午後の部 最大の危機
午後の文化祭が再開して一時間が経った頃。
俺と蓮は校内を見回りながら、各クラスの様子を確認していた。校舎のあちこちから、笑い声や歓声が聞こえてくる。
「みんな、午後も頑張ってるね」
蓮が嬉しそうに言った。
「ああ。午前中のトラブルも乗り越えて、勢いがついてる」
一年C組のカフェは相変わらず賑わっていたし、三年B組の展示も入場制限のおかげでスムーズに運営されていた。
「このまま無事に終わりそう――」
蓮がそう言いかけた時、俺のスマホが鳴った。
「もしもし」
『春川! 大変なんだ!』
同じ生徒会のメンバー、実行委員長の榊原の声だった。その声には、明らかな焦りが滲んでいる。
「どうした?」
『三年A組のバンド演奏、ボーカルの子が急に体調崩して倒れた!』
「え!?」
『救護室に運んだんだけど、保健の先生が無理だって。このままじゃ、三時からのステージに穴が開いちゃう!』
俺は蓮を見た。蓮も電話の内容を聞いていたのか、表情を強張らせていた。
まずい。これは本当にまずい。文化祭の目玉企画が、中止になるかもしれない。
「分かった。すぐに体育館に向かう」
電話を切ると、蓮が口を開いた。
「海斗……これは、まずいね」
「ああ。ステージプログラムの目玉企画だ。これが中止になったら……」
「文化祭全体の雰囲気が、一気に冷める」
蓮は焦りを隠せない様子だった。その表情には、不安と焦りが混じっている。
「急いで行こう」
「ああ」
二人で体育館に駆け込むと、ステージ裏で三年A組のバンドメンバーが途方に暮れていた。その表情には、絶望の色が浮かんでいる。
「春川、鈴波副会長……」
ギターを持った男子生徒が力なく呟いた。
「どうしよう……ボーカルがいないと、演奏できない」
「他のメンバーは誰も歌えないのか?」
俺が尋ねると、メンバー全員が首を横に振った。
「歌は、全員苦手で……だから、ボーカル専門の子を入れたんだ」
「そっか……」
蓮は少し考え込んだ後、榊原に尋ねた。
「他のクラスで、代わりに出られる企画はありますか?」
「それが……急すぎて、どこも準備できないって」
榊原は申し訳なさそうに答えた。
「じゃあ、このプログラムは中止に――」
「待って」
蓮が手を上げた。
「中止にしたら、その後のスケジュールも全部狂う」
「でも、代わりの企画がないなら……」
「……ある」
蓮は真剣な表情で続けた。
「私が、歌う」
「え!?」
その場にいた全員が驚いた表情を浮かべた。
俺も、思わず声を上げそうになる。蓮が、歌う? その言葉が、俺の胸に衝撃を与える。
「蓮、お前、歌えるのか?」
「……昔、少しだけ習ってた」
蓮は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「でも、人前で歌うなんて、何年もやってない」
「じゃあ、無理だよ!」
榊原が反対した。
「鈴波副会長に、そんな負担をかけられない」
「でも、他に方法がないでしょ」
蓮はきっぱりと言った。
「それに――」
蓮は俺を見た。
その瞳には、不安と決意が混じっている。でも、諦めの色はない。蓮は、やり遂げようとしている。
「海斗がいれば、頑張れる」
「蓮……」
「だから、やらせて」
蓮の決意は固かった。その目には、強い意志の光が宿っている。
「……分かった」
榊原は頷いた。
「じゃあ、お願いします」
バンドメンバーが蓮に曲を教え始めた。
「この曲、知ってる?」
「うん、聞いたことある」
蓮は楽譜を見ながら、小さく歌い始めた。
その歌声を聞いて、俺は思わず息を呑んだ。
透明感のある、綺麗な声。
蓮が歌えるとは知らなかったが、想像以上に上手かった。
こんな才能を隠していたなんて。蓮は、まだまだ俺の知らない一面を持っているんだ。その一面を見られて、俺は幸せだ。
「すごい……鈴波副会長、めちゃくちゃ歌上手いじゃないですか!」
メンバーの一人が驚いた表情で言った。
「これなら、いける!」
簡単なリハーサルを終えると、もう本番五分前だった。
「蓮、大丈夫か?」
俺が尋ねると、蓮は震える手を見せた。
「……緊張してる」
「当たり前だよな。急に人前で歌うなんて」
「でも、やらないと」
蓮は深呼吸をした。その胸が、大きく上下する。
「海斗、客席から見ててくれる?」
「ああ、もちろん」
「それだけで、頑張れる」
蓮は少しだけ微笑んだ。
俺は客席の前列に座った。
体育館は、生徒や保護者で満席だった。こんなに多くの人の前で、蓮は歌うのか。
その時、隣に誰かが座ってきた。
「あ、春川くん! ここ空いてる?」
