閑話 母からの呪いのプレゼント
一月一日の朝。
窓の外から差し込む冬の陽光が、私の部屋を白く照らしている。新年を迎えた東京の空は青く澄んでいて、遠くには初詣に向かう人々の姿が見える。
テレビをつければ、新年を祝う華やかな番組。スマホを開けば、SNSには友達からの新年を祝福するメッセージが並んでいる。
『明けましておめでとう!』
『今年もよろしくね!』
『初詣行こうよ!』
凛音ちゃんからも、可愛いスタンプ付きのメッセージが来ている。そして、海斗からも。
『明けましておめでとう、蓮。今年も、ずっと一緒にいような。愛してる。初詣行かないか?』
その言葉を見るたびに、胸が温かくなる。でも、その温かさは、すぐに冷たい何かに侵食されていく。
私は返信を打った。
『ごめんね、海斗。今日は、イベントの準備があるから……』
送信ボタンを押す。すぐに既読がつく。でも、返信は来ない。海斗は、きっと落胆しているだろう。新年くらい、一緒に過ごしたかったはずだ。
胸が痛む。
でも、仕方ない。私には、やるべきことがある。
パソコンの画面を見つめる。そこには、バレンタインイベントの企画書の草案が表示されている。まだ、ほとんど何も書けていない。白い画面が、私を責めているようだ。
バレンタインイベント。毎年行われてきた恒例行事。生徒会の一大イベント。
例年、盛大に開催されている。チョコレート交換会。全てが華やかで、楽しくて、幸せに満ちている。
だからこそ、完璧にこなさないといけない。
失敗は、許されない。
生徒副会長として。いや、鈴波蓮として。
私の心の奥底から、消えたはずの言葉が、ヘドロのように浮かび上がってくる。
『誰にも甘えず、誰にも頼らず、一人で完璧にこなしなさい』
母の声。冷たく、鋭く、私の心を縛る声。
違う。
私は、首を振った。
違う。頼っていいんだ。頼っていい。人は助け合って生きていくものだから。
私はそれを、みんなから教えてもらった。海斗から。凛音ちゃんから。夢さんや傑くんから。
だから、母の呪縛には囚われたくない。
でも――
キーボードを叩く手が、震えている。その震えが、止まらない。
頭では分かっている。でも、心が、身体が、母の言葉を忘れられない。
そんなことを考えながら、私はパソコンで資料の準備を進める。イベントの構成。タイムスケジュール。チョコレートの種類と数量。予算配分。会場レイアウト。運営方法。
一つ一つ、丁寧に。完璧に。
時計を見ると、もう昼の十二時を過ぎている。朝から、ずっとパソコンの前に座っている。
本来なら、海斗と新年を過ごしたかった。初詣に行って。おみくじを引いて。甘酒を飲んで。二人で笑い合って。
そんな、普通のカップルみたいに。
「お参りくらいには、行きたかったな……」
言葉が、自然と漏れた。その声が、空虚な部屋に響いて消えていく。
その時だった。
玄関の扉が開く音が聞こえた。
カチャリ。
その音が、私の鼓膜を打った瞬間。
私の全身が、氷のように凍りついた。
心臓が、激しく鳴り始める。ドクン、ドクン、ドクン。その音が、耳の奥で響く。
呼吸が、浅くなる。息が、うまく吸えない。
手が震え始める。指先が冷たくなっていく。
コツ、コツ、コツ。
ヒールの音。廊下を歩いてくる音。規則正しく、冷たく、私に近づいてくる。
その一歩一歩が、私の心臓を締め付ける。
コツ、コツ、コツ。
音が近づくたびに、私の身体が硬直していく。まるで、獲物を前にした小動物のように。
リビングのドアが開いた。
「あら、起きてたの……」
その声が、氷のように冷たい。
私は、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、母だった。
黒いコート。完璧に整えられた髪。一切の乱れのないメイク。その姿が、まるで彫像のように完璧だ。
でも、その目が、冷たい。感情のない、氷のような目。
その目が、私を見下ろしている。値踏みするように。評価するように。
まるで、私が商品か何かであるかのように。
「お、おかえりなさい。お母さん」
私の声が震えている。必死に平静を装おうとする。でも、声が震えて、うまく言葉が出てこない。
「ただいま。あなた、何してるの?」
母の声が、淡々としている。感情がない。その冷たさが、私の心を凍らせる。
コツ、コツ、コツ。
母が私に近づいてくる。その一歩一歩が、私を追い詰めていく。
私は必死に震える手を抑えた。拳を握る。爪が、手のひらに食い込む。その痛みで、恐怖を静めようとする。
大丈夫。私には、海斗がいる。
