明日、君にチョコを渡すため
二月十三日。
バレンタイン前日。
校舎全体が、どこか浮き足立っていた。
廊下を歩けば、チョコレートの話題があちこちで飛び交う。
「手作りにする?」「義理に見えないかな?」そんな声が、冬の乾いた空気の中で弾んでいた。
男子たちも、どこかそわそわしている。期待と不安が入り混じった笑顔を浮かべながら、机の上で指先を落ち着きなく動かしていた。
そんな中、俺は授業に集中できずにいた。
黒板の文字は目に入ってこない。頭の中にあるのは――明日のバレンタインイベント、そして蓮の顔だけだった。
窓の外に視線を向けると、澄んだ冬の青空が広がっている。
風は冷たいが、陽射しはどこか春の兆しを感じさせた。
「明日もこんな天気ならいいな」と、心の中で呟く。
チャイムが鳴り、昼休みのざわめきが教室を包む。
俺はすぐに立ち上がり、廊下へ出た。
目的地は――蓮のクラス。
生徒たちの喧騒を抜け、階段を駆け上がる。
その先に、いつもの彼女がいた。
教室の前で待っていた蓮が、俺を見つけて微笑む。
「海斗」
「待った?」
「ううん、今出たところ」
蓮が俺の腕に自分の腕を絡める。
その温もりが、冬の冷気を溶かすように広がった。
「屋上行こう」
「ああ」
二人で並んで階段を上る。
もう周囲の視線は気にならない。俺たちは自然に手を繋ぎ、ただ前だけを見ていた。
屋上に着くと、冷たい風が頬を撫でた。
二月の風にはまだ冬の名残があるが、陽射しが柔らかく降り注いでいた。
空は雲ひとつない快晴。まるで、明日を祝福しているかのようだった。
二人でベンチに腰を下ろし、蓮が弁当を開ける。
その手が、少しだけ震えていた。
「大丈夫?」
「うん……ちょっと、緊張してて」
蓮の頬がわずかに紅潮する。
昼の光がその横顔をやさしく照らしていた。
「明日のこと?」
「うん」
蓮は俺の目を見つめ、少しだけ眉を寄せた。
その瞳の奥には、期待と不安が入り混じっている。
「バレンタインイベント、うまくいくかな……」
「大丈夫。みんな、しっかり準備してきたんだから」
俺は蓮の手を取った。
指先は少し冷たかったが、その震えは次第におさまっていく。
「蓮はすごく頑張った。絶対、成功するよ」
「ありがとう、海斗」
蓮の表情が少し緩む。
その笑顔は、冬の空よりも眩しかった。
しばらく弁当を食べながら他愛のない話をしていたが、蓮の箸はなかなか進まなかった。
時折、風に吹かれて髪が揺れ、そのたびに蓮の瞳がどこか遠くを見つめるように曇る。
「蓮」
「ん?」
「食べないと、力出ないぞ」
「うん……そうだね」
小さく笑って、蓮はまた箸を動かし始めた。
頬を染めながらも、ひと口ひと口を確かめるように。
その健気な姿に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「明日、終わったら……」
蓮の声が途中で途切れた。
その頬が再び赤くなり、視線が泳ぐ。
「終わったら?」
「私の部屋……来てくれる?」
その小さな声に、心臓が一瞬跳ねた。
彼女の瞳は、恥ずかしさと期待に揺れていた。
「ああ、もちろん」
「ありがとう」
蓮が微笑む。
その笑顔には、これまでの努力を乗り越えた安堵と、恋する少女の可憐さが混ざっていた。
「明日、海斗にチョコレート渡すの……すごく楽しみ」
「俺も、楽しみにしてる」
言葉を交わすたび、距離が少しずつ縮まっていく。
蓮の頬がさらに赤く染まり、唇がかすかに震えた。
「海斗……」
「ん?」
「愛してる」
その一言が、冬空の下で静かに響く。
俺は微笑んで、そっと彼女の頬に手を添えた。
「俺も、愛してる。蓮」
そのまま、唇を重ねる。
短く、優しく。
蓮の唇は柔らかく、ほのかに甘い。
触れ合った瞬間、時間が止まったようだった。
蓮は恥ずかしそうに顔を伏せ、俺の胸に身を寄せた。
「もう……昼休みなのに」
「誰もいないから、大丈夫だろ」
「もう……」
頬を膨らませながらも、その表情は嬉しそうだった。
冷たい風の中、二人だけの世界がそこにあった。
※ ※ ※
放課後、生徒会室には全員が集まっていた。
明日の本番を前に、最後のミーティングが始まる。
「さて、いよいよ明日だ」
桐谷会長の声に、室内の空気が引き締まる。
全員の視線が一斉に前を向く。
