夏の海へ
八月十五日。
朝、目が覚めると、私は海斗の腕の中にいた。
薄いカーテン越しに差し込む朝日が、部屋の輪郭をやわらかく浮かび上がらせる。夏らしい、白っぽい眩しさだ。
昨夜のことが、波のように胸に戻ってくる。
お父さんと向き合えたこと。ちゃんと「家族」として言葉を交わせたこと。
そして、そのあと海斗が隣にいてくれたこと。
思い出した途端、頬の奥が熱くなった。
海斗の寝顔を見る。眉間の皺がほどけていて、いつもより幼く見える。
安心しきった寝息が、私の鎖骨あたりをくすぐる。
私はそっと、海斗の頬に触れた。
指先に伝わる体温が、眠りの深さを教えてくれる。
海斗のまぶたがゆっくり持ち上がり、焦点が合うまで少し時間がかかった。
「……おはよう」
寝起きの掠れた声が、妙に優しい。
「おはよう」
私も小さく笑うと、海斗の腕が自然に私を引き寄せた。
抱きしめられるだけで、心臓の鼓動が落ち着いていく。
「よく眠れた?」
「ああ。蓮がいてくれたから」
その言葉が、胸の奥を温める。
私たちは、しばらく言葉もなく抱き合っていた。
――と、階下から明るい声が飛んできた。
「蓮ー、海斗くんー、朝ごはんよー!」
現実に引き戻されて、私たちは同時に起き上がった。
顔を見合わせて、どちらからともなく小さく笑う。
※ ※ ※
朝食を終えたあと、リビングでお父さんとお母さんと話していた。
「今日、海に行くんだって?」
お父さんが湯呑みを置きながら、穏やかに聞いてくる。
「うん。友達と」
「凛音ちゃんとか、神崎くんとか……?」
「そうそう」
お母さんが、楽しそうに目を細めた。
「気をつけて行ってきてね。水分もちゃんと取るのよ」
「はい」
私は頷き、海斗と目を合わせる。
昔の私なら、こうして家族と話すだけでぎこちなくなっていたのに――今は、胸が軽い。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってきます」
玄関を出ると、夏の空気が肌にまとわりついた。
蝉の声が近い。今日も暑くなる。
※ ※ ※
駅で待ち合わせをしていると、みんなはすでに集まっていた。
凛音ちゃんが、遠目でも分かるくらい大きく手を振る。
「蓮ちゃん!」
「みんな、おはよう」
「おはようございます」
神崎くん、藤崎さん、野村さんも、それぞれ挨拶してくれる。
こういう「いつも通り」のやり取りが、今の私には宝物みたいだった。
「じゃあ、行こうか」
海斗の一言で、私たちは改札を抜けた。
電車の中は夏休みらしく、家族連れや同年代のグループで少し賑やかだ。
窓の外を流れる景色が、いつもより明るく見える。
「海、楽しみだね」
凛音ちゃんが目を輝かせる。
「うん。久しぶりかも」
一時間ほどで、潮の匂いが濃くなってきた。
改札を出た瞬間、ふわっと塩気が鼻をくすぐって、胸の奥まで夏になる。
海岸に出ると、青い海が広がっていた。
白い波。濡れた砂の光。遠くで鳴くカモメ。
太陽の反射が水面に散って、目を細めるほど眩しい。
「わあ、綺麗……!」
凛音ちゃんが歓声を上げ、藤崎さんも穏やかに微笑んだ。
私たちは砂浜にレジャーシートを広げ、パラソルを立てて荷物を置く。
パラソルの影に入ると、体感温度が少しだけ下がって、ほっとした。
「じゃあ、着替えよう!」
凛音ちゃんに引っ張られるように、女子組で更衣室へ向かった。
※ ※ ※
着替え終えて鏡を見ると、淡いピンクの水着が思った以上に目立って、少しだけ心臓が跳ねる。
「蓮ちゃん、似合ってる! 可愛い!」
「……ほんと?」
頬が熱くなる。凛音ちゃんは悪気なくニコニコしているだけなのに、私だけが慌てているみたいだ。
「海斗くん、絶対びっくりするよ」
「……言わなくていいのに」
そう言いつつ、私の口元は勝手に緩んでいた。
更衣室を出ると、男子組が待っていた。
海斗は私を見るなり、一瞬だけ動きを止めて――それから、気まずそうに視線を逸らした。
「蓮……」
「な、なに」
「……似合ってる」
短い言葉なのに、胸が跳ねる。
「ありがとう……」
今度は私が視線を逸らす番だった。
「海斗も……かっこいい」
「……ありがと」
海斗も少しだけ耳が赤い。
それが嬉しくて、私は小さく笑ってしまった。
「よし、泳ごう!」
神崎くんの声に背中を押され、みんなで海へ向かう。
波が足首に触れた瞬間、思わず声が出そうになるほど冷たくて気持ちいい。
砂がさらさらと流れ、足の裏がくすぐったい。
腰まで浸かると、体の熱がすっと引いていく。
「きゃっ!」
凛音ちゃんが波に驚いて、みんなが笑う。
笑い声が潮風に混ざって、遠くへ消えていった。
海斗が私の手を握った。
「大丈夫か?」
「うん。平気」
