橘凛音の初恋
体育祭から三日が経った。
学校は、いつもの日常に戻っていた。授業。休み時間。放課後。全てが平和に流れていく。
でも、一つだけ変わったことがある。
俺と蓮が、堂々と一緒にいるようになったことだ。
昼休みは屋上で一緒に弁当を食べる。蓮が作ってくれた弁当を、二人で分け合いながら食べる。その時間が俺にとって一番幸せだ。
廊下でも、手を繋いで歩く。周囲の視線は気になるが、もう隠す必要はない。蓮も、堂々と俺の恋人として振る舞ってくれている。
生徒会副会長としてのクールな蓮と、俺の恋人としての素直な蓮。その両方を、みんなが受け入れてくれている。
幸せだった。本当に、幸せだった。
でも、一つだけ気になることがあった。
凛音のことだ。
※ ※ ※
放課後、俺は校舎の廊下を歩いていた。生徒会の会議が終わり、蓮は残って資料整理をしている。俺は先に帰ろうと思った。
昇降口に向かう途中、中庭が見える窓の前を通りかかった。何気なく外を見ると、一人の女子生徒が座っているのが見えた。
凛音だ。
ベンチに座り、俯いている。その背中が、どこか寂しげだった。
俺は少し迷った。声をかけるべきか。それとも、そっとしておくべきか。
でも、凛音のあの背中を見て、俺は足を止められなかった。
中庭に向かい、凛音に近づく。
「橘」
俺が声をかけると、凛音は驚いて顔を上げた。その目は、少し赤くなっている。泣いていたのか。
「春川くん……」
「どうした? 一人で」
「……別に」
凛音は顔を背けた。その仕草が、どこか痛々しい。
「ちょっと、座ってもいいか?」
「……うん」
凛音は小さく頷いた。俺は凛音の隣に座る。
しばらく、二人とも黙っていた。秋の風が、静かに吹いている。木々の葉が、風に揺れている。
「橘」
「ん?」
「ありがとう」
俺の言葉に、凛音は驚いた表情で俺を見た。
「何が?」
「色々と、俺のこと支えてくれて」
俺ははっきりと言った。その言葉に嘘はない。
「あの時、蓮とうまくいってなくて、すごく辛かった」
「……」
「でも、橘が話を聞いてくれた。優しくしてくれた」
俺は凛音を見た。凛音は、俯いたまま黙っている。
「橘がいてくれたから、俺は耐えられた」
「春川くん……」
「本当に、ありがとう」
俺の言葉に、凛音の目から涙が溢れてきた。その涙が頬を伝って落ちていく。
「やめて……」
凛音の声が、震える。
「そんな風に、優しくしないで……」
「橘……」
「私、春川くんのこと、好きだったのに……」
凛音の涙が止まらない。その身体が、小さく震えている。
「春川くんは、鈴波副会長を選んだ」
「……ああ」
「それは、分かってた。最初から、分かってた」
凛音は俺を見た。その目は、涙で潤んでいる。
「春川くんの気持ちは、鈴波副会長にしかないって」
「……」
「でも、諦められなかった」
凛音の声が切ない。
「春川くんが、辛そうにしてるの見て、私なら幸せにできるのにって思った」
「橘……」
「鈴波副会長より、もっと春川くんのこと大切にできるのにって思った」
凛音の涙が、どんどん溢れてくる。
「でも、春川くんは鈴波副会長を選んだ」
「……ああ」
「体育祭で、二人が幸せそうにしてるの見て、諦めようって思った」
凛音は涙を拭った。でも、涙は止まらない。
「でも、やっぱり辛くて……」
「橘……」
「春川くんのこと、まだ好きで……」
凛音の声が、泣き声になる。その姿が、俺の胸を締め付ける。
「でも、春川くんは私のものにならなくて……」
「橘、ごめん……」
俺は謝った。凛音を傷つけてしまった。その事実が、俺の胸を痛める。
「謝らないで」
凛音は首を振った。
「春川くんが謝ることじゃない」
「……」
「私が、勝手に好きになっただけだから」
凛音は微笑もうとした。でも、その笑顔は、涙で歪んでいる。
「春川くん、幸せそうだもんね」
「ああ……」
