閑話 彼女がいる男に惹かれた話
文化祭の二週間前――
橘凛音は、いつものように校舎の廊下を歩いていた。派手なメイクとアクセサリーで武装した、クール系ギャルの凛音。周囲からは「近寄りがたい」と思われているが、それは凛音が意図的に作り上げた壁だった。人と深く関わらない。傷つかないために。傷つけないために。それが、凛音の生き方だった。
だが、その日――凛音の価値観が、大きく揺らぐことになる。
※ ※ ※
昼休み、凛音は購買に向かっていた。廊下の角を曲がろうとした時、前から複数の女子生徒の声が聞こえてきた。噂話のようだった。凛音は普段なら聞き流すのだが、この日は何故か足を止めた。
「ねえ、春川くんって本当にああいう人なの?」
「らしいよ。雪原さんに振られた腹いせに、色々やってるって」
女子生徒たちの声は、容赦なく誰かを糾弾していた。凛音の胸に、微かな違和感が生まれる。
「最低じゃん」
「でも、春川くんって生徒会なんでしょ? そんな人が?」
「生徒会だから何? 表と裏があるんじゃない?」
春川――という名前が、凛音の記憶の中で引っかかった。確か、隣のクラスの男子だったはずだ。見たことはあるが、話したことはない。凛音は何となく、その噂が気になった。いつもなら聞き流すのに。なぜだろう。自分でも理由が分からなかった。
※ ※ ※
数日後、凛音は偶然その「春川」を見かけた。廊下の隅で、一人で立っている男子生徒。周囲の生徒たちは、彼を避けるように通り過ぎていく。その光景が、凛音の胸に何かを突き刺した。
孤立。疎外。
凛音が、かつて経験したことのある感覚だった。中学時代、派手な見た目のせいで避けられた記憶が蘇る。あの時の孤独感。誰も近づいてこない恐怖。凛音は、その感覚を忘れていなかった。
春川の表情は、暗く沈んでいた。その目には、諦めと絶望が混じっている。まるで、世界の全てから見放されたような顔だった。凛音は、思わず足を止めて彼を見つめた。
あの噂、本当なのだろうか。
でも、春川の表情を見ていると、そうは思えなかった。何か、違う。この人は、噂で言われているような人間じゃない。凛音の直感が、そう告げていた。凛音は、人を見る目には自信があった。派手な見た目で誤解されてきた経験が、人の本質を見抜く力を養ってくれたのだ。
※ ※ ※
それから数日後、凛音は生徒会室の前を通りかかった。扉が少し開いていて、中から声が聞こえてくる。凛音は足を止めた。盗み聞きするつもりはなかったが、その声に引き寄せられるように耳を傾けてしまった。
「春川くん、大丈夫?」
優しい女性の声だった。その声には、心からの心配が込められている。
「……ああ」
春川の声だ。疲れているようだが、どこか安心した響きがある。
「無理しないでね。今は辛いと思うけど」
「大丈夫だ。鈴波副会長がいてくれるから」
その言葉に、凛音の胸が微かに揺れた。春川の声には、深い信頼が込められていた。誰かを、こんなにも信じることができるのだろうか。
「……ありがとう」
「私、春川くんを信じてる」
鈴波副会長の声は、揺るぎない確信に満ちていた。その声には、春川への信頼と、何か別の感情――もしかしたら、愛情のようなものが混じっているように感じられた。
「鈴波副会長……」
「だから、一緒に頑張ろう。この噂を覆そう」
「……ああ」
凛音の胸が、不思議な感覚に包まれた。信じる、という言葉。その言葉の重み。それを受け取る春川の声。二人の間に流れる、確かな信頼関係。凛音は、そこに何か特別なものを感じ取った。
凛音は、その場を離れた。でも、胸の中には、二人の言葉が残っていた。あの二人の関係は、ただの生徒会メンバーという枠を超えている。そんな気がした。
※ ※ ※
文化祭準備期間が始まった。
凛音は、偶然にも春川と鈴波副会長が一緒に校内を回っているところを何度も目にした。二人は、各クラスのトラブルを解決して回っているらしい。その姿を見るたびに、凛音の胸に何かが芽生えていくのを感じた。
ある日、凛音は一年C組の前で足を止めた。中から、言い争う声が聞こえてくる。生徒たちの怒号が、廊下まで響いていた。
「カフェとお化け屋敷、両方なんて無理だって!」
「でも、どっちも諦められない!」
その時、春川と鈴波副会長が教室に入っていった。二人の登場で、教室の空気が一変する。
「みんな、落ち着いて」
鈴波副会長の声が、教室を静めた。その声には、不思議な説得力があった。
