二月十四日、君と描いた愛の結末
二月十四日。バレンタインデー。
朝。
目を覚ますと、窓の外には真っ青な空が広がっていた。冬の空は高く、色は冷たいのに、どこか祝福みたいに澄んでいる。透明な空気が街の輪郭をくっきりと縁取って、雲ひとつない“出来すぎた朝”を作っていた。
胸の奥が、勝手に跳ねた。
今日は特別な日だ。
生徒会が準備してきたバレンタインイベント。そして――蓮からのチョコレート。
ベッドから起き上がると、時計はまだ六時半を指していた。早い。けれど、もう眠れない。期待と緊張が絡まり合って、心の置き場が見つからない。頭は冴えているのに、落ち着いているふりができない。そんな朝だった。
シャワーを浴び、制服に袖を通す。濡れた髪を拭きながら鏡の前に立つと、自分の目だけがやけに真剣に見えた。
「今日は、ちゃんとして行こう」
口にすると、気持ちの背筋が少しだけ伸びる。小さな決意が、胸の内で火種みたいに灯った。
朝食を済ませ、外に出る。冷たい空気が肌を刺すが、不思議と嫌じゃない。むしろ、頬が引き締まる感覚が“始まり”を告げてくれる。通学路はまだ静かで、街は朝の光に淡く染まっていた。
いつもより早く家を出た。理由なんて決まっている。――早く、蓮に会いたいから。
学校へ向かう途中、ポケットの中のスマホが震えた。画面には蓮からのメッセージ。
『おはよう、海斗。今日、よろしくね。緊張してるけど、頑張る。会えるの、楽しみにしてる。大好き。』
短い言葉。けれど、それだけで心が温かくなる。声が聞こえる気がする。震えも、笑いも、今の彼女の全部が行間に詰まっている。
『おはよう、蓮。大丈夫。絶対成功するよ。俺も会えるの楽しみにしてる。愛してる。』
返信を送ると、すぐにハートマークのスタンプが返ってきた。たったそれだけなのに、今日という一日が確かに動き出した気がした。
※ ※ ※
学校に着いたのは、朝の七時半。人の少ない昇降口には柔らかな陽光が差し込んで、床に長い影が伸びていた。廊下を抜け、生徒会室のドアを開けると――そこに、蓮がいた。
「海斗」
振り向いた蓮が、ふわりと微笑む。制服のリボンを整える仕草さえ、どこか慎ましくて可愛い。普段なら当たり前の光景なのに、今日は妙に胸に刺さる。今日の蓮は、きっと“特別な蓮”だからだ。
「おはよう、蓮」
「おはよう」
蓮が駆け寄ってきて、俺の腕に自分の腕を絡める。あたたかい。体温が触れただけで、心臓が余計な仕事を始める。
「早いね」
「海斗も」
「眠れなくて」
「私も」
二人で笑い合う。笑うたび、胸の奥の硬さがほぐれていく。準備、段取り、責任――そういう言葉が頭の中を占めていたはずなのに、今はただ、彼女の笑顔が一番大きい。
「緊張してる?」
「うん、すごく」
蓮の手が少し冷たい。指先がかすかにこわばっている。俺はその手を包み込み、そっと握った。力は入れない。ただ“ここにいる”と伝えるために。
「大丈夫。俺がいる」
「ありがとう、海斗」
蓮は俺の胸に顔を埋めた。柔らかな髪が制服の胸元をくすぐる。しばらく、静かな抱擁の時間が流れる。窓から射し込む光が、二人の影を重ねていた。言葉がなくても、互いの呼吸がちゃんと同じ速度になっていく。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今日が終わったら、私の部屋に来てね」
「ああ。約束したろ」
「うん。チョコレート、ちゃんと渡したいから」
頬を赤らめて微笑む蓮に、俺は軽く頷く。その笑顔が、何よりのエネルギーになる。今日一日、崩れそうになった時の支えになる。
「楽しみにしてる」
「……ありがとう」
そして蓮が背伸びして、俺の唇にそっと触れた。朝の光の中で交わす静かなキス。熱じゃなく、温度。派手じゃなく、確かさ。――夢みたいに優しい。
「今日、頑張ろうね」
「ああ」
蓮の声が、まっすぐ心に染み渡った。
※ ※ ※
昼休み――中庭はすでに人でいっぱいだった。冬の陽射しを受けた白いテントが淡く輝き、会場の輪郭を際立たせている。ここが、チョコレート配布イベントの舞台。空気が少しだけ甘い。誰かが持ってきたチョコの匂いが、風に乗って漂っているのかもしれない。
「お疲れ様です!」
「あ、春川くん。お疲れ様」
藤崎書記が笑顔で手を振る。隣では野村会計が箱を抱え、テーブルに並べていた。段ボールの角が擦れる音、テープが剥がれる音、紙の擦れる音。準備の音が、やけに頼もしい。
「これ、全部チョコレート?」
「はい。二百十五個です」
その数に、思わず息を呑む。二百十五。数字にすると現実味がある。それは“配る物”というより、誰かの勇気の集合体だ。
そこへ蓮が現れた。リストを手に、いつものようにきびきびと動く。視線は迷わない。指示は短く的確。――けれど頬には、わずかに緊張の色が残っていた。責任の重さは、隠しても滲む。
「みんな、準備はどう?」
「順調です」
「それは、よかった」
蓮は一度息を吐き、微笑んだ。たったそれだけで場の空気が少し柔らかくなる。彼女の“安心させる力”は、こういうところにある。
