マイクの向こうの君を、俺は信じてる
三月二日。立候補表明の翌日。
放課後の生徒会室は、いつもより人の熱が濃かった。
蓮、俺、桐谷会長、藤崎書記、野村会計、そして凛音。机の周りに肩が寄るだけで、空気が一段上がる。
窓の外はまだ冬の輪郭を残している。けれど廊下から紛れ込んだ風には、ほんの少しだけ柔らかい匂いが混じっていた。季節が切り替わる手前の、肌の上で温度が迷う感じ。
ただ、この部屋の緊張は季節のせいじゃない。資料の白さ、スケジュール表の罫線、積み上がる“やるべきこと”の角が、妙に鋭く見えた。
「集まってくれて、ありがとう」
蓮が全員を見渡す。声は落ち着いている。言葉の運びも、表情も、背筋の角度も――きれいに揃っていた。
揃いすぎて、少しだけ胸がざわつく。整っているのに、どこか窮屈そうだ。息が浅い人の「平気」に似ている。
「これから、選挙活動を本格的に始めます」
全員が頷く。蓮は頷き返す。その一つひとつが丁寧で、迷いがないように見える。
でも、手元のペン先だけが微かに揺れていた。本人は気づいていない。俺も、深くは考えない。ただ「頑張ってるな」と思うだけだ。
「投票日は三月十日。あと八日しかありません」
言い切った瞬間、蓮の喉が小さく動いた。
“八日しかない”――その言葉が、蓮の胸の中で針のように刺さっているのが分かる。焦りというより、遅れを許さない何か。見えない時計が、背中を突いている。
「その間に、できるだけ多くの生徒に、私の公約を伝えたいと思います」
「具体的には、何をすればいい?」
凛音が、いつもの落ち着いた声で尋ねた。
「まず、選挙ポスターを作ります」
蓮は資料を広げ、机の上に置く。紙が擦れる音が、やけに大きく響いた。
「それを、校内の掲示板に貼ります」
「次に、昼休みや放課後に校内で演説を行います」
説明は簡潔で、要点が明確。まるで研修のプレゼンみたいに無駄がない。
――その無駄のなさが、少し怖い。蓮は“正しい手順”の外側を嫌う。外側に出た瞬間に、何かに落とされると思っているみたいに。
「そして、クラスを回って、直接話をします」
「忙しくなるな」
桐谷会長が腕を組みながら呟く。
「大丈夫です。みんなが手伝ってくれるから」
蓮は微笑む。
ここで、ほんの一瞬だけ笑みが“本物”になる。肩が一ミリ、軽くなる。目の奥が少し温まる。
――よかった。今のは、蓮だ。
そう思った直後、蓮の視線が資料に戻り、笑みが“仕事の顔”に戻っていく。切り替えが速すぎて、温度差が残る。
「じゃあ、まずはポスター作りから始めよう」
俺が提案すると、蓮は頷いた。
「はい」
声が、少しだけ固い。
※ ※ ※
ポスター作りは、俺と蓮、そして凛音の三人で進めることになった。
テーブルの上に広げた画用紙、マーカー、カッター、のり。道具が揃うと安心する。作業は正直だ。やった分だけ形になる。
蓮はきっと、形が好きだ。形にできるなら、どれだけでも頑張れてしまう。形になれば、評価される気がするから。
「どんなポスターにしようか」
蓮が呟く。目は真剣。でも真剣の種類が違う。
考えているというより、頭の中で何かに採点されているみたいだ。見えない赤ペンが「弱い」「甘い」と線を引いていく。蓮はその線を、先回りして消そうとしている。
「蓮ちゃんの良さが伝わるものがいいね」
凛音が柔らかく笑った。
「蓮ちゃんは、真面目で、誠実で、みんなのことをちゃんと考えてる」
「そうだな」
俺も頷く。
蓮の良さなんて、山ほどある。言葉にする方が追いつかない。
「それをどうやってポスターで表現するか、だな」
三人で考え込む。静寂。集中。
その中で、蓮だけが時々、呼吸を止める。ほんの半拍。自分の案を出す前に、“許可”を取りに行くような間。
「あ、これはどう?」
凛音がスケッチブックを取り出し、ペンを走らせる。線が増えるごとに構図が立ち上がっていく。
「蓮ちゃんの笑顔を中心に置いて、周りに公約を書く」
「いいな」
俺は素直に感心した。
「じゃあ、俺は文字を担当するよ」
「私は?」
蓮が不安そうに問いかける。
「蓮は、公約の文章を考えてくれ」
「うん、分かった」
頷いた瞬間、蓮の目の奥にスイッチが入る。――“完璧に”のスイッチ。
たったそれだけで、背中が少し硬くなるのが分かる。
三人で作業開始。
凛音が似顔絵。俺がタイトルとレイアウト。蓮が公約の文章。
ペンの走る音、紙の擦れる音。そこに混じるのは、たまに漏れる凛音の小さな笑いと、蓮の短い息。
