送れなかった「助けて」
私って、何のために存在してるんだろう。
ただ母に認められるためだけに生きて、母と父――あの二人に振り向いてもらうために、私は。
もう疲れた。
お母さんの期待に応えるのも、期待に“合わせた自分”を作り続けるのも。
保健室から出された私は、見えない重荷を背負ったまま駅へ向かう。肩ひももないのに、肩だけが痛い。
今日は、海斗がいない。……本当は、いてほしいのに。
廊下も、校門の外も、私の隣は空っぽだ。
それなのに――聞こえる。
『甘えるな』
『人に頼るな』
『あなたは私の娘だから』
『娘として恥ずかしい』
最初は、言葉だけだったはずだ。頭の中に刺さる、針みたいな声。
でも、今は違う。声が、形を持ってしまっている。
ひとつだったはずの亡霊が、私の周りに無数に立っている。
まるで、私がどこへ逃げても正しい位置に立ち直るのを待っているみたいに。
息を吸うたびに、視界の端に黒いスーツの輪郭が増えていく。
私は優秀な母と父に育てられてきた。
なのに私は、あの二人みたいに“優秀な数字”を出せていない。
その差が、心の中じゃなく、全身の骨にまで重荷として沈んでいるのが分かる。
脳裏に、海斗の手を拒んだ記憶がよぎる。
あの瞬間、差し出された海斗の手が――私の中では、どうしようもなく“お母さん”に重なった。
優しさが、救いじゃなくて、採点の前触れに見えてしまった。
近づいたら、また「できるでしょ」と言われる気がして。
勝手な錯覚なのに、身体が先に拒んでしまった。
傷つけてしまったに違いない。
そもそも、私が選挙に立候補したから――違う。
私が“母という亡霊”に取り憑かれたまま走り出したから、こうなったんだ。
涙が、勝手に頬を伝う。拭う手が遅れる。
駅までの道のりが、やけに長い。
周囲に人がいるのに、私の世界だけ薄暗い。
父や母の期待に応えようとする自分が、内側から音を立てて崩れ始めている。それが生身の感覚で分かる。
『私が誇れるような娘になりなさい』
嫌だ。私は、お母さんみたいな人間になれない。
『私のようになりなさい』
「できない……そんなの、無理だよ。私は、お母さんでもお父さんでもない」
『弱音を吐いても無駄よ。私はあなたの母で、あなたは私の娘なんだから』
弱った心を蝕むように、亡霊たちが口を揃えて言葉を発する。
声は一つなのに、口がいくつもあるみたいに響く。
『あなたは私の娘』
「私は――亡霊の娘じゃない!」
声にした瞬間、喉が焼けた。
言い返せたのに、勝った気はしない。
ただ、胸の奥のどこかが、さらに冷えていった。
※ ※ ※
いつからだろう。私に呪いがつきまとい始めたのは。
“鈴波蓮”としての自覚を持ち始めた頃は、両親はまともだった気がする。
お父さんも家にいて、お母さんも疲れた顔はしていたけれど、私には気兼ねなく接してくれていた。
「ねぇ見て! 私、頑張って作ったんだ!」
保育園から帰った私は、自分の描いた絵を母に見せていた。
父と母と、真ん中に私。ごく普通の、家族の絵。
「そう。……よくできてるわね」
その時、疲れていた母の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ気がした。
たったそれだけで、私は胸がいっぱいになった。
認めてもらえた、と信じた。
でも、私から見えていた“良好”は、ただの上辺だった。
「ねぇ、あなた! もっと蓮のことを見ててよ!」
「仕方ないだろ。俺には仕事がある。それに、蓮を育てる役目はお前にあるんだ」
「あなた……それでも蓮の父親なの?!」
「黙れ。お前に俺の仕事に茶々を入れる資格なんてない! お前の教育が悪いから、蓮はまた成績を落としたんじゃないのか?」
「――分かったわよ。もういいわ。あなたがそこまで言うなら、私があの子を完璧に育て上げるわ」
「勝手にしろ」
小学四年生の私が、廊下の影で聞いてしまった会話。
あの日からだ。
母は私に、“完璧”を求めるようになった。
勉強。将来。選ぶもの。選ばせてもらえるはずだったもの。
私の未来は少しずつ、母の定規で切り揃えられていった。
そのたびに言われた。
『あなたは私の娘』
でも、中学に上がる頃には、母は私を“育てる対象”として扱うくせに、私を“見る”ことをやめた。
父も同じだった。
二人は家にいない日が増え、私は“空白”の中で呼吸を覚えた。
偽物でも、心の平穏を取り戻したように錯覚してしまうくらいに。
高校二年で生徒会副会長になった時、私は無我夢中で父と母にメールを送った。
――やっと、見てもらえるかもしれない。
そう思った。
でも、返信はなかった。父からも、母からも。
久しぶりに帰ってきた母の目は、私を商品価値の計算ミスみたいに眺める目に見えた。
母がそう思っていないとしても、私にはそう見えて仕方がなかった。
呪いは、きっとあの時点で小さくこびりついていたんだ。
父と母が仲違いした日。
そして、母が「完璧」を誓った日。
……もういい。疲れた。
あの時、海斗に「選挙を辞める」と言った時、ほんの少しだけ鎖が緩んだ気がした。
同時に、別の鎖が喉に巻きつく気もしたけれど。
※ ※ ※
いつも通りの電車に乗り、そのまま家へ向かう。
玄関を抜けて、制服のまま、私はベッドへ崩れるように倒れた。
視界の端に、母の形をした亡霊が立っている。
ひとりじゃない。幾つも。
私を囲むように、等間隔に。逃げ道を塞ぐように。
『完璧』
その一語だけが、呪文みたいに増殖する。
「助けて」
吐息みたいな声が漏れた。
私はスマホを握りしめ、海斗にメッセージを入れようとする。
指先が震えて、打った文字が歪む。
でも――亡霊の声が、画面の上に降りてくる。
『誰かに縋るの?』
『完璧じゃないあなたが?』
『私以下のあなたが?』
言葉に押されるように、私は打っていた文章を消した。
家庭のことを話していいのか、分からない。
話した瞬間、母が海斗に何を言うのか分からない。
私の“せい”で、海斗まで傷つくのが怖い。
消して、消して、消して。
画面が、元の白に戻る。
私は、そのままスマホを伏せた。
暗くなった画面に、私の目だけが映っていた。
泣いているのに、泣き顔にすらなれていない目。
――助けて、って打てなかった。
それだけで、胸の奥が痛かった。
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