変化の兆し
放課後、生徒会室で蓮を待っていると、突然扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、見覚えのある女子生徒だった。夢と仲が良かった、クラスメイトの一人だ。俺は少し身構えながらも、その子に視線を向ける。
また何か言われるのか――そんな警戒心が胸の奥で疼く。だが、彼女の表情は敵意とは程遠いものだった。
「あの……春川くん、ちょっといいですか?」
「俺に?」
警戒しながら聞き返すと、彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい! 私、雪原さんの話を鵜呑みにして、春川くんのこと悪く言っちゃって……」
「え……」
予想外の言葉に、俺の思考が一瞬止まった。謝罪? 彼女が、俺に?
「今朝の鈴波副会長の話を聞いて、やっと分かりました。雪原さんが嘘をついてたって」
彼女は涙ぐんでいた。
「春川くん、本当に何も悪くなかったんですよね。なのに、私たち……」
「いや、もういいよ」
俺は首を横に振った。
怒りや恨みを抱いてもいいはずなのに、不思議とそんな感情は湧いてこなかった。ただ、やっと分かってもらえたという安堵感だけがあった。
「信じてもらえなかったのは仕方ない。夢の演技が上手かっただけだ」
「でも……」
「それより、これからは普通に接してくれたら嬉しい」
彼女は驚いたように俺を見た。
「春川くん……優しいんですね」
「そんなことないよ」
自分では普通のことを言っただけなのに、彼女の目には俺が特別な人間に映っているらしい。それが少しだけ気恥ずかしかった。
「いえ、優しいです。だから雪原さんに利用されちゃったんだと思います」
彼女は深々と頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい」
そう言って、彼女は生徒会室を出て行った。ちょっとした静寂が流れる。
俺は一人残された生徒会室で、小さくため息をついた。胸の奥に溜まっていた重いものが、少しだけ軽くなった気がした。
「……ふーん」
扉の陰から、蓮が顔を出した。
「見てたのか?」
「うん。ちょうど来たところ」
蓮は俺の隣に座った。
「海斗、やっぱり優しいね」
「そうか?」
「そうだよ。普通なら、もっと怒ってもいいのに」
蓮は呆れたように笑った。
「でも、それが海斗のいいところ」
蓮の言葉が、胸に温かく染み込んでくる。彼女にそう言ってもらえるだけで、俺は救われた気がした。
「蓮は怒らないのか? 俺のことを悪く言われてたのに」
「怒ってるよ、めちゃくちゃ」
蓮はむくれた表情を見せた。
「でも、海斗が許すなら、私も我慢する。それが彼女の務めでしょ」
「彼女の務め……」
その言葉が妙に嬉しくて、俺は思わず顔が緩みそうになるのを必死に堪えた。
「そ。海斗の気持ちを尊重するのが、私の役目」
蓮はそう言うと、立ち上がった。
「さ、帰ろ。今日はどこ行く?」
「どこって……」
「昨日はカフェだったから、今日は別の場所がいいな」
蓮は楽しそうに提案した。
「公園とか、どう?」
「公園?」
「うん。散歩したい気分」
「それもいいな」
※ ※ ※
二人で生徒会室を出ると、廊下で何人かの生徒とすれ違った。彼らは俺たちを見て、小声で話し始めた。
「鈴波副会長と春川くん、本当に付き合ってるんだ」
「お似合いだよね」
「春川くん、可哀想だったもんなぁ」
今までとは全く違う反応。蓮は満足げに頷いた。つい数日前まで針のような視線を向けられていたのが嘘のようだ。俺は自分の置かれた状況の変化を、まだ完全には信じられずにいた。
「ね、風向き変わったでしょ?」
「ああ……信じられない」
「これが真実の力」
蓮は得意げに胸を張った。その様子には絶対的な自信があるように見えた。
「嘘はいつかバレる。そして真実は、必ず明らかになる」
※ ※ ※
校門を出ると、夕日が二人を照らした。
「綺麗だね」
「ああ」
