凍りついた愛が溶ける時 ー過去の者たちからの助言ー
俺は、放課後の教室で一人、窓の外を眺めていた。校庭では、体育祭の最終準備をする生徒たちの姿が見える。テントを設営する声。ラインを引く音。全てが、明日への準備だ。
明日。体育祭が終わったら、蓮と話せる。二人の関係を、元に戻せる。
その希望を胸に、俺は深呼吸をした。
「海斗」
突然、誰かが俺を呼んだ。振り返ると、見慣れた顔が立っていた。
岡波傑。
俺の元親友。中学時代から付き合っていた雪原夢を、約半年前に奪った男。文化祭の前、蓮と結ばれる前、俺を深く傷つけた男。
「……傑」
俺の声が、冷たくなる。傑とは、あれ以来まともに話していない。文化祭の後、傑は何度か俺に話しかけようとした。でも、俺は全て拒絶した。
『関わらないでくれ』
その言葉を、傑に告げた。それ以来、傑は俺に近づかなくなった。
なのに、今日、傑は俺の前に現れた。
「悪い。話があるんだ」
傑の声は、申し訳なさそうだ。その表情には、後悔が滲んでいる。
「お前なんかに話すことなんて、何もない」
俺は冷たく言った。傑と話したくない。傑の顔を見るだけで、あの時の痛みが蘇ってくる。ドブ水のような感覚が再び浮き上がるような感覚。
「分かってる。でも、聞いてくれ」
傑は一歩近づいた。その目は、真剣だ。あの時俺を裏切った傑とは思えない目だ。
「お前、最近様子がおかしい」
「……関係ないだろ」
「関係ある」
傑ははっきりと言った。その声には、強い意志が込められている。
「お前は、俺の親友だった」
「過去形だな」
「ああ、過去形だ」
傑は頷いた。その表情には、深い後悔が滲んでいる。
「俺が、お前を裏切った。夢と付き合って、お前を傷つけた」
「……」
「それは、一生償えない」
傑の声が、震える。その目から、涙が浮かんでくる。
「でも、だからこそ、お前が苦しんでるのを見過ごせない」
「俺が苦しんでる?」
俺は首を傾げた。確かに、苦しい。蓮との関係がうまくいっていない。でも、それを傑に言われる筋合いはない。俺を裏切ったヤツなんかに俺の事について言われたくない。
「ああ。お前、最近元気ないだろ。顔にも出てる」
「……」
「鈴波副会長と、何かあったのか?」
傑の言葉に、俺は息を呑んだ。そうだった。傑は、俺と蓮が付き合っていることを知っている。文化祭の前から、知っていた。蓮があの時、あの場で宣言していた。
「お前と鈴波副会長が付き合ってるのは知っている」
「……」
「お前が、鈴波副会長と幸せそうにしてるの。夏休みも、楽しそうだったの。全部、見てた」
傑の声が温かい。その言葉には、純粋な想いが込められている。
「だから、嬉しかったんだ。お前が、俺と夢に裏切られた後も、また笑えるようになって」
「……」
「でも、最近のお前は、違う」
「違う?」
「ああ。俺と夢に裏切られた時みたいな顔してる」
傑の言葉が、俺の胸に突き刺さる。あの時の俺。世界の全てから見放されたような、あの絶望。
「お前、また同じ顔してる」
「……」
「鈴波副会長と、何があったんだ?」
傑の問いに、俺は答えられなかった。蓮との関係を、傑に話す気はない。
「関係ない。俺のことは、放っておいてくれ」
「放っておけない」
傑ははっきりと言った。その声には、強い決意が込められている。
「お前は、俺の親友だった。今は、違うかもしれない。でも、お前が苦しんでるのを見過ごせない」
「傑……」
「俺は、お前を裏切った。一生償えない罪を犯した」
傑の目から、涙が溢れてくる。その涙が、頬を伝って落ちていく。
「でも、だからこそ、お前には幸せになってほしい」
「……」
「鈴波副会長が、お前を幸せにしてくれるなら、それでいい。でも、もし違うなら――」
「違わない」
俺ははっきりと否定した。その言葉に、一切の迷いはない。
「蓮は、俺を幸せにしてくれる」
「本当に?」
傑は俺を見つめた。その目は、疑念に満ちている。
「本当だ」
「……そうか」
傑は、少し安心したような表情を浮かべた。
「なら、いい。でも、もし何かあったら、言ってくれ」
「……」
「俺は、もうお前の親友じゃない。でも、お前の力になりたい」
傑の言葉に、俺の胸が熱くなる。傑は、俺を裏切った。でも、今も俺のことを心配してくれている。
「ありがとう、傑」
俺は小さく言った。その言葉に、嘘はない。
「でも、大丈夫だ。明日、体育祭が終わったら、蓮と話せる」
「そうか……」
「全て、元に戻る」
「……そうだといいな」
傑は、教室を出ていった。その背中を見送りながら、俺は複雑な気持ちになった。
傑は、俺を心配してくれている。でも、俺は傑を許せない。その矛盾が、俺の心を揺さぶる。
※ ※ ※
同じ頃、生徒会室。
