バレンタインの夜
蓮のマンションに着いたのは、夜の六時を過ぎた頃だった。
エレベーターのドアが閉まると、蓮は俺の腕にしがみついてきた。制服の袖を握りしめる指先に、きゅっと力がこもる。一日の緊張と疲労のせいだろう、蓮の身体はかすかに震えていた。けれど頬には満足げな紅みが差し、唇には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「疲れた?」
「うん……でも、いい疲れ」
蓮は俺の肩に頭を預けた。髪から、ほのかに甘いシャンプーの香りが漂う。その重みを受け止めるように、俺は蓮の肩を抱いた。
エレベーターの中には二人だけ。静寂の中で、機械音だけが規則正しく響く。蓮の吐息が首筋に触れ、その温度が妙に心地いい。
「今日、本当にうまくいったね」
「ああ。蓮のおかげだ」
「ううん……みんなのおかげ」
蓮が見上げてくる。瞳が潤んでいた。疲労と感動が入り混じったその表情に、胸の奥がきゅっと締まる。
エレベーターが止まり、廊下に出る。蓮の部屋のドアの前で、蓮が鍵を取り出した。手が少し震えている。緊張なのか、疲れなのか――たぶん、どちらもだ。
鍵穴に差し込む金属音が、静かな廊下に小さく響く。ドアノブが回され、ゆっくりと扉が開いた。
「ただいま……」
誰もいない部屋へ、蓮が小さく呟く。少し寂しげな声。けれどすぐに振り返り、俺を見つめる目は優しかった。
「おかえり」
俺が返すと、蓮の表情がぱっと明るくなる。その変化が、どうしようもなく愛おしい。
「お邪魔します」
「うん……どうぞ」
部屋に入ると、広いリビングが広がっていた。窓の外には東京の夜景。高層ビルの明かり、街灯、車のヘッドライト――無数の光が冬の夜を照らし、宝石を散りばめたみたいだ。
「綺麗だな」
「うん……でも、いつも一人で見てると、寂しくて」
蓮の声がわずかに震えた。その孤独を掬い取るように、俺は蓮の手を握る。
「今日は、一人じゃない」
「うん」
嬉しそうに微笑む蓮が、夜景の光に照らされて綺麗だった。
「飲み物、持ってくるね」
「ああ、ありがとう」
蓮がキッチンへ向かう後ろ姿を見送り、俺はソファに腰を下ろした。柔らかなクッションが身体を包み込む。窓の外を眺めていると、今日一日のことが鮮明に蘇る。朝の緊張、昼のチョコレート配布、放課後のパーティー。蓮の笑顔、涙、必死な背中――全部が、胸の奥に残っている。
カップとカップが触れ合う、陶器のやさしい音がキッチンから聞こえる。やがて紅茶の香りが、ゆっくりとリビングを満たした。アールグレイだろうか。甘くて落ち着く匂いだ。
「お待たせ」
蓮がティーカップを二つ持って戻ってきた。湯気が間接照明に照らされ、ふわりと揺れて幻想的に見える。
「ありがとう」
受け取ったカップから手のひらに温かさが伝わる。一口飲むと、優しい甘さが口の中に広がった。
「美味しい」
「よかった」
蓮が隣に座る。いつもより近い。太ももがそっと触れ、その感触が制服越しでも分かった。
二人で紅茶を飲みながら夜景を見る。沈黙――でも、心地いい。言葉がなくても、確かな温度が二人の間を流れている。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今日、本当にありがとう」
潤んだ目で見つめられる。
「俺は、何もしてないよ」
「ううん、してる」
蓮はカップをテーブルに置き、俺の手を両手で包み込んだ。温かい。まるで紅茶の熱が、そのまま移ったみたいだ。
「海斗がいなかったら、私……きっと途中で挫けてた」
震える声。涙が一筋、頬を伝った。
「でも、海斗が支えてくれたから……隣にいてくれたから……」
言葉が途切れ、唇が小さく震える。
「私、頑張れた」
俺はカップを置き、蓮を抱きしめた。腕の中の身体がかすかに震える。
「蓮、よく頑張ったな」
頭を撫でる。指の間をすり抜ける髪はさらさらで、柔らかい。
「ありがとう……」
吐息がシャツ越しに肌を撫でた。
しばらく抱き合う。時計の秒針が規則正しく時を刻み、窓の外では街の光が瞬いている。でも今は、そんなもの全部どうでもよかった。ここにある温度だけが、すべてだった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「チョコレート……ちゃんと渡したいな」
顔を上げた蓮の頬が赤い。照明のせいだけじゃない、恥じらいと期待が混じった紅潮。
「ああ、楽しみにしてる」
「待ってて……」
蓮は腕の中から離れ、立ち上がって自室へ向かった。後ろ姿を見送るだけで胸が高鳴る。期待、緊張、そして愛おしさ。
リビングに一人。窓の外の夜景と街の喧騒――なのに、ここだけが静かだ。蓮を待つ時間さえ、愛おしい。
やがてドアが開く音がした。蓮が戻ってくる。手には綺麗にラッピングされた箱。リボンが光を受けてきらりと瞬いた。
「これ……」
恥ずかしそうに箱を差し出す蓮。頬はさらに赤く、唇を噛んで俺の反応を待っている。その仕草が初々しい。
「手作りなの……海斗のために、何度も作り直して……」
声が小さくなる。目が不安そうに揺れる。
箱を受け取る。意外と重い。その重さが、蓮の想いの重さみたいに感じられた。
「開けていい?」
「うん……」
