゃんと伝える」
沈黙。理解。
そして、会長が頷く。
「でも、それだけじゃ足りない」
俺は続ける。
「だから、証拠を見せる」
「証拠?」
「ああ」
資料を取り出す。
「蓮が、これまでどれだけの仕事をしてきたか。その記録だ」
体育祭、文化祭、バレンタイン、日々の雑務――
“見えない努力”が、数字と項目として並ぶ。
「これを、掲示板に貼る」
会長が頷く。
「いいな。鈴波の実績を、可視化するわけか」
「はい」
「それと、もう一つ」
俺は最後の提案を出す。
「蓮を支える生徒の声を、集める」
「生徒の声?」
「ああ。蓮に応援メッセージを書いてもらって、それを掲示板に貼る」
凛音の目が輝いた。
その光が、会議室みたいに固かった空気を、少し柔らかくする。
「いいわね。それなら、私が各クラスを回って集めるわ」
「ありがとう」
「俺も手伝うぞ」
会長が言う。
「俺たち、生徒会も協力する」
藤崎と野村も頷く。
「よし、じゃあ、役割分担をしよう」
俺は計画を説明する。
「凛音は、応援メッセージの収集」
「分かったわ」
「会長、藤崎、野村は、蓮の実績をまとめた資料を作成」
「了解だ」
「俺は、各クラスを回って、蓮のことを伝える」
全員が頷いた。
この頷きが、蓮の背中に届けばいいと願う。
「ただし、これは全て、蓮には内緒だ」
「内緒?」
「ああ。蓮に知られたら、また無理をする」
俺は言い切る。
“頑張らなくていい場所”を、俺たちが作る。
蓮の真面目さを、今だけは休ませる。
「だから、蓮には何も言わない」
「蓮が投票日に学校に来た時、全てが整っている状態にする」
沈黙のあと、全員が頷いた。
「分かったわ」
「じゃあ、始めよう」
俺たちは、すぐに動いた。
※ ※ ※
夕方から夜にかけて、俺は各クラスを回った。
一年生、二年生、三年生。
ドアをノックして、許可を得て、教室に入る。
そのたびに心臓が鳴る。けれど、もう迷わない。
「すみません。少しだけ時間をください」
頭を下げる。
俺が今やっているのは、演説じゃない。
“救助要請”だ。
蓮の努力を、孤独から、なにかの呪縛から救い出すための。
「鈴波蓮のことで、お話があります」
生徒たちが見る。
興味、噂、驚き――いろんな目がある。
でも俺は、そこに“責め”の空気を入れさせない。
「鈴波は、昨日、演説中に倒れました」
ざわめきが走る。
「でも、それは体調管理ができなかったからじゃありません」
俺は言い切る。
「鈴波が、選挙に本気だったからです」
頑張りすぎたこと。
副会長として背負ってきた仕事。
毎日の演説、クラス訪問。
“みんなのため”を、文字通り自分の体で支えてきたこと。
「鈴波は、みんなのために、自分を犠牲にしてきました」
声に力が入る。
でも怒りじゃない。
救いたいという願いの力だ。
「それを、知ってほしいんです」
生徒たちの表情が変わる。
冷たかった目が、少しだけ温度を持つ。
「鈴波は、決して弱い人間じゃありません」
俺ははっきり言った。
「強すぎるんです。だから、自分を追い込みすぎた」
頷く人がいる。
息を吐く人がいる。
「もし、鈴波を応援してくれる人がいたら……」
用紙を出す。
「これに、メッセージを書いてください」
手が挙がる。
「俺、書きます」
「私も」
その声が、胸を熱くする。
希望は、言葉の形で増える。
蓮がひとりで背負ってきたものが、いま、少しずつ“共有”されていく。
※ ※ ※
夜。家に帰ると、十一時を過ぎていた。
でも、まだ終われない。
今日集まったものは、ただの紙じゃない。
“蓮を一人にしない”という証明だ。
俺は応援メッセージを読む。
『鈴波先輩、応援してます。無理しないでください』
『鈴波さんの演説、心に響きました』
『鈴波先輩の公約、すごくいいと思います』
『体調、大丈夫ですか? ゆっくり休んでください』
一つ一つが、蓮の胸に届くべき言葉だ。
届かないなら、俺が届ける。届く形にして見せる。
丁寧に仕分ける。折れないように、汚れないように。
まるで、蓮の心を扱うみたいに慎重になる。
スマホが振動した。凛音からだ。
『春川くん、お疲れ様。私も、たくさんメッセージ集めたよ。明日、持っていくね』
俺は息を吐いた。
ひとりじゃない。
この事実だけで、背中が少し軽くなる。
会長からも来た。
『春川、資料の作成が終わった。明日、持っていく』
全員が動いている。
蓮の知らないところで、蓮のために世界が動いている。
その構図が、今は必要だ。
俺は蓮にメッセージを送った。
『おやすみ、蓮。明日、学校で会おう』
すぐに返ってくる。
『おやすみ、海斗。ありがとう』
短い言葉。
でもそこに、ぎりぎりの体温が残っている。
明日。全てが変わる。
俺は確信した。
奇跡みたいなことは起きなくてもいい。
ただ、蓮が「ひとりじゃない」と思える朝を作る。
それが、俺の役目だ。
その確信を胸に、俺は眠りについた。
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