立候補した君を、俺は誰よりも応援してる
三月一日。蓮が生徒会長選挙への立候補を表明する日。
朝から、学校全体にどこか張り詰めた空気が流れていた。今日の昼休みに全校集会が開かれ、そこで立候補者たちが演説を行う。生徒会長選挙の「顔」を初めて全校に示す、立候補表明の演説。その第一歩だ。
俺はいつも通り教室で授業を受けていたが、黒板の文字は頭に入ってこない。ノートを取るふりをしながら、意識は何度も蓮の方へと引き戻されていた。
今頃、蓮はどんな気持ちでいるのだろう。昨夜は眠れたのか。緊張しているだろうか。不安を噛み締めているだろうか。
蓮は、頑張り方が少し極端だ。
手を抜かない、じゃない。抜けない。
人に頼るのが下手で、弱音を吐くのも遅い。どこかで「ちゃんとしなきゃ」を自分に言い聞かせて、限界の少し先まで踏み込んでしまう。
理由は分からない。ただ、そういう蓮を何度も見てきた。
窓の外を見ると、三月の空が広がっていた。まだ冬の冷たさを残しながらも、どこか柔らかな光が混じり始めている空。そのグラデーションを眺めていると、新しい季節がゆっくりと近づいているのを感じた。
チャイムが鳴り、午前中の授業が終わる。昼休み。いよいよ全校集会の時間だ。
校内放送が、いつもよりわずかに硬いトーンで流れる。
『これより、生徒会長選挙の立候補者による演説を行います。全校生徒は、体育館に集合してください』
放送が終わると同時に、生徒たちが一斉に動き出した。椅子の引かれる音、廊下に溢れる足音、ざわざわとした話し声。期待と好奇心と、少しの噂話が入り混じった空気が、学校中を満たしていく。
俺も教室を出て、体育館へ向かう。その途中、蓮のクラスの前を通りかかった。ちょうど蓮が廊下に出てくるところだった。
「蓮」
「海斗」
蓮は俺を見つけて、少しだけ肩の力を抜いたように微笑んだ。けれど、その笑顔はほんの少しだけ硬い。緊張がにじんでいる。
「大丈夫か?」
「うん……ちょっと、緊張してるけど」
蓮の指先がかすかに震えているのが分かった。
舞台に立つ前の震え――それだけじゃない気がした。胸の奥で何かを必死に押さえ込んでいるような、そういう震え。
俺は、自然とその手を取った。
「大丈夫。蓮なら、できる」
「ありがとう……」
蓮は俺の手を握り返してくる。その手は少し冷たい。冷たいけれど、その奥には確かな熱がある。
熱があるのに冷たいのは、きっと緊張のせいだ。そう考えることにした。今は、余計な詮索はしたくない。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ。頑張れ」
蓮は小さく頷くと、体育館の舞台裏へ向かって歩き出した。その後ろ姿を見送りながら、俺は心の中で祈るような気持ちになる。
――うまくいきますように。
※ ※ ※(蓮視点)
廊下の空気が、やけに薄い。
息を吸うたびに、胸の奥のどこかがきしむ。
大丈夫。大丈夫。
そうやって、声にならない声で自分に言い聞かせる。
でも、扉のガラスに映った自分の顔が、知らない人みたいに青白い。
笑ってるのに、目が笑っていない。――そういう顔だ。
舞台裏の暗さに足を踏み入れた瞬間、背中に冷たいものが貼りついた。
振り返らなくても分かる。いる。
“後ろ”に、いつもの気配がある。
黒いスーツ。完璧に整った髪。ヒールの音。
ここは学校なのに、なぜかリビングの匂いがした気がした。
――完璧に。
言葉じゃない。声でもない。
それでも私の体の奥まで届く「圧」だけが、そこにあった。
私は唇を噛む。
海斗には言えない。言ったら、きっと困らせる。
だから私は、ただ前を見る。
“ちゃんとやらなきゃ”。
その言葉だけが、私を立たせる鎖みたいに絡みつく。
※ ※ ※ (海斗視点)
俺も体育館に向かった。既に多くの生徒が集まっていて、次々と席が埋まっていく。体育館特有の反響するざわめきが、天井の高い空間いっぱいに広がっていた。
俺は空いている席に腰を下ろし、まっすぐ舞台を見つめる。
あの場所に、もうすぐ蓮が立つ。