蓮は、体育祭の最終確認資料を見直していた。机の上には、何枚もの書類が広がっている。タイムスケジュール。役割分担表。緊急時対応マニュアル。全てを、完璧にしなければならない。
『完璧にこなしなさい』母の呪いの言葉。
明日。体育祭。全てが、うまくいくように。副会長として、失敗は許されない。
その時、生徒会室のドアがノックされた。
「はい」
蓮が答えると、ドアが開いた。そこに立っていたのは、見知らぬ女子生徒だった。
いや、見知らぬわけではない。蓮は、その顔を知っている。
雪原夢。海斗の元恋人。海斗を裏切り、岡波傑と二股していた女。私があの時忌むべき存在だった人。
「鈴波副会長、少しお時間いいですか?」
夢は、丁寧に尋ねた。その声は、どこか緊張している。
「……雪原さん、ですね」
蓮は淡々と答えた。表情を変えず、感情を見せない。それが、副会長としての蓮であり、今の蓮の心情だった。
「はい。話があって来ました」
「私に、ですか?」
「はい」
夢は、生徒会室に入ってきた。ドアを閉め、蓮の前に立つ。
「春川くんのことで、話があります」
夢の言葉に、蓮の表情が少し変わった。海斗のこと。その言葉に、蓮の心が反応する。
「……何でしょうか」
「鈴波副会長、春川くんと付き合ってますよね」
夢ははっきりと尋ねた。その目は、真剣だ。
「……ええ」
蓮は頷いた。
「春川くん、最近元気ないですよね」
夢の言葉に、蓮の胸が締め付けられる。海斗が、元気ない。それは、蓮も分かっている。海斗を傷つけていることも、海斗を一方的に突き放していることも。
「……」
「鈴波副会長、春川くんとちゃんと話してますか?」
夢の問いに、蓮は答えられなかった。ちゃんと話している。そう言えない。最近、海斗とまともに話していない。むしろ無理やりにでも避けている。
「春川くんは、我慢してる」
夢ははっきりと言った。その声には、強い意志が込められている。
「鈴波副会長のために、自分を犠牲にしてます」
「……」
「でも、それじゃダメです」
夢は蓮を見つめた。その瞳には、真剣な光が宿っている。
「春川くんは、鈴波副会長に会いたがってる。話したがってます」
「分かって……ます」
蓮の声が、小さくなる。その声は、どこか震えている。そう言う蓮の脳裏には呪縛となった母の言葉がよぎる。
『誰にも頼らず、誰にも甘えず』
「でも、私は……体育祭の準備で」
「それは、言い訳ですよね」
夢ははっきりと言った。その声には、厳しさが込められている。
「本当に好きな人なら、どんなに忙しくても時間を作ります」
「……」
「今の鈴波副会長は、春川くんより仕事を優先してます」
夢の言葉が、蓮の胸に突き刺さる。仕事を優先している。それは、事実だ。母ならそうすると決めつけて、わざと自分から海斗を突き放している。
「あの時、鈴波副会長は私に言いましたよね」
夢の声が、続く。蓮の顔が、少し強張る。脳裏を過ぎるのは、私が雪原夢と対峙した日のこと。
「『春川くんの隣に立つのは私』って」
夢の目が、鋭くなる。
「あの時の鈴波副会長、悔しいけどその言葉にとても説得力があったし、かっこよかった」
夢の声に、皮肉が混じる。
「春川くんを愛してる。春川くんの隣に立つ。そう宣言した鈴波副会長」
「……」
「でも、今の鈴波副会長は、春川くんの隣に立ってますか?」
夢の言葉が、蓮の心を切り裂く。
「立って……」
蓮が言いかけると、夢が遮った。
「立ってないですよね」
夢の声が、厳しい。
「春川くんは、一人で寂しい思いをしてる。屋上で、一人で昼ごはん食べてる」
夢の目から、涙が浮かんでくる。
「春川くんの隣には、今誰もいない」
「私は……」
「鈴波副会長が、立つべき場所に、鈴波副会長はいない」
夢の涙が、頬を伝って落ちる。
「そんな状態で、『春川くんの隣に立つのは私』なんて言えるんですか?」
「……」
蓮は、何も言えなかった。夢の言葉が、全て正しい。
私は、海斗の隣に立っていない。あの時、宣言したのに。あの時、海斗を守るために、海斗が好きだからこそ言ったのに。
「それに、鈴波副会長」
夢の声が、さらに厳しくなる。
「橘さんに盗られても、いいんですか?」
「橘……さん?」
蓮の目が、見開かれる。
「ええ。橘凛音さん。鈴波副会長の知人ですよね」
「……」
「橘さん、春川くんのこと好きですよ」
夢の言葉に、蓮の心臓が激しく鳴る。
「知ってました? 橘さん、ずっと春川くんのこと見てます。今の鈴波副会長よりもずっと見てる」
夢の目が、蓮を見つめる。
「そして、最近の春川くんが元気ないこと、ちゃんと気づいてます」
「……」
「鈴波副会長が春川くんの隣に立たないなら、橘さんが立つかもしれませんよ」
夢の言葉が、蓮の心を揺さぶる。
「橘さんが……」
蓮の声が、震える。
「そうです。鈴波副会長の知人が、春川くんを奪うかもしれない」