「準備はすべて整った。あとは、当日を成功させるだけだ」
その言葉に、自然と背筋が伸びる。
「鈴波、最終確認を頼む」
「はい」
蓮が立ち上がった。
昼の柔らかい笑顔とは違う――副会長としての、凛とした表情。
その姿に、誰もが安心と信頼を覚えていた。
「チョコレート配布イベントは昼休み十二時半から一時まで。場所は中庭です」
蓮の声は落ち着いていて、明瞭だった。
ホワイトボードに書き込むマーカーの音が、心地よいリズムを刻む。
「応募総数は二百十五件。目標を上回りました」
「すごいな。藤崎の広報活動のおかげだな」
「ありがとうございます」
藤崎書記が、少し照れくさそうに笑った。
「配布の流れは既に確認済みです。当日は私と春川くん、藤崎さん、野村さんの四人で対応します」
「バレンタインパーティーは放課後三時半から五時まで。場所は体育館。装飾は今日の放課後に春川くんが設営。音響も確認済みです」
「軽食の搬入は、明日の昼休み中です」
野村が冷静に補足する。
「司会は私が担当します」
藤崎がやや緊張した声で言うと、会長が穏やかに肩を叩いた。
「頼んだぞ」
「はい。頑張ります」
その声には力があった。
「以上です」
蓮が席に戻ると、会長が頷いた。
「よし、完璧だ。みんな、本当によく頑張った。明日はこの努力を形にする日だ。楽しもう。そして、成功させよう」
「はい!」
全員の声が重なる。
その響きが、生徒会室の窓を震わせた。
外では、夕暮れの光が校庭を淡く染めている。
※ ※ ※
体育館には、バレンタインの飾りが山のように届いていた。
ピンクと白の風船。ハート型のガーランド。
箱から取り出すたび、甘い香りが広がる。
俺は脚立に登り、天井に飾りを吊るしていた。
その作業が、思いのほか楽しい。明日を思うだけで、自然と手が軽く動く。
「海斗、手伝うわ」
背後から声がして振り向くと、凛音が立っていた。
手には風船。息を少し切らしながらも、どこか嬉しそうだ。
「凛音?」
「蓮ちゃんから聞いたの。一人でやってるって」
「手伝ってくれるのか?」
「まあね。暇だし」
クールな口調の奥に、柔らかな気遣いがあった。
俺は思わず笑ってしまう。
「ありがとう」
二人で作業を始める。
風船のゴムが指に絡み、テープの音が響く。
凛音が風船を膨らませ、俺がそれを吊るす――息の合った作業だった。
「ねえ、春川くん」
「ん?」
「蓮ちゃんのこと、ちゃんと見てあげてね」
凛音の声が真剣になる。
目は優しいのに、言葉には確かな重みがあった。
「ああ、もちろん」
「明日、蓮ちゃんはすごく緊張してると思う。だから、そばにいてあげて」
「分かった。蓮を支える」
「……ありがとう」
凛音が微笑んだ。
その笑顔には、友情とほんの少しの切なさが混じっていた。
二人で作業を進め、やがて体育館が華やかに彩られる。
ピンクと白の装飾が光を受けて揺れ、天井からこぼれる照明が淡く反射する。
「できたわね」
「ああ。ありがとう、凛音」
「どういたしまして」
凛音は天井を見上げ、満足げに息を吐いた。
「綺麗ね。蓮ちゃん、喜ぶと思うわ」
「そうだといいな」
「じゃあ、私はこれで」
「ああ。今日は本当にありがとう」
「気にしないで」
凛音は振り返らずに手を振り、静かに体育館を出て行った。
その背中を見送りながら、俺は改めて天井を見上げる。
明日、この場所が笑顔と想いで満たされる。
そう思うだけで、胸の奥が熱くなる。
※ ※ ※
夜。
自室に戻ると、時計の針は八時を回っていた。
ベッドに横になり、スマホを手に取ると、蓮からのメッセージが届いていた。
『お疲れ様、海斗。装飾、ありがとう。凛音ちゃんから聞いたよ。すごく綺麗だって。明日、楽しみだね。おやすみ。愛してる。』
画面の文字を見つめながら、自然と笑みがこぼれた。
その一文の温もりが、心の奥にじんわりと広がる。
俺は返信を打った。
『お疲れ様、蓮。明日、絶対成功させような。おやすみ。愛してる。』
送信すると、すぐにハートマークのスタンプが返ってきた。
胸が高鳴る。
いよいよ――明日。
バレンタイン。
彼女と過ごす特別な日が、静かに近づいていた。
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