「鈴波副会長と、うまくいってるんだよね」
「ああ」
「……よかった」
凛音の声は、本心から出ているように聞こえた。でも、その奥には深い悲しみが隠れている。
「橘」
「ん?」
「俺は、蓮を愛してる」
俺ははっきりと言った。その言葉に、一切の迷いはない。
「だから、橘の気持ちには応えられない」
「……分かってる」
「でも」
俺は凛音の肩に手を置いた。
「橘の傍には、いる」
「え?」
凛音は驚いた表情で俺を見た。
「恋人としてじゃない。友達として」
俺ははっきりと言った。その言葉に、嘘はない。
「橘が辛い時、話を聞く。橘が悲しい時、傍にいる」
「春川くん……」
「それが、橘にしてもらったことへの、俺なりの恩返しだ」
俺の言葉に凛音の目から、また涙が溢れた。でも、その涙は、さっきとは違う。
「本当に?」
「本当だ」
俺は頷いた。
「橘は、俺の大切な友達だ」
「友達……」
凛音は、その言葉を噛み締めるように繰り返した。
「恋人にはなれないけど、友達にはなれる」
「……うん」
凛音は微笑んだ。その笑顔は、まだ涙に濡れているが、どこか安心したようだ。
「ありがとう、春川くん」
「こっちこそ」
「でもね、春川くん」
凛音は俯いた。その声は、小さい。
「私、まだ春川くんのこと、好きだよ」
「橘……」
「すぐには、諦められない」
凛音ははっきりと言った。その声には、正直さが込められている。
「でも、いつか諦める」
「……」
「いつか、春川くんのことを、友達として見られるようになる」
凛音は顔を上げた。その目には、強い決意が宿っている。
「だから、それまで待っててくれる?」
「ああ、もちろん」
俺は頷いた。
「橘が、本当の意味で笑えるようになるまで、俺は待ってる」
「ありがとう……」
凛音の目から、また涙が溢れた。でも、その涙は、温かい。
「春川くんって、本当に優しいね」
「そうか?」
「うん。だから、好きになっちゃったんだけどね」
凛音は笑った。その笑顔は、まだ少し悲しげだが、どこか前向きだ。
「でも、きっと大丈夫」
「え?」
「いつか、私も春川くんみたいに、素敵な人と出会えるって思う」
凛音ははっきりと言った。その声には、希望が込められている。
「春川くんを好きになれて、よかった」
「橘……」
「だって、春川くんを好きになったから、本当の恋ってこういうものなんだって分かったから」
凛音は微笑んだ。その笑顔が、少しずつ輝きを取り戻していく。
「次は、私のこと選んでくれる人を、見つける」
「ああ、橘ならきっと見つかる」
俺ははっきりと言った。その言葉に、嘘はない。
「橘は、優しくて、強くて、素敵な人だ」
「……ありがとう」
「だから、自信持て」
「うん」
凛音は涙を拭った。その目には、まだ涙が残っているが、どこか明るさが戻ってきている。
「春川くん、一つだけお願いしていい?」
「何だ?」
「もし、私が新しい恋をしたら」
凛音は俺を見つめた。その瞳には、真っ直ぐな想いが宿っている。
「応援してくれる?」
「当たり前だろ」
俺は即座に答えた。その言葉に、一切の迷いはない。
「橘が幸せになれるなら、全力で応援する」
「……ありがとう」
凛音は微笑んだ。その笑顔が、本当の笑顔になっていく。
「じゃあ、約束ね」
「ああ、約束だ」
二人で小指を絡めた。子供っぽい約束。でも、その約束が、二人の新しい関係を築いていく。
「春川くん」
「ん?」
「鈴波副会長を、大切にしてあげてね」
「ああ」
「もし、鈴波副会長を泣かせたら」
凛音は、少しいたずらっぽく笑った。
「その時は、私が春川くんを叱るから」
「はは、分かった」
俺も笑った。凛音のこの前向きな姿勢が、嬉しい。
「じゃあ、私、帰るね」
凛音は立ち上がった。その表情は、まだ少し寂しげだが、さっきよりずっと明るい。
「また明日、学校でね」
「ああ」
