崩れ落ちる時 母の亡霊
三月七日。選挙活動六日目。投票日まで、あと三日。
朝、俺は駅で蓮を待っていた。約束の時間を過ぎても、蓮が来ない。
改札前の人の流れが一度途切れて、また押し寄せる。足音とアナウンスが重なって、時間だけが進む。俺の中だけが置いていかれたみたいだった。
スマホを見ると、蓮からメッセージが届いていた。
『ごめん、遅れる。少し寝坊しちゃった』
寝坊。蓮が寝坊するなんて、珍しい。
それだけで、胸の奥が嫌な形に沈んだ。疲れが“やっと眠らせた”んじゃない。疲れが“起こす力”を奪ったんだ。
十分ほど待つと、蓮が駆けてきた。息を切らしている。頬は赤いのに、顔色は白かった。
走ったせいで血が巡っているだけで、土台はまだ冷えている――そんな白さ。
「ごめん、待たせて」
「大丈夫。気にするな」
言いながら、俺は蓮の肩を見た。小さく上下している。
“謝る速度”が速すぎる。遅れた事実を取り返すみたいに、言葉で先に罰を引き受けている。
「昨日、ちゃんと寝たか?」
「うん……五時間くらい」
五時間。増えているはずなのに、安心できない。
むしろ“それでも足りない”と身体が宣告している。
「今日は、無理するなよ」
「うん……でも、やることは、やらないと」
その声に、まだ決意が残っていた。
決意というより、逃げ道を塞いで進む音。背中を押す誰かがいるわけじゃない。蓮自身が、自分を追い詰めるルールになっている。
学校に着くと、蓮は朝の演説に向かった。中庭に立つ。
冷たい空気に混じる、わずかな春の匂い。季節は進んでいるのに、蓮だけが逆向きに引かれているみたいだった。
今日の蓮の声は、昨日よりさらに弱かった。
声は出ている。言葉も崩れていない。けれど、張りがない。芯が抜けている。
聞いている生徒たちも、心配そうな表情を浮かべる。
演説が終わると、蓮はすぐ教室へ向かった。
背中が、小さく見える。小さいのに、何かを背負っている。見えない荷物のせいで姿勢が固い。俺にはその正体が分からない。ただ、息苦しさだけが伝わる。
※ ※ ※
昼休み。中庭での演説。
今日も蓮は台の上に立った。
でも、その足元が最初からふらついている。台が揺れているわけじゃない。蓮の身体の内側が揺れている。
「みんな……こんにちは……」
声がか細い。マイクを通しても、弱々しく聞こえる。
それでも蓮は、笑顔を作ろうとした。口角だけが上がる。目は上がらない。
「二年B組の……鈴波蓮です……」
蓮の顔が青白い。額に汗が滲んでいる。
寒さと不釣り合いな汗。自分を叱り続けた熱が、皮膚を突き破っている。
「私は……」
言葉が止まった。焦点が定まらない。
「私は……」
蓮の言葉が、止まった。
焦点が定まっていない。――違う。焦点は、俺たちのいる“中庭”ではなく、もっと遠い場所に吸い込まれていく。
次の瞬間、蓮の表情から血の気が引いた。
唇がわずかに開き、喉が鳴るのに、声が出ない。
蓮の視線が、俺の肩越し――誰もいないはずの場所へ、すっと滑った。
そこに、蓮だけが見てしまったものがあった。
体育館の照明でもなく、冬の陽射しでもない。
冷たい黒の輪郭。完璧に整えられた姿勢。乱れのない髪。
“正しい人”の形をした影が、演説台の下から、見上げるように立っている。
――その目が、笑っていない。
『その程度?』
声はマイクから聞こえたわけじゃない。
耳ではなく、頭蓋の内側を直接なぞるように響いた。
『倒れるなんて、言い訳よ』
『結果がすべて』
『みっともない』
蓮の指先が、マイクを握り潰すみたいに震える。
背筋が固まり、呼吸が浅くなる。
「……っ」
蓮が、小さく息を吸った。
まるで、冷たい水に顔を沈められたみたいな顔。
そして――逃げ場を探すみたいに、視線が彷徨い、俺を見た。
助けを求める目。
なのに、その奥で別の何かが「助けを求めるな」と命じている。
『甘えるな』
影が、蓮のすぐ背後に回り込んだ気がした。
背中に、氷を押し当てられたように肩が跳ねる。
蓮の身体が、ふっと軽く揺れた。
「蓮!」
俺が走り出す、その一瞬。
蓮は、もう“そこ”にいなかった。
目に見えない鎖に足首を引かれるみたいに、力が抜け――
崩れ落ちた。
ドサッという音。生徒たちの悲鳴。
全てがスローモーションのように感じられる。
