疲れた彼女を、全力で甘やかした日
蓮のマンションに着いたのは、夜の七時を少し過ぎた頃だった。
街灯の明かりがアスファルトに淡く滲み、冬の冷たい空気が肌を撫でる。
エレベーターの中は静かで、低いモーター音だけが響いていた。
蓮は俺の肩に頭を預けている。柔らかな髪が頬を掠め、わずかな体温が伝わってきた。その重みは、いつもよりもはっきりと感じられる。
目を閉じた蓮の表情は穏やかというより、疲弊していた。
「大丈夫か?」
「うん……ちょっと、疲れただけ」
蓮の声は細く、掠れていた。
その弱々しい響きに、胸の奥が痛む。
エレベーターが止まり、扉が開く。廊下の照明が二人の影を長く伸ばした。
蓮が鍵を取り出し、少し震える手でドアを開ける。
「ただいま……」
その呟きは、静まり返った部屋の空気に溶けて消えた。
応える声はなく、照明のスイッチを押す音がやけに響く。
「お邪魔します」
灯りの下に広がるリビングは、いつも通り整えられていた。けれど、そこに漂う空気はどこか冷たく、寂しさが混じっていた。
蓮はソファに腰を下ろすと、息を吐き出すように背もたれに沈み込んだ。肩がわずかに震えている。
「蓮、本当に大丈夫か?」
「うん……ごめんね、海斗。ちょっと、疲れちゃって」
その目に浮かんだ涙の光が、天井灯の反射で微かに揺れた。
「無理してたんだろ」
「……うん」
小さな声。
掠れた唇が震え、言葉が零れる。
「バレンタインイベントの準備、思ったより大変で……関係各所との調整、予算の管理、メンバーへの指示……全部、完璧にやらなきゃって思ってた」
彼女の涙が頬を伝い、静かに落ちた。
その滴が、まるで積もった疲労の証のように見えた。
「でも、もう限界……」
声が途切れ、肩が小刻みに震え出す。
俺は迷わず、蓮の身体を抱き寄せた。
細い身体が腕の中に収まる。その温もりが、壊れそうなほど儚い。
「蓮、一人で抱え込むな」
「でも……」
「俺がいる。会長もいる。みんながいる」
そう言うと、蓮の涙が止まらなくなった。
胸に顔を埋め、嗚咽を堪えきれずに泣きじゃくる。
「ごめん……ごめんね、海斗……」
「謝るな。蓮は、よく頑張ってる」
俺は蓮の髪を撫でた。指先をすり抜けるその感触が、やけに優しかった。
「でも、一人で全部やろうとするな。俺に、頼ってくれ」
「海斗……」
顔を上げた蓮の瞳が、涙で濡れていた。
その瞳の奥に、脆さと強さが同居している。
「本当に、いいの?」
「当たり前だろ。俺たち、恋人だろ?」
少し間を置いて、蓮は小さく頷いた。
「うん……」
「辛い時は、俺に言ってくれ。一緒に、乗り越えよう」
「ありがとう……」
蓮は再び俺の胸に顔を埋める。
その身体が、少しずつ力を抜いていく。
しばらくのあいだ、静寂の中で二人は寄り添っていた。
外の風が窓を叩く音が、遠くでかすかに響いている。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「お腹、空いてない?」
涙の跡を残したまま、蓮が顔を上げる。その瞳に少しだけ光が戻っていた。
「ああ、少し」
「じゃあ、何か作るね」
「いや、今日は俺が作るよ」
「海斗が?」
「ああ。蓮は、休んでてくれ」
「でも……」
「いいから」
俺は微笑んで言い、蓮をソファに座らせた。
彼女は素直に頷き、毛布を膝に掛ける。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。冷気が頬を撫でた。
ベーコンと卵。粉チーズもある。カルボナーラにしよう。
鍋で湯が沸く音。ベーコンが焼ける香ばしい匂い。
その音と香りが、部屋の空気を少しずつ柔らかくしていく。
ソファのほうを見ると、蓮がこちらを見ていた。優しい眼差しだ。
「海斗、料理できるんだ」
「まあ、簡単なものだけだけどな」
「すごい……」
微笑む蓮の顔を見て、胸の奥に小さな安堵が灯った。
やがてカルボナーラが完成した。
見た目は悪くない。味は、少し不安だけど。
「できたぞ」
「わあ、美味しそう!」
二人でテーブルにつく。蓮がフォークで一口食べた瞬間、表情がぱっと明るくなる。
「美味しい! 本当に!」
「マジで?」
「うん。海斗の料理、すごく美味しい」
笑顔が、照明よりも温かく感じた。
その笑顔を見ているだけで、胸の中の緊張がほどけていく。
食事を終え、片付けようと立ち上がる蓮を制した。
「今日は、俺がやるよ」
「でも……」
「いいから。蓮は休んでて」
食器を洗う間、背後から静かな視線を感じた。
