限界の兆し
三月六日。選挙活動五日目。
朝、俺は蓮と一緒に登校した。駅で待ち合わせて、一緒に学校まで登校する。
「ちゃんと寝たか?」
「うん……三時間くらい」
三時間。喉の奥が苦くなる。
「もっと寝ないと、身体壊すぞ」
「大丈夫だよ」
言葉だけは軽い。けれど、声は乾いていた。
大丈夫、という響きが、自分に言い聞かせる呪文みたいに聞こえる。
“そう言わないと前に進めない”――そんな必死さが混じっていた。
学校に着くと、蓮は息を整える暇もなく朝の演説の準備に向かった。
中庭。冬の冷たさがまだ残る空気。吐く息が白く、指先が痺れるはずの温度なのに、蓮の額には汗が浮いていた。
台の上に立つ。マイクを握る。
その動きはいつも通り丁寧なのに、身体だけが微細に揺れている。芯がぶれる、というより――支えを失いかけている揺れだった。
「みんな、おはようございます。二年B組の鈴波蓮です」
声が弱い。昨日よりさらに弱い。
言葉は綺麗に並んでいるのに、息が追いついていない。喉の奥が細く締まっているように見えた。
演説が終わった瞬間、蓮の肩が落ちた。
そして――ふらついた。
俺は急いで駆け寄る。
「大丈夫か?」
「うん……ちょっと、立ちくらみが」
頬に血の気がない。唇の色も薄い。
それでも蓮は、倒れないように歯を噛んで耐えていた。倒れたら“負け”だと言われているみたいに。
「保健室、行こう」
「ダメ。まだ、クラス訪問があるの」
「蓮」
「お願い、海斗」
必死な目。
その目の奥にあるものを、俺は読み切れない。
ただ、言い返せば壊れてしまいそうな張り詰め方だけが分かった。
※ ※ ※
午前中、蓮と一緒に二年生のクラスを回った。
一つ一つの教室で、蓮は同じように言葉を届ける。
けれど回るほどに、蓮の顔色は薄くなっていった。
説明の丁寧さは崩れない。笑顔も作れる。声も出せる。
――その代わり、表情の奥が削れていく。
三つ目のクラスを出た時、蓮が壁にもたれかかった。
「蓮」
「ちょっと……休憩」
呼吸が荒い。額に汗が滲む。
目だけが、どこか遠くを見ている。いま目の前にない何かに追い立てられているみたいに。
「無理するな」
「大丈夫……」
言い方が硬い。
大丈夫、が“許可”を求めるみたいに響く。俺に対してじゃない。自分自身に。
「蓮、昼休みの演説は休もう」
「ダメ」
即答だった。
「昼休みの演説は、一番人が集まるの」
「でも……」
「大丈夫だから」
無理に笑った。笑顔の形だけが残っている。
目は笑っていない。目が、点数を数えている。
昼休み。中庭。今日も多くの生徒が集まっていた。
蓮が台の上に立つ。マイクを持つ手が震えている。
震えを隠すように、指に力を入れているのが分かった。力を入れすぎて、余計に震える――悪い循環。
「みんな……こんにちは……」
途切れ途切れ。声が小さい。
言葉が落ちるたび、蓮の肩がわずかに跳ねる。自分の失敗を叱るように。
「二年B組の……鈴波蓮です……」
青白い顔。汗が光っている。
冬の空気が冷たいのに、蓮だけが熱を持っていた。燃えているのではなく、内側から締め付けられて滲み出た熱だ。
「私は……生徒会長に……」
言葉が止まった。蓮の身体が揺れる。
「蓮!」
俺は台に駆け寄った。肩を支える。
その瞬間、蓮の体温が異様に高いのが分かった。熱じゃない。疲労が限界を越えてる温度。
「大丈夫か?」
「うん……ごめん……ちょっと……」
声が消え入りそうだ。
「演説、中止だ」
「でも……」
「いいから」
俺は蓮を台から降ろした。
生徒たちの視線が集まる。心配、戸惑い、ざわめき。
“見られること”が今の蓮にどれだけ刺さるかを想像して、胃が重くなる。