振り返ると、凛音が笑顔で立っていた。
「橘……」
「やっほー。午前中、LINE返してくれなかったから寂しかったんだけど」
凛音は俺の隣に座った。
「ねえ、これから鈴波副会長が歌うんだって? すごいよね」
「ああ……」
「春川くん、彼女のこと心配そうに見てるね」
凛音はニヤニヤしながら言った。
「やっぱり、付き合ってるの?」
「……ああ」
「そっか。残念」
凛音は少し寂しそうに微笑んだ。
「でも、春川くんみたいな人、いいよね。彼女のこと、すごく大切にしてるの分かる」
「当たり前だ」
俺ははっきりと言った。
「蓮は、俺の大切な人だから」
「……そっか」
凛音は静かに頷いた。
「じゃあ、私は応援するだけにする」
「応援?」
「うん。春川くんの幸せを、応援する」
凛音は真剣な表情で続けた。
「でも、もし鈴波副会長が春川くんを泣かせたら、その時は私が慰めてあげるからね」
「……そんなことにはならない」
「そうだといいけど」
凛音は少し笑った。
ステージの照明が消え、アナウンスが流れる。
「次は、三年A組によるバンド演奏です」
拍手が響く中、メンバーがステージに登場した。
そして、最後に蓮がマイクを持って現れた。
「え、あれ鈴波副会長?」
「副会長が歌うの?」
ざわめきが広がる。
蓮は少しだけ客席を見回し、俺と目が合った。
俺は頷いた。
大丈夫。蓮なら、できる。俺が、ずっと見てる。その想いを込めて、俺は蓮を見つめる。
蓮は小さく頷き返すと、マイクを握り締めた。
イントロが流れ始める。
ギターの音、ベースの音、ドラムのリズム。
そして――
蓮が歌い始めた。
静かに、でも確かに。
透明感のある歌声が、体育館に響き渡る。
客席が、一瞬で静まり返った。
みんな、蓮の歌声に聞き入っている。
俺の胸が熱くなる。蓮が、あんなに輝いて歌っている。その姿が、どうしようもなく美しい。
「……すごい」
隣で凛音が呟いた。
「鈴波副会長、めっちゃ歌上手いじゃん」
「ああ」
「春川くん、いい彼女持ったね」
「……ああ」
俺は蓮の歌声に聞き入りながら、静かに頷いた。
蓮は目を閉じて、感情を込めて歌っていた。
その姿は、いつものクールな副会長とは違う。
まるで、別人のように輝いていた。
サビに入ると、蓮の声がさらに伸びた。
力強く、でも優しい。
俺は、思わず涙が出そうになった。
蓮が、こんなに素晴らしい歌声を持っていたなんて。
こんな一面を見せてくれて、ありがとう。そう、心の中で呟いた。蓮の歌声が、俺の心を満たしていく。
曲が終わりに近づき、蓮が最後のフレーズを歌い終えた。
――静寂。
一瞬の静寂の後、体育館が割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「すごい!」
「鈴波副会長、歌めっちゃ上手い!」
「感動した!」
生徒たちが口々に叫ぶ。
凛音も立ち上がって拍手をしていた。
「すごかった……本当に」
蓮はステージの上で、少しだけ戸惑った表情を浮かべていた。
でも、すぐに笑顔になった。
その笑顔が、どうしようもなく美しい。俺は、その笑顔に見惚れてしまう。
そして、深々とお辞儀をした。
「ありがとうございました」
拍手はさらに大きくなった。
アンコールの声まで上がり始めた。
蓮がステージを降りると、俺は彼女の元に駆け寄った。
「蓮、すごかった」
「……本当?」
「ああ。めちゃくちゃ良かった」
俺は蓮を抱きしめた。
蓮の身体が、小さく震えている。緊張が解けたんだ。よく頑張った。本当に、よく頑張った。
「よく頑張ったな」
「……ありがとう」
蓮は俺の胸に顔を埋めた。
「海斗が見ててくれたから、頑張れた」
その時、凛音が近づいてきた。
「鈴波副会長、すごかったです」
「橘さん……」
蓮は少し警戒した表情を浮かべた。
「ありがとう」
「本当に、感動しました」
凛音は真剣な表情で続けた。
「春川くんが、副会長のこと大切にしてる理由、分かった気がします」
「……え?」
「副会長、すごく素敵でした。春川くん、お似合いですよ」
凛音は少し寂しそうに微笑んだ。
「じゃあ、私はこれで」
凛音が去っていくのを見て、蓮が俺を見上げた。
「海斗、あの子……」
「気にするな」
俺は蓮の頭を撫でた。
「俺が見てるのは、蓮だけだから」
「……うん」
蓮は嬉しそうに微笑んだ。
その時、バンドメンバーが駆け寄ってきた。
「鈴波副会長、ありがとうございました!」
「おかげで、最高のステージになりました!」
「いえ、みんなの演奏が素晴らしかったから」
蓮は謙遜した。
「私は、ただ歌っただけです」