蓮はきっと、今日も「ちゃんと」やり遂げる。そう信じている。……ただ、その「ちゃんと」が、蓮を苦しめる時があるのも知っている。
やがて照明が少し落とされ、ざわめきが自然と引いていった。
舞台に、桐谷会長が現れる。背筋を伸ばし、マイクの前に立つ。
「皆さん、こんにちは。生徒会長の桐谷です」
落ち着いた声が、マイクを通して体育館に広がる。
「本日は、生徒会長選挙の立候補者による演説を行います」
その言葉と共に、体育館の空気がぴんと張り詰める。
「今回の選挙には、二名の立候補者がいます」
二名。
俺は少し驚いた。蓮のほかに、もう一人立候補者がいるのか。
「一人目は、現副会長の鈴波蓮さんです」
名前が呼ばれた瞬間、舞台袖から蓮が姿を見せた。
体育館中から拍手が起こる。その拍手に包まれながら、蓮はゆっくりとマイクの前まで歩いていく。表情は緊張に強張っているが、瞳だけはまっすぐ前を見据えていた。
その歩き方が、どこか慎重だった。足元を確かめるみたいに一歩ずつ踏みしめていく。
――転ばないためじゃない。崩れないためだ。
マイクの前に立つと、蓮は一度だけ深く息を吸い込んだ。
息を吸う、その仕草がやけに丁寧で、まるで自分の中の揺れを整えるみたいだった。
そして、言葉を紡ぎ始める。
※ ※ ※(蓮視点)
ライトが熱い。
まぶしさで目が痛いのに、瞬きができない。
体育館の暗がりが、海みたいに広がっている。
その海の底、拍手の波の向こうに――立っている影が見えた。
最前列じゃない。
でも、どこよりもはっきり見える。
背筋が伸びている。
姿勢が完璧だ。
私の言葉を、値踏みするみたいに、冷たい目で見ている。
――それで勝てるの?
聞こえた気がした。
“私の中”から聞こえるのに、“私の声”じゃない。
怖い。
でも怖いと言った瞬間に、全部が終わる気がする。
だから私は、声を出した。
誰かのための言葉を、私自身のための鎧みたいにして。
※ ※ ※ (海斗視点)
「皆さん、こんにちは。二年B組の鈴波蓮です」
蓮の声が、体育館に響く。最初はわずかに震えていたが、それでもはっきりと届いてくる。
「私は、この度、生徒会長に立候補させていただきました」
その一言で、体育館がさらに静まっていく。
聞き慣れた友人の声が、今は「次の生徒会長候補」として響いている。
「私は、この一年間、副会長として活動してきました」
蓮の声が、少しずつ安定していく。
「体育祭、バレンタインイベント。多くのイベントを、皆さんと一緒に作ってきました」
蓮の視線が、体育館にいる生徒たちを一人ひとり確かめるように、ゆっくりと動いていく。
「その中で、私は学びました。一人では、何もできないということを」
言葉のトーンが、わずかに強くなる。
「でも、みんなで協力すれば、素晴らしいことができるということも」
蓮の言葉に、体育館のあちこちで頷く姿が見えた。
それは、実際にイベントを共に作ってきた生徒たちの反応だった。
「もし、私が生徒会長になったら……」
蓮は一度言葉を切り、息を整える。その目は、真っ直ぐだった。
「皆さんの声を、しっかりと聞きます」
体育館に響く声は、先ほどよりもずっと力強い。
「そして、皆さんと一緒に、この学校をもっと良くしていきたいと思います」
その言葉に、会場の空気がわずかに揺れる。前列の方から、自然と小さな拍手が起こり始める。
「具体的には、三つの公約を掲げます」
蓮が、指を三本立てて見せる。
「一つ目は、生徒の意見を反映する制度の確立です」
蓮の声が、はっきりと通る。
「皆さんの声を、もっと生徒会に届けられるように、意見箱の設置やアンケートの実施を行います」
前の方の生徒たちが、興味深そうに顔を見合わせているのが見えた。
「二つ目は、イベントの充実です」
蓮の目が、ほんの少し楽しげに輝く。
「体育祭やバレンタインイベントのような、楽しいイベントをもっと増やしたいと思います」
体育館のあちこちから、「それはいい」「楽しそう」という小さな声が漏れる。
「三つ目は、学習環境の改善です」
蓮の声色が、少し真剣さを増す。
「図書室の開館時間の延長、自習室の整備など、皆さんがもっと勉強しやすい環境を作りたいと思います」
