母の娘であるために
生徒会選挙の準備が、本格的に動き始めた頃。
私は、自宅のリビングでパソコンに向かっていた。
生徒会長選挙のスピーチ原稿――これが、私の未来を決める言葉になる。たった数分の演説に、評価も、投票も、期待も、失望も詰め込まれる。そう思うだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
画面の中の白いページに、文字が一行ずつ並んでいく。
けれど、何度読み返しても納得できなかった。言葉は整っているのに、どこか薄っぺらい。どこか“きれいに収まりすぎて”いる。正しい文章のはずなのに、心だけが置き去りになる。
――響かない。
その一言が、頭の中で何度も反響する。削って、足して、整えて、また読み返す。けれど、読み返すほどに「上手に見えるだけの文章」になっていく気がして、焦りが増した。
時計を見ると、夜の十時を回っていた。
肩が重く、目が痛い。乾いたまばたきのたびに、瞳の奥が熱を持つ。それでも指は止まらない。止めた瞬間に、何かが崩れる気がした。
――もっと良くしなければ。
――完璧に仕上げなければ。
そんな焦燥だけが、背中を押していた。背中を押すというより、逃げ道を塞ぐみたいに。
その時、玄関のドアが開く音がした。
カツン、カツン。
廊下を渡るヒールの音が、静まり返った家に響く。リビングの空気が、音だけで固くなる。
母が、帰ってきた。
リビングのドアが開く。
母は黒のスーツに身を包み、まるで仕事の延長線上に立っているような気配を纏っていた。完璧な姿勢。疲労の影など微塵もない。外の寒さも、夜の時間も、この人の輪郭を曇らせない。
「ただいま」
冷たい声。
それは、母の“いつもの声”だった。家庭の温度ではなく、評価の温度。
「おかえりなさい」
私は振り返って、小さく頭を下げた。
母の視線が、すぐに私の机の上を捉える。その目が、画面の文字を素早く追う。読む、というより査定する速度だった。
「まだ起きてるの?」
「はい。スピーチの原稿を作ってて……」
母は黙って近づいてきた。
ヒールの音が床を冷たく打つ。一歩ごとに距離が詰まっていくのに、私は椅子から動けない。
そして、私の隣に立ち、無言で画面を覗き込む。
心臓が、ぎゅっと縮まる。息が浅くなる。喉が乾く。
母が何を思うのか――その瞬間を、私はただ待っていた。待つしかなかった。
沈黙。
長い沈黙。
時計の秒針の音が、やけに大きく響く。カチ、カチ、と数えるたびに、私の背中が固くなる。
「……これ、本気で書いてるの?」
母の声は低く、氷のように冷たかった。
「え?」
「この内容で、生徒会長になれると思ってるの?」
言葉が出てこない。
母は椅子を引き寄せ、私の向かいに腰を下ろした。向かい、というより“対面審査”の位置。逃げ道を計算した座り方だった。
「甘いわね」
その一言が、胸に突き刺さる。痛いのに、血が出ない。だから余計に抜けない。
「『みんなで協力して』『楽しい学校に』――そんな綺麗事、誰だって言えるわ」
母は画面を指差しながら、淡々と続けた。
淡々としているのに、言葉の刃だけが正確に刺さる。論理の形をした断罪。
「生徒会長選挙は戦いよ。理想じゃなく、勝つか負けるか」
「……戦い、ですか?」
「そう。勝者だけが正義になるの」
私は何も言えなかった。反論の言葉を探す前に、喉が締まっていく。
「完璧なスピーチ。完璧な政策。完璧な実績。――それがなければ、あなたはただの理想論者で終わる」
母の声が金属のように響く。
“完璧”という単語が、褒め言葉ではなく条件として落ちてくる。満たせなければ失格だと告げる条件。
「あなた、分かってるの? 私は、生徒会長だった。あなたも、そうなるべきなのよ」
息が詰まる。
胸の奥を、冷たい手で握られたようだった。握られているのは心臓じゃない。“選択肢”だ。
