閑話 母の影 ー完璧という呪いー
夏休みの最中、体育祭の準備が始まる前。
私、鈴波蓮は、自宅のリビングで一人、母を待っていた。
広いリビング。高級な家具。
けれど、そこには温もりがなかった。まるで誰かの心を映すように、冷たい空間が静まり返っている。
時計の秒針が、一定のリズムで響く。カチ、カチ、カチ――。その音だけが、私がここにいることを証明していた。
母が、久しぶりに帰ってくる。
その知らせを聞いた瞬間から、胸の奥がざわめいていた。
会いたい。けれど、怖い。
そんな相反する思いを抱えたまま、私は膝の上で両手を組み、じっと待っていた。
指先が、わずかに震える。緊張している。
母と話す時、いつも息が詰まる。
母の言葉は鋭く、正しく、逃げ道がない。
それでも――認められたい。たった一言でいい、「よくやった」と言ってほしい。
午後八時。
玄関の鍵が回る音がした。
心臓が、跳ねた。
「ただいま」
冷たく整った声が響く。感情を削ぎ落としたようなトーン。それでも、確かに私の母の声だった。
「おかえりなさい」
掠れるような声で返す。
母がリビングに現れる。紺色のスーツ。髪をひとつに束ね、化粧も乱れていない。
その姿は“完璧”の象徴だった。
彼女が立つだけで、部屋の温度が下がった気がした。
「蓮」
母はソファに座る。
私も姿勢を正し、向かいに腰を下ろす。
「生徒会、副会長になったんだって?」
「……はい」
私の声は、自然と小さくなる。
母の目が、真っすぐに私を射抜く。表情はないのに、圧だけは強い。
「そう。副会長ね」
その言葉の“間”に、温度のない棘があった。
胸が痛む。
“副会長”――その三文字が、劣等感の形をして心に突き刺さる。
「私は、あなたの年齢の時、生徒会長だったわ」
淡々とした口調のまま、母は言葉を続ける。
その目は、まるで自分の若い頃を投影しているようだった。
「副会長じゃなくて、会長」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はないわ。ただ――私の娘なら、会長になれたはずよ」
その言葉が、静かに落ちて、胸の奥で爆ぜた。
息が詰まりそうになる。喉が熱い。
でも、反論なんてできない。母の言葉は、いつだって正しいから。
「副会長という立場は、中途半端よ」
冷たくも断定的な声。
私の心に、線を引くように刻まれる。
「補佐はしても、決断はしない。二番手。責任も権限も半端。それは、リーダーじゃないの」
母は組んだ手を見下ろす。その指先には、淡い色のマニキュアが丁寧に塗られていた。
完璧に整えられた爪が、まるで彼女の生き方そのもののように思えた。
「だからこそ、完璧にこなしなさい。中途半端な立場ほど、粗が許されないのよ」
呼吸が浅くなる。
“完璧に”――またその言葉。
「会長になれなかった以上、副会長として完璧でなければ、私の娘として恥ずかしいわ」
“恥ずかしい”という言葉が、胸に突き刺さる。
母にとっての“完璧”は、私にとっての“呪い”だった。
「私は、生徒会長として、すべてを一人でこなしていたわ」
母の目が、少しだけ遠くを見る。
過去を思い出しているようだった。
「誰にも頼らず、誰にも甘えず、すべてを自分の手でやり遂げた。――そうしなければ、女は認められないの」
声が、わずかに震えた。
母の拳が膝の上で握られている。
「『女には無理だ』『感情的だ』『頼りない』――何度も言われたわ」
その一言に、母の人生の重みが滲んだ。
けれど、すぐに表情は戻る。まるで、それを見せることさえ“弱さ”だと知っているかのように。
「だから、私は戦った。誰にも頼らず、誰にも甘えず、全てを一人で背負ってきた」
そして、母の目が再び私に向く。
「あなたも、そうしなさい。副会長として、完璧に」
その声の奥には、冷たさと、ほんのわずかな愛情が混じっていた。
「それができて初めて、私の娘として認められるわ」
胸が、締め付けられる。
それでも私は頷いた。母に認められたい。それが、私のすべてだった。
「期待してるわよ、蓮」
母は立ち上がり、部屋を出ていった。
ヒールの音が、静かな家に響き、やがて遠ざかる。
残されたリビングには、時計の針の音だけ。
冷たい空気が、私の肌を包んでいた。
頭の中で、母の言葉が繰り返される。
『私の娘なら、会長になれたはずよ』
『誰にも頼らず、誰にも甘えず』
『完璧にこなしなさい』
その言葉が、私を縛る。
でも、同時に私を動かす。
私は、母のようにならなければならない。
一人で、完璧に。
……本当に、それでいいのだろうか。
スマホを手に取ると、海斗からのメッセージが届いていた。
『夏休み明けたら、いつも通り昼ごはん食べない? いつもの屋上で』
優しい言葉。何気ない誘い。
いつも支えてくれた、いつも助けてくれた。
文化祭の時だって。
その一文に、彼の温かさが詰まっている。
会いたい。話したい。
けれど、母の声が頭をよぎる。
『誰にも頼らず、誰にも甘えず』
もし海斗に頼ったら、それは“弱さ”なのだろうか。橘さんとの事もある。
私は、母の娘として間違ってしまうのだろうか。
手の中のスマホを、ぎゅっと握りしめる。
胸の奥で、二つの想いがぶつかり合う。
海斗に会いたい。
でも、母のように、強くなりたい。
涙が滲む。
けれど、私は泣かなかった。泣いてはいけない。
泣くことは、弱さを晒すことだから。
深呼吸を三度繰り返し、スマホをそっと置いた。
返信は――後で考えよう。
今は、母の言葉を刻み込む。
『完璧にこなしなさい』
その言葉だけが、胸に残った。
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