小さく頷き、視線が俺の手元に釘付けになる。
リボンを解く音。包装紙が擦れる音。一つ一つが、蓮の期待を膨らませていく。
箱の蓋を開けた瞬間、甘い香りが溢れ出した。ココア、バニラ、そして微かにオレンジ。鼻腔をくすぐる。
中には手作りのチョコレート。ハート型のトリュフが整然と並び、表面にはココアパウダー。小さなハートまで描かれている。
「すごい……」
思わず呟いた。綺麗で、丁寧で、言葉を失う。
「綺麗だ……蓮、これ全部……」
「うん……全部、海斗のために」
嬉しそうなのに、不安がまだ残っている声。
「味は……まだ分からないけど……」
「食べてみていい?」
「うん」
一つ手に取る。滑らかな感触。口に入れると最初は少し硬いが、すぐ体温で溶け始める。
舌の上で溶けていく瞬間、濃厚な味が広がった。甘さと苦さ、微かな酸味が綺麗に調和している。噛むと甘みが溢れ、クリーミーで滑らかな口どけがたまらない。
「美味しい……」
心からそう言った。お世辞じゃない。本当に美味しい。
「すごく美味しい。蓮、これ……プロみたいだ」
「本当?」
瞳が輝き、涙が溢れる。幸せの涙だ。
「本当に?」
「ああ。嘘じゃない」
蓮が堪えきれず胸に飛び込んできた。身体が震えている。
「よかった……」
嗚咽混じりの声。
「何度も失敗して……何度も作り直して……」
涙がシャツを濡らす。でも、気にならない。
「海斗に、美味しいって言ってもらいたくて……」
背中を掴む指に力が入る。
「海斗に、喜んでもらいたくて……」
全部が、このチョコに詰まっている。そう思うと胸が熱くなった。
「ありがとう、蓮」
強く、でも優しく抱きしめる。
「すごく嬉しい。こんなに嬉しいバレンタイン、初めてだ」
「海斗……」
涙で濡れた瞳が、それでも輝いている。
「愛してる」
その言葉が胸に染み込む。
「俺も、愛してる。蓮」
唇を重ねた。優しく、ゆっくりと。涙の味がするのに、それさえ愛おしかった。
蓮の手が首に回り、身体が寄り添ってくる。呼吸が近い。言葉が要らない距離。
キスが終わると、蓮は恥ずかしそうに胸へ顔を埋めた。耳まで真っ赤だ。
「海斗……」
「ん?」
「私の部屋……行こ」
か細い声。でも、確かな意志がある。
心臓が強く鳴った。
「ああ」
蓮が手を引く。温かい。でも少し湿っている。緊張しているのだろう。
廊下を歩く足音が静かに響く。蓮の部屋のドアの前で、蓮は立ち止まった。
ドアノブに手をかけ、ゆっくり回す。カチャリと音がして扉が開く。
部屋の空気が流れ込み、蓮の香りがふっと濃くなる。シャンプー、香水、そして彼女自身の匂い。
蓮は振り返り、期待と不安が混じった目で俺を見た。
「海斗……」
震える声。
俺は言葉の代わりに、蓮を抱きしめた。腕の中の身体が熱い。
「もっと……海斗を感じたい」
その一言で、理性がほどける。
「ああ」
もう一度、唇を重ねた。さっきよりも深く、互いの熱を確かめ合うように。
言葉は少なく、呼吸だけが近くなる。
そして――その先は、二人だけの時間として静かに夜へ溶けていった。
※ ※ ※
どれくらい、そうしていただろう。
気づくと時計の針は深夜十二時を指していた。バレンタインデーはもう終わっている。でも、俺たちの時間はまだ続いている。
蓮は俺の腕の中にいた。身体は温かく、少し汗ばんでいて、髪が頬に張り付いている。その様子が妙に色っぽい。
頭が胸に預けられ、その重みが心地いい。吐息が肌を撫で、規則正しい呼吸の音だけが静かな部屋に響いている。
二人ともしばらく言葉を交わさなかった。ただ互いの体温を確かめ合う。それだけで十分だった。
窓の外を見ると街の光がまだ輝いている。けれど少しずつ、その数は減っていく。深夜。人々が眠りにつく時間。
「ねえ、海斗」
掠れた声。
「ん?」
「幸せ……」
甘い響きが胸に沁みる。
「俺も」
「今日、最高のバレンタインだった」
蓮が顔を上げる。満ち足りた光を湛えた目。
「イベントも成功して……海斗とこうして一緒にいられて……」
また胸に顔を埋める。
「これ以上の幸せはないよ」
「俺も、同じだ」
背中を撫でる。線も曲線も、全部が愛おしい。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒だよね」
不安が滲む声に胸が締め付けられる。
「ああ、もちろん」
はっきり答えた。迷いはない。
「どんなことがあっても、俺は蓮を離さない」
「海斗……」
また涙が溢れる。でもそれは、幸せの涙。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
強く抱きしめる。ぴったりと、隙間がないくらいに。
「愛してる、海斗」
「俺も、愛してる。蓮」
抱き合ったまま時間が過ぎていく。蓮の部屋。二人だけの世界。
窓の外では街の光が一つ、また一つと消えていく。深夜がさらに深まっていく。
でも、この部屋だけは温かい。蓮の温もりが、すべてを満たしている。
やがて、蓮の吐息が規則正しくなった。眠ったのだろう。寝顔を見つめながら、俺は静かに幸せを噛み締めた。
幸せな、バレンタインの夜だった。
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