最終回 始まりの1歩
九月一日。新学期初日。
目覚まし時計の音で目が覚めた。いつもと同じ電子音なのに、今日は胸の奥が少しだけ落ち着かない。夏休みが終わった。三年生の二学期――受験に向けて、日々が本格的に動き出す。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。差し込む光は夏より柔らかく、窓から入る風もどこか涼しい。季節の境目は、こんなふうに静かにやって来るんだ、と実感する。
リビングへ向かうと、お母さんが朝食を作っていた。湯気の立つ味噌汁、焼き鮭の香り。台所に立つ背中が、今では当たり前の光景になりつつある。
「おはよう、蓮」
振り返るお母さんの笑顔が、温かい。
「おはよう、お母さん」
私も微笑んで、椅子に腰掛けた。
テーブルに並ぶのは、ご飯、味噌汁、焼き鮭、卵焼き、漬物。どれも丁寧で、色合いまで整っている。こういう「きちんとした朝」が、私の人生に存在していいのだと――まだ時々、信じられなくなる。
「今日から新学期ね」
お母さんが味噌汁をよそいながら言った。
「うん」
「三年生の二学期。大事な時期よ」
優しいけれど、芯のある声だった。
「受験、頑張ってね」
「うん。頑張る」
そう答えた私の手に、お母さんがそっと触れる。
「でも、無理はしないで」
その言葉が、胸の奥にじんわりと染みる。
「お母さんは、蓮がどんな大学に行っても応援するから」
私の目が熱くなる前に、お母さんは続けた。
「蓮が自分で選んだ道なら、それが一番」
「……ありがとう」
声が震えそうになって、私は視線をお茶碗に落とした。
朝食を終えると、お母さんがいつものように私の髪を結んでくれる。鏡の前に座る私の後ろで、ブラシの音が静かに響く。優しく、丁寧に。手つきに迷いがないのが、嬉しい。
「蓮」
「ん?」
「大学、どこを考えてるの?」
お母さんの問いに、私は小さく息を吸った。言葉にするのは少し怖い。けれど、今日は言える気がした。
「……教育学部を考えてるの」
ブラシの動きが、ほんの一瞬止まった。
「教育学部?」
「うん。先生になりたいって思って」
鏡越しに、お母さんの目を見る。驚きではなく、まっすぐに私を受け止める目だった。
「生徒会長として、みんなをまとめたり、困ってる人を支えたり……それが、すごく楽しかったの」
胸の中の言葉が、ほどけていく。
「誰かの不安を軽くしたり、背中を押したり。そういう瞬間に、『支えるって素敵だ』って思った」
少し照れくさいのに、不思議と逃げたくならない。
「だから、今度は先生として、生徒たちを支えたい」
鏡の中のお母さんが、目を潤ませていた。
「……素敵ね。本当に、素敵」
声が震えていて、私は思わず振り返りたくなる。
「お母さん、蓮が自分の道を見つけてくれて、嬉しい」
肩に置かれる手が温かい。
「蓮の選択を尊重する。蓮が選んだ道なら、それが一番」
「……ありがとう、お母さん」
鏡の中で、私たちは同じように笑っていた。
※ ※ ※
学校に着くと、教室は久しぶりの熱気に満ちていた。夏休みの土産話、部活の成果、旅行の写真。笑い声が天井に跳ね返っている。
海斗はもう席にいて、ノートを開いていた。その上に、大学のパンフレットが何冊か重なっている。
「おはよう、蓮」
「おはよう、海斗」
隣の席に座ると、海斗がパンフレットの端を指で整える。
「もう見てるんだ」
「夏休み中に取り寄せた。……ほら、受験だし」
強がるみたいな言い方が可笑しくて、私は小さく笑った。
「夏休み、楽しかったな」
「うん」
海。花火。お祭り。言葉にしてしまうと軽くなるのに、胸の中ではちゃんと重みを持って残っている。
「でも、これからだな」
海斗の声が引き締まる。
「うん。……不安もある」
そう言うと、海斗は少し間を置いて、パンフレットの一つを私に見せた。
「俺も、教育学部を考えてる」
一瞬、意味が分からなくて瞬きをした。
「……本当に?」
「ああ。先生になりたい」
まっすぐな目だった。
「生徒会で思ったんだ。誰かの心を守るのって、結局“言葉”と“毎日”だって」
海斗が指先でパンフレットを撫でる。
「だから、俺も支えたい。……蓮みたいに」
「一緒に頑張ろうね」
私が言うと、海斗が静かに頷いて、手を握ってくれた。
「ああ。一緒に」
その一言で、怖さが少しだけ小さくなる。
※ ※ ※
昼休み。屋上。
お母さんが作ってくれた弁当は、今日も綺麗だった。卵焼きの焼き色がやわらかくて、唐揚げの香りが食欲を誘う。
「お母さん、料理上手になったな」
「うん。毎日……頑張ってくれてる」