「今度、お昼一緒に食べようよ。春川くんと、鈴波副会長と、私の三人で」
「え?」
「友達なんでしょ? だったら、一緒にご飯食べてもいいよね」
凛音の提案に、俺は少し驚いた。でも、それは前向きな提案だ。
「ああ、蓮に聞いてみる」
「うん。楽しみにしてる」
凛音は手を振って、去っていった。その後ろ姿は、さっきよりずっと軽やかだ。
俺は凛音の背中を見送った。胸の奥に、温かいものが広がっていく。
凛音は強い。失恋しても、前を向こうとしている。その姿が美しい。
いつか、凛音も素敵な人と出会えるだろう。凛音を、本当に大切にしてくれる人と。
その日を、俺は心から願った。
※ ※ ※
夜、俺はベッドに横になりながら、スマホを見ていた。
蓮からメッセージが届いていた。
『おやすみ、海斗。明日も、一緒にお昼食べようね。楽しみにしてる。大好き』
蓮からのメッセージ。愛の言葉。その言葉が、俺の心を温かくする。
俺は返信を打った。
『おやすみ、蓮。明日、橘も一緒にお昼食べたいって言ってたんだけど、いいか?』
送信すると、すぐに既読がついた。そして、返信が来た。
『橘さんも? いいよ。三人で食べよう』
蓮の返信。快く承諾してくれた。その優しさが、嬉しい。
『ありがとう。愛してる』
俺は返信を送った。すぐに、ハートマークのスタンプが返ってきた。
俺は、スマホを置いた。胸の奥に、幸せが満ちていく。
蓮との関係は、元に戻った。いや、元よりも強くなった。あの時よりもずっと。
そして、凛音とも、新しい関係を築けそうだ。友達として。
全てが、いい方向に向かっている。
その幸せを胸に、俺は目を閉じた。窓の外から、虫の声が聞こえてくる。秋の夜の音だ。
季節は確実に進んでいる。俺たちも、前に進んでいる。
新しい関係。新しい日々。全てが、これから始まる。
その期待を胸に、俺は深い眠りについた。
※ ※ ※
翌日の昼休み。
俺と蓮は、屋上で凛音を待っていた。
「橘さん、来るかな」
蓮が少し不安そうに呟いた。
「来るよ。約束したから」
「そっか」
蓮は微笑んだ。その笑顔が優しい。
「橘さんと、ちゃんと話したことなかったから、ちょっと緊張する」
「大丈夫だよ。橘は、いい奴だから」
その時、屋上のドアが開いた。凛音が現れた。
「やっほー、お待たせ!」
凛音は明るく手を振った。その表情は、昨日よりずっと明るい。
「橘さん、こんにちは」
蓮が挨拶すると、凛音は微笑んだ。
「こんにちは、鈴波副会長」
「副会長って呼ばなくていいよ。蓮でいい」
「じゃあ、蓮ちゃん。私のことは、凛音でいいよ」
「うん、凛音ちゃん」
二人が、自然に距離を縮めていく。その光景を見て、俺の胸が温かくなった。
「じゃあ、食べよっか」
三人で、弁当を広げた。蓮が作ってくれた弁当。凛音が買ってきたパン。俺のコンビニ弁当。
「わあ、蓮ちゃんの弁当、美味しそう!」
「ありがとう。凛音ちゃんも、一緒に食べる?」
「いいの?」
「うん。三人で分け合おう」
蓮の提案に、凛音は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、蓮ちゃん」
三人で、弁当を分け合いながら食べる。笑い声。会話。全てが、自然に流れていく。
凛音は、もう俺のことを恋愛対象としては見ていないようだった。友達として、自然に接してくれている。
その姿を見て、俺は安心した。凛音は前に進んでいる。
「ねえ、二人とも」
凛音が口を開いた。
「これから、三人で仲良くしようね」
「うん!」
蓮が嬉しそうに答えた。
「ああ」
俺も頷いた。
三人の新しい関係が始まった。恋のライバルから、友達へ。
その変化が、自然で、温かかった。
秋の空の下、三人で笑いながら昼食を食べる。その時間が、幸せだった。
凛音の初恋は、終わった。でも、新しい何かが、始まろうとしている。
その予感を胸に、俺たちは笑い合った。