夢の声が、続く。
「それでもいいんですか?」
「嫌……」
蓮の声が、小さい。
「嫌なら、ちゃんと春川くんの隣に立ってください」
夢の声が、はっきりしている。
「私は、春川くんを裏切りました」
夢の声が、震える。その目から、涙が溢れてくる。
「傑くんと二股して、春川くんを傷つけました。一生償えない罪を犯しました」
「……」
「でも、だからこそ、春川くんには幸せになってほしいの」
夢の涙が、止まらない。
「私は、春川くんを幸せにできなかった。春川くんの隣に立つ資格なんてない」
夢の手が、胸の前で握られる。
「だから、鈴波副会長に譲ったんです」
夢の目が、蓮を真っ直ぐに見つめる。
「春川くんを幸せにしてくれるって、信じてた」
「……」
「でも、最近の春川くんを見てると、不安になる」
夢の声が、切ない。
「鈴波副会長は、本当に春川くんを幸せにできるんですか?」
「……できます」
蓮は小さく答えた。その声は、弱々しい。
「本当に?」
夢の問いに、蓮は頷いた。
「本当です」
「なら、ちゃんと春川くんと向き合ってください」
夢の声が、強い。
「明日、体育祭が終わったら、ちゃんと話してください」
「……分かって、います」
蓮は小さく答えた。その言葉は小さいけれど、その言葉の真意には確かな決意が込められている。
「明日、体育祭が終わったら、ちゃんと話します」
「本当に?」
「……はい」
「約束ですか?」
「約束、です」
蓮ははっきりと答えた。その言葉に、嘘はない。
「分かりました」
夢は、少し安心したような表情を浮かべた。
「でも、鈴波副会長」
「……何ですか?」
「もし、明日ちゃんと向き合えなかったら」
夢は真剣な表情で蓮を見つめた。その瞳には、強い決意が宿っている。
「私達が、春川くんを守ります」
「……」
「鈴波副会長が、春川くんを幸せにしてくれないなら、私達が何とかします」
夢の宣言に、蓮の目が見開かれた。
「そんなこと、させません」
蓮ははっきりと言った。その声には、強い意志が込められている。初めて、感情が表に出た。
「海斗は、私のものです」
蓮の目が、輝く。
「私が、海斗を幸せにします」
「……なら」
夢は微笑んだ。その笑顔は、どこか寂しげだ。でも、安心したような色もある。
「ちゃんと、春川くんの隣に立ってください」
「……はい」
「約束ですよ」
「約束します」
蓮の声が、はっきりしている。
夢は、生徒会室を出ていった。その背中を見送りながら、蓮は一人残された。
静かな部屋。誰もいない。その静けさが、蓮の孤独を際立たせる。
蓮は、机に突っ伏した。
「海斗……」
蓮の声が、震える。
夢の言葉が、蓮の心に重くのしかかる。
『春川くんの隣に立つのは私です』
あの時、私は宣言した。橘さんに、夢さんに、あの場のみんなに。
でも、今の私は、海斗の隣に立っていない。
一人にしてしまっている。
そして、橘さん。
私にとって今どうにかしないといけない存在。その橘さんが海斗のことを好き。
橘さんが海斗が好きなのは知っていた。だから、海斗が段々と毒されていくのは薄々は感じていた。でも、認めたくなかった。
今の私は、海斗の隣に立っていない。
このままだと、橘さんに盗られてしまうかもしれない。
涙が、目に浮かんだ。でも、泣くわけにはいかない。母の呪いの言葉が揺らぐ。
明日。体育祭。全てを成功させて、その後、海斗とちゃんと話そう。
全部、正直に話そう。謝ろう。そして、もう一度、やり直そう。
海斗の隣に、ちゃんと立とう。
その決意を胸に、蓮は涙を拭った。
※ ※ ※
夜、俺はベッドに横になっていた。天井を見つめながら、今日のことを思い返す。
傑の言葉。そして、明日への期待。
スマホを見ると、蓮からメッセージが届いていた。
『海斗、明日頑張ろうね。その後、ちゃんと話そう。約束。必ず。おやすみ』
蓮からのメッセージ。約束の言葉。いつもより、少し長い。「必ず」という言葉が、加わっている。
その言葉に、俺は希望を感じた。
明日、体育祭が終わったら、ちゃんと話せる。二人の関係を、元に戻せる。
その希望を胸に、俺は返信を打った。
『ああ、約束だ。明日、頑張ろう。おやすみ、蓮。愛してる』
送信すると、すぐに既読がついた。そして、今度は返信が来た。
『うん。海斗も、おやすみ。……大好き』
蓮からの「大好き」。久しぶりの、愛の言葉。
その言葉を見た瞬間、俺の目から涙が溢れた。嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらない。
蓮は、まだ俺を愛してくれている。その確信が、俺の心を満たしていく。
明日。体育祭。そこで、全てが変わる。
その期待を胸に、俺は深い眠りについた。