脳裏に、海斗の顔が浮かぶ。海斗の笑顔。海斗の優しい声。体育祭の日、私が海斗を選んだ時の記憶。クリスマスの夜、二人で過ごした時間。
その記憶が、私を支えてくれる。
「近々、イベントがあるから。それの準備……お母さんは?」
私は、何とか言葉を絞り出した。
母が、私のパソコンの画面を見た。その目が、鋭く光る。
「新年の朝くらい、少しくらい家に帰らないと、と思ってね」
母の声が、皮肉に満ちている。その言葉の裏に、何かが隠されている。
「そ、そうなんだ……でも、お父さんは」
「あの人は帰ってこないわよ」
母は、冷たく言い放った。その声に、一切の感情がない。
「ただでさえ、あの人は多忙なのに」
母の目が、私を見た。その目が、氷よりも冷たい。
「それに、蓮。あの人は貴方のことにも、あまり関心はないみたいだし」
その言葉が、私の心を刺す。鋭く、深く。
お父さんは、私に関心がない。
その事実を、母は淡々と告げる。まるで、天気予報を読み上げるかのように。
「……」
私は、何も言えなかった。言葉が、喉の奥で詰まる。
母が私の隣に座った。その距離が、近い。息苦しいほどに近い。
母の香水の匂い。高級な、冷たい匂い。その匂いが、私の鼻を刺す。
「蓮、もうじきすれば、生徒会選挙があるわよね?」
母の声が、低く響く。その声が、私の心臓を締め付ける。
「は、はい」
私の声が、小さい。蚊の鳴くような声。
「私が言いたいこと、分かるわよね?」
母の目が、私を見つめる。その目が、プレッシャーを放っている。目に見えない、重く、冷たいプレッシャー。
その視線が、私を押し潰そうとする。
母の言いたいこと。
そんなの、分かりきっている。
『生徒会長に、なりなさい』
『完璧に、こなしなさい』
『私を、超えなさい』
言葉にしなくても、分かる。母の期待。母の要求。母の命令。
全てが、私を縛る鎖になる。
「私はあなたの年では、もう既に生徒会長になっていたし、色々なイベントも成功を収めてきたの」
母の声が、続く。その声が、私を追い詰める。
「全国模試でも一位。弁論大会でも優勝。生徒会長として、学校改革も成し遂げた」
母の目が、遠くを見つめる。その目に、誇りが宿っている。
「私の時代、生徒会は形骸化していた。でも、私がそれを変えた」
母の声が、力強い。
「予算を倍増させた。イベントの質を向上させた。全てを、一人で成し遂げた」
母の目が、再び私を見た。その目が、比較している。評価している。
「だから」
母の声が、低くなる。その声が、私の心臓を締め付ける。
「あなたも、それくらいはできるわよね?」
その言葉が、重い。あまりにも重い。
私の肩に、見えない重りが乗せられていく。一つ、また一つと。
息が、苦しい。
「分かってる」
私は、必死に言葉を絞り出した。
「分かってるから、それ以上は聞きたくない」
その言葉が、私の口から出た瞬間、私は驚いた。
初めて、母に反抗した。
小さな、小さな反抗。
でも、私にとっては、大きな一歩。
母は、何も言わなかった。
ただ、私を見つめている。その目が、感情のない氷の目。
そして、母は立ち上がった。
何も言わずに。
コツ、コツ、コツ。
ヒールの音が、遠ざかっていく。
ドアが閉まる音。
母が、去っていった。
私は、一人残された。
静かな部屋。母の香水の匂いだけが、まだ残っている。
私は、震える手で、自分の胸を抱きしめた。
母の態度。あの冷たい視線。
まるで、完全に人として見捨てたような雰囲気。
まるで、私が期待外れの商品であるかのような態度。
その冷たさが、私の心を歪ませようとする。
でも、それは寸前のところで思いとどまった。
私には、海斗がいる。
凛音ちゃんもいる。
生徒会のみんなもいる。
あの日、体育祭で過ごした記憶。海斗と手を繋いで走った記憶。みんなの前で、海斗を選んだ記憶。
クリスマスの夜、海斗と過ごした時間。
あれは、本物だ。幻想なんかじゃない。
私は、一人じゃない。
その確信を胸に、私は再びパソコンに向かった。
でも、キーボードを叩く手が、まだ震えている。
母の影が、まだ私を縛っている。
その事実から、目を背けることはできなかった。
窓の外では、新年を祝う人々の声が聞こえる。
でも、私の場所は、静かだ。
冷たく、静かだ。
私は、資料作成を続けた。震える手で。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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