「それが、私の娘としての責任よ」
母の目が、まっすぐ私を貫く。
逃げ場など、どこにもない。逃げれば“責任放棄”になる。そう定義されてしまう。
でも――
その時、私は小さく息を吸い、勇気を振り絞った。怖い。それでも、このまま全部を母の言葉で塗り替えられるのは、嫌だった。
「お母さん、でも……私は――お母さんじゃない」
その瞬間、母の表情が変わった。
冷たい瞳が、氷のように鋭く光る。空気が一段凍るのが、肌で分かった。
「何ですって?」
「私は、私なりのやり方で頑張りたいの」
声は震えていた。けれど、確かに自分の意志で放った言葉だった。
ここで引いたら、きっと一生引く。そんな恐怖も混じっていた。
「お母さんと同じようには、できないかもしれない。でも……」
「蓮」
母の声が、低く響く。
たった一言で、空気が凍った。名前を呼ばれるだけで、私は“娘”の立場に戻される。
「『お母さんと同じようにはできない』? ――それは、ただの言い訳よ」
母の視線が私を睨みつける。
言い訳。努力不足。甘え。そう切り分けられた瞬間、私の言葉は価値を失う。
「できないんじゃない。やらないの。努力が足りないだけ」
「……違う」
「違わない!」
母の手がテーブルを叩いた。乾いた音が部屋に響く。
音の余韻が消える前に、私の心の中の何かが小さく折れた。
「私はあなたの年齢の時、全てを完璧にこなしていた。生徒会長、トップの成績、部活動――すべてよ」
母の声は、もはや感情ではなく“正論の刃”だった。
正論だから、反論すると自分が悪者になる。そういう仕組みの刃。
「誰にも頼らず、誰にも甘えず。だからこそ、私は今こうして成功している。社会は、甘えを許さないの」
母は立ち上がり、私を見下ろした。
その姿は、まるで“理想”そのものの形をしていた。私が追いつけない高さから、当然のように命じてくる理想。
「あなたも、そうしなさい。完璧でありなさい」
「……お母さん」
「生徒会長選挙で勝つ。それが、あなたの責任」
母の言葉は、命令のように響いた。
「もし負けたら――私は、あなたを娘として誇れない」
その言葉が、胸の奥に焼き付いた。
痛みでも悲しみでもない。もっと深く、冷たい何か。
“愛情の条件”を突きつけられた冷たさだ。
「……分かりました」
小さな声で、私は答えた。
それしか言えなかった。言えたとしても、届かないと分かっていた。
「スピーチ、全部書き直しなさい」
母が踵を返す。
「もっと強く。もっと理論的に。そして、完璧に」
その背中に、私はただ「はい」とだけ答えた。
返事の音が、自分の中で虚しく響く。
ドアが閉まる音がした。
再び、静寂が訪れる。けれど、それは安心の静寂じゃない。監視が去ったあとの、独りの処刑場みたいな静寂。
私はパソコンの画面を見つめた。
母の言葉が、脳裏で反響している。
『結果が全て』
『完璧にこなしなさい』
『私の娘として恥ずかしくないように』
指先が震える。
マウスを動かし、原稿を全て選択して――削除した。
画面が真っ白になる。
まるで、自分の心を写したように。
“私の言葉”が消えた。残ったのは、母の望む型だけ。
もう一度、最初から書かなければ。
完璧に。誰にも負けないように。
母に、認められるように。
それが、“娘としての義務”だから。
涙がにじんでも、拭かない。
泣く時間があるなら、キーボードを叩け。
――母の声が、心の奥から響く。母がいなくなっても、母は消えない。
私は再び指を動かした。
パチン、パチン。冷たい音。
深夜のリビングで、ひとり、言葉を打ち込む。
まるで、母の影と戦うように。
そして、その呪縛の中で、私は“完璧”を目指し続けた。
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