出回る噂と視線
翌朝、昇降口で蓮を待っていると、周囲の視線が一斉に俺に集まった。それはまるで敵を見るような視線――いや虫けらを見るような視線と言った方が正しいとも思えるものだった。
「おい、春川だ」
「マジで来てんじゃん」
ひそひそと囁く声が聞こえてくる。昨日と同じ、針のような視線と、静かな罵声。
俺は下を向いて、蓮が来るのを待った。スマホを見ると、また新しいデマが拡散されていた。
『春川くんに脅されて別れられなかった。やっと解放されて本当に良かった』
夢の投稿だった。リプライ欄には、相変わらず俺への非難が並んでいる。スマホを思わず強く握る。悔しさ、怒りが同時にドブ水のように込み上げてくる。
「クソが……」
思わず呟いた瞬間、背後から声がかかった。
「おはよ、海斗」
振り返ると、蓮が立っていた。
いつもより少しだけ丁寧に巻かれた髪、薄く引かれたアイライン、そして――俺に向けられた、ほんの少しだけ柔らかい表情。
「あ、おはよう、蓮」
「準備はいい?」
「準備……?」
「これから、みんなの前で彼氏彼女を演じるんでしょ」
蓮はそう言うと、俺の腕に自分の腕を絡めた。それはまるでカップルであると周りに大いに主張するような大胆さだった。
「ちょ、蓮!?」
「何驚いてんの。カップルなんだから、これくらい普通」
「で、でも……」
「いいから。ほら、教室行くよ」
蓮に腕を引かれながら、俺は昇降口を抜けた。
周囲の視線が、さらに強くなった。ざわめきが大きくなる。
「え、マジ?」
「春川と鈴波副会長が?」
「嘘でしょ……」
驚きの声が次々と聞こえてくる。蓮は何も気にせず、俺の腕を掴んだまま廊下を歩いていく。それに、どこか心地良さと同時にちょっとした緊張感を感じた。
「蓮、これ……大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃなかったら、こんなことしない」
蓮は前を向いたまま答えた。
「今から、私たちは恋人同士。海斗、それだけは忘れないで」
「あ、ああ……」
教室に着くと、クラス中の視線が一斉に俺たちに注がれた。蓮は臆することなく、俺を自分の教室の前まで送り届けた。蓮の大人びた顔に少し心が揺らいだ気がした。ドブ色に染まった水が薄まるように。
「じゃあ、昼休みに屋上で待ってるから」
「う、うん」
「それと――」
蓮は周りを気にする素振りも見せず、俺の頬に軽くキスをした。
「!?」
「演技だから。じゃあね」
蓮はそれだけ言うと、颯爽と自分の教室へ向かっていった。俺は呆然としたまま、頬に手を当てた。演技とは思えないその自然さに、俺は頭が真っ白になっていた。
「おい、春川……」
「マジかよ、鈴波副会長と……」
教室に入ると、クラスメイトたちの反応が昨日とは明らかに違っていた。非難の目ではなく、困惑と驚きの目。
席に着くと、隣の席の男子が恐る恐る話しかけてきた。
「な、なぁ春川。お前、鈴波副会長と付き合ってんの?」
「……ああ、昨日から」
「マジかよ……」
男子は信じられないという顔をしていた。それも当然だ、俺は夢によって悪者に仕立て上げられた上に、学校から孤立させられそうになったのだから。
「でも、お前、雪原と別れたばっかりだろ? しかも、あんなことして――」
「俺は何もしてない」
きっぱりと言い切った。
「雪原が流してるデマは全部嘘だ。俺は暴力も振るってないし、金も脅し取ってない」
「で、でも――」
「信じなくてもいい。でも、蓮は俺を信じてくれた。それだけで十分だ」
男子は黙り込んだ。
その後、授業中も休み時間も、俺に対する視線は変わらなかった。ただ、非難の色は少しだけ薄れたような気がした。
※ ※ ※
昼休み、約束通り屋上に向かった。
ゆっくりと扉を開けると、フェンスに寄りかかって蓮が待っていた。目の先にいる彼女はとても麗しく綺麗に見えた。でもそれが恋という概念から来ているのかは分からない。
「遅い」
「ごめん、ちょっと手間取って」
「まあいいけど。こっち来て」
蓮に手招きされ、俺は彼女の隣に立った。