落ちる身体を抱き止めるはずだった。だが、俺の腕に届く前に、蓮は一度床に触れた。硬い音がした。
「蓮!」
俺は駆け寄った。蓮の身体を抱き上げる。
「蓮、しっかりしろ!」
目は閉じている。顔色は真っ青だ。
鼓動が怖い。確かめるのが怖い。それでも、名前を呼ぶしかない。
「誰か、保健室の先生を呼んでくれ!」
俺の声に、生徒の一人が走り出した。
「蓮、起きろ」
頬を軽く叩く。反応がない。
叩いた音だけが虚しく返ってくる。
「蓮!」
周りは騒然としている。
「鈴波さん、倒れた!」
「大丈夫?」
「救急車呼んだ方がいいんじゃない?」
声が耳に入る。でも、今は蓮の重さしか感じられない。
抱えた身体が、驚くほど軽い。軽さが、怖い。
この軽さは、頑張って削った結果だ。削りすぎた結果だ。
やがて養護の先生が駆けつけてきた。
「鈴波さん!」
先生が確認する。
「意識がない……すぐに保健室に運ぶわよ」
「俺が運びます」
俺は蓮を抱き上げた。腕の中で、蓮の髪が頬に触れる。
あんなに好きだった匂いが、今日は痛い。弱っている匂いに変わってしまった気がしたから。
保健室へ向かう。廊下を走る。
誰かが道を空ける。誰かが「大丈夫?」と叫ぶ。
その全部が遠い。俺はただ、腕の中の呼吸の有無だけを追い続ける。
「蓮、大丈夫だ。すぐに保健室だから」
反応はない。
それでも声をかけ続ける。止まったら、俺の方が折れてしまう。
保健室に着く。先生がベッドを用意してくれた。俺は蓮を寝かせる。
毛布がかけられた瞬間、蓮は小さな子どもみたいに見えた。
選挙だとか演説だとか、そんな言葉がひどく場違いに思える。
先生が診る。体温、脈。
「過労ね……完全に」
厳しい声。
「睡眠不足と、栄養不足。それに、ストレス」
先生が俺を見た。
「春川くん、あなた、何してたの?」
言葉が刺さる。胸の奥の柔らかいところに、まっすぐ。
「すみません……」
俺は頭を下げた。
「彼女が無理してるの、分かってたでしょ?」
「はい……」
「なんで、止めなかったの?」
責められて当然だ。
止められたはずだ。止めるべきだった。
でも――止めようとした時の蓮の目を思い出す。あの、拒絶じゃなく、許されない何かに怯えていた目。
「止めようとしたんですが……蓮が……」
「言い訳はいいわ」
先生の声が冷たい。
「とにかく、今は安静にさせるしかない」
毛布が整えられる。
「意識は、すぐに戻ると思うわ。でも、今日は絶対に帰さないから」
「はい」
俺は蓮の隣に座った。手を握る。冷たい。
冷たいのに、汗で少し湿っている。身体が無理に回したエネルギーの跡。
「蓮……ごめん」
声が震える。
「俺が、ちゃんと止めるべきだった」
蓮の寝顔は、苦しそうだ。
眠っているのに、眉が寄っている。
休めていない。夢の中でも、誰かに点数をつけられているみたいに。
「ごめん……」
時間がゆっくり過ぎる。授業のチャイムが遠くで鳴る。
俺は保健室に残った。
ただ握った手だけが、現実に繋がっている。
やがて蓮の瞼が動いた。ゆっくり、目が開いていく。
「……海斗?」
「蓮!」
俺は手を強く握った。
「大丈夫か?」
「ここ……保健室?」
「ああ」
蓮は周りを見る。焦点を合わせようとしている。
「私……倒れたの?」
「ああ。演説中に」
その瞬間、蓮の顔が歪んだ。
“倒れた”という事実が、体調の問題じゃなく“失点”として刺さった顔だった。
「そんな……」
涙が溢れる。
「また……失敗した……」
「蓮」
「みんなの前で……倒れるなんて……」
涙が止まらない。
「最悪だ……こんなの……」
「蓮、気にするな」
「気にしないわけないでしょ!」
声が大きくなる。叫ぶというより、壊れた弁が噴き出す音。
「これで……もう、勝てない……」
嗚咽混じり。
「みんな……私のこと……『体調管理もできない奴』って思う……」
「そんなことない」
「ある!」
保健室に響く。
「神崎くんは……毎日元気に活動してる……」
枕が濡れる。
「私は……倒れた……情けない……」
「蓮」
抱きしめようとする。
蓮が拒む。
「蓮」
俺は、抱きしめようとした。
今なら、言葉より体温のほうが早いと思った。守りたいと思った。
その瞬間――蓮の瞳が、俺の背後を射抜いた。
さっき中庭で見たのと同じ、冷たい輪郭。