「すみません、今日の演説は、これで終わります」
俺がそう言うと、ざわめきが広がった。
「鈴波さん、大丈夫?」
「具合悪そう……」
その声が耳に刺さる。
蓮の肩が小さく震えた。恥ずかしさじゃない。自分を責める震えだ。
俺は蓮を保健室に連れて行った。
廊下を歩く。靴音が反響して、やけに大きい。
蓮はその音にすら怯えるみたいに、唇を噛んでいた。
「ごめん……海斗……」
「謝るな」
「でも……演説、途中で……」
「いいんだ」
保健室に着くと、養護の先生が驚いた顔をした。
「鈴波さん、どうしたの?」
「演説中に、体調を崩して」
「そう……ベッドに寝かせてあげて」
蓮をベッドに寝かせる。
先生が額に手を当てた。
「熱はないけど……すごく疲れてるわね」
「はい」
「最近、ちゃんと寝てる?」
蓮は小さく首を横に振った。
「三時間くらい……しか……」
「それじゃ、ダメよ」
先生の声が厳しい。
「生徒会長選挙で忙しいのは分かるけど、身体を壊したら元も子もないわよ」
「はい……」
蓮の声が小さい。
返事の仕方が、“叱責に慣れている”みたいに整っていた。
俺はその違和感の理由が分からない。ただ、胸がざらついた。
「今日は、ここで休みなさい。午後の授業も休んで」
「でも……」
「いいから。これは、命令よ」
命令、という言葉に蓮の肩がびくりと跳ねた。
そして、反論を飲み込んだ。
飲み込む速さが異様だった。抵抗するより先に、従う形が身体に染みついているみたいに。
俺は蓮の隣に座った。手を握る。冷たい。
「ごめんね、海斗……」
「謝るな」
「でも、私……」
涙が溢れた。
「途中で、倒れちゃって……」
「いいんだ」
俺は頭を撫でる。
「大事なのは、蓮の身体だ」
「でも……選挙……」
「選挙より、蓮の方が大事だ」
その言葉に、蓮の表情が歪んだ。
俺の言葉が嬉しいのに、受け取れない顔。
“それじゃダメだ”と、どこかから裁かれているみたいな顔。
「海斗……」
「ゆっくり休め」
「うん……」
蓮は目を閉じた。呼吸が少しずつ整っていく。
まぶたの裏でまだ何かを数えているように見えて、俺は拳を握りしめた。
養護の先生が、小声で話しかけてきた。
「春川くん」
「はい」
「鈴波さんのこと、ちゃんと見てあげてね」
「……はい」
「あの子、頑張りすぎる子だから」
先生の声には、経験の重みがあった。
“頑張りすぎ”の範囲が、普通よりずっと危うい――そんなニュアンス。
「分かってます」
「お願いね」
先生はそう言って保健室を出ていった。
俺は蓮の寝顔を見つめた。
苦しそうに眉を寄せたまま、眠っている。
眠っているのに休めていない顔。まるで夢の中でも走らされているみたいだった。
このままじゃダメだ。蓮が壊れてしまう。
でも、どうすればいい。止めようとすると蓮は拒否する。
拒否というより、“休むことを許せない何か”が蓮の中にある。
俺にはそれが何か分からない。ただ、そこが硬い壁になっているのが分かる。
※ ※ ※
午後の授業が終わり、放課後になった。
俺は保健室に戻った。蓮はまだ寝ていた。
寝顔は少し穏やかになっている。
それが救いで、同時に恐ろしい。眠ってやっと穏やかになる程度に、日中が張り詰めすぎている。
「蓮」
小声で呼びかけると、蓮の目がゆっくりと開いた。
「海斗……」
「気分は、どうだ?」
「うん……少し、よくなった」
起き上がろうとする。
俺が止める。
「まだ、休んでろ」
「でも、もう授業終わったでしょ」
「それでも」
「今日の活動、まだ残ってるの」
焦っている目。
焦りの奥に、恐怖が見える。遅れたら終わる、みたいな恐怖。
「今日は休もう」
「ダメ」
首を横に振る。
「放課後の演説があるの」