「で、反応はどう?」
「驚いてた。あと、困惑してる感じ」
「そっか。まあ、初日だからこんなもんか」
蓮は空を見上げながら呟いた。
「海斗、今日一日どうだった?」
「……昨日よりはマシだった。少なくとも、面と向かって罵られることはなかった」
「そ。なら作戦は成功してる」
蓮は俺を見て、小さく笑った。まるでこうなることを想定していたような顔つきだった。
「これから少しずつ、デマは沈静化していく。私が保証する」
「蓮……なんでそこまで」
「言ったでしょ。あんたのことが好きだから」
蓮は恥ずかしそうに視線を逸らした。が、その声には確かに彼女の信念が宿っているように思えた。
「それに、正義感もある。デマで人を貶めるやつが許せない」
「でも、蓮まで巻き込んで――」
「巻き込まれたいって言ってるでしょ」
蓮は少しだけむくれた表情を見せた。
「ていうか、海斗。あんた、もっと堂々としてていいんだよ」
「堂々と?」
「そ。あんたは何も悪いことしてない。だから、胸を張って歩けばいい」
蓮は俺の胸を軽く叩いた。
「私が隣にいるんだから、何も怖くない。……でしょ?」
「……うん」
蓮の言葉が、少しずつ俺の心を溶かしていく。夢という彼女が残していった残滓をかき消すような感覚だった。
「そうだ、海斗」
「ん?」
「今日の放課後、一緒に帰ろう。デートってことで」
「デート!?」
「そ。カップルなんだから、デートくらいするでしょ」
蓮はにやりと笑った。
「それに、周りに見せつけるのも大事。私たちが本当に付き合ってるって、証明しないと」
「そっか……」
「じゃあ決まり。放課後、生徒会室で待ってて」
そう言うと、蓮は弁当箱を取り出した。
「ほら、海斗も食べな。午後の授業、お腹空いたら集中できないでしょ」
「あ、うん」
二人で並んで弁当を食べる。昨日までの世界とは、まるで違う景色がそこにはあった。午後の授業が終わり、俺は生徒会室に向かった。
廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちの視線が気になった。でも、朝よりは少しだけ、その視線が柔らかくなった気がした。
※ ※ ※
放課後、生徒会室の扉を開けると、蓮が資料を整理していた。
「お疲れ。少し待ってて、今終わるから」
「ああ」
俺は椅子に座って蓮の作業を眺めた。
几帳面に資料を分類し、丁寧にファイルに綴じていく。その仕草が、なぜか心地よかった。
「よし、終わった」
蓮は資料を棚に戻すと、鞄を手に取った。
「じゃあ行こっか」
「どこ行くの?」
「決めてない。とりあえず駅前のカフェでも行こうかと思ってたけど」
「それでいいよ」
二人で生徒会室を出ると、廊下で何人かの生徒とすれ違った。その生徒たちもきっと俺のことを罵っていた連中だろう――なんせほとんどの生徒が敵に回っていたのだから。
彼らは驚いたように俺たちを見ていたが、蓮は気にせず俺の手を握った。
「カップルなんだから、手くらい繋ぐでしょ」
「あ、ああ……」
蓮の手は、思っていたより温かかった。昇降口を抜け、校門を出る。夕日が二人を照らす。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「あんた、少しだけ表情が柔らかくなった」
「え?」
「昨日は死んだ魚みたいな目してたけど、今日は少しマシ」
蓮はくすりと笑った。
「それだけで、私は嬉しい」
「蓮……」
「だから、もっと笑って。あんたの笑顔、見たいから」
蓮の言葉に、胸が熱くなった。夢には見せてもらえなかった、本当の優しさ。それが今、目の前にある。
「ありがとう、蓮」
「礼なんていいよ。あんたは私の彼氏なんだから」
蓮はそう言うと、俺の手をぎゅっと握り締めた。
「一週間、頑張ろうね」
「……ああ」
夕日の中、二人で歩く帰り道。
それは、俺にとって新しい世界の始まりだった。
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