保健室の白いカーテンの向こうに、黒い影が立っている。
灯りを吸い込むみたいな影が、ベッドの足元から、蓮を見下ろしている。
唇が、動いた。
『人に縋るの?』
『それで勝てるの?』
『あなたは、私の娘でしょう』
蓮の喉が引きつる。
涙が止まらないのに、泣くことすら許されないみたいに肩が硬直する。
俺の手が近づく。
それが“優しさ”だと分かっているのに――蓮の中の何かが、それを“失格”だと断じる。
蓮は、俺を拒むというより、背後の影から逃れるように体を引いた。
「触らないで!」
叫び声が、保健室に反響する。
俺の手が止まる。息が止まる。
蓮の視線は、俺ではなく――まだ、そこにいる“影”を見ていた。
『甘えた瞬間に終わる』
『倒れた上に、縋るの?』
『みっともない』
蓮の呼吸が乱れる。言葉が支離滅裂になっていく。
「海斗のせいじゃないのに……なんで……私だけ……」
その声は、俺に向けているようでいて、俺ではない“誰か”に必死で弁明していた。
許しを乞う声。裁かれる前に、先に自分を罰する声。
俺には、見えない。
俺に見えるのは、蓮が空っぽの場所に怯え、追い詰められて、壊れそうになっている姿だけだった。
※ ※ ※
しばらくして、泣き声が止まった。疲れて、また眠ったようだ。
俺は椅子に座ったまま、蓮を見つめていた。
ドアがノックされる。振り返ると、凛音が立っていた。
「春川くん……」
心配そうに入ってくる。
「蓮ちゃん、大丈夫?」
「ああ……さっき、意識は戻った」
「そう……」
凛音は寝顔を見る。表情が悲しそうだ。
「倒れたって聞いて……びっくりした」
「ああ」
「やっぱり……無理しすぎてたのね」
声が沈む。
「私も……気づいてたのに……ちゃんと止められなかった」
「俺も、だ」
自嘲が漏れる。
「俺が、ちゃんと止めるべきだった」
「春川くんのせいじゃないわ」
凛音が肩に手を置いた。
「蓮ちゃんが……頑張りすぎちゃっただけ」
「でも……」
「今は、蓮ちゃんを休ませてあげましょう」
その言葉に頷くしかない。
凛音が帰った後。
俺は再び蓮を見つめた。疲れ切った寝顔。
手を握る。
「蓮……もう、無理するな」
小さく響く。
「選挙なんて、どうでもいい」
涙が溢れた。
声に出した瞬間、自分の言葉が空虚に感じる。
選挙がどうでもいいわけじゃない。蓮がどうでもよくなるほど大事じゃない。それだけだ。
「蓮が、無事でいてくれれば、それでいい」
涙が手に落ちる。
「頼むから……もう、自分を追い込むな」
声が震える。
「俺は……蓮を失いたくない」
保健室に、俺の声だけが残る。
返事はない。寝息だけが、細く続いている。
※ ※ ※
夕方、蓮が再び目を覚ました。
今度は少し落ち着いた表情だ。泣き疲れた後の静けさ。
「海斗……」
「ああ」
「ずっと、いてくれたの?」
「ああ」
蓮は小さく微笑んだ。でも、その笑顔が悲しそうだ。
喜びより先に、罪悪感が混ざっている笑顔。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
蓮は天井を見つめた。
「私……ダメだね」
「そんなことない」
「ううん、ダメ」
声が静かだ。静かな分だけ、硬い。
「体調管理もできない……こんなの、生徒会長失格だよ」
「蓮」
「もう……諦めようかな」
その言葉に、心臓が沈む。
「選挙……」
また涙が溢れる。
「もう……頑張れない」
震える声。
「ごめんね……海斗……」
俺は手を握った。
「謝るな」
「でも……」
「蓮が決めたことなら、俺は従う」
蓮の顔が歪んだ。
それは安心じゃない。痛みだ。
自分で決めることに怯えている顔。決めた瞬間に、何かに裁かれると知っている顔。
「本当に?」
「ああ」
頭を撫でる。
「選挙より、蓮が大事だ」
蓮は泣きながら頷いた。
「ありがとう……」
その夜、俺は重い気持ちで家に帰った。
蓮が、選挙を諦めようとしている。
それが正しいのか、間違っているのか。
俺には分からなかった。
ただ一つ分かるのは――蓮は今、勝ち負け以上の何かに追い詰められている。
その“何か”の正体を、俺はまだ知らない。
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