「二つ同時にやる方法を、一緒に考えましょう」
凛音は、廊下からその様子を見ていた。春川と鈴波副会長が、クラスの生徒たちと真剣に話し合っている。二人の表情には、諦めない強さがあった。問題を解決しようとする意志。生徒たちを信じる心。そして、お互いを支え合う絆。
凛音は思わず呟いた。すごい、と。
噂に流されて孤立していた春川が、今はこんなにも生き生きとしている。それは、鈴波副会長という存在があるからだ。鈴波副会長を信じて、鈴波副会長に支えられて、春川は前に進んでいる。そして、鈴波副会長も――春川を信じて、春川と共に前に進んでいる。二人は、お互いを支え合っている。その姿が、どうしようもなく美しかった。
凛音の胸に、羨望に似た感情が芽生える。あんな風に、誰かと支え合えたら。あんな風に、誰かを信じられたら。どれだけ幸せだろう。
※ ※ ※
文化祭当日。
凛音は、開会式の体育館にいた。鈴波副会長が、壇上で挨拶をしている。その声は、力強く、説得力があった。体育館全体が、彼女の言葉に聞き入っている。凛音も、その一人だった。
そして、客席の最前列に座る春川の姿が見えた。
春川は、鈴波副会長をじっと見つめていた。その目には、信頼と愛情が満ちている。まるで、世界で一番大切なものを見つめるような目だった。その眼差しの純粋さに、凛音は息を呑んだ。
凛音の胸が、きゅっと締め付けられた。
こんな風に、誰かを見つめたことがあっただろうか。こんな風に、誰かに見つめられたことがあっただろうか。答えは、否だった。凛音は、誰とも深く関わってこなかった。傷つかないために。傷つけないために。表面的な関係だけを築いて、心の奥には誰も入れなかった。
でも――
春川と鈴波副会長を見ていると、そんな生き方が間違っていたような気がした。本当の繋がり。本当の信頼。本当の愛。それらを避けてきた自分が、急に虚しく思えた。
※ ※ ※
午後、凛音は三年B組の展示で混雑が起きているところに遭遇した。人々が押し合いへし合い、危険な状態になっている。生徒たちの焦った声が響き、来場者の不満の声も聞こえてくる。
そこに、春川が現れた。
「すみません、入場制限させていただきます」
春川の声は、冷静で落ち着いていた。混乱していた現場が、春川の指示で徐々に秩序を取り戻していく。その姿は、かつて孤立していた春川とは別人のようだった。的確な指示。落ち着いた態度。来場者への丁寧な説明。全てが、プロフェッショナルだった。
凛音は、その様子をじっと見つめていた。
春川は、変わった。噂に流されて孤立していた頃とは、全く違う。今の春川は、強く、優しく、頼りになる存在だった。それは、鈴波副会長という存在があるからだ。鈴波副会長を信じて、鈴波副会長に支えられて、春川は成長した。そして、春川も鈴波副会長を支えている。二人は、お互いを高め合っている。
その関係性が、凛音の心を強く揺さぶった。凛音の胸に、新しい感情が芽生えていく。それが何なのか、凛音にはまだ分からなかった。ただ、春川から目が離せなくなっている自分に気づいた。
※ ※ ※
夕方、凛音は体育館に向かった。ステージで、鈴波副会長が歌っているという噂を聞いたからだ。凛音の足は、自然と体育館に向かっていた。
体育館に入ると、鈴波副会長の歌声が響いていた。透明感のある、美しい歌声。会場全体が、その歌声に聞き入っている。凛音も、思わず立ち止まって聞き入った。
そして、客席の最前列に座る春川の姿が見えた。
春川の隣で、鈴波副会長をじっと見つめていた。その目には、涙が浮かんでいる。愛おしさと、感動と、誇りが混じった表情だった。春川の目には、鈴波副会長しか映っていない。世界中で、彼女だけを見つめている。そんな眼差しだった。
凛音の胸が、激しく高鳴った。
こんな風に、誰かを想えたら。こんな風に、誰かに想われたら。どれだけ幸せだろう。凛音の心に、強い憧れが生まれる。あんな恋がしたい。あんな風に、誰かを愛したい。あんな風に、誰かに愛されたい。
凛音は、初めて知った。本当の愛を。本当の絆を。
春川と鈴波副会長の間にあるもの――それは、凛音が今まで避けてきたものだった。深い繋がり。信頼。そして、愛。凛音は、それが欲しくなった。いや、正確には――春川のような人と、そんな関係を築きたくなった。
※ ※ ※
歌が終わり、会場が拍手に包まれた。
鈴波副会長がステージを降りると、春川が駆け寄って抱きしめた。二人は、幸せそうに微笑み合っている。その光景を見て、凛音の心が決まった。