言いながら、胸が少しだけ詰まる。嬉しいのに、まだ夢みたいで。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「受験、不安だな」
私が正直に言うと、海斗も同じように頷いた。
「俺も不安だ。でも……不安があるってことは、ちゃんと前に進もうとしてるってことだろ」
海斗の言葉は、いつも変に格好つけなくて、だから刺さる。
「一緒にやろう。毎日、少しずつ」
「うん」
空は高くて、風は涼しくて、季節が変わっていくのが分かる。だけど、私の手は海斗の手の中で温かいままだ。
※ ※ ※
放課後。生徒会室。
ミーティングはいつも通り進んだが、私は意識して“引き継ぐ”ことを増やした。三年生の役目は、全部抱えることじゃない。未来へ渡すことでもある。
「神崎くん。副会長として、もっと中心になってほしい」
言葉にすると、神崎くんが目を見開いた。
「僕が、ですか?」
「うん。あなたならできる。選挙の時から、ちゃんと成長してる」
神崎くんは一度唇を結んで、それから力強く頷いた。
「……ありがとうございます。頑張ります」
藤崎さんも、野村さんも、真剣な顔で頷く。チームが前へ進む感覚が、手触りとして伝わってきた。
ミーティングが終わり、人がいなくなった生徒会室で、海斗が私の隣に座る。
「お疲れ」
「うん。……最近、生徒会が楽しい」
以前は責任が怖かった。今は、誰かと一緒に作っていくのが嬉しい。
「いいことだ」
海斗が軽く笑って、私の頭を撫でた。
「帰ろうか」
「うん」
※ ※ ※
駅までの道を、二人で歩く。夕方の光が街を薄く染め、空がオレンジから紫へ変わっていく。
改札の前で立ち止まると、海斗が私の手を少し強く握った。
「蓮。これから大変になるけど」
「うん」
「一緒に頑張ろう」
「うん。……海斗と一緒なら、頑張れる」
そう言った瞬間、海斗が少しだけ近づいて、私の額に触れるくらいの距離で止まった。私も、逃げずにそのまま目を閉じる。
唇が、そっと触れる。軽くて、あたたかい。
長くはない。でも、十分だった。
「……また明日」
「うん。また明日」
海斗は改札を通り、振り返って小さく手を振った。
私はその背中を見送って、胸の奥に灯った熱を確かめる。
これから、受験に向けて走る。迷う日も、泣く日もあるだろう。だけど――私はもう、一人じゃない。
お母さんがいる。お父さんもいる。友達がいる。海斗がいる。
そして、私自身がいる。
窓に映る自分の顔は、少しだけ大人びて見えた。怖さは消えていない。けれど、それ以上に、希望がある。
九月一日。始まりの一歩。
私は、新しい日々へ向かって歩き出した。
あとがき
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
更新のたびにページを開いてくださった方、いいねや感想で背中を押してくださった方、静かに最後まで見届けてくださった方――その一人ひとりが、この物語を最後まで走らせてくれました。読んでくださった時間そのものが、私にとっては何よりの応援です。心から感謝しています。
この物語は、「言葉が届かない家」と「言葉が支えになる場所」の間で揺れる蓮が、少しずつ自分の人生の主導権を取り戻していく話でした。誰かに認めてもらうために頑張るのではなく、自分の望む未来へ向かって歩く――その切り替えができた瞬間、世界の色が変わる。そんな感触を、最後に残したくてこの結末にしています。
海斗は、派手に何かを成し遂げるタイプではありません。けれど「そばにいる」「否定しない」「逃げ道を作る」という、地味だけど確かな支援ができる。現実の関係性でも一番効くのはそこだと思っています。大きな救いは、たいてい小さな継続でできているからです。
そして美咲さん(母)と健一郎さん(父)は、“悪役として断罪されて終わり”にはしませんでした。傷つけた事実は消えない。けれど、変わる意思があるなら関係は修復できる。蓮が望んだ「家族らしさ」を、最後に日常の形で取り戻せたことが、この物語の着地点です。
新学期は、二人にとって本当の意味でのスタートです。受験も、生徒会も、恋も。全部大変で、全部大切。だからこそ、二人の「これから」が、読者のみなさんの中で少しでも続いていけば嬉しいです。
最後にもう一度。ここまで読み進めてくださって、本当にありがとうございました。
また別の物語でお会いできたら、その時もどうぞよろしくお願いします。
もしよろしければ、この後にエピローグを更新するので、興味があれば読んでみてください!!
ではまた(*´︶`*)ノ