蓮は文章を一行書くごとに、指を止める。止めて、見直して、さらに止める。
「これでいい」ではなく「これなら落とされない」。そんな確認に見える。
そして修正を重ねるほど、言葉が研磨されて、角が立つ。美しいのに、冷たい。触れたら切れそうだ。
窓の外は群青に寄っていく。時計は夜七時手前。
「できた!」
凛音が声を上げた。
似顔絵は驚くほど蓮にそっくりで、柔らかな笑顔まで再現されている。
「すごい……蓮にそっくりだ」
「本当?」
蓮が覗き込んで、目を見開く。
「凛音ちゃん、すごい」
「まあ、趣味で描いてるから」
凛音が照れたように笑う。
俺の文字入れも終わっていた。
『鈴波蓮 みんなの声を、カタチに』
その下に、蓮の三つの公約。
「いい感じだな」
振り向くと桐谷会長が立っていた。
「ああ。三人で協力した甲斐があったよ」
俺が言うと、蓮がふっと笑う。
ここでまた一瞬、蓮の顔が“柔らかく”なる。肩が落ちる。目が少しだけ丸くなる。
――なのに次の瞬間、蓮はポスターを見つめ直して、唇を結ぶ。
「もっと良くできるはず」という顔だ。拍手をもらっても、合格点が出ない顔。自分の中の採点者が首を縦に振らない。
「明日、これを印刷して校内に貼ろう」
会長の言葉に、全員が頷いた。
※ ※ ※
会長と凛音が帰り、生徒会室に残ったのは俺と蓮だけ。
急に静かになる。静けさが、蓮の中の不安を引き上げるみたいだった。
蓮は椅子に座ったまま深く息を吐く。肩が小さく落ちる。
「疲れた?」
「うん……ちょっと」
正直な声。そこだけは柔らかい。
でも、その柔らかさの奥に、焦りが居座っている。
「これから、もっと忙しくなるな」
「そうだね」
俺は隣に腰を下ろす。
「大丈夫か?」
「うん……でも、正直、不安」
蓮は指先をいじりながら続ける。
「神崎くん、すごく人気があるし……私なんかが勝てるのかなって」
“勝てるかな”が、蓮の口から出ると別の意味を帯びる。
勝ち負けというより、“認められる/認められない”。“許される/許されない”。
俺はその理由を知らない。知らないまま、ただ胸が痛む。
「蓮」
俺はその手を取る。指先は冷たいのに、内側は熱い。
「蓮なら、できる」
「でも……」
「俺が、全力でサポートする」
蓮が顔を上げる。目が揺れる。揺れの中に、少しだけ救いを求める色が混じる。
「本当?」
「ああ。だから、一人で抱え込むな」
頭を撫でる。
その瞬間、蓮の肩がほんの少しだけ緩む。鎖が一コマ外れるみたいに。
――よし。ここで、蓮が呼吸できる。
「辛い時は、俺に言ってくれ」
「海斗……」
かすかに震える声。
そして、涙がこぼれる。
「ありがとう……」
蓮は俺の胸に顔を埋める。
この温度が、蓮の中の硬い何かを溶かしてくれればいい。
ただ、抱きしめながら分かる。溶けるのは一瞬で、すぐまた固まる。蓮は“楽になっていい”と思えない時がある。息を整えることすら、怠けに感じてしまうみたいに。
「海斗がいてくれて、本当によかった」
「俺も、蓮がいてくれてよかった」
しばらく黙って抱き合う。
窓の外の街灯が、ガラス越しに淡く差し込んでいた。
その光が、蓮の横顔に細い影を作る。影は薄いのに、妙に輪郭が濃い。俺は見なかったことにした。今は、蓮の呼吸を守る方が大事だ。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「明日から、演説の練習しなきゃ」
蓮が顔を上げる。
涙の跡を残したままなのに、目だけは決意の形をしている。
それが頼もしくて、同時に怖い。決意が“冷えた刃”になっている。折れないために、鋭くしている。
「昼休みに、中庭で演説するの」
「ああ、手伝うよ」
「本当?」
「もちろん。演説原稿も、一緒にチェックしよう」
蓮が微笑む。
この微笑みは、さっきより少しだけ温かい。
温かいのに、次の瞬間には「失敗できない」へ戻る。その戻りの速さが、やっぱり胸に引っかかる。
「ありがとう」
※ ※ ※
その夜。
俺は自室で、蓮から送られてきた演説原稿を読んでいた。
誠実で、まっすぐ。けれど堅い。丁寧すぎて、余白がない。
文章が、誰かに見せる前から“採点”を想定している感じがする。
蓮の人柄は本来もっと柔らかいのに、原稿の中の蓮は、鎧を着ている。
俺は電話をかけた。
「もしもし」
「海斗?」
疲れているはずの声が、俺の声を聞いた瞬間に少し軽くなる。