私も……あんな恋がしたい。
凛音は小さく呟いた。でも、同時に気づいた。春川のような人は、他にいない。噂に流されても諦めず、鈴波副会長を信じ続けた強さ。孤立しても前を向き続けた勇気。そして、鈴波副会長を支える優しさ。春川は、特別だった。
だから――
私、春川くんが好きなのかも。
凛音は、自分の気持ちに気づいた。春川と鈴波副会長の愛に憧れて。春川の強さと優しさに惹かれて。そして、春川のような人と、あんな関係を築きたいと思って。凛音は、春川のことが好きになっていた。
※ ※ ※
でも、凛音は知っていた。
春川の隣には、すでに鈴波副会長がいる。二人の絆は、誰にも壊せないほど強い。凛音が入る隙間は、ない。それは、凛音にも分かっていた。二人の間にある絆の強さを、凛音は嫌というほど見てきた。
それでも――
凛音は、諦められなかった。
春川くんが、鈴波副会長を泣かせたら。
凛音は小さく呟いた。その時は、私が春川くんを支える。それは、凛音なりの覚悟だった。春川と鈴波副会長の関係を尊重する。でも、もし二人の関係が壊れたら、その時は――凛音は、そう決めた。
※ ※ ※
文化祭の真っ只中。
凛音は、春川に声をかけることにした。心臓が激しく鼓動している。でも、凛音は一歩を踏み出した。
「あれ? 春川くんだよね?」
春川は驚いた表情で振り返った。
「え? ああ……」
「やっぱり! 隣のクラスの橘凛音。りんねって呼んで」
凛音は笑顔で手を振った。心臓の鼓動を隠しながら、できるだけ自然に振る舞う。
「さっき、めっちゃかっこよかったよ。混雑の誘導」
「あ、ああ……ありがとう」
春川は困惑した表情を浮かべている。凛音は、その反応が少し可愛いと思った。
「生徒会って、あんなに動けるんだ。すごいね」
凛音は春川の腕を掴んだ。その腕の温もりが、手のひらから伝わってくる。
「ねえ、LINE交換しない?」
「え?」
「だって、春川くんみたいな人と友達になりたいし」
凛音は強引にスマホを取り出した。心臓が早鐘を打っている。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「ほら、QRコード」
「いや、でも――」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
凛音はニヤニヤしながら言った。その笑顔の裏で、凛音の心は激しく揺れている。
春川は困惑しながらも、QRコードを読み取った。凛音の胸に、小さな喜びが芽生える。
「よし! じゃあ、また後で連絡するね!」
凛音はウインクして、その場を離れた。
※ ※ ※
家に帰り、ベッドに横になる。
凛音は、今日のことを思い返していた。春川と鈴波副会長の姿。二人の絆。そして、二人の愛。凛音は、それに憧れた。そして、春川に惹かれた。でも、春川の隣には鈴波副会長がいる。凛音が入る隙間は、ない。
それでも――
諦められない。
凛音は小さく呟いた。春川のような人は、他にいない。だから、凛音は諦められない。もし二人の関係が壊れたら、その時は凛音が春川を支える。それまでは、ただ見守る。そう決めて、凛音は目を閉じた。
春川と鈴波副会長の愛に憧れて。春川の強さと優しさに惹かれて。凛音は、春川のことが好きになっていた。
この気持ちが、どこに向かうのか。凛音には、まだ分からなかった。ただ一つだけ確かなのは――凛音は、もう引き返せないということだった。春川への想いは、日に日に強くなっていく。それを抑えることは、もうできなかった。
窓の外から、虫の声が聞こえてくる。夏の終わりが、近づいていた。凛音の恋も、静かに動き始めていた。春川と鈴波副会長の関係を尊重しながら。でも、心の奥では――いつか春川を振り向かせたい。その想いを、凛音は抱き続けていた。
スマホを見る。春川とのLINEが、画面に表示されている。凛音は、そっと画面に触れた。春川くん。その名前を呼ぶだけで、胸が苦しくなる。
凛音は知っている。この恋が、報われない可能性が高いことを。でも、それでも――凛音は、春川を想い続けると決めた。春川の幸せを願いながら。でも、もしチャンスがあれば、絶対に掴む。そんな矛盾した想いを抱きながら、凛音は深い眠りについた。
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