具体的な言葉が並ぶたびに、生徒たちの表情が引き締まっていく。
「私は、一人では何もできません」
蓮の声が、少しだけ柔らかくなる。
「でも、皆さんと一緒なら、きっと素晴らしい学校を作れると信じています」
※ ※ ※(蓮視点)
「一人では何もできません」
そう言った瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。
“頼る”という言葉が、どこかで禁句みたいになっている。
口に出したら、罰が落ちてくる気がする。
暗がりの影が、笑った気がした。
――甘い。
そう言われたような気がして、背中が凍る。
でも、体育館の空気は私を拒んでいない。
拍手は、ちゃんとある。
その事実が、怖い。
温かいものを受け取るのが、怖い。
受け取ったら、失った時の痛みが増えるから。
それでも私は、言葉を続けた。
“完璧”じゃない私の言葉で、誰かの方へ手を伸ばすために。
※ ※ ※ (海斗視点)
蓮の声が体育館に響いた。最初はわずかに震えていたが、それでもはっきりと届いてくる。震えを隠すために声を張るのではなく、震えごと前に出して、言葉にしていく。
その姿が、妙に胸に刺さった。
「一人では何もできない」「みんなで協力すれば」
蓮の言葉は、きれいなスローガンじゃない。実際にやってきた人間の実感が混じっている。だから、体育館の空気が少しずつ“聞く空気”に変わっていった。
蓮は、もう一度体育館全体を見渡した。
「どうか、私に、皆さんの学校生活をより良くする機会をください」
頭を下げた瞬間、拍手が巻き起こる。
蓮が顔を上げる。目がうっすらと潤んでいる。
俺は、手が痛くなるくらい拍手を送った。
――よくやった。蓮。
「では、二人目の立候補者です」
桐谷会長の声が、再び体育館に響いた。
「一年A組の神崎優馬くんです」
その名と共に、舞台に一人の男子生徒が現れる。
神崎優馬。背が高く、整った顔立ち。制服の着こなしもきちんとしていて、一年生ながら既に目立つ存在だ。クラスでも人気があり、成績も優秀だと聞いている。
神崎がマイクの前に立つ。その表情には、自信が滲んでいた。
「皆さん、こんにちは。一年A組の神崎優馬です」
神崎の声が体育館に響く。落ち着いていて、堂々とした話し方。声の通りもいい。
「私も、この度、生徒会長に立候補させていただきました」
神崎の言葉に、体育館が再び静まる。
「鈴波さんの演説、素晴らしかったですね」
神崎は、爽やかな笑みを浮かべた。その笑顔に、前列の女子生徒たちが小さく囁き合う。
「でも、私には、もっと大きなビジョンがあります」
神崎の声に、力がこもる。
「この学校を、県内で一番の学校にする」
その言葉に、体育館がざわめいた。
蓮の演説とは違う方向性――より“上”を目指す、野心的な言葉だった。
「そのために、私は三つの改革を行います」
神崎が、蓮と同じように指を三本立てる。
「一つ目は、学力向上のための補習制度の確立」
神崎の声が、はっきりと響く。
「二つ目は、部活動の強化」
「三つ目は、進学実績の向上」
神崎の公約。その一つ一つが、壮大で、野心的だ。
目指すのは「学校全体の格上げ」。そんな印象を受ける。
「私は、この学校を変えます」
神崎の声が、体育館に響く。
「どうか、私に、この学校を改革する機会をください」
神崎は、蓮と同じように深く頭を下げた。
神崎の言葉は分かりやすかった。強い。でかい。上を目指す。改革する。
拍手は起きる。ざわめきも起きる。
ただ、蓮の拍手と同じ種類の熱じゃない。俺にはそう聞こえた。
熱の形が違う。蓮は“近い熱”。神崎は“遠い熱”。そんな印象だった。
全校集会は終了した。
※ ※ ※
生徒たちがざわざわと戻っていく。
「どっちに入れる?」「鈴波先輩よくね?」「いや、神崎もすごくない?」
そんな声が飛び交う。選挙が始まったんだと、耳が勝手に理解してしまう。
俺はすぐに席を立ち、蓮を探した。舞台裏へ向かう。
そこに、蓮がいた。壁にもたれかかって、深く息を吐いている。
さっきまでの堂々とした姿が嘘みたいに、肩が小さく見える。