それだけで、胸が救われる。
「演説原稿、読んだよ」
「どうだった?」
「すごくいい。でも、少しだけ修正したほうがいいところがある」
「どこ?」
メモを取る音。速い。真面目だな、と思う。
その速さの理由までは、俺は気づかない。気づけない。
「ここは、もっと蓮らしい言葉にした方がいい。“皆様”より“みんな”の方が自然だと思う」
「あ、なるほど」
声がぱっと明るくなる。
ここだ。蓮はこの瞬間、鎧を一回脱げる。
「他にも、ここの部分は――」
一文ずつ指摘していく。蓮が笑いながら言葉を選び直す。
笑うたび、声が柔らかくなる。呼吸が深くなる。
“正しさ”より“伝わりやすさ”を優先した瞬間、蓮の言葉はちゃんと温度を持つ。
蓮自身も、それを分かっているのに――なぜか普段は、温度を削ってしまう。
気づけば一時間以上。
「できた!」
蓮が弾む声を出す。
「ありがとう、海斗。すごくよくなった!」
「どういたしまして」
「明日、この原稿で演説するね」
「ああ。頑張れ」
「うん」
通話が切れて、余韻だけが残る。
蓮の力になれたのが嬉しい。
それと同時に、蓮が“自分の言葉”で話すために、誰かの背中押しが必要になっている気がして、少しだけ胸が痛んだ。……でも、今は支える。それでいい。
※ ※ ※
三月三日。昼休み。
中庭は人で埋まっていた。春の光が差し込み、影が柔らかい。
その中で、蓮が台の上に立つ。手にはマイク。
俺は少し離れた木陰から見守っていた。凛音も隣にいる。
「みんな、こんにちは。二年B組の鈴波蓮です」
声が通る。明るい。昨日より良い。
ただ、マイクを握る指が少し白い。力が入りすぎている。
“失敗しない”ではなく、“間違えない”。そんな力だ。
「私は、生徒会長に立候補しています。今日は、私の公約について、もう少し詳しくお話ししたいと思います」
原稿を読み上げる。堅さはない。自然で温かい。
生徒たちの頷きが増える。耳の角度が変わる。目が上がる。聞く姿勢になっていく。
蓮の言葉が、届いている。
演説が終わり、拍手が湧き起こる。
その音が中庭に広がる。
蓮が台を降りる。表情には安堵と達成感。
――そして、ほんの一瞬だけ“まだ足りない”がよぎる。拍手を浴びても、自分の中の採点者が満点をくれない顔。
でも次の瞬間、蓮は深く息を吸い、笑顔を作る。作る、という言い方が正しい。慣れた手つきで、感情を整える。
「お疲れ様」
俺が声をかけると、蓮は笑った。
「ありがとう、海斗。原稿、すごくよかった」
「蓮がちゃんと伝えたからだよ」
頬が赤くなる。照れが出る。この照れは本物だ。
照れた瞬間、蓮の“鎧”に小さな隙間ができる。そこから温度が漏れる。
「よかったね、蓮ちゃん」
凛音が近づく。
「みんな、ちゃんと聞いてくれてた」
「ありがとう、凛音ちゃん」
手を握り合う。
蓮はこの瞬間だけ、評価の天秤を机の下に置ける。仲間の手の温度に、救われる。
「これからも、よろしくね」
「もちろん」
凛音が微笑んだ。
※ ※ ※
放課後。
俺と蓮は生徒会室で次の準備をしていた。
スケジュール、クラス訪問、演説の時間、必要資料。
項目を埋めていくほど、蓮の文字は整い、蓮の表情は硬くなる。
整うほど、逃げ道が消える。そういう種類の整いだ。
「明日は、一年生のクラスを回ろうか」
「うん。一年生の子たちにも、ちゃんと伝えたい」
「じゃあ、朝のホームルーム後にA組から順番に」
「分かった」
ペンが走る。迷いがない。
迷いがないのに、苦しそうだ。
「あと、昼休みの演説も続けよう」
「毎日?」
「ああ。継続が大事だ」
蓮が不安そうに眉を寄せる。
「大丈夫? 忙しくなるけど」
「大丈夫。俺がちゃんとサポートするから」
俺は手を握る。
「一緒に、頑張ろう」
「うん」
蓮が微笑む。疲れているのに、強さがある。
その強さは眩しい。眩しいのに、強さが“自分を追い詰める強さ”になってしまう時があるのが怖い。
だから俺は、余計なことは言わないで、ただ支える。少なくとも俺の前では、蓮が息をしていい場所にする。
窓の外の夕日が校舎を黄金色に染めていた。
沈む光の中で、二人の影が長く伸びる。
――選挙活動が、本格的に始まった。
これから先、きっと大変なことが待っている。
でも、大丈夫だ。俺が、蓮の隣にいる。
そう決めて、俺は蓮の横顔を見つめ続けた。
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