握り返すと、海斗の手が少しだけ強くなる。
波に揺られるたび、私たちの距離も自然に近づくのが、くすぐったい。
しばらく泳いで砂浜に戻ると、パラソルの影が天国みたいに感じた。
冷たい飲み物を飲むと、喉から体の中心まで冷えていく。
「気持ちいいね」
「うん」
私が頷くと、凛音ちゃんが次の提案を投げた。
「ねえ、ビーチバレーしない?」
みんなが一斉に賛成し、ネットを張ってチーム分け。
私・海斗・藤崎さん VS 凛音ちゃん・神崎くん・野村さん。
砂の上を走るたび、足が取られて笑いがこぼれる。
必死なのに、楽しい。
「ナイス、蓮!」
海斗の声が背中を押す。
「ありがとう!」
最後は僅差で私たちのチームが勝った。
「やった!」
海斗が思わず私の肩を抱いて、二人で勢いよく笑った。
そのまま手がほどけないのが、少し嬉しい。
※ ※ ※
午後。
海の家で、昼食をとった。
焼きそばの香ばしいソース、たこ焼きの熱、かき氷の甘い冷たさ。
夏の味が、次々と口の中で弾ける。
「美味しいね」
凛音ちゃんが焼きそばを頬張りながら言う。
「うん。外で食べると、なんか倍おいしい」
海斗が笑って、私のかき氷を覗き込む。
「一口ちょうだい」
「だめ……って言いたいけど、はい」
海斗が一口食べて、目を細めた。
「甘い」
「でしょ」
「じゃあ、俺のも」
海斗が差し出してくれたかき氷を一口。
冷たさに肩がすくむ。
「……美味しい」
「よかった」
海斗が私の頭を軽く撫でた。
その手つきが自然すぎて、胸がきゅっとなる。
昼食のあとは、また海へ。
今度は二人で、少しだけ人の少ない場所まで移動した。
波が穏やかで、音も柔らかい。
世界が、少しだけ静かになる。
「蓮」
「ん?」
「今日、楽しそうでよかった」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「うん。……全部、海斗のおかげもある」
「俺の、じゃない。蓮が、ちゃんと前に進んだからだ」
海斗はそう言って、私の手を握った。
指が絡むだけで、心が落ち着く。
私は海斗にそっと近づいて、短いキスをした。
波に揺られて、すぐに離れてしまうくらいの、軽いキス。
それでも胸がいっぱいになって、私は笑ってしまう。
「……幸せだな」
海斗が小さく言った。
「うん。幸せ」
この幸せが、ずっと続けばいい。
欲張りだって分かってるのに、そう願ってしまう。
※ ※ ※
夕方。
夕日が海を照らし、空はオレンジから赤へ、ゆっくりと色を変えていった。
みんなで砂浜に座り、黙ってその変化を眺める。
「綺麗だね」
凛音ちゃんが呟く。
「うん……」
言葉にした瞬間、波の音が答えみたいに返ってきた。
海斗が私の肩を抱く。
私はその肩に頭を預ける。
「今日、楽しかったな」
「うん。また来ようね」
「ああ。みんなで」
夕日が沈みきるまで、私たちはしばらくそこにいた。
※ ※ ※
帰りの電車。
みんな疲れているはずなのに、表情は満たされている。
「今日、ほんと楽しかった!」
凛音ちゃんが微笑む。
「うん。また遊ぼうね」
駅で解散して、海斗と私は手を繋いだまま家へ向かった。
夜風が、昼の熱を少しだけ冷ましてくれている。
※ ※ ※
夜。私の部屋。
ベッドの端に並んで座り、今日一日を反芻する。
窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。夏が名残惜しそうに声を張っている。
「今日、楽しかったね」
「ああ」
海斗が頷く。
「蓮、水着……似合ってた」
言い直したみたいな口調に、私はまた赤くなる。
「……ありがとう」
「俺も、褒めてもらったし」
「かっこよかったよ」
「ありがと」
海斗が照れたように笑って、私を抱き寄せた。
その温もりに、体の力が抜ける。
「蓮」
「ん?」
「……ずっと、一緒にいような」
その声が、真剣で、優しくて。
私は海斗の胸に顔を埋めて、頷いた。
「うん。ずっと、一緒」
海斗が私の額に、そっとキスを落とす。
私はそれに笑って、海斗の袖を掴んだ。
二人で横になると、海斗の腕が自然に私を包んだ。
鼓動が近い。呼吸が重なる。
「愛してる、蓮」
「私も、愛してる」
夏の一日。
友達と笑った時間。
海斗と確かめ合った気持ち。
その全部が、胸の奥でやさしく積もっていく。
窓の外の夜風がカーテンを揺らし、遠くで蝉が鳴いた。
夏は、少しずつ終わりに向かっている。
でも、怖くない。
隣に海斗がいて、家に帰れば家族がいる。
新学期が始まったら、どんな日々になるんだろう。
その期待を胸に、私は海斗の腕の中で眠りについた。
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