振り向かなくてもわかる――その視線には、安心と信頼が混ざっていた。
片付けを終えると、蓮がソファに座っていた。頬の血色が少し戻っている。
「ありがとう、海斗」
「どういたしまして」
俺の隣に座った蓮が、そっと肩に頭を預けてくる。
その体温が伝わり、鼓動の音がわずかに重なる。
「海斗、優しいね」
「そんなことないよ」
「ううん、優しい」
蓮が腕を絡めてくる。その温もりに、心が穏やかに沈んでいく。
「海斗がいてくれて、本当によかった」
「俺も。蓮がいてくれて、本当によかった」
静かなリビングで、二人は互いの存在を確かめ合う。
時計の針の音だけが、ゆっくりと時を刻んでいた。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「明日から、ちゃんとみんなに頼るね。会長にも、藤崎さんにも、野村さんにも。そして……海斗にも」
「ああ」
「一人で抱え込まないで、ちゃんと相談する」
「それがいい」
俺は蓮の頭を優しく撫でる。
蓮が嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう、海斗。今日、来てくれて」
「いつでも、来るよ」
「嬉しい……」
蓮の吐息が胸に触れた。
その微かな温かさが、確かに生きている証のようだった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今日は、このまま一緒にいてくれない?」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
「ああ、もちろん」
「ありがとう」
蓮は安堵したように微笑み、そのまま俺の胸に顔を寄せた。
柔らかな笑みが、夜の静寂を温めていく。
※ ※ ※
その夜、俺は蓮の部屋に泊まった。
ベッドの中で、寄り添うように眠る。
蓮の体温が背中から伝わってきて、穏やかな眠気に包まれる。
「おやすみ、海斗」
「おやすみ、蓮」
蓮は俺の腕の中で静かに眠った。
その寝顔は、まるで長い冬を越えた春のように穏やかだった。
今日の涙が、少しでも癒やしに変わっていたならいい。
俺は蓮の頬に触れながら、そっと目を閉じた。
明日からも支える。何度でも、彼女の隣で。
※ ※ ※
翌朝、薄いカーテン越しに朝の光が差し込む。
柔らかな光がベッドを照らし、蓮の寝顔を包んでいた。
目元は少し腫れているけれど、その表情は穏やかだった。
俺は静かにベッドを抜け出し、キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けると、卵とパンが見えた。
スクランブルエッグとトースト。
シンプルだけど、あたたかい朝にちょうどいい。
フライパンの上でバターが溶け、香ばしい匂いが漂う。
その匂いに気づいたのか、蓮がゆっくり起き上がった。
「おはよう、海斗」
「おはよう、蓮。よく眠れた?」
「うん、すごく」
微笑む蓮の顔には、昨日の影がもうなかった。
朝の光が彼女の頬を柔らかく照らしている。
「朝ごはん、作ってくれてるの?」
「ああ。簡単なものだけど」
「ありがとう」
蓮はふわりと俺の背中に抱きついてきた。
その温もりが背中を包み、心の奥が静かに温まる。
「海斗、大好き」
「俺も、蓮のこと大好きだ」
二人で並んで朝食をとる。
トーストをかじる音が、穏やかに響いた。
蓮の笑顔は、昨日よりずっと明るい。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「今日から、ちゃんとみんなに頼るね。会長に作業の分担を相談して、藤崎さんにも、野村さんにも任せる」
蓮の目がまっすぐだった。
その瞳には、決意の光が宿っていた。
「そして、海斗にも、もっと頼る」
「ああ、任せてくれ」
俺は蓮の手を握る。その手の温もりが、確かな絆として伝わる。
「二人で、乗り越えよう」
「うん」
笑顔が咲く。
その笑顔を見ているだけで、すべてが報われた気がした。
朝の冷たい風が、カーテンをわずかに揺らす。
けれど、不思議と寒くなかった。
俺たちはもう、一人じゃない。
手を繋ぎ、駅へと向かう道。
冬の空気の中に、確かな温もりがあった。
――蓮はもう、一人で抱え込まない。
そして俺が、何度でも支える。
新しい朝の光が、二人の背中を照らしていた。
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