「蓮」
「海斗」
蓮は俺を見つけて、安心したように微笑んだ。その笑顔には、はっきりと疲れの色が滲んでいる。
「お疲れ様。すごくよかったよ」
「本当?」
「ああ。蓮の演説、心に響いた」
そう言った瞬間、蓮の目に涙が溜まり、そのままぽろりと溢れた。
「よかった……」
蓮は堪えきれないように俺の胸に飛び込んできた。その身体が、細かく震えている。
※ ※ ※(蓮視点)
胸に顔を埋めた瞬間、やっと息ができた気がした。
海斗の体温は、私の中の冷たい鎖をほどくみたいに温かい。
でも――背後が、冷える。
海斗の肩越しに、見えた。
舞台袖の暗がりに、黒い影が立っている。
私を見ている。
抱きしめられて泣いている私を、許さない目で見ている。
――泣く時間があるなら、次を考えなさい。
そんな言葉が、鼓膜じゃなく骨に響く。
私は震えを止めるために、海斗の服を強く掴んだ。
これを言ったら、海斗は驚く。
心配する。怒るかもしれない。
でも、それは私の望む形じゃない。
だから私は、笑う。
“緊張しただけ”の顔を作って、全部を飲み込む。
※ ※ ※ (海斗視点)
「すごく緊張した……足、ずっと震えてた……」
「でも、最後までやり遂げた。よく頑張ったよ」
俺は蓮の背中に手を回し、ゆっくりと撫でる。
この震えは、緊張の名残だ。――たぶん。
そう思いながらも、胸のどこかがざわつく。蓮は、必要以上に自分を追い込む時がある。今日の震えが、それの延長線に見えてしまう。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「神崎くん……すごかったね」
蓮の声が少しだけ不安を含んでいた。
「ああ」
「私、勝てるかな……」
蓮の声が、だんだん小さくなっていく。
勝ち負けの話にしては、怖がり方が深い。
まるで、結果ひとつで何か大切なものが壊れると信じているみたいに。
「大丈夫。蓮の演説は、素晴らしかった」
俺は蓮の頭をそっと撫でた。
「神崎の演説は、確かにすごかった。でも、蓮の演説には、蓮らしさと、みんなへの想いがちゃんとあった」
「海斗……」
「蓮の言葉は、みんなの心に届いたよ。少なくとも、俺にはしっかり届いてた」
蓮は小さく頷いた。
その頷きが、安心なのか、覚悟なのか、俺には判別できない。どっちも混ざっている気がした。
「ありがとう……」
蓮は顔を上げる。その目にはまだ不安が残っているけれど、その奥には確かな決意も宿っていた。
「これから、もっと忙しくなるね」
「ああ」
「でも、頑張る」
蓮の目に強い光が宿る。
その光が眩しい。――同時に、少しだけ怖い。
頑張り方を間違えると、蓮は自分の心まで削ってしまうから。
「海斗が、支えてくれるから」
「ああ、もちろん」
俺は蓮に顔を近づけて、軽くキスをした。短く、優しく。
キスが終わると、蓮は恥ずかしそうに俺の胸に顔を埋めた。
「もう……こんなところで」
「誰もいないから、大丈夫だろ」
「もう……」
蓮は俺の胸をぽすんと軽く叩いた。でも、その仕草はどこか嬉しそうだ。
――言わなきゃいけないのは、これだ。
理由は分からない。蓮が何に縛られているのか、俺にはまだ見えていない。
でも、蓮が一人で抱え込みがちなことだけは、知っている。
「蓮」
「ん?」
「立候補した君を、俺は誰よりも応援してる」
評価じゃない。条件でもない。
ただ、味方だっていう宣言。
「……うん」
蓮が小さく頷く。その声が、少しだけ軽くなった気がした。
「勝つのも大事だ。でも、無理して壊れるのだけは、絶対ダメだ」
「……うん」
「蓮は、蓮のままでいい。今日みたいに、届く言葉で勝とう」
蓮の目から、また小さな涙が落ちた。
それが何の涙か、俺にはまだ分からない。
ただ、今は拭ってやりたかった。
選挙が、始まった。
これから忙しくなる。大変なことも、きっとたくさんあるだろう。
でも、大丈夫だ。
俺が、蓮の隣にいる。
その決意を胸に、俺は蓮をしっかりと抱きしめ続けた。
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