「蓮」
「お願い、海斗」
懇願する目。
俺は言葉を失った。
蓮の中で何かが鳴っている。警報みたいな音が。
その音の正体を、俺は知らない。
「今日休んだら、もっと遅れちゃう」
「……」
「神崎くんは、今日も活動してる」
声が震える。
「私だけ、休むわけにいかない」
その“いかない”が、決意じゃなく罰則みたいに響く。
俺は何も言えなくなった。
止めれば、蓮が自分を責める。
責め方が危険だと分かるのに、俺には止める論理が足りない。
「分かった」
ため息が漏れた。
「でも、無理はするな」
「うん」
蓮はベッドから降りた。足元が少しふらつく。
それでも前へ進もうとする。前へ進む以外の選択肢を持たないみたいに。
放課後の演説。中庭。生徒は昼休みより少ない。
蓮が台の上に立つ。その表情が疲れている。
そして、その疲れを押し隠すように、口角だけを上げた。
「みんな、こんにちは……」
声が弱い。
弱いのに、言葉だけは丁寧に整えようとしている。
整えるほど、息が削れる。
演説が進むにつれて、生徒たちがざわめき始めた。
「鈴波さん、大丈夫かな」
「さっき、保健室にいたらしいよ」
「無理してるんじゃない?」
その声が俺の耳に届く。
蓮にも届いているはずだ。
届いて、それでも蓮は止まらない。止まれない。
演説が終わると、まばらな拍手が起こった。昨日よりさらに小さい拍手。
蓮が台から降りる。表情が落ち込んでいる。
落ち込み方が、失敗を許さない人のそれだった。
“結果”の前で、自分の価値を切り刻む顔。
「お疲れ様」
「……ありがとう」
声が小さい。
「今日は、帰ろう」
「うん……」
力なく頷く。
※ ※ ※
駅までの道のりを二人で歩いた。
蓮が俺の腕にしがみついている。身体が重い。
重いのに、心はまだ走っている感じがする。足が止まっても、内側の時計だけが進み続けている。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「私……ダメかもしれない」
声が震える。
「今日の演説……全然、ダメだった」
「そんなことない」
「みんな、心配そうに見てた」
涙が溢れる。
「こんなんじゃ、勝てない」
「蓮」
「神崎くんは、毎日元気に活動してる」
声が小さくなる。
「私は……もう、ボロボロ」
「……」
「どうして……私は、こんなに弱いんだろう」
涙が止まらない。
俺は蓮を抱きしめた。人通りの多い道。でも構わない。
「蓮は、弱くない」
はっきり言う。
「すごく、頑張ってる」
「でも……」
「頑張りすぎてるんだ」
その言葉に、蓮が顔を上げた。
“頑張りすぎ”という言葉が、救いじゃなく、怖い判決みたいに刺さった顔だった。
頑張るのをやめた瞬間に、自分が許されなくなる――そんな顔。
「もう少し、ペースを落とそう」
「でも……」
「このままじゃ、本当に倒れる」
蓮は黙り込んだ。
「投票日まで、あと四日ある」
俺は蓮の肩を掴む。
「焦るな。蓮のペースで、やればいい」
「でも……勝てなかったら……」
「勝ち負けより、蓮が大事だ」
また涙が溢れた。
「海斗……」
「今日は、早く帰って休め」
「うん……」
小さく頷く。
駅で別れて、俺は一人で帰路についた。
蓮のこと。その姿が頭から離れない。
今日見えたのは、“限界の兆し”じゃない。
限界そのものが、もう輪郭を持って立っていた。
このままじゃ、本当に倒れる。
その予感が、確信に近づいていくのを感じながら、俺は夜の空気を吸い込んだ。
冷たい。
それなのに胸の奥だけが、妙に熱かった。
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