蓮と並んで歩きながら、俺は不思議な気持ちになっていた。数日前まで、俺は絶望していた。夢に裏切られ、傑に裏切られ、学校中から白い目で見られていた。それが今では、蓮という味方ができて、周囲の見る目も変わった。
人生とは、こんなにも簡単に変わるものなのか。俺はまだその実感が湧かず、ただ夢を見ているような心地だった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「あと四日で、お試し期間が終わる」
蓮が唐突に言った。
「……そうだな」
その言葉に、胸が少しだけ締め付けられる。もう四日しかない。そう考えると、焦りのようなものが込み上げてきた。
「海斗は、どう思ってる?」
「どうって?」
「私と、これからも付き合えるかどうか」
蓮は立ち止まり、俺の方を向いた。その視線はとても真剣なもので俺は固唾を呑んだ。答えを求める彼女の瞳に、俺は自分の心臓の音が聞こえるほど緊張した。
「正直に言ってほしい。無理そうなら、今のうちに――」
「無理じゃない」
俺は即答していた。
自分でも驚くほど、迷いはなかった。この数日間で、俺の中で何かが確実に変わっていた。
「蓮と一緒にいると、楽なんだ」
「楽?」
「ああ。気を遣わなくていいし、素でいられる」
俺は自分の気持ちを言葉にした。前まで夢と居た時の自分と、今この瞬間までの鈴波蓮という人といる時の自分を比較していた。あの頃の俺は、いつも何かに怯えていた。嫌われることを、見捨てられることを。でも今は違う。
「夢と付き合ってた時は、いつも緊張してた。嫌われないように、嫌われないようにって」
「それ、疲れるでしょ」
「めちゃくちゃ疲れた」
思わず図星をつかれて俺は苦笑した。
「でも、蓮と一緒だと違う。自然体でいられる」
「……そっか」
蓮は嬉しそうに微笑んだ。その顔がどうにも愛おしくてたまらない。こんな感情、夢と付き合っていた時には一度も感じたことがなかった。
「なら、よかった」
※ ※ ※
近くの公園に着くと、蓮はベンチに座った。
「ねえ、海斗。隣、座って」
「ああ」
俺も隣に座ると、蓮が俺の肩に頭を預けてきた。彼女のその行為に俺の鼓動が高鳴る。心臓がうるさいほどに鼓動する。
柔らかい髪が頬に触れる感触、ほのかに香る甘い匂い。それら全てが俺の理性を揺さぶった。
「ちょ、蓮!?」
「いいでしょ。カップルなんだから」
「で、でも……」
「海斗、緊張してる?」
「そりゃ……」
蓮はくすくすと笑った。
「可愛い」
「可愛いって……」
恥ずかしさと嬉しさが入り混じって、俺はどう反応していいか分からなくなった。
「海斗、私と一緒にいて本当に楽?」
「ああ」
「嘘ついてない?」
「嘘なんかつかない」
俺は真剣に答えた。嘘なんかつけるものか、今の俺は本当に彼女のことを想っている――だからこそ俺は言葉を続けた。
「蓮は、俺を信じてくれた最初の人だ。それだけで、十分すぎるくらいだ」
「……海斗」
蓮は顔を上げて、俺を見つめた。その瞳に映る俺は、どんな表情をしているのだろう。少なくとも、夢といた頃よりは穏やかな顔をしているはずだ。
「私、海斗と付き合えて嬉しい」
「俺も」
「本当?」
「本当だ」
俺は頷いた。
「最初は、お試しだからって割り切ろうとしてた。でも、今は違う」
「どう違うの?」
「蓮のこと、もっと知りたいと思ってる」
俺の言葉に、蓮の頬が赤く染まった。
「……ずるい」
「え?」
「そんなこと言われたら、嬉しくなっちゃうじゃん」
蓮は恥ずかしそうに俯いた。その仕草が可愛くて、俺は思わず笑みがこぼれそうになった。
「私、海斗にもっと好きになってもらいたい」
「蓮……」
「だから、残りの四日間、もっと一緒にいよう」
蓮は俺の手を握った。その手の温もりが、俺の心に直接伝わってくるようだった。
「海斗が私を選んでくれるように、頑張る」
「蓮は十分頑張ってるよ」
「まだ足りない」
蓮は真剣な表情で続けた。
「海斗が、心から私のことを好きになってくれるまで、私は頑張る」