「じゃあ、始めましょう」
十二時半。
バレンタインイベントが、ついに始まった。
マイクを持った藤崎が明るく声を張り上げる。名前を呼ばれた生徒たちが一人ずつ前に出て、チョコレートを受け取っていく。笑顔と笑い声が中庭を包み込み、冬の風さえどこか甘く感じた。
俺もリストを確認しながら、チョコを手渡していく。包装紙のカサッという音、受け取る指先の一瞬の触れ合い。小さなやりとりが、確かな“青春”を積み上げていく。
――そんな時、藤崎が不意に声を上げた。
「三年C組、春川海斗くん!」
「え?」
思わず顔を上げる。会場の視線が一斉にこちらへ向いた。空気が一瞬、止まる。冗談だろ、と思う間もない。
「春川くんにもチョコが届いてますよ」
「俺に?」
「はい。受け取ってください」
藤崎が、小さな箱を差し出した。リボンだけが飾られた控えめな包装。差出人の名前はない。なのに、重い。手に取った瞬間、理由の分からない緊張が喉に引っかかった。
蓮を見ると、彼女は真っ赤な顔で目を逸らしていた。
――もう、わかっていた。
箱を開けると、手作りのチョコレートが入っていた。丁寧に整えられた形。揃った表面。目で見ただけで、時間をかけたことが分かる。
そして、小さなカード。
『海斗へ。今日はありがとう。夜、私の部屋でちゃんと渡すね。 蓮より』
その一文を読んだ瞬間、胸の奥がふっと満たされた。手の中の甘さ以上に、彼女の想いが甘い。周りのざわめきが遠くなり、心臓の鼓動だけが近くなる。
「ありがとう、蓮」
目が合うと、蓮が小さく頷く。恥ずかしさと嬉しさが混ざった、その仕草がどうしようもなく愛おしい。
イベントは順調に進み、やがて最後の一箱が手渡される。拍手が起こり、笑顔が広がる。冬の空の下、そこにあったのは――純粋な「青春」そのものだった。
※ ※ ※
放課後。
体育館の扉を開けた瞬間、温かなざわめきが溢れ出た。
ピンクと白の装飾が光を受けて揺れ、昨日自分たちが設営したその景色が、まるで夢の舞台みたいに見えた。整えたはずの装飾が、今は“人の熱”を受けて生き物みたいに息づいている。
軽快な音楽。
お菓子の甘い香り。
笑顔で談笑する生徒たち。
そのすべてが、努力の証だ。
「海斗」
振り向くと、蓮が立っていた。瞳には、涙の光が宿っている。灯りを反射して、きらりと揺れる。
「すごいね……大成功だよ」
「うん。蓮が頑張ったからだ」
「ううん。みんなのおかげ。そして、海斗のおかげ」
蓮が俺の手を握る。温かく、柔らかく、そして少しだけ強い。支えてほしいのに、同じくらい支えたいと思っている手だった。
「海斗が支えてくれたから、私はここまで来られたの」
「蓮……」
「ありがとう」
頬を伝う涙を、俺は指で拭った。悲しみの涙じゃない。報われた努力の証だ。――その事実が、余計に胸を熱くする。
ステージでは藤崎の明るい司会の声が響く。笑い声と拍手が交錯する中、俺と蓮は静かに見つめ合った。周りが賑やかなほど、二人の間の静けさがくっきりする。
「楽しいね」
「ああ」
「バレンタインパーティー……本当にやってよかった」
「そうだな」
照明の光が、蓮の髪に反射してきらめく。その美しさに、言葉が追いつかなかった。言葉にした瞬間、崩れてしまいそうな“今”がそこにあった。
パーティーが終わる頃には、窓の外の空が橙に染まっていた。生徒たちは笑顔で帰っていく。体育館の中には、達成感と温もりだけが残った。片付けの気配が始まる前の、少しだけ名残惜しい静けさ。
「お疲れ様でした」
桐谷会長が全員を集める。その声には、深い満足があった。
「バレンタインイベント、大成功だった。みんな、本当によくやってくれた。ありがとう」
拍手が起こり、笑い声が混ざる。その輪の中で、蓮は照れくさそうに微笑んでいた。誇らしさを隠すみたいに、少しだけ視線を落として。
「特に鈴波。お前の統括、見事だった」
「ありがとうございます」
「春川も、装飾ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
その一つ一つの言葉が、静かに心へ刻まれていく。今日の努力が“形”になって認められる感覚は、想像以上に重くて温かい。
全員が帰路についたあと、生徒会室には――俺と蓮だけが残った。
「海斗」
「ん?」
「行こう。……私の部屋」
蓮がそっと囁いた。夕暮れの光を映した瞳が揺れている。さっきまでの“会長代理”みたいな顔じゃない。今はただ、俺にしか見せない蓮だ。
「ああ」
二人で学校を出る。手を繋ぎながら、ゆっくりと駅へ向かった。冷たい風が吹くたびに、指先の温もりを確かめる。握り返す力が、互いの“確かさ”を更新していく。
バレンタインデー。
特別な一日が、静かに幕を閉じていく。
――けれど、二人の時間はまだ終わらない。
この日が、本当の“始まり”になる気がしていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