「そんなことない! 副会長の歌声、最高でした!」
メンバーたちが口々に感謝の言葉を述べた。
榊原も駆け寄ってきた。
「鈴波副会長、春川。本当にありがとう」
「いえ、こちらこそ」
蓮は微笑んだ。
「無事に終わってよかったです」
体育館を出ると、廊下にも生徒たちが集まっていた。
「鈴波副会長、すごかったです!」
「感動しました!」
次々と声をかけられる。
蓮は照れた表情で、一人一人に「ありがとう」と返していた。
「人気者だな」
俺が言うと、蓮は顔を赤らめた。
「恥ずかしい……」
「でも、嬉しいだろ?」
「……うん」
蓮は小さく頷いた。
「海斗がいてくれたから、できた」
俺たちは生徒会室に戻った。
「疲れたね」
蓮が椅子に座り込んだ。
「ああ。でも、最大の危機は乗り越えた」
「うん」
蓮は安堵のため息をついた。
「まさか、自分が歌うことになるなんて思わなかった」
「蓮、歌上手いんだな。なんで黙ってたんだ?」
「……恥ずかしいから」
蓮は視線を逸らした。
「昔、歌手になりたくて習ってたんだけど、人前で歌うのが怖くて諦めたの」
「そうだったのか」
蓮にも、そんな過去があったんだ。俺の知らない蓮の一面が、また一つ明らかになった。蓮の過去を知ることができて、俺は嬉しい。
「でも、今日は違った」
蓮は俺を見つめた。
「海斗がいたから、怖くなかった」
「……蓮」
俺は蓮の手を握った。
蓮の手は温かい。この温もりを、ずっと感じていたい。この手を、絶対に離したくない。
「これからも、ずっと隣にいるから」
「うん」
蓮は嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「さっきの橘さん、やっぱり海斗のこと好きなんじゃない?」
「……かもしれないな」
俺は正直に答えた。
「でも、俺の隣は蓮のものだ」
「……本当?」
「ああ。誰にも渡さない」
蓮は嬉しそうに俺の胸に顔を埋めた。
「ありがとう」
その時、扉が開いて桐谷が入ってきた。
「蓮、春川、すごかったぞ!」
「会長、見てたんですか?」
「当たり前だろ! 体育館にいた全員が、蓮の歌声に聞き入ってた」
桐谷は興奮した様子で言った。
「今年の文化祭、大成功だ! これも、二人のおかげだ」
「いえ、みんなが協力してくれたからです」
蓮は謙遜した。
「でも、まだ油断はできません。閉会式まで、気を引き締めていきましょう」
「ああ、その通りだ」
桐谷は頷いた。
「じゃあ、引き続き頼むぞ」
桐谷が出て行くと、蓮が俺に寄りかかってきた。
「海斗、疲れた……」
「お疲れ様」
俺は蓮の頭を撫でた。
蓮の髪が、指の間をすり抜けていく。この感触が、俺を癒してくれる。蓮の存在が、俺を癒してくれる。
「よく頑張ったな」
「……うん」
蓮は目を閉じた。
「海斗の隣だと、安心する」
「俺も」
しばらくそうしていると、蓮が小さく呟いた。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「文化祭、成功しそうだね」
「ああ。蓮のおかげだ」
「海斗のおかげでもあるよ」
蓮は俺を見上げた。
「二人でやったから、うまくいった」
「……そうだな」
俺は蓮の額にキスをした。
蓮の肌は柔らかくて、温かい。この温もりを、ずっと感じていたい。蓮の温もりが、俺の全てだ。
「これから、閉会式まで頑張ろう」
「うん」
蓮は幸せそうに微笑んだ。
文化祭は、残り三時間。
最大の危機は乗り越えた。
あとは、無事に終わらせるだけ。
蓮と一緒なら、絶対に成功させられる。
そう信じて、俺たちは再び文化祭の会場へと向かった。
廊下からは、生徒たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
今年の文化祭は、きっと最高の思い出になる。
蓮と一緒に作り上げた、大切な思い出に。
蓮の手を握る力に、自然と力が込もる。この手を、絶対に離さない。どんなことがあっても、蓮と一緒なら乗り越えられる。
そして、凛音の言葉が脳裏をよぎる。でも、俺の気持ちは変わらない。俺の隣は、蓮だけのものだ。
その確信が、俺の胸に満ちていた。
蓮の歌声が、まだ耳に残っている。あの美しい歌声を、俺は一生忘れないだろう。蓮の新しい一面を知ることができて、俺は本当に幸せだ。
閉会式まで、あと少し。最後まで、蓮と一緒に頑張る。その決意を胸に、俺たちは前に進んでいった。
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