「……分かった」
俺も蓮の手を握り返した。もう、答えは出ている気がした。でも、それを口にするのは、まだ早い気がした。
「じゃあ、俺も頑張る」
「何を?」
「蓮のこと、もっと知ること」
俺の言葉に、蓮は目を見開いた。
「……っ」
蓮は俯いて、小さく呟いた。
「海斗、本当にずるい」
「そうか?」
「そうだよ。そんな真面目に言われたら、ドキドキしちゃう」
蓮は顔を上げた。その瞳は、少しだけ潤んでいた。俺の言葉が、彼女をこんなにも動揺させている。それが嬉しくて、俺の胸は満たされていく。
「私、海斗のこと、本気で好きになっちゃったかも」
「蓮……」
「だから――」
蓮は俺に顔を近づけた。距離が縮まる。彼女の吐息が感じられるほど近くに、蓮の顔があった。俺の心臓は今にも破裂しそうなほど激しく打っている。
「一週間後、私を選んで」
「……ああ」
俺は頷いた。
夕日が二人を包み込む。
公園のベンチで、手を繋いだまま、俺たちはしばらく黙っていた。でも、その沈黙は心地よかった。言葉はいらなかった。ただ隣にいるだけで、俺たちは互いの温もりを感じ取ることができた。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「明日も、一緒にいてくれる?」
「当たり前だろ」
「……ありがとう」
蓮は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「ああ」
二人で立ち上がり、公園を後にした。
※ ※ ※
駅までの道を、手を繋いだまま歩く。蓮の手は温かくて、俺の手にぴったりと馴染んだ。まるで最初からそうだったかのように、自然で心地いい。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「私、幸せ」
蓮が突然言った。
「海斗と一緒にいられて、本当に幸せ」
「俺も」
その言葉に嘘はなかった。本当に、心からそう思っていた。
「……嘘みたい」
蓮は空を見上げた。
「数日前まで、海斗は雪原夢に振られて絶望してた。それが今では、私の隣にいる」
「不思議だよな」
「うん。でも、これが運命なのかも」
蓮は俺を見て、笑った。
「海斗と出会えたこと、海斗を好きになれたこと。全部、運命だったのかもしれない」
「運命……か」
俺も空を見上げた。
もし本当に運命があるなら、夢に振られたことも、蓮と出会ったことも、全部運命だったのかもしれない。あの絶望があったからこそ、今の幸せがある。そう思えるようになった自分に、俺は少しだけ驚いていた。
「じゃあ、また明日」
駅の改札前で、蓮が手を振った。
「ああ、また明日」
別れ際、蓮が俺の頬に軽くキスをした。
「おやすみ、海斗」
「お、おやすみ……」
蓮は照れた表情で改札を通っていった。俺は頬に手を当てたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。頬に残る温もりが、まだ消えない。俺は心臓の高鳴りを抑えきれずに、深く息を吐いた。
※ ※ ※
家に帰ると、スマホに蓮からメッセージが届いていた。
『今日も楽しかった。明日も、よろしくね』
俺は返信を打った。
『こっちこそ。明日も、楽しみにしてる』
送信すると、すぐに既読がついた。そして、ハートマークのスタンプが送られてきた。
「蓮……」
お試し期間は、あと四日。その間に、俺は答えを出さなければならない。
でも、もう答えは決まっている気がした。蓮と一緒にいたい。その気持ちが、日に日に強くなっていく。夢への想いは、もう完全に過去のものになっていた。今、俺の心を占めているのは、蓮のことだけだ。
「考えるまでもないか……」
呟いて、俺はベッドに横になった。明日はどんな一日になるのか。
楽しみで、眠れない夜だった。
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